日本のキリスト教

 

 キリスト教と日本の最初のかかわりは奈良時代(8世紀)に景教の僧侶が来日した記録に遡りますが、その影響は明らかでありません。
本格的な布教は1549年に来日したフランシスコ・ザビエルの活動に始まります。キリスト教は南蛮文化と結びついて、全国的に広がり、信者はキリシタンと呼ばれました。

 織田信長はキリシタンを保護し、最盛期には京都の南蛮寺をはじめとして、各地に教会、修道院、神学校などが建てられました。
1582年には「天正遣欧少年使節」が、日本人として始めてヨーロッパに派遣され、ローマ教皇に謁見しました。 信長の後を継いだ豊臣秀吉は、当初はキリシタンを保護しましたが、やがてキリシタン勢力の拡大を警戒して、迫害に転じました。弾圧は次第に烈しくなり、江戸幕府はキリシタンを完全に禁止しました。
1639年には鎖国を断行し「隠れキリシタン」を除いてキリシタンは殆ど日本全土から姿を消しました。
1853年、江戸幕府は開国に踏み切り、1859年にはキリスト教禁教下の日本にカトリック、ギリシア正教、プロテスタントの諸教派がやってきました。


 1873年、明治政府がキリシタン禁止の高札を撤去して、キリスト教が解禁されると、自由・平等・博愛を掲げるキリスト教は欧米の文化自由民権運動の理念とも重なり、全国に広がりました。特にプロテスタントは女子教育を含む青年教育、社会福祉や社会事業、言論や文化などの分野で、日本社会にめざましい文化的、思想的な影響を及ぼし、日本の近代化に大きな役割を果たしました。

<カトリックの伝来>
16~17世紀、日本にキリスト教を布教するために渡来した宣教師は、およそ300名でした。その多くは宗教改革による失地回復の使命感に燃えるカトリックのイエズス会の宣教師で、スペイン、ポルトガル(南蛮と呼ばれました)の貿易拡大を狙う国のあと押しもあり、東洋などへの海外宣教を目指していました。


 日本での最初の布教は、1549年に鹿児島に上陸したイエズス会士のフランシスコ・ザビエルの活動に始まります。続いて593年にフラン シスコ会、1602年にはドミニコ会、アウグスティノ会(*1)が日本での布教を開始しました。 キリスト教は当初、南蛮文化と結びついて全国に広がり、キリスト 教徒は「吉利支丹(キリシタン、ポルトガル語でキリスト教徒のこと。徳川 綱吉以降、吉の字を避けて「切支丹」の字が用いられるようになりました)」と よばれるようになりました。 織田信長はキリシタンを保護したため、1580年、京都に南蛮寺がつ くられたのをはじめ、全国各地に教会が建てられ、修道院、神学校が つくられました。 布教に従事した宣教師たちの報告によると、1549年から1630年まで のキリシタンは60~70万人と言われ、江戸時代以降だけで250前後の 教会が存在したとされます。 布教方法はまず、支配者を改宗させ、それによって配下の者を大量 に改宗させるというものでした。そのため大名や領主への接近が試 みられ、大友宗麟、大村純忠、有馬晴信などのキリシタン大名の誕生 とともに、布教は急速に進みました。 1582年、九州のキリシタン大名の一族の少年4人が「天正遣欧少年使 節」としてヨーロッパに派遣され、教皇グレゴリウス13世に拝謁しま した。この少年使節はヨーロッパを訪れた最初の日本人でした。 ザビエルに始まる日本での布教は、鎖国下の1644年に最後の司祭の 小西マンショが捕縛される迄、約100年続きました。

 

