十字架につけられたイエス(3)
- マタイの福音書27:45~46 -
シャローム宣教会
[マタイの福音書27:45~46] 「45 さて、十二時から午後三時まで闇が全地をおおった。46 三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。」
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*マタイの福音書の特徴は、御子イエスにおいて預言が成就したことを、ことさらに強調している点にあります。つまり、「このすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことが、成就するためであった」(1:22, 2:15, 13:35, 21:4)ということです。聖書の預言は、「預言書」(ネヴィーイーム)だけにあるのではなく、聖書全体が預言書と言えます。創世記1章1節は聖書全体の表題(タイトル)ですが、実はこの表題も預言なのです。今回取り上げることになる詩篇は多くの預言が含まれています。ちなみに、詩篇の作者の一人であったダビデのことを使徒ペテロは「彼は預言者でした」と述べています(使徒2:30)。人が知ろうが知るまいが、神である主が預言者たちを通して語られたことが御子イエスにおいて必ず成就するということ、マタイが強調しようとしたことはその点なのです。
*「この終わりの時には、御子にあって私たちに語られました」(ヘブル1:2)とあります。その意味は、神が世界の基が据えられたときから隠されているご計画を、御子イェシュアの語ることば(=たとえ)を通して、またすべての行為(わざ)を通して成就し、そして彼を取り巻くすべての状況さえもがあらかじめ語られたことの成就であるということなのです。神のご計画のシナリオは極めて緻密であり、用意周到であり、その知恵と知識は計り知れないほどに奥深いのです。今回は、「三時間にもおよぶ『闇』が全地をおおった」ことと、イェシュアが十字架上で語ったことばー「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てなったのですか。」―に触れたいと思います。イェシュアが十字架上で語った七つのことばのうちの一つだけをマタイは記しています。今日のテキストは以下の箇所のみです。
[マタイの福音書27:45~46]、本文
1. 闇が全地をおおった
*「十二時から午後三時まで」(ヘブル時刻の「第六時から第九時まで」)の三時間、闇が全地をおおったことが記されています。十字架上の前半の三時間は取り巻く人々によってイエスはののしられましたが、後半の三時間は、神によって闇の中にイエスは据え置かれたのです。三時間の「三」という数と「闇」という言葉、そしてそれが「全地をおおった」という出来事。そのあとに、イエスの嘆きの極みの叫びが静寂を突き破ります。
(1) 「三」という数は神の必然的確約数
*「三」という数字は、神のご計画においてなくてはならない必然的・確約的出来事を意味します。たとえばイエスが「三日目によみがえらなければならない」という出来事がそうです。「三」という数が神のご計画の中において必然的な出来事を物語っているのです。今回の「十二時から午後三時まで」と表現された「三時間」の「三」も神のご計画にある必然性を示しています。そこでは「闇が全地をおおった」とありますが、それは神のわざが現わされるためなのです。ホセアもそのことを以下のように預言しています(ホセア書6:1~2)。
[ホセア書6:1~2] 「1 さあ、主に立ち返ろう。主は私たちを引き裂いたが、また、癒やし、私たちを打ったが、包んでくださるからだ。2 主は二日の後に私たちを生き返らせ、三日目に立ち上がらせてくださる。私たちは御前に生きる。」
(2) 「闇」と訳された「ホーシェフ」(חֹשֶׁךְ)が全地をおおった
*御子イエスが十字架にかけられた午前九時から正午までは、イエスに対する嘲りとののしりのことばが浴びせられました。ところが、正午になるとあたりが急に真っ暗になり、闇が全地を三時間にわたっておおったのです。これは空が暗くなったということではなく、闇が全地をおおったことを意味しています。
*「闇」という語彙の初出箇所は、創世記1章2節にある「地は茫漠として何もなく、闇が大水の面の上にあり」の「闇」です。「闇」である「ホーシェフ」(חֹשֶׁךְ)は「光」である「オール」(אוֹר)と対立する概念です。創世記の「光」は光源としての光でなく、「神のご計画とみこころ、みむねと目的」を意味します。「生まれつきの盲人」(ヨハネ9:1)は、まさに「闇」そのものです。しかし、彼がそのように生まれたのは、「神のわざがこの人に現わされるため」とイエスは言われました。同様に、全地が闇でおおわれたのは、神のわざが全地に及ぶことを啓示する終末的預言なのです。それゆえに神がそのようにしたのです。
