「心を満たす聖霊」
ヨハネによる福音書 7章37-39節
http://homepage3.nifty.com/msasaki/yohane7n4.html聖 書 7:37 祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。38 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」39 イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。
はじめに
本日のお話は、どんなお話かと言いますと、イエス様を信じる人々には、聖霊による豊かな祝福が与えられるというお話です。人はすべて、例外なくだれでも罪人であり、大切な心、魂が飢え渇き真の満足がありません。聖霊の豊かな祝福によって、心、魂が真に潤され、真に満たされることを必要としますが、それは、人が約束の救い主メシアのイエス様を信じ、イエス様との交わりに生きるときにのみ実現します。 そこで、今日のわたしたちも、一人ひとりがイエス様を自分の救い主と信じて、聖霊の豊かな祝福を受け、自分の大切な心、魂が日々潤され、満たされ、喜んで歩んでいきたいと思います。
1.心が飢え渇くわたしたちを招いてくださるキリスト
イエス様は、心が飢え乾く罪人をいつ招いてくださったのでしょう。仮庵祭が最も盛り上がる最後の日、エルサレム神殿の境内において、立って、大声で語って招いてくださったのです。37節に、「祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に」とあります。「祭り」というのは、これまでにも何度もお話しましたように、仮庵祭といわれる祭りです。 では、具体的にそれはいつかと言いますと、ある人は、仮庵祭の行事が全部終了する第7日目のことであると考えます。しかし、また、ある人は、その翌日の8日目の聖会、感謝の礼拝のことであると考えます。わたしたちは、両方の理解があることを知ればよいと思いますが、いずれにしましても、7日目か、8日目に、イエス様は、エルサレム神殿の境内に現れました。 内外からの人々でごった返していたであろうエルサレム神殿の境内に現れたイエス様は、大声で叫んで、心が飢え乾く人々を本当に本気で真剣に招いてくださったのです。聖書を見ますと、イエス様の真剣さが読者にビンビンと伝わってくる仕方で印象深く記しています。「イエスは立ち上がって大声で言われた」とあります。「立ち上がって」というのは、座っていたところから、立ち上がったということを言おうとしているのではありません。 立って話をされたという意味です。立っていたことを言おうとしていますが、わたしたちが注目したいのは、「大声で言われた」ことです。「大声で言う」という言葉は、もともと、叫ぶという意味です。前回お話しましたが、7章28節にも、「神殿の境内で教えていたイエスは、大声で言われた」とありまして、そこでも出ていましたが、もともと、叫ぶという意味です。 さらに、叫ぶという意味とともに、悲鳴をあげるとか、金切り声を出すという意味もあります。たとえば、イエス様の命令によって悪霊につかれた人から悪霊が出て行くときに、大声をあげたという記事があります(マルコ1章26節)。そういう場合も使う言葉です。また、イエス様の弟子たちがガリラヤ湖で舟に乗っていた時、イエス様が水の上を歩いて近づいてきたとき、弟子たちは、イエス様の幽霊と誤解し、弟子たちは、恐怖のあまり金切り声をあげました(マタイ14章26節)。そういう場合にも使う言葉です。ですから、この「大声で言う」、「叫ぶ」という言葉は、悲鳴にもなる、あるいは、金切り声にもなる非常にトーンの高い声の出し方を表します。 今日のわたしたちであっても、似たことをします。わたしたちでも、大きな声を出し続け、叫び続ければ、悲鳴に近い、あるいは、金切り声に近いキーキーしたとてもトーンの高い声になります。イエス様に当てはめるとどうなるでしょう。イエス様は、仮庵祭で最も盛り上がる、人々がごった返すエルサレム神殿の境内で、立って、叫んで、本当に大きな声で、キーキーしたかもしれないような、とてもトーンの高い声で、本気で真剣に、全力をあげて語ったことを表します。ですから、イエス様はよほど大切なこと、よほど重要なことを語ろうとしていたのです。 イエス様が、キーキー声になってしまうかもしれないほど、大きな声で、叫んで、語り続けようとしたことは、大事な心、魂が飢え渇いて、真の満足のない人々への招きでした。「渇いている人はだれでも、わたしのところ来て飲みなさい」という招きです。「渇く」というのは、通常であれば、喉が渇くことを意味します。