イエスの復活顕現(2)

- ルカ福音書24:1335 -

シャローム宣教会 


[ルカ福音書24:1327] 13 ちょうどこのふたりの弟子エルサレムから十一キロメートルれたエマオという途中であった14 そしてふたりでこのいっさいの出来事についてっていた15 ったりったりしているうちにイエスご自身づいてらとともにいておられた16 しかしふたりのはさえぎられていてイエスだとはわからなかった17 イエスはらにわれた。「きながらふたりでっているそののことですか。」するとふたりはつきになってまった18 クレオパというほうがえてった。「エルサレムにいながらごろそこでこったあなただけがらなかったのですか。」 19 イエスが、「どんなですか。」かれるとふたりはえた。「ナザレイエスのことですこのとすべてのないにもことばにものある預言者でした20 それなのにたちの祭司長指導者たちはこのして死刑十字架につけたのです21 しかしたちはこのこそイスラエルをってくださるはずだみをかけていました事実そればかりでなくそのがあってから三日目になりますが22 また仲間たちがたちをかせましたそのたちは朝早ってみましたが23 イエスのからだが見当たらないのでってましたそして御使いたちのたが御使いたちがイエスはきておられるとげたうのです24 それで仲間何人かがってみたのですがはたしてたちのったとおりでイエスさまは見当たらなかったというのです。」 25 するとイエスはわれた。「ああかなたち預言者たちのったすべてをじないたち26 キリストはそのようなしみをけてそれから栄光にはいるはずではなかったのですか。」 27 それからイエスはモーセおよびすべての預言者からめて聖書全体自分についていてあるがらをらにかされた

 

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ルカの福音書24つの部分から構成されていますそれはそれぞれがイエスの復活事実する説明られています

(1) れたたちにわれた二人御使いの説明

(2) エマオへの途上弟子たちにわれたイエスの説明

(3) 十一使徒たちにわれたイエスの説明

 

*「イエスの復活顕現第二として、「エマオの途上にある二人弟子われたイエスご自身説明について注目してみたいといます

 

1. がさえぎられていた二人弟子

 

イエスの弟子として自分であるエマオに二人登場しますらはイエスの十字架出来事三日後女性たちがってみるとイエスの姿はなかったものの御使いたちがイエスがきておられるということをげたことをイエスの弟子たちのいるところにまでったことそれをいた弟子たちの何人かがって確認したところたちがったことは本当であったということまでをっていましたイエスが復活された夕方にイエスは弟子たちのところにわれているので(ヨハネ20:19)そのイエスはエマオへとかう二人弟子たちにわれたとえることができますそしてイエスは夕刻食卓から姿しています

 

復活されたイエスが二人弟子われたときどうしてらがイエスだとからなかったのかという疑問ですその疑問マルコの福音書平行記事16にある情報からくことができますそれはイエスが姿でご自分わされた(16:12)からです興味深いことにヨハネの福音書では復活のイエスは最初にマグダラのマリヤにご自身わされましたがマリヤは復活されたイエスを実際にした管理人だとったとありますしかしイエスがマリヤにしてマリヤをかけたそのマリヤはイエスだとかったとあります(ヨハネ20:1416)

 

ですから復活されたイエスの姿以前姿ではなく、「姿であったことがかりますマルコの姿とはどんな姿だったのでしょうか聖書には説明もなされていませんがめられていたにもかかわらずスーッとってられる霊的身体をもっておられただけでなく以前見慣れた面影とはなっていたということがえます

 

ところがルカはなぜからのがさえぎられていてイエスだとはわからなかった(ルカ24:16)しているのですルカはここでらかに風貌だけではなくより次元っているようにえます。「()さえぎられてされているギリシャクラテオー」κρατεω受動態未完了形です。「クラテオー名詞クラトス」κράτος、「支配力統治力語彙ですですからルカはここであるによって支配され」、その状態がずっと継続していることを意味する未完了形使われていますつまりであるサタンの霊的によって支配されている状態(保持)意味しますそれゆえ二人弟子イエスだとからなかったとルカは解釈していますそのことを使徒パウロの表現りてうならば、「この不信者いをくらませるいをかけて福音かせないようにしている状態意味します(コリント第二4:34)

 

それゆえエマオの二人弟子イエスだとわかったということはらをっていた霊的から解放されたことを意味しますらもイエスのした行為(食事でパンをって祝福それをいてすという行為)、「イエスだとかったとありますからイエスの風貌のものとはなっていたことが推測されます

 

二人弟子たちはイエスのした行為のみならずイエスが聖書説明してくださったことでのうちがやされたという経験かれる要因であったようです(ルカ24:35)

 

2. 聖書かされたイエス

 

ルカはこのこの福音書をローマ高官であったテオピロにてていていますそのためにルカはさまざまな資料綿密調しかも順序立てていていまがその目的とするところはテオピロがすでにえをけられたがらが正確事実であることをよくかってもらうためでした(ルカ1:34)それゆえイエスの復活出来事正確事実であることをかってもらうようにルカが工夫しているのです

 

第一工夫では、「れたたちにわれた二人御使いの説明によってでしたそこではイエスが生前っていたことすなわちイエスはエルサレムにおいてえられしめられされるそして三日目によみがえるということをさせることが強調されていますイエスがからよみがえられるということはイエスご自身がこれまで何度っていたのですそのことを想起させていますそして彼女たちはそのことをしたのです

 

第二(つまり今回箇所)では、「()かれること強調されていますそのために復活のイエスはらにキリストはしみをけてそれから栄光という必然性聖書全体してされたのです

 

*「キリストはしみをけてそれから栄光という必然性聖書(旧約聖書)をもってかすことをこの二人弟子はこれまでいたことがなかったのかもしれませんイエスはおそらく旧約聖書のメシアにする箇所からへと引用しながらしかもそれらを密接関連づけながら々とのご計画秘密かしていったのですそれができる背景には聖書事柄られているという前提がありますですからそれらがある視点からわされ関連づけられることによってそれまではえていなかったことがえるようになりますそれまでバラバラであった聖書知識つのぐようにわされますみことばがかされるということはそのような意味なのですみことばがかされることによって々が心燃ゆる経験をするのですですから二人弟子たちは感動をもって、「々おになっているたちのえていたではないかうことが出来たのです

 

二人弟子える経験をしたのですでに目的地いてもさらによりもっときたいと(イエスを)自分たちのまるように無理ったのでしたイエスはもっとくに様子であったとあるのはイエスの戦術ですもし弟子たちの関心希薄であればそれまでのことでイエスはってかれたはずですしかし弟子たちが聖書わんとすることをよりしく理解しようとしてめようとするさえぎられていたかれるのですこれは奇蹟的です

 

二人弟子たちはイエスにまってさい無理めました原文ではたちとまってさいとなっていますここで重要なことは弟子たちの自発性です。「まるということばはどとまるといういられますギリシアメノー」μενωヨハネの福音書のキーワードですそれはとのしいかかわりをつことを意味していますみことばがかされて心燃える経験聖霊のみわざです

 

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霊的かれなくてはイエスの復活事実確信することはできませんそれゆえ詩篇119作者ったようにります

[詩篇 119:18] いてくださいあなたのみおしえのうちにあるしいことに

めるようにしてください。」

 

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