安息日です

- マタイ福音書12:18 -

シャローム宣教会

 

[マタイ福音書12:78] 7 わたしはあわれみはむがいけにえはまない。』ということがどういう意味かをっていたらあなたがたはのないたちをめはしなかったでしょう8 安息日です。」

 

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マタイ福音書1112はイエスにするつまずきをした箇所ですつまずきの様相はさまざまです12では宗教指導者われるパリサイたち律法学者たちのつまずきそしてイエスの家族のつまずきのことがされています12マタイの福音書最初安息日にしたこと問題になりますユダヤ歴史じて安息日らの生活中心でしたなるみのにとどまらずなるとしてることに命懸けでした安息日がなければユダヤ存続せずユダヤ歴史消滅していたとわれているほどですユダヤの格言では安息日がイスラエルをったとありますそれほどにユダヤ安息日ってもれない関係にあります

 

マタイ福音書12:18では安息日麦畑りながらんだこと」、914では安息日にいやしのわざをったことがパリサイたちの糾弾とされていますそれにしてイエスはどうえたでしょうか今回前半部分(18)のみをげたいといます

イエスの奇蹟やたとえのみならずイエスのすべての行動にも御国奥義されていますイエスの言動はすべて御父のご計画とみこころにって行動していますですから121のイエスの行動とそれによってこってくるパリサイたちの糾弾イエスにとっては想定内のことなのですということはらの糾弾をあらかじめ見越したそれによって御国奥義らかにするための戦略的行動だったとえますそうした視点からていこうといます

 

1. 安息日麦畑られたイエス

 

[マタイ福音書12:12]1 そのころイエスは安息日麦畑られた弟子たちは空腹だったのでんでめた2 するとパリサイたちがそれをイエスにった。「なさいあなたの弟子たちが安息日にしてはならないことをしています。」

 

(1) そのころ

マタイ福音書12:1しく登場する語彙安息日だけでなく、「そのころ」「麦畑」「())もそうです。「そのころ新改訳2017検索すると8(新約)ヒットしますしかし原語てみると121そのころ原語表現されているのは141のみですギリシアではエン・エケイロー・トー・カイロー(Ἐν κεντκαιρῷ)ヘブルではバーエート・ハヒー(בָּעֵת הַהִיא)となっておりいずれもある特定時期意味するそのころなのですギリシア語原文では、「そのときに意味するエン・エケイノス(ἐν κενος)、「ある特別意味するホ・カイロス(ὁ καιρός)語彙わさった表現ですあるそのころちょうどそのしていますどのような意味においてそのころ=ちょうどそのなのでしょうかその示唆するつの意味えられます

 

最初意味、「コンテキストのにおいてです112830イエスの弟子たちにするきのことばられていましたここはマタイの福音書高価真珠われている箇所ですがその内容御国において約束されている安息についてでしたそれをるためにイエスのもとになさいとびかけられました安息はイエスとくびきをともにすることをぶことで保証されるというものでした。「イエスとともにするくびきれることなく重荷ともならずむしろ心地よさしさしさ安息のくびきですそのテーマが展開されるにふさわしい契機となる出来事こることを示唆しています

 

、「立穂(たちほ)(カーマーקָמָה)つまり生長して状態になっている時期意味します。「カーマー(קָמָה)語源となる動詞意味するクーム(קוּם)約束成就するという意味まれていることからそれと安息日がどう関係するのかそれがらかにされる契機としての出来事こることを示唆していますつまりそれはわりのづき御国れの時期づくにつれ御国奥義はますますいがかれていくことを示唆しているとわれますイエスが来臨されて御国づいた宣教開始されたからすでにそれはまっているのです

 

(2) 「立穂時期安息日麦畑られた

原文麦畑意味するスポリモス(σπορμος)複数形となっていて、「々の麦畑という意味になります。「麦畑大麦なのか小麦なのかは明白ではありませんしまた麦畑のヘブルカーマー(קָמָה)てられていますが並行記事のマルコ223麦畑サーデ(שָׂדֶה)てられていますって瞑想内容わってくるかもしれませんいずれにしてもイエスが麦畑られたそのころとは立穂時期この時期のある安息日(原文には冠詞があります)イエスとその弟子たちが麦畑られ」、「んでめたことが問題となっています

 

モーセの律法にこうあります

[エジプト31:1415] 14 あなたがたはこの安息らなければならないこれはあなたがたにとってなるものだからであるこれをされなければならないこの安息中仕事をするはだれでも自分からられる15 六日間仕事をするしかし七日目なる安息である安息日仕事をするだれでもされなければならない。」

 

