ヨブ記一人生における苦しみの問題-

              

        ヨブ記1章1節~22節、3章1節~3節、42章12節~17節、


                                            佐々木稔牧師


はじめに


 残暑が続いていますが、本日も、わたしたちは、唯一大の真の偉大な神を心から礼拝したいと思います。それで、本日は、旧約聖書に親しむという趣旨で、2ヵ月に1度の旧約聖書からのお話しです。前回は7月で、旧約聖書のエステル記から、お話しをしましたが、本日は、次のヨブ記からお話をします。

 ヨブ記とは、どんなものでしょう。すると、ヨブ記というのは、正しい人、すなわち、神を信じる人の人生における苦しみの問題を扱っています。そして、結論としては、神を信じる人の人生にも、苦しみは生じます。そして、なぜ、苦しみが生じるのかわかりません。しかし、苦しみが生じても、神の愛と救いは変わらないことを覚えて、忍耐し、さらに、神を信頼して歩むべきことを教えているのです。

わたしたちは、苦しみに弱い者ですが、聖霊によって起こされる豊かな忍耐をもって歩みたいと思います。聖書を3箇所だけ読んでいただきましたが、それ以外のところも、必要に応じて拾い読みをしていきたいと思います。また、聖書の言葉を逐一説明していくと、時開か足りませんので、わたしの言葉で説明していくこともしたいと思います。できるだけわかりやすくお話しができればと願っています。

 3点からお話しをします。第1は、ヨブ記の主人公のヨブは、人生において大きな苦しみに出会ったという点です。第2点は、ヨブの3人の友人たちは、ヨブが罪を犯していないのに、誤解して、ヨブの罪を責めました。第3点は、ヨブは、神対する自らの高ぶりに気がつき、悔い改めたという点です。


1.ヨブは人生において想像を絶する苦しみに出会いました


 早速、第1点に入ります。第1点け、ヨブは、人生において大きな苦しみに出会ったという点です。では、ヨブとは、いつの時代の、どこの、どんな人だったのでしょう。すると、ヨブは、かなり古い時代の人で、旧約聖書の創世記に出てくるイスラエルの先祖のアブラハムやイサクやヤコブの時代の人と考えられています。すなわち、キリスト出現以前の2千年か千九百年前ぐらいの人と考えられます。1章1節に「ウツの地」とあります。また、3節に「東の国」とありますが、これらの表現で、イスラエルの死海の南のエドムと呼ばれる地域の東側のアラビア砂漠に近い地方を表していると考えられます。そして、さらに、1節で「無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた」と言われておりますように、神を信じ、神に真実な人で、神を恐れ敬い、「悪」、すなわち、神の御心に反する罪を避けて生きていた、正しい人、すなわち、信仰深い人でした。「無垢な」というのは、神に対して真実、誠実という意味です。年齢は不明です。でも、大人です。男性です。

 では、ヨブは、社会においてどのような立場にあったでしょう。すると、いろいろなことに恵まれていた人で大富豪でした。子供は10人も与えられていました。息子が7人、娘が3人でした。家畜もたくさんいました。

 ヨブの子供たちは、とても仲が良く、7人の息子たちは、順番に自分の家で「宴会」、すなわち、今目でいうパーテーを開き、他の兄弟たち、姉妹たちを招いて交流をよくしていました。そのパーテーが一巡すると、ヨブは、7人の息子たちを呼び寄せ、息子たちが神の御心に反する罪を犯したかもしれない、また、心の中で、神をのろう、すなわち、神を信じることなど何の役にも立たないと考えたときがあるかもしれないと思って、息子たちの罪の赦しのために、動物のいけにえを神にささげて赦しを求める儀式をすりほど、信仰深い人でした。

ところが、幸福を絵にかいたようなヨブに大きな苦しみが生じます。読者にわかりやすいように、人間的に書いてありますが、あるときに、天上で、神と天使たちとサタンの話し合いが行われます。その時に、神は、サタンに対して、ヨブの信仰をほめました。すると、サタンは、神に逆らって答えます。1章9節から11節までが、神に逆らうサタンの言葉ですが、意味は次のようです。

