慰めに満ちた神
- Ⅱコリント1:3-10 -
[Ⅱコリント1:3-11] 3. 私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように。4. 神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。5. それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。6. もし私たちが苦しみに会うなら、それはあなたがたの慰めと救いのためです。もし私たちが慰めを受けるなら、それもあなたがたの慰めのためで、その慰めは、私たちが受けている苦難と同じ苦難に耐え抜く力をあなたがたに与えるのです。7. 私たちがあなたがたについて抱いている望みは、動くことがありません。なぜなら、あなたがたが私たちと苦しみをともにしているように、慰めをもともにしていることを、私たちは知っているからです。
8. 兄弟たちよ。私たちがアジヤで会った苦しみについて、ぜひ知っておいてください。私たちは、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、ついにいのちさえも危くなり、9. ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。10. ところが神は、これほどの大きな死の危険から、私たちを救い出してくださいました。また将来も救い出してくださいます。なおも救い出してくださるという望みを、私たちはこの神に置いているのです。11. あなたがたも祈りによって、私たちを助けて協力してくださるでしょう。それは、多くの人々の祈りにより私たちに与えられた恵みについて、多くの人々が感謝をささげるようになるためです。
1. 「慰め」とは
●3~7節に「慰める」「慰め」という言葉が繰り返されています。動詞「パラカレオー」(παρακαλέω)が4回。名詞「パラカレーシス」(παράκλησις)が6回です。
●ヘブル語にすると動詞「慰める」は「ナーハム」(נָחַם),名詞「慰め」は「ネハーマー」(נֶחָמָה)です。特に、「ナーハム」(נָחַם)の初出箇所は創世記5章29節です。
[創世記5章29節] 彼はその子をノアと名づけて言った。「この子は、【主】がのろわれたこの地での、私たちの働きと手の労苦から、私たちを慰めてくれるだろう。」
●「彼」とはノアの父レメクで、「この子は、【主】がのろわれたこの地での、私たちの働きと手の労苦から、私たちを慰めてくれるだろう。」と言って、自分の子を「ノア」(נֹחַ)と名付けました。「ノア」は「慰め」の存在なのです。
●レメクは⽗メトシェラを通して、神のさばきがやがて来ることを知っていました。 ⼈間の罪深さが神を怒らせ、そのさばきが免れ得ないことを知ったレメクは、⾃分の息⼦をノアと名付けました。なぜならそこに神の慰めを⾒出したからです。⽗レメクが⾃分の息⼦の名前を「ノア」としたのは、「主が この地をのろわれたゆえに、私たちの働きと⼿の労苦から、私たちを慰めてくれるだろう」と⼀縷の望みを息⼦のうちに⾒たからです。これは、イスラエルの救いを待ち望んできた⽼シメオンがエルサレムで幼⼦のイェシュアを抱いた時、そこに救いの全貌を目にしたのと似ています。つまりレメクは、地上の環境が暴虐に満ちていたとしても、そこに神の慰めを待望する信仰をもった⼈物の代表と⾔えます。
2. 苦難と慰め = 「苦難に耐え抜く力」
●「慰め」と「苦難」は密接な関係を持っています。イスラエルの慰めを待ち望んでいた老シメオンが両親を祝して、「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れたり立ち上がったりするために定められ、また、人々の反対にあうしるしとして定められています。あなた自身の心さえも、剣が刺し貫くことになります。それは多くの人の心のうちの思いが、あらわになるためです。」(ルカ2:34~35)と母マリアに言ったように、「慰め」とは困難や苦難を避けることではなく、むしろ勇気を与えてそれに立ち向かわせること、苦難に耐え抜く力(Ⅱコリント1:6)を意味します。
●パウロがここで「慰め」という語彙を多く使っているのは、耐え難いほどの苦難を経験しながらも、それに耐え抜く力を経験したからです。それは彼が使徒として召されたことにも関係しています。
[使徒の働き9章15~16節] 15. しかし、主はアナニアに言われた。「行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子らの前に運ぶ、わたしの選びの器です。16. 彼がわたしの名のためにどんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示します。」
●このイエスのことばはダマスコに住む主の弟子であるアナニヤに対して、パウロ(その頃は「サウロ」と呼ばれていました)が、主の名のためにどんなに苦しまなければならないかを示すと言っています。使徒として選ばれることは、主のために苦しみを受けることなのです。それが使徒としてのしるしなのだとパウロは理解していました。苦難のない使徒の務めはあり得ないということです。ここが偽使徒との違いです。
●慰めの連鎖: 苦難の中で神の慰めを経験したパウロは、慰めの連鎖=「自分から私たちへ、私たちからあらゆる人たちへ」を次のように述べています。
[Ⅱコリント書1章4節]
●真珠は貝の中に異物が入ることによってできた結晶であるように、「慰め」の経験は「どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができる」というのは真理なのです。
3. 「慰め」は「救い」と同義
[Ⅱコリント書1章8~11節]
●動詞「ナーハム」(נָחַם)の強意形ピエル態は「慰める」という意味で、それは「救い」と同義です。⽗レメクは息⼦ノアのうちに神の慰め(=救い)を⾒たのです。ノアは神から⼤洪⽔による神のさばきを信じて、そのさばきから免れる箱⾈を造りました。周囲の⼈々の嘲笑にもかかわらず、ノアは信仰によって箱⾈を造り続けたのです。そしてノアとその家族は神のさばきから救われたのです。ノアはメシアの到来による新しい神の⽀配(天の御国の成就)の信仰を象徴しています。「非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、生きる望みさえ失うほど」の苦難の中で、パウロも天の御国における「すでに」と「いまだ」の緊張において、同じ信仰による希望を神に置いています。この信仰の確信のゆえに、神に賛美と感謝をささげているのです。
慰めに満ちた神への賛美 - 牧師の書斎 (meigata-bokushinoshosai.info)