当時のユダヤ安息日なるとしていかなる労働もしないというえをるためにくのめをっていました安息日距離さえもめられていました(使徒1:12)おそらく安息日々の麦畑られたということも違反行為とみなされたとわれますがパリサイたちが問題にしたのはイエスの弟子たちの安息日にしてはならないことこと単数であることから、「んだことを問題にしたとわれますユダヤ安息日食事らないように安息日食事準備をすることになっていましたところがイエスとその弟子たちはそれができなかったようですそのえはされていませんがえられることはただ、「わたしのるまでいておられますですからわたしもいています。」(ヨハネ5:17)というイエスのことばです々のにはイエスが安息日っているえたのですイエスの公生涯のすべてはみがありませんでした。「にはがありにはがあるがにはするところもありません。」(マタイ8:20)われているりです。「とはイエスが自分のことをわす称号です

 

(3) 弟子たちは空腹だったのでんでめた

弟子たちもであるイエスにっていたわけですからみなどなかったのではないかとわれますそのために空腹ることはしばしばで麦畑りながらんでたしたとわれますそしてその安息日であったことから、「んだことがパリサイたちに仕事とみなされそのことがあなたの弟子たちが安息日にしてはならないことをしています糾弾されたのですこれはイエスにとって想定外のことではなく想定内のことであったとわれます

 

1にある弟子たちは空腹だったのでんでべたとありますがこの行為御国視点からするときわめて預言的ですというのも、「空腹になる空腹えるという言葉ペイナオー(πεινάω)におくという意味だけでなく肉体的霊的という意味にもなりますこの語彙はすでにマタイ4256にあります

 

前者(マタイ4:2)ペイナオー(πεινάω)はイエスの空腹文字通イエスは40日間断食によって空腹えられましたそれはサタンの誘惑する機会となりましたがその誘惑をイエスはかすのはからつひとつのことばであるって退けています支配するサタンは空腹というれで支配しようとしますが御国においてはイエスがからることばによってかして支配するのです後者(5:6)ペイナオー(πεινάω)御国霊的空腹ですそれをいですそのたちはりるからです。」としています御国ではしいからだがえられるため空腹になったりいたりすることはありませんむしろたされます

 

*「弟子たちは空腹だったのでんでべたとありますが、「んで(って)されるととてもやかなじをけますがギリシア語原文ではむしり(ティッロー」τίλλω)という意味空腹きが尋常でなかったことを想像させますはパンの原料となるものですからのことばの象徴です

 

イエスの空腹弟子たちの空腹のことがされていますが群衆空腹のこともされています

[マタイ福音書15:32] イエスは弟子たちをんでわれた。「かわいそうにこの群衆はすでに三日間わたしとともにいてべるっていないのです空腹のままらせたくはありません途中けなくなるといけないから

 

イエスはつのパンと二匹らの空腹たしました。「つのパンと二匹とはユダヤ聖書(タナフ)のことでたちの旧約聖書のことですいずれにしても、「つのパンと二匹とはのことばの象徴でありそれによって群衆空腹たす奇蹟御国のたとえとなっているのです御国にとっての食物とはのことばだからですそれはべてたされてもなおりあるほどでしてなくなることはないのですイエスがなるメシアであることをこの出来事によって証言しているのです

 

イエスの行動戦略的ですつまりパリサイたちの非難となることをっていて、「安息日麦畑られたのだとわれますまた弟子たちが空腹だったのでんでめたことも一見偶然のようにみえますが必然なのですイエスの戦略行動のすべては御国におけるのご計画とみこころどおりなのですなぜならイエスはわたしが律法預言者廃棄するためにってはなりません廃棄するためではなく成就するためにたのです(マタイ5:17)とありその成就とはゆがめられてしまった律法本来意味回復することにあったからです

 

この出来事契機となって、「安息日ですという真理される結果となっていますこれはパリサイたちにとってくべき発言だったのですがそこにるまでのプロセスをこれからていきたいといます

 

2. あなたがたはんだことがないのですか

 

[マタイ福音書12:36] 3 しかしイエスはわれた。「ダビデとたちが空腹になったときにダビデがをしたか4 どのようにして祭司以外自分たちもべてはならない臨在のパンをべたかんだことがないのですか5 また安息日にいる祭司たちは安息日してもれるということを律法んだことがないのですか6 あなたがたにいますがここによりもいなるものがあります。」

 

弟子たちの行為糾弾するパリサイたちにするイエスの弁明注意けたいといますイエスは聖書(旧約聖書)からつの出来事げてらにんだことがないのですか。」詰問しています聖書専門家われて自分たちもそうっているパリサイたちにしてイエスのんだことがないのですかという二度質問律法専門家としてのらのプライドをつけたといます最初質問箇所サムエル21:16のことであり質問箇所律法とありますから民数記28:9~10されています

 