*イエスが「死に向かっている姿」と「闇が全地をおおっている」状況が重なっています。これは「終わりの日」「主の日」における闇の支配を啓示しているのですが、エジプトでその「型」となる出来事が起こっています。
[出エジプト記10:22~23] 「22 モーセが天に向けて手を伸ばすと、エジプト全土は三日間、真っ暗闇となった。23 人々は三日間、互いに見ることも、自分のいる場所から立つこともできなかった。しかし、イスラエルの子らのすべてには、住んでいる所に光があった。」
*神の民がメシアによって解放される日が来る前に、必ず闇の支配が地を覆うことが起こるということを預言的に啓示しているのです。多くの人々が将来に何らかの希望を持っています。希望がなければ人は生きることができないからです。しかし聖書によれば、これからの時代がますます明るくなるような時代にはなっていかないことを教えています。むしろその反対で、特に、キリストの再臨が近くなればなるほど、未曾有の苦難が起こることを聖書は告げています。黄昏を越えて、夕から夜中の闇に向かっていく時代になるからです。ですから、神以外に望みを置いているとすれば、その希望は必ず失望に終わるのです。ところが、かつてエジプトでは、「人々は三日間、互いに見ることも、自分のいる場所から立つこともできなかった。しかし、イスラエルの子らのすべてには、住んでいる所に光があった」とあるように、未曾有の闇が支配したとしても、神を信じる者たちには失われることのない「希望の光」があるのです。闇の訪れとそこにある希望についての聖書の預言を見てみたいと思います。
① [ヨエル書2:1〜2] 「1 「シオンで角笛を吹き鳴らし、わたしの聖なる山でときの声をあげよ。」 地に住むすべての者は、恐れおののけ。主の日が来るからだ。その日は近い。2 それは闇と暗闇の日。雲と暗黒の日。数が多く、力の強い民が、暁とともに山々の上に進んで来る。このようなことは、昔から起こったことがなく、これから後、代々の時代までも再び起こることはない。」
② [ヨエル書2:31〜32] 「31 主の大いなる恐るべき日が来る前に、太陽は闇に、月は血に変わる。32 しかし、主の御名を呼び求める者はみな救われる。」
*以上のことから、イエスが⼗字架にかかっているその⽇の正午から三時間襲った「暗やみ」―「闇」を意味する「ホーシェフ」(חֹשֶׁךְ)が全地を覆ったことは、キリストの再臨の前に必ず起こらなければならない必然的かつ確約的な出来事なのです。それが「三」という数に表されているのです。
*マタイはイエスが息を引き取られた後に起こった超自然的な出来事を記していますが、これについては、次回で取り上げます。今回は、十字架上でイエスが語られた一つのことばに注目してみたいと思います。
2. イエスの叫び
*46節「三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。」
※なぜ46節のことばが詩篇22篇(原文)と異なっているのかと言えば、ギリシア語をそのまま音訳しているからです。アラム語だからではありません。イエスはヘブル語で語っているのです。
*詩篇22篇1節は「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」に続いて、新改訳2017では「私を救わず遠く離れておられるのですか。私のうめきのことばにもかかわらず。」と訳されています。原文は「私の救いから遠く」、「私の叫びのことば」という構文になっています。動詞は一つ「あなたは私を見捨てた」を意味する「アザヴターニー」(עֲזַבְתָּנִי)しかないので、後の名詞の部分の意味が通じるように意訳されています。重要なのは「なぜ、どうして」を意味する「ラーマー」(לָמָה)があることです。このことばがある限り、神に対する信頼の糸は切れてはいないことを物語っています。信頼の糸が切れる時、このことばは出てきません。