 ヨブが神を信仰しているのは、地上的な祝福が非常にたくさん豊かに与えられているからである。ヨブとその一族は、神からの祝福で、膨大な財産を与えられている。家畜もおびただしく与えられている。だから、ヨブは神を信じている。もし、財産がなくなれば、ヨブは、神を呪って、すなわち、神など信じるものかと言うに違いないと、神に答えました。

 そこで、神は、サタンの言った通りにしてよいと許しました。早速、ヨブに苦しみが生じます。アラビア半島の南西部にシェバ人という民族が住んでいました。彼らは遊牧民族で移動しますが、この時、フツの地に侵入し、牧童たちを殺し、ヨブの所有していた牛とらくだを略奪しました。

 損害はそれだけではありません。今度は、「天から神の火が降って」、すなわち、雷が落ちたか、あるいは、その時だけの超自然的な天から火が降ったかのどちらかですが、「天からの火」によって、ヨブの羊とその羊を飼っていた羊飼いたちが焼け死んでしまいました。

 さらに、ユーフラテス川下流に住んでいた「カルデヤ人」、すなわち、バビロン人とも言いますが、その略奪隊がやってきて、3部隊に分かれて襲撃して、ヨブのらくだが奪われ、牧童たちは、剣で切り殺されてしまいました。

 それだけではありません。ヨブの長男の家で、「宴会」、パーテーが行われているとき、「荒れ野」、すなわち、アラビア砂漠から吹いてきた強風により、家の四隅の柱が崩れて家が全壊し、ヨブの7人の息子と3人の娘、計10人の子供たちは、みな死んでしまいました。

 ヨブは、もちろん、悲しみました。悲しみを表すため着ていた衣を胸元から下に引き裂いて、自分の心も悲しみで引き裂かれていることを表しました。また、当時の悲しみの習慣に従い、頭の髪をそり落とし、あまりの衝撃に地面にひれ伏しました。そして、ヨブは、1章21節にありますように、自分は、「裸で」、すなわち何も持かないで母の胎からこの世に生まれてきたのだから、自分はこの世を去るときも何を持たないで去るのだ。それでよいのだ。神は、自分に子供たちや財産をたくさん与えてくださったが、また、神がそれらを取られるのであるから、自分は神に従う。自分は、なお神の御名を賛美すると表明しました。これが、その時のョブの率直な気持ちで、ヨブは、神に文句を言ったりする気持ちなどまったくありませんでした。

 1章21節の「「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」というのは、欧米の映画など見ていますと、誰かが亡くなって、お墓で埋葬するときに、牧師が、聖書を開いてこのョブ記の1章21節の御言葉を読む場面がよく出てきます。

こうして、サタンの目論見は完全に外れました。ヨブが神を信仰しているのは、神がヨブにこの世の祝福を豊かに与えているからである。この世の祝福を与えなければ、ヨブは、神など信仰するものかと言って、神を呪引まずだと語りましたが、それは完全に外れたのです。ヨブは、なお、神を信頼しました。1章22節で「このようなときにも、ヨブは神を非難することなく、罪を犯さなかった」と言われている通りです。

 わたしは、説教の準備をしながら考えたのですが、わたしたちがヨブの立場ならどうしたでしょう。ヨブのように忍耐できたでしょうか。財産すべてと子供たちすべてを失って、なお、神を信頼し、「主の御名はほめたたえられよ」と表明できるでしょうか。どうでしょう。ヨブの忍耐はすごいですね。

さて、らに、次の苦しみが襲ってきました。これまた、読者にわかりやすくするために、人間的に言かれていますが、天上で、神と天使たちとサタンの話し合いがなされました。その時、神はサタンに、ヨブほど信仰深い人はいないと語って、ヨブの信仰をほめました。

 すると、サタンはまた神に逆らいまして、ヨブは、確かに、財産と子供たちを失ったけれども、しかし、ヨブの体や命そのものに害が及んで、苦しみを感じたわけではない。体と命が無傷なら、また1からやり直し、財産を増やせばいいし、子供たちはこれからまた生めばいい。だから、ヨブの体と命に直接苦しみを与えれば、今度は、ヨブは、神など信仰するものかと言って、神を呪いますよと、神に答えたのです。

