神の国の到来を祈る生活とは


 “主の祈り”の二つ目の願いは「み国を来らせたまえ」です。ここでの「み国」とは特定の場所や領域のことではなく、神の“支配”や“統治”という意味です。ですから、この祈りは、どこか天の彼方にある神の国が来ますようにという祈りではなく、神の支配の実現と完成を祈る祈りです。

 神の創造と摂理による統治(問26-27)は今も変わることがありませんが、堕落した世界を神が今なお保っておられるのはただ人間の救いのためであるように、私たちが祈り求める御国の到来とはキリストによる神の救いの実現と完成のことです。
 この神の国の実現は、私たち罪人の努力によってもたらされるものではなく、ただ神の一方的な恩寵によるものです。だからこそ、私たちは天を仰いでひたすらに祈り願うのです。『信仰問答』は、この神の支配が三つの場において実現するようにと、祈りの言葉を言い換えています。

 第一は、私たちの日常生活です。「わたしたちがいよいよあなたにお従いできますよう、あなたの御言葉と聖霊とによってわたしたちを治めてください」。勝手気ままに生きている私たちが、自分の思いや欲望を優先させるのでなく「まず神の国と神の義を求めなさい」と仰せになった主イエスの優先順位に生活を改め(マタイ6:33)、自己中心から神中心になるように、絶えず御言葉によって導き聖霊によって頑なな心を柔らかにしてください、と祈るのです。その時、私の生活の場は“神の国”へと変わるでしょう。私が王として自分の人生を支配するのでなく、神が私の王となってくださるからです。

 第二に、教会もまた教会らしくならねばなりません。教会こそまさにキリストが支配なさる場であって、人間が支配する場所ではないからです。主の御言葉が説教され、礼典が執り行われ、主の御名が高らかに讃美され、熱心な祈りが捧げられる公的礼拝こそ、神の国の最も鮮やかな現れであり、天国の前味です。だからこそ、世の様々な妨げや迫害にもかかわらず、私たちは祈り願うのです。主イエス・キリストが中心であるような「あなたの教会を保ち進展させてください」と。

 第三に、この願いは、私たちの世界そのものが神の国に変えられて行くことを祈るものです。「あなたに逆らい立つ悪魔の業やあらゆる力、あなたの聖なる御言葉に反して考え出されるすべての邪悪な企てを滅ぼしてください」。

 主イエスの御国は…恐怖と暴力による支配ではなく、愛と恵みの支配であり、正義と平和と喜びをもたらすものです。

 神によって創造された世界が“極めて良い”状態に保たれること(創世記1:31)。神に似せて造られたすべての人が尊ばれ、互いに愛し合い、永遠の幸いのうちを神と共に生きること。それが神の御旨です(問6)。それ故、この被造世界をむさぼったり(ローマ8:22)、人の尊厳をないがしろにしたり、特に弱い立場の人々を金や権力によって抑圧したりする「すべての邪悪な企て」は、神の御旨に逆らう悪魔的な業と言わざるを得ません。

 このような悪魔の働きを滅ぼすために、神の御子はこの世に来られました(1ヨハネ3:8)。しかし、主イエスの御国は、この世のものではありません(ヨハネ18:36)。それは恐怖と暴力による支配ではなく、愛と恵みの支配であり、正義と平和と喜びをもたらすものです(ローマ14:17)。
 ですから、私たちの戦いの武器もまた、この世のものではなく“神の武具”でなければなりません(エフェソ6:10-18)。その中心は人々に真の喜びをもたらす平和の福音であり、絶えざる祈りです。

 神が「すべてのすべてをなられる御国の完成に至るまで」(1コリント15:28)、未だ多くの戦いが教会にも私たち自身にもあり(問32)、この世の悲惨と苦しみは止むことがありません。それにもかかわらず、私たちは希望を捨てません。暗闇に光を、恐れのある所に平安を、悲しみのある所に喜びをもたらす、キリストの愛の御支配の実現と完成のために献身し、忍耐強く祈り続けましょう。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」と、この世の真の王である御方は仰せになっているからです(ヨハネ16:33)。


http://www.jesus-web.org/heidelberg/heidel_123.htm