「祈りの確かさ」


                    ルカによる福音書十一章1節~13節

             キリスト改革派東京高島平教会牧師 佐々木 稔


 歴史における教会が、健全な進展をするためには、神学と伝道と祈りがバランスを保って営まれることが必要です。これら三つのもののうち、どれか一つでも欠けると教会に歪みが生じるものです。祈りはともすれば軽視されがちですが、実は、教会と家庭と個人の信仰的歩みにおいて、非常に重要な意味と役割とがあるのです。

 「祈りなんて自己矛盾さ、神が全知ならばことさら人間が祈るなんて意味のないことさ」とは、この世の人がよく言うことです。しかし、この考え方は、祈りについての最も重要な点を誤解しています。即ち、この考え方は祈りが神のためにあると凪っているからです。

 確かに祈りは神によって制定されたものですが、神御自身のためにあるのではなく、人のためにあるのです。祈りは、罪人の益のため、即ち、罪人が信仰を維持,・発展させるための手段なのです。祈りは、み言葉の説教、礼典と共に恵みの手段と呼ばれ、罪人が神の恵みを知り、享受し、維持するために、神が教会に与えた手段なのです。それで私たちは機会あるごとに適切な仕方で神に祈るのです。祈りの根拠は神の制定にあります。

 さて、私たちが今学ぼうとしている箇所は二つの部分に分けて考えられます。前半(1節~4節)と後半(5節~13節)です。そして前半にはそれ自身で祈りでもありますが、祈りの校紀とされる「主の祈り」が合まれています。

 他方、後半部分には二つのポイントがあり、一つは真剣な持続的な祈りの必要性(5節~8節)、もう一つは祈りに対する神の応答の確かさ(9節~13節)です。もし、私たちが後半部分から真剣な持続的な祈りの必要性だけを読み取るならば、それは片手落ちとなります。神が聖霊をもって、必ず応答して下さるという、確かな約束を心に深く留めないならば、私たちの祈りの生活への励ましと慰めにはなりません。

 聖書には「主の祈り」と言われるものが二箇所に出ています。マタイによる福有害の六章9節~13節と今、私たちが学ぼうとしているこの箇所です。両者は幾つかの点て違いがあります。

 マタイにおける「主の祈り」は山上の垂訓の文脈中に現われ、キリストが弟子と俗衆に、しかも自分から教えており、さらにルカにない二つの句『みこころが天に行われるとおり地にも行われますように』と、「悪しき者からお救いください」が記され、ルカよりも一層荘重な感じが出るよう工夫されています。

 ルカにおける主の祈り」は弟子の求めに応じて教えられており、マタイよりも簡単に、短かく記されているのが特徴です。

両者のこれらの相違は、聖書の矛盾という性格のものではありません。両者の違いは統一性を破壊し合うものではなくて、統一性に基づいた多様性です。キリストが弟子たちに祈りを教えたのは、生涯中に唯一回であったとは考えられません。ある時には詳しく、ある時には簡潔に教えたことでしょう。

更に重要なことはマタイと声カは各々、主の祈り」を記す目的と関心が異なっているという事実です。

 マタイは、当時の偽善者たちの誤まった祈りの理解を徹底的に打ち砕いて、真実な祈りの型としての「主の祈り」を提示することが目的です。当時の偽善者たちは、祈りは言葉数が多ければ多いほど良い、祈る時間が長ければ長いほど良いという、誤まった観念に基づいて祈りを実践していました。

 マタイは、その考え方を排して、真実な祈りの姿は「主の祈り」に見い出すべきことを、教会に教えているのです。

 ルカは、祈りのひな型としての「主の祈り」を描くことを第一の目的としてはいません。それ故に、ルカにおいては、「主の祈り」がより簡潔に記されているのです。ルカにおける第一の目的は、教会が神の確かな約束に基づいて、熱心と忍耐をもって祈り続けることを、教えることなのです。

 マタイとルカには、各々独自の観点と目的とかあります。私たちはマタイから、真実な祈りのモデルとしてので「主の祈り」を知り、ルカからは、神の確かな応答性に基づいて祈り続けることを知るのです。私たちは両者を知ることによって更に、聖書のその他の祈りについての箇所から、それぞれが教えていることを総合A優理して祈りの全貌を明らかにし、正しい実践へと向かうのです。  

 一節によれば、弟子のひとりが師であり先生である主イエスに、祈り方を教えて下さいと願い出ました。祈りは、教えられるものであり、学ばれるものです。牧師は教会員に祈りを教え、親は子に祈りを教えます。

 しかし、根源的には、祈りは、神と主イエスとから教えられたものです。当時、イェスのグタープとは別に存在していた、ヨハネの・グループでは、祈りの教育が盛んであったようです。それに刺激されたこともあるでしょうが、その弟子は常日頃から、自らの祈りの貧しさを痛感しており、適切な機会に主イエスに教えて欲しいとの願いを持っていたと思われます。