 サタンは常に神に逆らいます。4節に「サタンは答えた。『皮には皮を、と申します。まして命のためには全財産を差し出すものです。手を伸ばして彼の骨と肉に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません』」とありますが、「皮には皮を」というのは、当時のことわざと考えられていますが、もともとの意味がどのような意味かを明白にするのはとても難しいようです。一説では、物々交換の条件を表すと言われます。すなわち、勣物の皮は、お互いに、同じ価値なので交換できるぐらいの意味なのかもしれません。それを、ヨブに宛てはめると、ヨブが、苦しみを受けてもなお神を信仰しているのは、ヨブの体と命と同じ価値の苦しみを受けていないからであるくらいの意味なのかもしれません。すなわち、子供たちと財産を失うことは、ョブ自身の体と命と同じ価値はないのでので、ヨブは忍耐できるのであるぐらいの意味かもしれません。いずれにしても、サタンはヨブが、子供たちと財産を失ったことを、軽く見ています。サタンは、常に冷酷なのです。

 また、「まして命のためには全財産を差し出すものです」というのは、人にとって一番大事なのは自分の命で、自分の命を助けるためには、人は全財産も借しくはないという意味です。ヨブに当てはめれば、ヨだって、自分の命が一番大事で、自分の命を助けるため、全財産も失っても借しくはないはずである。だから、ヨブは、一番大事な自分の命が無傷だったのだから、全財産を失っても、神を信仰するのである。しかし、ヨブの命と体に打撃を与え、ヨブが自分の体と命のことで苦しめば、ヨブは、神など信仰するものかと言って、神を呪うはずである、という意味です。「手を伸ばして彼の骨と肉に触れてごらんなさい」というのは、ヨブの体と命に打撃を与え、ヨブが、自分の体と命のことで苦しむようにしてみなさい。そうすれば、ヨブは、神など信仰するものかといって、神を呪うはずだという意味です。

 そこで、神は、サタンの言う通りのことを許しました。ヨブは、頭のてっぺんから足の裏まで、「ひどい皮膚病」になりました。「ひどい皮膚病」というのは、これまでの目語約聖書は「いやな腫れ物」と訳していました。すなわち、頭のてっぺんから足の裏まで、できものになり、ジブジブ膿が出たのです。もちろん、痛くて、かゆくてたまらなかったと思われます。

そこで、ヨブは、灰を捨てたり、壊れた焼き物を捨てたりする場所、すなわち、ごみ捨て場で、まるで自分自身がゴミであるかのように、灰の中に座り、ジブジブ出る膿を、陶器の破片でかき出していました。そこで、ヨブの妻は、その姿を見るにしのびなく、そんなに苦しみを受けても、まだ神に対して「無垢」、すなわち、真実を尽くすのですか。それよりは、もう神なども信じるものかと言って、神を呪って死んだほうがいいでしょう、と言うありさまでした。

でも、ヨブは、それでもまだ、妻をたしなめ、自分たちは、神から、祝福をたくさん受けたのだから、同時に、苦しみも忍耐して受けようではないかと表明し、なお変わらず、神を信頼し、文句を言ったりしませんでした。2章10節後半で「このようになっても、唇をもって罪を犯すことをしなかった」と言われている通りです。ヨブの忍耐は驚くべきです。

 わたしは、説教の準備をしていて、ヨブの忍耐に本当に改めて驚きました。ヨブ記は、これまで何回も繰り返して読んできまして、ヨブの忍耐はすごいなあと思っておりましたけれども、説教するため、今回、改めて考え、本当に驚きました。ヨブの忍耐の大きさに圧倒されて、言葉がとても出ないという感じです。

さて、ヨブの苦しみを聞いた3人の友人たちが、慰めるためやってきますが、遠くから見ると、腫れ物で顔のかたちや姿の感じが変わってしまい、すぐには、ヨブとはわからない状態でした。