また、「わたしのところに来て飲みなさい」とありますが、これも、通常であれば、わたしのところに来て水を飲みなさいという意味です。 しかし、もちろん、この表現は、実際に、のどが渇いたから、イエス様のところに行って水を飲ませてもらうという意味ではありません。もっと深い人間の生きることに関する根本的な霊的な意味で語られています。一人ひとりを動かす中心である大事な心、魂の飢え渇きとその満たしという霊的な真理を教えているのです。それでは、なぜ、イエス様は、仮庵祭のときに、のどの渇きとか水による潤いを語ったのでしょう。今日のわたしたちには、全然ピンときませんけれども、旧約の歴史を持っているユダヤ人にとっては、響いてくるはずなのです。 イエス様のこの言葉を理解するためには、仮庵祭のときに行われていた重要な儀式をお話しなければなりません。仮庵祭においては、毎日、1つの重要な儀式が行われたのです。祭司が毎日1回、行列を従え、決まった時間に、エルサレム神殿から金の水差しを持って出て行き、エルサレムのはずれにあるシロアムという池から水を汲んでくるのです。神殿に戻ってくると、トランペットの音が響き、人々が喜びの声をあげ、神を賛美するのです。人々の神賛美の中で、祭司は祭壇のそばの銀の器にその水を注ぐのです。 シロアムの池から水を汲んできて祭壇のところに注ぐ儀式は、7日の間毎日1回行われますが、最後の7日目は、祭司は、祭壇を7回まわって水を注ぎました。 水を汲んできて注ぐこの儀式には2つの意味がありました。1つは、出エジプトしたイスラエルの民が、荒れ野の旅で水がなくなって喉が渇いたとき、神は、モーセがつえで岩を打つと、岩から水を出し、イスラエルの民の渇きをいやしてくださったことを感謝する意味がありました。 もう1つの意味は、将来出現する約束のメシアによる豊かな恵みを覚える意味です。救い主メシアが出現したときに、救い主メシアは、祭司がシロアムから汲んできた水をジャーと注ぐように、聖霊の祝福を一人ひとりに豊かに注いでくださることを象徴していたのです。イエス様は、ただ何となく、仮庵祭にポット現れ、仮庵祭に関係のないことを語ったのではなく、仮庵祭の中心である水を汲んできて注ぐ儀式に関係させ、心、魂の飢え渇きと聖霊の豊かな注ぎによる満たしへと人々を招いてくださったのです。 宗教改革者のカルヴァンがこんなこと言っています。イエス・キリストが「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」と言っているのは、すべての人たちの飢え渇きをいやすのに、イエス・キリストお1人で十分なのだということを言っているのである。だから、自分の心、自分の魂の飢え渇きをいやすため、イエス・キリスト以外のところに、求める人たちは、間違っており、無駄なことをしているのである、と解説していますが、本当にそうです。人間というのは、神によって造られた者ですので、御自身も神であるイエス・キリストと結びついて、聖霊の祝福を心、魂に豊かに受けない限り、満足できないのです。人間の心、魂というものは、計り知れない高貴なものであり、無限の価値があり、しかも、永遠に潤され、満たされることを求めるので、とうてい、過ぎゆくこの世のものでは潤され、満たされないのです。 人間の高貴な魂、人間の不滅の魂は、御自身も永遠の神であるイエス・キリストに信仰によってしっかり結びついて、聖霊の豊かな祝福で潤されない限り、満たされないのです。ですから、イエス・キリスト以外のところに求めることは、誤りであり、無駄なことをすることになります。わたしたちは、そのような誤りをせず、また、無駄なことをせず、信仰によってキリストに固く結びつき、聖霊の命の水を日々豊かに注がれ、心、魂が満ち足り、充足感をもって歩んでいきたいと思います。
2.信じる者には聖霊の豊かな祝福が与えられ真の満足が得られます。
イエス様が、聖霊の豊かな祝福を与えることができる、ただ1人の真のメシアであることがわかりました。今度は、イエス様を信じる人に与えられる聖霊の祝福の豊かさに目を向けてみましょう。イエス様は、2つの言い方で、聖霊の祝福の豊かさを強調しています。38節がそうです。 38節に「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」とあります。「その人の内から」とありますが、「内」という言葉は、もともとは、おなか、腹、胃という意味です。これまでの口語訳聖書も、「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」となっていて、「その腹から」となっていました。 今日のわたしたちもそうです。