<キリシタンの禁制>

  豊臣秀吉も当初、織田信長と同様に、キリスト教の布教には好意を 示していましたが、1587年、九州の平定を終えた直後に「伴天連追放 令(*2)」によって宣教師を追放、国土の統一に加えて、宗教を含む思 想の統一を図りました。 九州にはキリシタン大名が多く、長崎には教会領まで存在すること が、秀吉の警戒心を強め、追放令の発布直後に長崎を直轄領としまし た。 さらに1596年「サン・フェーリぺ号事件」などから秀吉は次第にキリ シタン禁制へと傾いていきました。そして追放令を無視したフラン シスコ会に対する「二十六聖人」の処刑が行われ、秀吉によるキリシ タン弾圧は激しさを増していきました。 その後徳川家康は1612年4月に「禁教令」を発布し、キリスト教を禁 止しました。また同年9月に「伴天連門徒御制禁」、1614年に「排吉利支 丹文」を出して、全面的なキリシタン禁制を打ち出しました。 1637年には島原と天草のキリシタン農民を中心とする「島原の乱」 が起こりました。江戸幕府は1633~39年に鎖国を断行、キリシタンを 根絶するため、「寺請制度」、「五人組」、「宗門改め」、「踏絵」などで監視 ・摘発体制を強化し、流血の迫害を繰り返しました。このため九州の 西北部の農漁民を中心とする「隠れキリシタン」を除いて、キリシタ ンは日本全土から姿を消し、それ以後約250年に及ぶキリシタン禁制 の時代が続きました。

 

<開国とキリスト教>

  1853年、江戸幕府は開国に踏み切りました。1858年には「日米修好通 商条約」が締結され、アメリカ人居留地での信仰の自由と礼拝が認め られました。 その翌年にはアメリカの聖公会、長老派教会、オランダの改革派教 会、少し遅れてバプテスト教会などのプロテスタント宣教師が来日 し、布教を開始し1872年、横浜に最初のプロテスタント教会「日本基 督公会」が設立されました。 カトリックも1858年の「日仏修好通商条約」の翌年、パリ外国宣教会 が日本に宣教師を派遣しました。1862年には横浜に天主堂(教会堂の こと)が、1865年には長崎に大浦天主堂が建設され、2世紀半ぶりに教 会が復活しました。 1861年にはロシアから函館のロシア領事館付司祭としてニコライ が来日し、ロシア正教を伝え、日本ハリストス正教会を結成しました。 1873年には明治新政府はキリシタン禁制の高札撤去の太政官布告 を出しました。 明治新政府の解禁によってキリスト教は欧米の進んだ文化や自由・ 平等・博愛といった近代的な市民倫理と結びついて全国に広がりま した。

 

<プロテスタント教会の展開>

  日本でのプロテスタント宣教は、政府の欧化主義を背景に明治10年 代にピークを迎えました。その第一の源流は横浜バンド(Band=集合 体)でした。宣教師ヘボンやブラウンによって日本で最初のプロテス タント教会が設立され、日本人指導者として植村正久、井深梶乃助な どを生み出しました。 第二の源流は熊本バンドで、熊本洋学校の教師ジェーンズの感化に よって入信した熊本藩士の師弟が中心となりました。やがて彼らは 新島襄が1875年に開いたキリスト教を基盤とした同志社へと転じ、 海老名弾正、徳富蘇峰、徳富蘆花などが言論、文芸の分野で活躍しま した。 第三の源流は札幌バンドで札幌農学校(北海道大学農学部の前身) の教頭として赴任したクラークの感化によって入信した学生を中心 に形成され、内村鑑三、新渡戸稲造などを輩出しました。 1877年(明治10年)頃から日本のプロテスタントは組織化の時代を 迎えます。1876年熊本バンドを中心に日本組合教会が、翌1877年、横 浜バンドの長老派・改革派のグループを中心に、日本基督一致教会 (のち日本基督教会に改称)が、1887年にはアメリカ及びイギリスの 聖公会によって日本聖公会が、また1872年以来、横浜、東京、静岡など 各地に宣教を展開したメソジスト諸派はその大方は合同して、1907 年日本メソジスト教会を設立しました。 また1880年と1887年に日本語訳の聖書の活字本が出版され、プロテ スタントは女子教育を含む青年教育、社会福祉や社会事業、言論、文 化などの分野でめざましい影響を及ぼし、日本の近代化に大きな役 割を果たしました。

 