 それでも、ヨブは、神を呪ったりはしませんでした。しかし、ヨブは、あまりの苦しみゆえに、自分がこの世に生まれてきたことを呪いました。3章1節、2節がそうです.「自分の生まれた日を呪って言った」とありますが、その意味は、自分は生まれてこなければよかったのに、なぜ生まれてきたのかという意味です。ヨブは、神を呪うことはしませんでしたが、自分の生まれたことを呪いました。

 このことは今日でも似ているでしょう。今日のわたしたちでも、大きな苦しみに出会って、最後に、来るところはここです。「こんな苦しみに合うならわたしは、生まれてこなければよかった」と言うでしょう。ここに来ます。わたしたちの人生においても、そういうふうに思うときがあるかもしれません。人生の大きな苦しみは深刻で、自分がこの世に生まれてきたことを否定してしまうのです。


2.3人の友人は、ヨブが罪を犯したと責めました


第2点に入ります。第2点は、3人の友人だらけ、ヨブが罪を犯していないのに、誤解して、ヨブの罪を責めたという点です。この出来事が、4章から31章まで長く続いていきますが、お話しは短くてよいと思います。3人の友人だらけ、エリファズ、ビルダド、ツファルという名前の人々ですが、この3人は、ヨブを慰めようとして、ヨブと話し合いをするわけですが、その話し合いはピント外れでした。なぜなら、因果応報の原則をョブに当てはめ、次のように語ったからです。

ヨブが苦しみを受けているのは、その原因かおるはずだ。その原因は、ヨブの罪である。ヨブは、何かの罪を犯している。だから、その罪を神が裁いて、苦しみを与えているのだ。それゆえ、ヨブはその罪を率直に認めてすぐに悔い改め、神に赦しを求めるべきである。そうすれば苦しみは終わる、という内容でした。

 それで、3人の友人たちが、ヨブをいろいろな言葉で責めたことが長く記されていますが、わかりやすい所1箇所だけを開きましょう。20章4節、5節を見ましょう。旧約聖書の800頁です。「あなた知っているだろうが昔、人が地上に置かれたときから神に逆らう者の喜びは、はかなく神を無視する者の楽しみは、つかの間にすぎない」。ここは、ツファルという友人が、ョブを責めているところですが、その意味は、次のようです。

 人が神に創造されて、地上に住むようになってから、今日に至るまで、神に逆らって罪を犯す人の喜びは、長くは続かず、短くはかないこと、また、神を無視して罪を犯す人の楽しみも、長くは続かず、つかの間にすぎないということは、ヨブさん、あんだだって知っているじゃないか。そしてそのことが、あんたにそのまま当てはまるじじゃないか。ヨブさん、あんたは、わたしたちたちの知らないところで、大きな罪を犯したから、神に裁かれて、大きな苦しみに出会っている。だから、率直に認めて、早く悔い改め、神に赦しを求めたらどうか、という意味です。

 しかし、これは、間違いでした。なぜなら、ヨブは、特に何かの罪を犯してはいなかったからです。また、因果応報という考え方は、いつでもどこでもだれにでも当てはまる普遍的なものではないからです。今日の日本だってそうです。確かに、悪いことをすれば、罰を受けて苦しむという限りにおいては、因果応報が当てはまる部分もあります。しかし、この世において、悪いことをしていても、栄えている人々や誉れを受けている人々もいくらでもいます。因果応報ではありません。また、正しいことや人々の益になることをしている人々が、栄えず、誉れを受けないこともいくらでもあります。ですから、因果応報は、いつでもどこでもだれにでも当てはまる普遍原則ではありません。まして、ヨブには全く当てはまりません。ヨブは、神を信じ、神を恐れ、人々の益になることをたくさんしてきたのに、人生において、大きな苦しみが生じたのです。