 「イエスは、ある所で祈っておられたが、それが終ったとき」とありますように、弟子たちは主イエスが祈る姿を、毎日見てきたはずです。宅は祈りつつ、神の国の到来を宜べ伝え、祈りつつ神の国のみわざに励まれました。弟子たちは主と寝食を共にしていたので、力と生命と恵みに満ちた主の宣教とみわざの源泉が、祈りにあることを知っていたはずです。それにひきかえ、彼らは肩らの祈りの貧しさを知り、更に、相応わしい祈りの仕方を知りたいとの願いがあったと思われます。

ところで、聖書を読むことは食事のようなものでてあり、祈りは呼吸のようなものであるとはよく言われることです。また、祈りは神との対話であるとも言われます。それぞれ祈りのある点をよく表わしています。今から約百年ほど前、アメリカの長老主義教会を神学的に指導したC・ホッジは祈りは魂と神との親しい対話であって、神に対する、私たちの崇敬の念・感謝・悔い改め・希望・従順・信頼などか表わすものである、と言っています。また、彼は対話である祈りが成り立つためには、神が人格であること、神は私たちの傍らにおられること、神は祈りに答えられる全能者であることの三つを前提にすることが必要であるとも言っています。

 2節から4節までは主の祈り」ですが、詳しい訳解はマタイにおける「主の祈り」に基づいて行なった方がよいと思いますので、ここでは簡単に扱います。

 「父よ」との呼びかけは、神に対する非常な親しさと信頼とをよく表わしております。「父」はギリジ″語でパーテルですが、主イエスはアラム語のアバを用いました(マルコ十四・36、マクイ十一26、ヨハネ十41など)。そして、このアラム語アバは当時の家庭の中で父親を表わすのに一般的に用いられていました。そこで、ある人々は、主イエスの「父よ」との呼びかけは「お父ちゃん」と訳すべきであるとさえ言われます。

 仲保者イエス・キリストの人格とみわざによって、決定的に和解させられた私たちは、他人行儀にではなく、神の家族の一員として、今や神を父として親しく呼びかけることが許され、否、命じられているのです。

 次いでキリストは「(あなたの)御名が崇められますように」と言って、栄光と誉れを被造物にではなくて、主権者である神に帰すことを教えています。力と恵みの源である神にこそ栄光は似つかねしいものです。

 「御名」とはヘブル的な表現で、その名が表わすお方と同じ意味で神御自身のことです。私たちは祈りのたびごとに、神の主権的栄光をまず告白するのです。

 「(あなたの)御国がきますように」では、この世の国とは全く異質な、神の王者的支配が目に見えるかたちと仕方で実現される目が、速やかに来ることの期待と願いが教えられています。神の正義と愛が完全な十分なかたちで実現される新しい秩序の到来を私たちは待ち望んでいるのです。

 3節の「日毎の食物」は正確には「日毎のパン」ですが、私たちがこの世で生きるために必要な衣食住の一切を意味しています。それらを、「パン」によって代表させているのです。

 4節は誤解されてはなりません。私たちの罪が神に赦されるのは、他の人が私たちに犯す罪を私が赦すからであると解釈するのは完全な誤解です。私たちが他の人の罪を赦すことは、私たちの罪が神に赦されることの原因・根拠・条件には決してなりません。私たちには、罪の赦しについて、神と対等の立場で取引する資格や権限は与えられていません。

 ここでの主イエスの教えは、自分の罪は神に赦してもらうが、他の人が自分に犯している罪は赦さないというチグハグは、成り立たないということです。神によって私たちの罪が赦されるからには、私たちも神に倣って、他の人の罪を同時に赦さねばならないのです。

 ここで私たちが他の人の罪を赦すことが、あたかも私たちの罪が神に赦されることの原因・根拠・条件であるかのように言われているのは、私たちが神に倣って、相互に罪を許し合うことが、非常に重要であることを印象づけようとの工夫からです。

 「わたしたちを試みに会わせないでください」とは、罪への誘惑から守って下さるよう、また、罪の誘惑に陥った時には、速やかに救い出して下さるようにとの願いです。主イエスは、以上のようにそれらの稜々の要素を含めて、祈りなさいと教えているのです。 

では後半部分へと進み片しょう。

 5節から8節までは「友人のたとえ」であり、ルカ独自のものです。予期していない時に、しかも、真夜中に到着した友だちのために、モの人はある友人のところへ食物を工面するため出かけます。このたとえの中心点は8節の「しきりに願う」ことにあります。ギリシャ語を直訳すれば「彼のしつっこさの故に、起きて彼の必要とするものを与えるであろう」となります。