*とはいえ、ここには神から見捨てられたメシアが示されています。この詩篇22篇はメシアの全体像を知る上できわめて重要な詩篇であり、多くの時間をかけて学ぶべき価値のある詩篇と言えます。なぜなら、この詩篇の中に、イエスの生涯、そして十字架による受難(身代わりの死)と復活、およびイエスが王として再臨して実現される千年王国(メシア王国)における数々のことが預言され、啓示されているからです。この詩篇22篇全体が、神に見捨てられたイエスと、神のみこころを完遂するイエスを同時に見ることができるのです。イエスがこの詩篇の冒頭のことばを叫んだということは、この詩篇の全体を知って叫び、そして祈っているのです。これほどはっきりと二つに分かれている詩篇はないと思います。前半(1節~21節)の内容は嘆きであり、後半(22節~31節)の内容は賛美と感謝です。この連結部分は21節の後半で、「あなたは私に答えてくださった」(「アニーターニー」עֲנִיתָנִי)ということばが置かれています。1節では「あなたは私をお見捨てになった」(「アザヴターニー」עֲזַבְתָּנִי)となっているのに、22節では「あなたは私に答えてくださった」となっているのです。このことばを契機に暗闇に光が差し込み、嘆きから賛美に転換するのです。まさに「夕があり、朝があった」です。
*「暁の雌鹿」(「アッイェレット・ハッシャハル」אַיֶּלֶת הַשַּׁחַר)の調べに合わせて歌われる「わが神、わが神。どうして私をお見捨てになったのですか。」で始まる詩篇22篇は、イエスの十字架の姿を想起させます。それは「美しい子鹿」を産むための「雌鹿の苦しみの叫び」なのです。「暁」と訳された定冠詞付きの「ハッシャハル」(הַשַּׁחַר)は、「メシアにある希望の夜明け」を意味しています。黄昏ではなく、夜明けをもたらすためにメシアである神のひとり子が私たちの身代わりとして神に捨てられたのです。その理由は「最初のアダム」を終結させ、「最後のアダム」(第二の人)による新しい人としての創造がもたらされるためなのです。イエスはゲツセマネにおいて、「わが父よ。わたしが飲まなければこの杯が過ぎ去らないのであれば、あなたのみこころがなりますように」と三度、祈られて、それから敢然と十字架に向かわれました。その最大の苦しみがこの「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という叫びだったのです。
[ヘブル人への手紙5:7~10] 「7 キリストは、肉体をもって生きている間、自分を死から救い出すことができる方に向かって、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ、その敬虔のゆえに聞き入れられました。8 キリストは御子であられるのに、お受けになった様々な苦しみによって従順を学び、9 完全な者とされ、ご自分に従うすべての人にとって永遠の救いの源となり、10 メルキゼデクの例に倣い、神によって大祭司と呼ばれました。」
(1) メシアについての修辞的表現
*この詩篇22篇には、メシア称号としての「私」について独自の修辞的表現があります。ここでは二つを取り上げます。
① 「雌鹿」
*ひとつは「雌鹿」(「アッヤーラー」אַיָּלָה)という比喩です。詩篇22篇の表題にある「暁の雌鹿」(「アッイェレット・ハッシャハル」אַיֶּלֶת הַשַּׁחַר)という表現はこの詩篇にしかありません。神に受け入れられるきよい動物は、家畜では「牛、羊、やぎ」(レビ1章)。野生では「鹿」の類です(申命記14:5)。聖書には多くの種類の「鹿」について記述されていますが、科目としては「ウシ科」です。いずれにしても、これらに共通する点は「反芻する」「ひづめが分かれている」こと(レビ11章)、そして「草食」だということです。ですから詩篇22篇にある「雌鹿」は神に受け入れられるきよい動物なのです。雅歌では「愛する人」のことを「雌鹿」「かもしか」「若い鹿」にたとえています(雅歌2:7, 3:5, 8:14)。この詩篇がメシア詩篇であることを考えるならば、ここでの「雌鹿」は御父から最も愛された御子を啓示している表象と言えます。
② 「虫けら」
*詩篇22:6に「私は虫けらです」(「アーノーヒー・トーラアット」אָנֹכִי תוֹלַעַת)というフレーズがあります。とても人とは思えない人間の屑、恥辱を意味します。この姿はイザヤ書53章2~3節の「彼には見るべき姿も輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない。彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、・・人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。」の箇所を想起させます。嘲(あざけ)られ、罵(ののし)られるイエスの姿を十字架において見ることができます。
+[詩篇22:6~21]、指揮者のために。「暁の雌鹿」の調べにのせて。ダビデの賛歌。
(2) メシアを取り巻く者たちの比喩