もちろん、ヨブも、3人の友人たちに激しく何度も反論しましたが、ヨブは、自分は罪を犯していない、自分は正しいと自己弁護をするあまり、行き過ぎが生じて、自分が罪を犯していないこと、自分が正しいことを、法廷で、神と論じあって、神に証明させてみせるというふうに言い始めます。神に挑戦的になってしまいますが、これは信仰の本来の姿勢ではありません。自分が正しいことを証明するために、神を法廷に引っ張り出して、神と論じ合って、自分の正しさを神に証明させるなどという姿勢は、ちっぽけな被造物である人間が、万物を無から創造した偉大な主権者なる神に対して取るべき姿勢ではありません。分を超えています。人間の限界を超えた愚かなことです。

 31章35節を間いてみましょう。旧約聖書の816頁です。「どうか、わたしの言うことを聞いてください。見よ、わたしはここに署名する。全能者よ、答えてください。わたしと争う者が書いた告訴状を」とあります。意味は次のようです。「わたしは、ここに署名する」とありますが、これは、ヨブが、自分は罪を犯していない、自分は正しいということを証明する文書に署名して、法廷に提出するという意味です。「全能者よ」というのはもちろん神のことです。「わたしと争う者」というのも神のことです。ヨブは、挑戦的になっておりまして、もし、神が、ョブに罪のないことを認めないというのであれば、逆に、ヨブがどのような罪を犯したかを、神に書いてもらって、神から告訴状を法廷に出してもらって構わないという意味です。

 今目のわたしたちでも似たことをします。わたしたちも、大きな苦しみが生じると、神に挑戦的になるでしょう。神を信じて歩んでいるのに、なぜ神はわたしにこんな苦しみを許すのか、神のすることはおかしいと、いつの間にか、自分は正しいとして、神がしたことが間違っていると判断し、神に文句を言います。

 しかし、これは本来の信仰の姿勢ではありません。自分が正しく、神が自分に対してしたことが間違っているとか、おかしいと主張することは、ちっぽけな被造物である人間が、万物を無から創造した偉大な主権者なる神に対して取るべき姿勢ではありません。分を超えています。人間の限界を超えた高ぶりです。


3.ヨブは自らの高ぶりに気づき、悔い改めました


第3点に入ります。その後どうなるのでしょう。もう1人の友人が出てきます。エリフという友人ですが、この友人は、ヨブよりも若いのですが、とても知恵のあった人です。そして、エリフは、3人の友人に対しても、また、ヨブに対しても怒りました。

 どうして怒ったのでしょう。3人の友人に対しては、ヨブが、特に罪を犯していないのに、ヨブを責め、ヨブを苦しめたことです。ヨブに対しては、ヨブが、法廷に、神を引き出し、神と論じ合って白分か特に罪を犯していないこと、正しいことを、神に証明させるなどと息巻いたことは、神に造られたちっぽけな被造物にすぎない人間の分を超える高ぶりであったからです。

 ほんとにその通りです。オランダのベルカワーというキリスト教の先生は、ヨブ記の興味深い解説をしています。ヨブのしていることは、人間が、神をまな板にのせて、神が人間にすることは正しいかどうかを、人間が勝手に判定するようなやり方で、これはしてはならない。なぜなら、神は人間に対して常にいつでも正しいお方だからである、神が人間に対して不当なことをするなどということはない。それなのに、神が人間に対して正しくないことをするかのように、また、神が人間に対して不当なことをするかのように、神をまな板の上に乗せて、人間が上から見下ろして、神のなさることを判定するなどということをしてはならない。人間がすべきことは、神のなさることはいつも常に正しいことである、正当なことであると信頼して、従うことである、これが信仰であると述べていますが、本当にそうです。

 わたしたち自身もそうです。神がわたしにすることはおかしい、不当であるなどということは、自分を神以上の偉大なものとして、神を見下ろし、神のなさることを自分が勝手に断罪することになり、これは、ちっぽけな被造物にすぎない人間が自分の分を超えることになります。人間は、計り知れない偉大さをもたれた神のなさることが、何でもわかるわけではありません。わかることはごく少しです。わからなくてよいのです。大切なのは、神のなさることが全部わかることではなく、全部わからなくても、神を信頼して生きていくことです。神のことが全部わかる人はいません。それは神と対等ということです。そんな人はいません。人間は皆、ちっぽけで、神のなさることのごくわずかの部分がわかるに過ぎません。そして、それでよいのです。神に挑戦などすべきではありません。それは、神への高ぶりという大きな罪、高慢の罪になります。

