聖書は、たとえて言えば、海のようです。



 「聖書は、たとえて言えば、海のようです。海の本当の豊かさ・すばらしさは、実際に海とたわむれ、海と共に生活してみなければわからないでしょう。あるいは、聖書は、深い森のようです。その奥深さ・神秘・驚きも、実際に足を踏み入れてみなければ味わえないに違いありません…」。

 こんな語り出しから、この学びは始められました。そのように途方もなく豊かで奥深い聖書の世界を理解するために、いわば“羅針盤"や“ガイド・ブック"の役割を果たすカテキズム(信仰問答書)を頼りに御一緒に学んでまいりましょう…と。

 今、その学びを終えてみて、どのような感想を抱かれたでしょうか。最初の方のことは、もう忘れてしまった?結構です。人間の頭は忘れるようにできているのですから。そのような方は、もう一度初めから学び直しましょう。事実、カテキズム教育は、何度も何度も繰り返して学ぶことに意味があります。小さい頃から年老いるまで、繰り返して学ぶものなのです。そのように繰り返すうちに、少しずつ、カテキズムの言葉や構造が頭の中(そして心の中!)に浸み込んでいくのです。

 聖書のことをもっと学びたくなった?それは素晴らしいことです!! 是非、学びを進めてください。カテキズムは、そのためにこそ作られたのですから。とりわけ、この『ハイデルベルク信仰問答』という書物は、そうです。様々な議論になりそうな問題は極力避けて、人々が純粋に聖書に親しみ、そのエッセンスを理解できるようにと配慮して作られた書物だからです。

   カテキズム教育は、何度も何度も繰り返して学ぶことに意味があります…。
   そのように繰り返すうちに、少しずつ、カテキズムの言葉や構造が頭の中(そして心の中!)に浸み込んでいくのです。

 16世紀のヨーロッパは“宗教改革"と呼ばれる時代です。キリスト教化したヨーロッパは、長い歴史の中で次第にその信仰が形骸化して、人々は自分たちが何を信じているのかさえわからないまま、ただ教会の言うことを聞けばいいという状態にまで堕してしまいました。

 そのような中で、神の言葉である聖書にイエス・キリストの“福音"を見出したのが、マルテイン・ルターを始めとする宗教改革者たちでした。彼らは、あらゆる人々が神の言葉によって養われ喜びをもって生きることができるようにと、御言葉の教育に全力を注ぎました。その結果生み出されたのが、数百ものカテキズムでした。

 ところが、聖書のみに基づく信仰は、他方で、細かい所における理解の違いをもたらし、しばしば教会間の一致を妨げる要因にさえなりました。聖書理解を助けるはずのカテキズムが、党派心を養う道具になる危険があったのです。

 1559年にドイツ・プファルツの領主となってハイデルベルク城から統治したフリードリヒ3世は、何よりも若者たちが神の言葉によって教育されることを願うと共に、領内に存在していた諸党派の争いを引き起こすことなく、むしろ皆を一致させるカテキズムの作成を命じました。
 それは、徹底的に聖書そのものに基づき、特に聖書の心臓であるイエス・キリストの“福音"を積極的に教えるという方法以外にありませんでした。悲惨・救い・感謝という構造も「慰め」を全問答の土台としたことも、すべてはそのためでした。

 『ハイデルベルク信仰問答』が様々な色眼鏡で見られて批判を浴びた時、フリードリヒは「私のカテキズムは、その一言一言が人間ではなく神の源泉〔聖書〕から引かれております。それは、欄外の証拠聖句が示しているとおりです。だからこそ、このカテキズムを攻撃しようとした神学者たちは、その力を失ったのであります」と、胸を張って弁明したと伝えられています。
 その言葉の通り『ハイデルベルク信仰問答』の欄外には、たくさんの証拠聖句が付けられています。残念ながら、この学びの中では、そのすべてを御紹介することはできませんでした(全部を御覧になりたい方は、同書をお買い求めください)。しかし、その最も大切な鍵となる聖書簡所は、文中で言及しておいたつもりです。

 ですから、この講座を通して学びを深めたい方は、本文中に言及された聖書箇所を必ず開いてお読みください。そうすれば、『信仰問答』が教えたいことの意味を一層深く理解し、確信を深めることができるでしょう。


http://www.jesus-web.org/heidelberg/heidel_130.htm