*詩篇22篇ではこの「雌鹿」「虫けら」ともいうべき「私」が、四つの動物によって取り囲まれています。これらの動物は「力の強いもの」の比喩として用いられています。その四つの動物とは「雄牛」「野牛」「犬」「獅子」です。「雌鹿」「虫けら」が単数であるのに対して、「獅子」(「アルイェー」אַרְיֵה)を除いた残りの三つの動物、「雄牛」(「パーリーム」פָּרִים)、「野牛」(「レーミーム」רֵמִים)、「犬」(「ケラーヴィーム」כְּלָבִים)はすべて複数形です。
① 「雄牛」
*イスラエルの指導者たちをたとえていると考えられます。彼らはイエスを捕らえて、不当な裁判を行ない、群衆を先導しローマの総督ピラトを脅して十字架へと追いやりました。
② 「野牛」
*「十字架につけろ」と一斉にわめき叫んだ群集たちを指していると考えられます。
③ 「犬」
*「犬」ということばは16節と20節に出てきますが、前者は「犬ども」で複数です。後者は「犬の手」と単数です。本来、ユダヤ人が「犬」という言い方をするのは「異邦人」に対してです。そのことを考えると、複数は「ローマの兵士たち」を指し、単数は「ローマ総督ピラト」を指すと考えられます。
④ 「獅子」
*13節には「ほえたける獅子」、21節には「獅子の口」という表現があります。「獅子」(「アルイェー」אַרְיֵה)は、いずれも単数で使われています。ここでの「獅子」はメシアを真似るサタンを表わす暗喩です。サタンは十字架において最大の攻撃をキリストに向けます。しかし「雌鹿」であり、「虫けら」である「私」が指し示す神の御子イエスを倒すことは決してできませんでした。
3. 「答えてくださいません」から「答えてくださいました」へ
+ [詩篇22:21~31]
*詩篇22篇は大きく二つの部分に分かれます。前半が「神に見捨てられた私」であるとすれば、後半は「神に受け入れられた私」と言えます。その変わり目の部分が21節後半の「あなたは私に答えてくださいました」と訳されたフレーズ「アニーターニー」(עֲנִיתָנִי)です。2人称男性単数完了形で書かれており、預言的完了形です。それゆえに「私はあなたの御名を兄弟たちに語り告げ 会衆の中であなたを賛美します」という意志につながり、その結果として「私の兄弟たち」、すなわち、多くの会衆(教会)に御名が伝えられ、「イスラエルのすべての裔(すえ)」に対しても、そして地の果てにまでもその出来事の祝福が伝えられることになります。ここには、教会の誕生が示唆され、ヤコブ(全イスラエル)の主への立ち返り、そしてそれが実現したメシア王国(千年王国)にまで、主の答えとしての祝福の射程が啓示されているのです。
4. 「雌鹿」「虫けら」としての「私」が神に見捨てられるべき理由と目的
*エマオの村に向かう途上の二人の弟子に現われたイエスは、失望している彼らに次のように語られました。
[ルカの福音書24:25~27] 「25 そこでイエスは彼らに言われた。「ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。26 キリストは必ずそのような苦しみを受け、それから、その栄光に入るはずだったのではありませんか。」 27 それからイエスは、モーセやすべての預言者たちから始めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに説き明かされた。」
*イエスが聖書全体からどのように説き明かされたのかは記されていませんが、メシアの苦しみの理由と目的については、ヘブル人への手紙2:9~10に以下のように記されています。
[ヘブル人への手紙2:9~10] 「9 ・・イエスは死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠を受けられました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。10 多くの子たちを栄光に導くために、彼らの救いの創始者を多くの苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の存在の目的であり、また原因でもある神に、ふさわしいことであったのです。」
*詩篇22篇の中にある「私」で表わされているイエス・メシアの苦しみの叫びは、彼を通して成し遂げられる神の最終目的と結びつけて理解される必要があります。御子イエスが神から捨てられるという苦しみによって、古きもの(最初のアダム)を廃棄し、神が天地創造の前からあらかじめ備えられていた「最後のアダム」とその兄弟という新しいかかわりを成就する、というのが神の壮大なご計画なのです。永遠に神と人とが共に一つとなって住むという「キリストにあるエハード」(אֶחָד)に、私たちの心の目がしっかりと向けられて行きますように。
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