(1) サムエル21:1~6

[サムエル21:16] 1 ダビデはノブの祭司アヒメレクのところにアヒメレクはえながらダビデをえてった。「なぜ一人だれもおがいないのですか。」 2 ダビデは祭司アヒメレクにった。「あることをじて、『おまえをわしおまえにじたことについてはらせてはならないわれましたたちとはしかじかの場所うことにしています3 もとにかあったらパンつでもあるさい。」 4 祭司はダビデにえてった。「もとには普通のパンはありませんですがもしたちがたちからざけているなら聖別されたパンはあります。」 5 ダビデは祭司えてった。「実際以前戦いにったときとじようにたちはたちからざけられていますたちのからだは聖別されています普通でもそうですからまして今日らのからだは聖別されています。」 6 祭司聖別されたパンをえたそこにはかいパンとえるためにそのからげられた臨在のパン(改定第三版ではえのパンされていた)しかなかったからである。」

 

イエスはパリサイたちにダビデとたちが空腹になったときにダビデがをしたかどのようにして祭司以外自分たちもべてはならない臨在のパンをべたかんだことがないのですか。」という真意について質問していますこのテキストのには安息日ということばこそありませんがダビデが祭司アヒメレクからパンをった安息日であることがかりますなぜならそれは安息日ごとにいパンはげられしいパンにえられていたからです律法ではいパンは祭司だけがべることをされていましたしかし緊急事態には安息日にはされないこともされるということですしたがって糾弾にはしないということなのですましてやイエスの弁明はここにダビデにまさるがいるということがされてられています

 

ダビデとイエスがねられてっていますがイエスと弟子たちにとって緊急事態とはいったいどんなでしょうかそれはイエスがめなさい御国づいたからって宣教開始されたから復活るまでではないでしょうかこれ以外緊急事態はありません

 

(2) 民数記28:910 

[民数記28:910] 9 安息日にはのない一歳子羊二匹穀物のささげとしてぜた小麦粉十分エパとそれにえるぎのささげ10 これは安息日ごとの全焼のささげ常供全焼のささげとそれにえるぎのささげえられる。」

 

祭司以外にとって安息日仕事ですが祭司神殿において仕事をするです神殿における祭司たちはえのパン(臨在のパン)用意したりえたり々のささげものを準備します教会牧師礼拝前日には説教準備があり礼拝日しいとなっていますらがそのらにえられた仕事をしたからといってらをめることはできないはずです唯一神殿祭司たちは安息日規定拘束されなかったのですなぜなららがかなければ礼拝たないからです神殿にいる祭司たちが安息日られないのであれば当然よりきなであるイエスは安息日規定制限されることはないというのがイエスの弁明でした

 

3. 安息日です

 

安息日ですという真理7われていることを理解したいといます

[マタイ福音書12:7] わたしがびとするのは真実いけにえではないとはどういう意味かをっていたらあなたがたはのないたちを不義めはしなかったでしょう。」

 

ここに引用されているのは旧約聖書ホセア66ですはマタイ913にも御言葉引用がなされていましたこの御言葉引用することでイエスはご自分弟子たちを弁護されたのですんでおられることは完全って功績げることではなくびとする真実(ヘセドחֶסֶד)すことなのですパリサイ々はこの欠如していましたらは律法教師であると自認しながら律法大切精神理解せずそのことに盲目だったのです

 

ちなみに、【新改訳2017では真実されていますが口語訳ではいつくしみ」、新改訳改定第三版では誠実」、新共同訳・フランシスコ会訳」、聖書協会共同訳しみされています

 

イエスが幼子たち(弟子たち)りかけたマタイにおける高価真珠もう一度思こしましょう

新改訳2017[マタイ福音書11:2830] 28 すべてれた重荷っているはわたしのもとになさいわたしがあなたがたをませてあげます29 わたしは柔和でへりくだっているからあなたがたもわたしのくびきをってわたしからびなさいそうすればたましいにらぎをます30 わたしのくびきはいやすくわたしのいからです。」

 

この御言葉意味するのかその実際12具体的展開しているのですパリサイ律法規則命令禁止義務えてしまいそれによって々を拘束れさせ重荷わせていましたそうしたったトーラー()から々を解放してませそして永遠安息えるためにイエスはられましたそしてイエスはわたしのもとになさい」、「わたしのくびきをってわたしからびなさいいています

 

最後8安息日です。」という決定的発言についてびましょうにもったように、「とはイエスご自身ですイエスはご自分のことをいました人間という意味ではありません。「安息日という意味、「すべての永遠安息れるのはわたし自身なのだという意味、「安息日にすべきことを決定するのはわたし自身なのだという意味められていますそれはイエスこそ安息日創造したでありイエスにとっては毎日安息日だったからですこのことはパリサイたちおよび律法学者にとっては不可解だけでなく冒涜するものとしてったはずですらは安息日完全ればメシアがられるとじていたからです安息日らにとっていかに重要であったか安息日いがそのことをしています

 

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