 そこで、ヨブ記においても、神ご自身がヨブに直接語りかけ、神は、ヨブとは比べものにならない計り知れない偉大なお方であることを、堂々と自ら力強く教えます。38章から41章がそうです。38章4節を開きましょう。旧約聖書の826頁です。「わたしが大地を据えたときお前はどこにいたのか。知っていたというなら理解していることを言ってみよ」とあります。意味は、神が天地万物を創造したとき、ヨブはどこで何をしていたのか。神が天地万物を創造していることを見ていたのか。ヨブは神と同じく偉大なのか。それなら、神による天地万物の創造をどのように理解しているのか言ってみなさい、という意味です。

 これにより、ヨブは、神の御前にひれ伏し、自らが分を超えて高ぶりの罪を犯したことを悔い改めるのです。42章6節で「それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し 自分を退け、悔い改めます」と記されているとおりです。

 こうして、人生におけるヨブの大きな苦しみは終わりましたヨブは、正しい人、すなわち、神を信ずる者の人生にも、苦しみが生じる。しかし、なぜ生じるのかはわからない。また、わからなくてよい。信仰者であっても、神がなさることが全部わかるということはない。大切なことは、神が自分になさることが全部わかるということではなく、わからないことがあっても、愛と救いは変わらないということ確信して、なお、神を信頼し、ほめたたえ、忍耐し、神に助けを求めて歩んでいくことであるという根本真理を悟ったのです。

それで、ヨブの苦しみは終わり、42章12節から17節に記されているように、ヨブは、神から2倍の祝福を与えられました。また、息子たち、娘たちも生まれました。ヨブの妻も信仰を回復しきたと考えられますが、妻との間に、息子は前と同じように7人、娘も前と同じように3人、計10人の子供が与えられました。さらに、ヨブは、長生きの祝福も与えられました。苦しみに忍耐したヨブは、最後に、神から豊かな祝福を受けましたが、このことは、信仰によるは忍耐には神からの豊かな祝福が必ず与えられることを、読者に約束し、読者も、人生の苦しみがあっても忍耐することを教えているのです。

 こうして、人々は、旧約聖書のヨブ記からヨブの忍耐を教えられ、歩んだのですが、さらに、その後、忍耐の最高に素晴らしいこれ以上ないお手本が与えられました。それは、イエス・キリストの忍耐です。わたしたちの救いのため、十字架上で、計り知れない無限の苦しみを完璧に忍耐してくださったイエス・キリストのお手本が与えられたのです。

 それゆえ、クリスチャンは、ヨブの忍耐に教えられるとともに、キリストの忍耐にならって、人生における苦しみに忍耐して歩むことを学ぶのです。そして、クリスチャンは、聖霊の豊かな真実な働きにより、人生で出会うどのような苦しみも忍耐できるようにされています。聖霊は、クリスチャンが出会うどのような苦しみも忍耐させることがおできになるのです。

 そこで、1世紀の使徒パウロも、コリントの信徒への手紙一、1O章13節で、確信をもって堂々と、同時に、慰めの約束とともに次のように表明することができました。「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」。


結び


 以上のようにして、ヨブ記を見ますが、今日のわたしたちクリスチャンの人生においても、苦しみが生じます。そして、なぜ苦しみが生じるのかわかりません。でも、わたしたちがなすべきことは、神がなさることを何でもわかることではなく、わからなくても、神がわたしたちを愛して、キリストの犠牲によって救い、永遠の生命の道を歩ませてくださっていることは、何も変わらないことを覚え、さらに、神を信頼し、歩んでいくことです。わたしたちは弱い者ですけれども、霊なる神が忍耐の賜物を与えてくださり、苦しみを必ず乗り越えさせ、満ち溢れる豊かな祝福に至らせてくださることを固く信じ、21世紀の日本社会でキリスト教信仰をもってともに生きていきましょう。

          (日本キリスト改革派南浦和教会 2004年9月12日の説教)


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