ーミッション・スクールー

  1859年に最初のプロテスタント宣教師が来日して以来、彼らが開い た家塾から多くのすぐれた日本人指導者が生まれ、そこから明治学 院やフェリス女学院など、最初のキリスト教主義学校(ミッション・ スクール)が誕生しました。(註:ミッション・スクールは日本ではキリ スト教系学校の総称として用いられてきましたが、今日ではプロテスタント 系はキリスト教主義学校、カトリック系学校と呼ばれており、本ページでは、 ミッション・スクール=キリスト教主義学校 としています) 欧化主義によってキリスト教主義学校は著しく発展しました。現在 のプロテスタント系のキリスト学校同盟の統計では、開国前後から 1870年代までに15校が、1880年代にはさらに35校が創立されており、 最近の調査では日本人全体の約1割が何らかの形でキリスト教教育 機関の出身者であるとされています。 明治20年代には国家主義が高まり、「教育勅語」が発布されました。 1891(明治24)年、第一高等中学校の内村鑑三が「教育勅語」の親書 (天皇の署名)に礼拝しなかったことを不敬とする、いわゆる「不敬事 件」がおこりました。また熊本県でも県知事がキリスト教信者の小学 校教員を威嚇して、聖書を読んだ小学生を退学させる事件がおこり ました。 これらを受けて、東京帝国大学教授の井上哲次郎は1893年「教育と 宗教の衝突」を発表し、「教育」すなわち国家主義教育と「宗教」は衝突 するものであると説きました。この説は大きな論争の火種となり、キ リスト教主義学校では、生徒数が激減し、財政的にも行き詰まりまし た。 さらに1899年には宗教教育禁止令が発せられ、キリスト教主義学校 は存続の危機に立たされました。しかし指導者たちの忍耐強い交渉 によって、1900年代には安定した進展を回復し、とりわけ女子高等教 育に関しては、キリスト教主義学校は多大な貢献をしました。

 

<国家主義とキリスト教>

  明治10年代から明治20年前後にかけてキリスト教は地方都市と農 村部へ布教を拡大し、組織化も進みました。しかし1887年(明治20)年 を境に外国人とキリスト教を排斥する機運が高まり、強力な国権回 復運動と国粋主義が台頭して欧化主義は退潮しはじめました。 こうした中で、天皇制国家の確立を宣言した「大日本帝国憲法」が18 89(明治22)年に施行されました。その第28条には “日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス、及臣民タルノ義務に背カサル 限リニ於イテ信教ノ自由を有ス” と定められました。しかしこの信教の自由は、あくまでも「神聖ニシ テ犯スヘカラ」ざる天皇(第3条)に忠実な臣民にのみ許されるという 限界と矛盾を最初から含んでいました。その翌年の1890年、政府は 「教育勅語」を発布して、天皇に対する臣民の忠誠を説き、これを日本 の「教育の淵源(根源のこと)」であるとしました。 こうして絶対君主たる天皇が「現人神」として神聖視されるように なると、神社を通して天皇制国家主義を国民に教化しようとする政 府官僚のキリスト教に対する干渉はますます増大し、キリスト教の 勢いは頭打ちになりました。 明治新政府は1868年の祭政一致と神祇官復興の宣布、1870年の「大 教宣布の詔」によって神祇官は宣教師を任命し、大教すなわち天皇を 中心とする国体の教義を国民に布教することを命じました。(参考サ イト・国家神道の成立) さらに1872年の教部省の設置により、神仏各宗の教義、規則、社寺の 廃位、神官・僧侶の等級を司ることとし、明治新政府は発足当初から 神道国教化への布石を打ち出していました。それは新政府が天皇を 中心とする絶対主義国家を目指していたためで「大日本帝国憲法」と 「教育勅語」はその政策を実現するためのものでした。明治以降の日 本のキリスト教は、少なくとも第二次大戦終結までは、天皇制国家主 義と対立する運命をたどりました。

 