喉が渇いた時、水をゴクっと飲みますと、その水が食道を伝わっておなかにたまるのが感じられます。その水がおなかにたまっている間は、渇きがいやされます。砂漠地帯のイスラエルの人々は、水をガブガブ飲んで、おなかに水がたまっても、気候が暑いのでまたすぐに渇いてしまい、おなかの水は空になります。 そこで、イエス様は言います。わたしを信じる人は、おなかに水がなくなって、カラカラに渇くということはありません。逆に、おなかから水が外に向かってジャージャーと流れ出ますと語ったことになります。ですから、「その人の内から生きた水が川となって流れ出る」という表現は、水の豊かさを強調する表現です。実際に、人の内側、おなかから水が流れ出るなどということはないわけですが、それほど水が豊かで、その人は渇くことがないということを強調する表現であることがわかります。 イエス様を信じる者が、そんなに豊かに、多量に、おびただしく受ける水とは何のことかと言いますと、もちろん、聖霊の豊かな祝福のことを象徴しています。汲めども尽きない聖霊のあふれる霊的祝福のことです。「生きた水」といわれています。「生きた水」というのは、もともと、流れている新鮮な水を表します。どんよりとたまって流れることのない水、これは死んだ腐った水で、悪臭を放ちます。こんな水は飲めません。 それに対して、太陽の光を受けて、キラキラ輝いて流れている新鮮な冷たい水、これは、生きた水で、人が飲めば、ああおいしい、生き返ると言って、人を生かすことができる力を持ちますが、この人を生かし、潤し、満たすことができる水こそ、聖霊の豊かな祝福を表しています。聖霊の祝福こそ、人の大切な心、人の大切な魂を、真に生かし、真に潤し、真に満たすことができます。心の最も深いところまで、魂の最も深いところまで、しかも、今だけではなく、永遠に満たすことができるのです。 これだけでも、聖霊の祝福の豊かさが伝わってきますけれども、イエス様はさらにもうひとつ言葉を付け加えて、聖霊の祝福の圧倒的な豊かさを強調しました。「川となって流れ出るようになる」という表現です。もちろん、聖霊の祝福が、川のように豊かに与えられますよという意味ですが、「川」という言葉は、わざわざ複数形になっています。 ですから、1本の川ではありません。複数の川を表します。いくつもの川を表します。何本もの川のことです。考えてみますと、イスラエルというのは、水のない砂漠地帯です。川が1本あって水が流れているということだけでも、十分な豊かさですが、複数の川、いくつもの川、何本もの川が水をたたえてどんどん流れているのであれば、通常の豊かさの何倍もの豊かさとなります。 こうして、イエス様は御自分を信じる者への聖霊の祝福の豊かさを二重に強調して教えてくださいました。ですから、聖霊の祝福によって、心、魂が満たされない人はいないのです。どんな境遇にあって、どんなに、心、魂に満足がなく、カラカラに飢え渇いている人でも、たっぷり、しかも永遠に満たされるのです。聖霊によって満たされない人はいません。 不思議なことですが、イエス様を信じてクリスチャンになりますと、顔の表情が変わりますよね。聖霊の豊かな祝福で心が満たされまして、ニコニコして、喜びで顔を輝かせ、こんな素晴らしいものがあったのだ、知らなかったなあ、こんな素晴らしいものがあるのなら、もっと早く知ればよかったと言うでしょう。でも、自分が信じようと思ったときが、その人の人生における1番よいときで、神がその人の人生についてのご計画の中で備えてくださったときなのです。クリスチャンは、自分の心、自分の魂に、聖霊の豊かな祝福が与えられていることが十分わかって喜べるでしょう。 礼拝の終わる時に、牧師の祝祷があります。「仰ぎこい願わくは、我らの主イエス・キリストの恵み、父なる神の愛、聖霊の親しき交わり、会衆一同とともに限りなくあらんことを」と祈りますが、祝祷においても、「聖霊の親しき交わり」と言われているように、わたしたちは、今も、後も、世々、聖霊との親しき交わりに置かれ、満たされ続けるのです。なんという祝福でしょう。 聖霊による豊かな祝福は、イエス様がその場の思いつきで与えるのではなく、イエス様を遣わした天の神が、旧約時代から約束されていた素晴らしいものなのです。そこで、イエス様も、「聖書に書いてあるとおり」と言いました。この場合の聖書は、まだ新約聖書はできていませんから、旧約聖書のことです。旧約聖書のどこに書いてあるのでしょう。あちらこちらに書かれています。代表的なところをイザヤ書から3カ所だけ見ておきましょう。 イザヤ書44章3節、「わたしは乾いている地に水を注ぎ/乾いた土地に流れを与える。あなたの子孫にわたしの霊を注ぎ/あなたの末にわたしの祝福を与える」とあります。