喜び歌い、楽しむように
- 詩篇90:10-17 -
序言.
詩編90編は神の人モーゼのお祈りです」 - 人間は神とは違って、私たち人間は有限の存在です。老人になれば自分の限界を嫌というほど突きつけられます。しかし、神を住まいとして生きている人は神の住まいへの憧れが日増しに強くなってくるものだと使徒パウロは述べています。
[Ⅱコリント5:1]「私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。」(ピリピ1:23参照)
現在、私たちは確かに重要な時代を生きています。神は私たちに重要なことを成し遂げるように驚くべき希望をくださいました。そして私たちが、その願いを叶えるために楽しく暮らせました。それでは、私たちが楽しく嬉しく生きるためには、どうすればいいでしょうか?
1. 知恵の心を得させなければなりません。
[本文、詩篇90:10-12] 「10. 私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。11. だれが御怒りの力を知っているでしょう。だれがあなたの激しい怒りを知っているでしょう。その恐れにふさわしく。12. それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心を得させてください。」
= 自分の死をはっきりと意識して生きる人とそうでない人とでは、生きるいのちの質が違ってきます。死は人間であるかぎり百パーセントの確立で訪れます。死を意識して生きることで、より充実した生が与えられると信じます。死は、人間側から見れば喪失を意味しますが、神の側から見れば、歓迎を意味します。死は御父の家への完全なる帰郷を意味します。
神を住まいとすることで、自分の日を数える知恵が与えられ、御父の家への帰郷への憧れ抱きつつ、地上における神とのかかわりを生き、楽しむことができればと思わせられます。
⑴ 過去にあった私たちのすべての罪は、すでに主が許してくれました。これ以上過去に縛られて悩んではいけません。
[イザヤ書43:18] 「先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。」
[ピリピ3:13-14] 「…うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。」
[ペテロ第一2:10] 「あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です。」
⑵ 今は、きよい心で主を呼び求める人たちとともに歩まなければなりません。
[テモテ第二2:22] 「それで、あなたは、若い時の情欲を避け、きよい心で主を呼び求める人たちとともに、義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。」
[エペソ5:8] 「あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。」
2. 日々、喜び歌い、喜び祝わせなければなりません。
[本文、詩篇90:13-15] 「13. 帰って来てください。主よ。いつまでこのようなのですか。あなたのしもべらを、あわれんでください。14. どうか、朝には、あなたの恵みで私たちを満ち足らせ、私たちのすべての日に、喜び歌い、楽しむようにしてください。15. あなたが私たちを悩まされた日々と、私たちがわざわいに会った年々に応じて、私たちを楽しませてください。」
= 神は人の罪のために人々を離れました。その結果、人間の生活は苦労と悲しみに満ち、世の中は死の陰になりました。しかしモーセは、神が戻って来られるの求め、主のしもべたちをあわれんで下さるように祈ります。そして私たちがわざわいに会った年々に応じて、私たちを楽しませてくださるように祈ります。私たちの齢は七十年、健やかであっても八十年でも神から授けられた天国は永遠です。神の国は義と平和と喜びの国です。(ローマ書14:17).
⑴ 私たちはキリストのうちに新しく造られた者になりました。
[コリント第二5:17] 「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」
⑵ 私たちは望みを持って良いことを計画しなければなりません。<參照; ペトロ第二1:21>
[ロ―マ15:13] 「どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。」
⑶ 主はその力で、私たちの望みを満足させてくださいます。<參照; ヨハネ福音16:24>
[ピリピ4:13] 「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」
3. 神のみわざと威光とご慈愛を願わなければなりません。
[本文、詩篇90:16-17]「16. あなたのみわざをあなたのしもべらに、あなたの威光を彼らの子らに見せてください。17. 私たちの神、主のご慈愛が私たちの上にありますように。そして、私たちの手のわざを確かなものにしてください。どうか、私たちの手のわざを確かなものにしてください。」
= 「主のみわざ」とは、イスラエルの民を回復することであり、人々を罪と死と神の怒りから救われることであるという意味です。そして、「主のご慈愛が私たちの上にありますように」とは、人類は罪によって神の栄光を失ってしまいました。したがって、救いは、失われた神の栄光を回復することであるという意味です。
= 「主のご慈愛が私たちの上にありますように」と祈ります。また、「私たちの手のわざを確かなものにしてください」と二度祈ります。それは「神の恵みを喜ばれる人たちに与えてくださって、私たちに与えられた救いを確かなものにしてくださいという意味です。
⑴ 神は信仰によって神を求める者には報いてくださいます。
[ヘブル11:6]「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」
⑵ 神は信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。
[マタイ福音21:22] 「あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。」
⑶ 神は与える者を喜び、もっと豊かにしてくださいます。<參照; ピリピ4:19>
[マルコ福音6:38] 「与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。」
結言.
私たちは、キリストの中で新しい人になりました。そして神は私たちを哀れに思い、この世での人間の苦しい生活とは比較できない来世の幸福な天国と永遠の命を約束され、現世でも平安と喜びを約束ました。それによってて私たちは、主にあって平安、聖霊の中で喜びながら生きています。また、神は私たちの手のわざを確かなものにしてくださいます。
したがって、私たちは、神の御言葉を信じて望みの中で祈りましょう。そして、私たちは喜びと平安の中で神の御心に従って、残りの日々を楽しく喜んで生きていきましょう。