<社会活動とキリスト教>

  隣人愛、とくに貧しい人々への愛の具体的実践を教えるキリスト教 は日本の社会福祉の分野における諸事業の先駆者となりました。 開国後再渡来したカトリックは各地に乳児や児童の養護施設を開 きましたが、なかでも修道女・岩永マキの浦上養育園(1874年設立)の 活動が有名です。 プロテスタントでは石井十次の岡山孤児院(1887年設立)、石井亮一 の聖三孤女学院(1891年設立、その後、日本で初めての知的障害児を 対象とした教育を開始し、1897年滝乃川学園と改称)などがあります。 留岡幸助が東京・巣鴨に設けた東京家庭学校(1899年設立)は少年犯 罪者の厚生施設であり、現在の少年自立支援施設にあたります。 「愛盲の使徒」と呼ばれた岩橋武夫は「点字毎日新聞」の発行(1922年) と日本ライトハウスの創設(1935年)により、視覚障害者の社会生活 を助けました。 医療事業ではハンセン病患者のための施設、結核患者の療養所など が設立されました。また貧困者の救済と廃娼運動をはじめ、女性解放 運動を推進した日本キリスト教婦人矯正会(*3)が活発に活動しまし た。 1897(明治30)年頃から日本でも様々な社会問題が発生してきまし たが、キリスト教の説く人間の平等観、隣人愛、地上における神の国 の樹立などの思想に基づく社会運動がおこりました。 キリスト教の人道主義に基づき足尾銅山鉱毒問題と取り組んだ政 治家、田中正造や1901年にキリスト教社会主義(*4)の理念を実現し ようとして「社会民主党」を結成した安部磯雄、木下尚江など日本の 初期の社会運動はキリスト教と強くつながっています。 また1910年以降に活発な社会運動を行い、キリスト新聞社をおこし た賀川豊彦は労働組合運動、消費組合(生活協同組合)の設立(1926年) などを推し進めました。 日本のアジア進出に対しては内村鑑三らの反対もありましたが、大 勢は同化政策の一環としての植民地伝道や仏教、教派神道との三教 合同(*5)などにより、侵略戦争へ突入する国家機構に組み込まれて いきました。

 

<第二次世界大戦とキリスト教>

  1931(昭和6)年の満州事変は日本の宗教界の重大な分岐点となりま した。軍部が主導権を握るようになり、かっての平和主義者や自由主 義者も、言論弾圧の前に沈黙を余儀なくされるようになりました。 1937年に日中戦争が開始され、翌年には、国家総動員法が、1939年に は宗教団体法が成立し、戦争遂行のための国家統制という名目で、教 派、宗派、教団の統合が進められました。 1941年5月にカトリックが「日本天主公教教団」として、6月にプロテ スタント34派2300あまりの教会が「日本基督教団」として統合されま した。 1941年12月8日太平洋戦争が勃発すると、日本天主公教教団と日本 基督教団はそれぞれ声明を出して戦争への協力を表明しましたが、 ホーリネス系教会(*6)など戦争に非協力の立場に立つ一部の教会、 牧師には激しい弾圧が加えられました。 教会では礼拝に先立ち、「国家斉唱」「武運長久祈祷」「宮城遥拝(皇居 に向かっての拝礼)」などの国民儀礼が行われ、牧師の「練成会」では 軍人が講壇にたちました。 1945年8月15日の終戦とともに、連合軍最高司令部は戦争推進の思 想的背景ともなった国家神道の廃止の処置をとりました。12月15日 に「神道指令」が出され、同月28日には「宗教団体法」が廃止され、代 わって「宗教法人令」が施行されました。(参考サイト・国家神道の解体) 1946年元旦には天皇自らが「神」であることを否定する「人間宣言」 が発表されました。同年11月には「日本国憲法」が発布され、その第 20条において、初めて制限なしの信教の自由が認められました。 日本のキリスト教は戦後の占領下にこれまでにない進展を見せま したが、1951年サンフランシスコ平和条約が締結されて占領が終る と、その勢いはやや衰えました。 現在日本のキリスト教信者は人口の4%程度(調査機関により差が あります)といわれていますが、日本の文化、社会で果たしている役 割は信徒人口に比べて、はるかに大きいと評価されています。

 

http://www.ne.jp/asahi/koiwa/hakkei/kirisitokyou24.html

 

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