「わたしの霊を注ぎ」とは、まさに聖霊を注ぐことを表しています。 イザヤ書12章3節、「あなたたちは喜びのうちに/救いの泉から水を汲む。」とあります。メシア時代になって、聖霊の豊かな祝福を受け喜ぶことが言われています。 イザヤ書58章11節、「主は常にあなたを導き/焼けつく地であなたの渇きをいやし/骨に力を与えてくださる。あなたは潤された園、水の涸れない泉となる。」とあります。罪人の激しい飢え渇きを十分いやして満たすメシア時代の聖霊の豊かな祝福が約束されています。 天の神は、旧約時代から、真のメシアが出現した時代には、罪人の乾ききったカサカサの心、罪によって干からびた魂に聖霊の豊かな祝福を、旧約時代とは比べものにならないほどおびただしく注いで、満たしてくださることを約束してくださっていましたが、今、1世紀のイスラエル北部のナザレ村から真のメシアイエス・キリストが出現するに及んで、この約束が実現されようとしており、キリストは、まず、イスラエルの人々を聖霊の豊かな祝福に力強く招いてくださったのです。
3.聖霊はペンテコステのときから世界のだれにでも与えられます
イエス・キリストを信じた者には、聖霊の豊かな祝福が惜しみなく与えられることがわかりました。では、人は、厳密には、いつからその祝福にあずかることができるのでしょうか。それはペンテコステのときから、聖霊降臨のときからです。 「その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」とありました。この文章は未来形です。人が聖霊の豊かな祝福を受けることは、未来のこと、将来のこととして語られています。39節がその時期を説明し、人が聖霊の豊かな祝福を受けるのは、イエス様が十字架について、人類の罪を赦し、贖うという救い主としての栄光を十分に表してから、天にお帰りになり、天から聖霊を下す聖霊降臨のときから、ペンテコステのときからであることを教えています。 39節に〟霊〝という言葉が2回出てきますが、これは聖霊のことです。神の霊、御霊のことです。「イエスはまだ栄光を受けておられなかったので」とあります。「栄光」というのは、人類の罪の赦しのため、メシア、イエス様の十字架の死を表しています。イエス様が、真のメシアとして御自身の栄光を十分に現わされたのは、十字架につけられて苦しみ、死んだときです。 そのときこそ、イエス様の真のメシアとしての栄光は、全歴史の中心として輝きわたったのです。十字架の死による人類の罪の赦しこそ、救い主のイエス様にしかできない、限りなく尊い無限の価値のある御業です。ヨハネによる福音書においては、イエス様の十字架上の死は、救い主としてのイエス様の栄光を存分に表すものとして記しています。イエス様が救い主として限りない誉れを世々受けるのは、十字架上で人類の罪の赦しのために苦しみ死なれたからです。本当にそうでしょう。わたしたちがイエス様の誉れを賛美するのは、わたしたちのために十字架上で死んで下さったからです。 そのイエス様が、御自分を信じる者たちに聖霊の豊かな祝福を実際にお与えになるのは、十字架で死んだ後、復活し、天に昇り、父なる神の右に着座して、すなわち、栄光を受け、天から聖霊を下し、聖霊降臨、ペンテコステを生じさせたときからです。そのときまでは、まだ、聖霊は、十分な豊かさでは与えられていないのです。確かに、旧約時代においても、聖霊の祝福がイスラエルの民に与えられました。また、イエス様が出現し、イエス様を信じた人々には、弟子たちをはじめとして、聖霊の祝福が与えられました。しかし、旧約時代と比べて、まだ、十分な豊かさではありませんでした。旧約時代と比べものにならないほどに、圧倒的な豊かさで、聖霊の祝福が人々に与えられるのは、イエス・キリストの十字架の死と復活によって救いの道が明白に開かれ、ペンテコステが生じてからです。これが天の神のご計画でした。ペンテコステのときから、イエス・キリストを信じる者の心、魂に、聖霊が惜しみなく豊かに注がれ、満たされる恵みの時代が今も続いているのです。
結び
以上のようにして、本日のところを見ますが、21世紀になり文明や文化や技術がどんなに進んでも、人の心、魂というものは、それで真に満たされたり、真に生かされたりするわけではありません。人の心、魂は、天の神から遣わされてきたイエス・キリストを信じて、聖霊の豊かな祝福によって真に潤され、真に満たされるのです。わたしたちは、祝祷にもありますように、聖霊との親しい交わりの中で、今も、後も、世々、満たされ、喜んで歩んでいきましょう。
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