 「しきりに」を表わすギリシャ語アナイデイアはしつつこいこと、無分別なこと、恥知らずなことを意味します。そうです!彼はしつっこく、無分別に、恥知らずと言われるほどに熱心に求めた、否、求め続けたのです。

 主イエスのたとえは、祈りにおける持続的な熱心と忍耐を狙いとしているのです。中途半端な祈りは本来、役に立たないのです。

 9節は次のように訳した方がよいと思います。「あなたがたは求め続けよ、そうすればあなたがたに与えられる。あなたがたは捜し続けよ、そうすれば、ぱ兄い出す。あなたがたは叩き続けよ、そうすればあなたがたにあけられる」。何故なら、「求めよ」、「捜せ」、「叩け」とするよりも「求め続けよ」、「捜し続けよ」、「叩き続けよ」とした方が前のたとえの趣旨をより十分に生かし受け継ぐからです。

 また、「あなたがた」をわざわざ訳出した方がよいということの理由は、主イエスが「求め続けよ」と脅し、「与えられる」と約束しているのは一体誰に対してかを考えれば明白です。主イエスの命令と約束は、不信な一般の群衆にではなくて、信仰のある弟子たちに与えられているのです!別の言葉で言えば、キリストの命令と約束は教会に与えられているのです。人間一般にと言うのは抽象的すぎますし、教会という大切な点をぼやけさせる恐れがあります。

 11節、12節を学びましょう。

 弟子たちのうちには子供を持った父親もいたようです。多分、主は彼らが子供たちに魚や卵を食べさせている光景をしぼしば見ていたのでしょう。それで、モのような身近な父子関係のたとえを一つ引き合いに出して、祈りにおける神の応答の確実性を教えたものと思われます。

 かわいい自分の子供が、魚を食べたいと言うのに、子供が恐れる蛇を食べさせようとする父親はいません。自分の子供が卵を欲しがるのに、猛毒をもったさそりを子供のそばに持ってくる父親はいません。むしろ、父親は悪事をしてでも、自分の子供の欲しがるものを与えるのです。13節の「あなたがたは悪い者であっても、……知っているとすれば」は「仮に、あなたがたが悪人であるとしても、……は知っている」であり、その意味は、自分の子供をかわいがるということは品行方正な父親だけが知っていることではなくて、悪事を行なう父親でさえも知っているとなります。

 今、私たちは特に13節において約束されている「聖霊」に注目したいと思います。

 持続的な熱心と忍耐をもって祈り続ければ、全てのものがいつでも与えられるでしょうか。

 決してそうではありません。キリスト教は目本の多くの宗教のような呪術的・迷信的宗教ではありません。祈りさえすれば全てのものがいつでも与えられるという聖書の約束はありません。

 神のみ旨に適うものが、神のみ旨の適う時に与えられるのです。祈りが実現するか否かは最後的には神のみ旨によるのであって、私たちの主観的な判断によるのではありません。

 では、祈りが実現しないからと言って、祈りにおける神の応答の確実性を疑ってよいのでしょうか。決して疑ってはなりません。神はその祈りを実現しないという仕方で見事に応答されているのです。祈りにおける神の応答の約束は、如何なる場合にも揺らぐことはないのです。

 仮に、祈りが実現しないとしても豊かに与えられるものがあります。それが「聖霊」です。聖霊こそ教会と私たちが根源的に必要とするものです。

 教会が力と生命に溢れた歩みをするためには聖霊の恵みが必要です。ルカはその事をよく知っていました。ルカは相対的な意味でマタイやマタコより屯聖霊の人格と働きに関心があったのです。タカの書いた「使徒行伝」は「聖宣行伝」であるとさえ言われます。ルカはキリストの昇天後、教会が歴史の中で力強い歩みをする源動力が聖霊にあることをよく知っていたのです。

 それ故に、ルカのこの箇所は教会がその維持と発展とのために、聖霊の恵みと働きを、持続的な熱心と忍耐をもって求め続けることを教えているのです。祈りにおいて求め続けられるべきものは、根源的には聖霊なのです!

     

 祈りは、神に対する教会の徹底的な依存と信頼の告白です。この世は祈りませんが教会は祈ります。哲学は祈りませんが、神学は祈ります。不信仰は祈りませんが、信仰は祈ります。中立はありません。私たちは祈りますが、祈りさえすれば他は何もしなくてよしというわけではありません。神学と伝道が必要です。神学と伝単と祈りの三つがバランスを保って実践されていく時に、歴史における教会は力と生命に満ちて前進をするものと思われます。宜ハの教会形成のために皆さんと共に励んでいきたいと思います。


  (この説教は、名古屋のつのぶえ社が発行していた「聖書研究の友」(268号)に掲載されたものです。)


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