人間の堕落と回復


    宇宙の創造目的、人間の創造目的、
人間の堕落と回復について。


人は、必ず他との様々な精神的・
物質的授受関係の中に存在している。

 私たちは自然界を観察してみるとき、すべてのものは何らかの"授受"関係の中に存在している、という事実を知ります。与えたり、受けたりする関係の中に存在しているのです。
 たとえば植物は、二酸化炭素を吸収し酸素を放出するという授受作用を、空気との間に行なっています。
 また、植物が繁殖するのは、雄しべと雌しべの授受作用によるものです。動物も、雄と雌の授受作用によって繁殖します。
 動物は植物を食べ、一方、植物は光合成作用によって動物に酸素を供給しています。蜜蜂と花は、互いの授受作用によって存在しています。
 人間において、親は子と、子は親と、様々な物質的・精神的授受を行ないます。夫は妻と、妻は夫と、肉体的・精神的・経済的授受関係にあります。
 分子は、陽陰二つのイオンの授受作用によって存在し、原子は、陽子と電子の授受作用によって存在しています。
 さらに原子核は、ノーベル賞物理学者・湯川秀樹博士が発見したように、陽子や中性子が「中間子」を互いにやりとりするという、授受作用によって成り立っています。
 地球と月は、引力を介して互いの授受作用の中に存在しています。地球に潮の満干があるのは月の引力の影響ですし、月がその公転軌道を保てるのは、地球の引力の影響によるものです。
 同様に太陽と惑星も、互いの授受作用によって太陽系を形成しています。
 およそ自然界に、授受作用を全く持たずに存在しているものはない、と言ってよいのです。すべてのものは、必ず他との関わり合いをもっています。
 自分だけで、他と全く関わりを持たずに存在するものは、この世に存在しません。必ず、何かと授受作用をしているのです。


宇宙の創造目的

 聖書によれば、この宇宙全体も、ある実在との間に授受の関係を持っています。宇宙は、創造者なる神との授受によって成り立っているのです。
 神は、その永遠の力と恵みによって宇宙に働きかけ、それが存在するよう保っておられます。一方、神は宇宙から、ある種の刺激を得ておられます。
 たとえば芸術家や建築家は、自分の作品を眺めることによって、ある種の刺激を得ることができます。同様に、偉大な芸術家であり建築家である神は、単に宇宙に働きかけるだけでなく、宇宙からある種の刺激をお受けになっておられるのです。
 自然界は、授受作用によって存在する世界です。それと同じように、その創造者である神もまた、他との授受の関係によって喜びをお受けになるかたなのです。
 他との授受作用を欲することは、神のご本性の一つです。その本性のゆえに、神はこの宇宙を創造されました。そしてその宇宙との間に、深い授受の関係を持っておられるのです。


人間の創造目的

 しかし、単に静的な宇宙を創造しただけでは、神はその間に充分な授受をいとなむことはできません。
 というのは、たとえばある画家が、自分の作品を集めて個展を開いたとしましょう。もしその個展を自分が見るだけで、誰も他に見に来る人がいなかったとしたら、どうでしょうか。それは、じつに寂しいものになるでしょう。
 同様に、神が宇宙を創造したというだけでは、宇宙は存在しても、ほとんど意味のないものなのです。ほかに宇宙を見る者がいなければなりません。


たとえ絵の個展を開いても、それを見る人がいなければ、何の意味もない。
同様に、宇宙はただ存在するだけでは何の意味もなかった。

 神はこのためにも、人間をお造りになりました。神が人間をお造りになったのは、神が人間によって喜びを受け、また人間が神によって喜びを受けるためです。
 聖書によると、神は六日間で宇宙を創造し、最後に人間を造られました。その際、人間に特別な意味を与えられました。「神のかたち」を与えられたのです。
 「神は・・・・人をご自身のかたちに創造された(創世一・二七)
 人間が「神のかたち」に造られたとは、人間が、神と同じように主体的に行動し、神と授受できる者である、ということです。
 神にとって、人間はちょうど、子のような存在です。
 人間の子は、ある程度成長すれば、親と同じように主体的に行動し、親や、他の人、また社会と自由な授受をするようになります。同様に、神は子である人間が、宇宙の中で主体的に行動し、ご自身と自由な授受をするように望まれました。
 宇宙の創造は、最終的に人間の創造を目的としていたのです。人間の創造なしに、宇宙の創造は意味を持ち得ませんでした。
 たとえば、誰も見る人のいない博物館は、たとえ存在しても意味を持ちません。同様に人間のいない宇宙は、たとえ存在しても、意味のないものだったのです。
 宇宙は広大無辺なものですが、それも人間がそこに住んで初めて、意味のあるものとなりました。宇宙の存在意義は、人間にあるのです。
 人間は星空をながめ、昔からそこに何があるかを考えてきました。望遠鏡をつくり、遠方の星々を見てきました。さらには宇宙ロケットを飛ばし、月にも行き、様々な惑星探査も行なうようになっています。
 人間は宇宙と多くのかかわり合いを持ち、様々な授受をいとなんできたのです。
 これは、動物にはできないことです。動物は、宇宙を客体(対象)として眺めることができません。動物は宇宙の一部でしかないのです。
 しかし人間は、宇宙に対して主体的な働きかけをすることができ、宇宙を客体としてながめることができます。このために神は、アダムに、
 「地を従えよ(創世一・二八)
 との命令をお与えになり、人間を地の支配者とされました。ご自身が天の主管者であられるように、人間を地の主管者とされたのです。
 神は、人間が宇宙との間に、適切な授受をいとなむことを望まれました。さらに、その人間が神ご自身との間に、適切な授受をいとなむよう望まれました。すなわち人間が、神との間に深い愛と生命の交わりをすることを、望まれたのです。
 人間は、宇宙との授受という"横の授受関係"と、神との授受(交わり)という"縦の授受関係"を結ぶべき者として造られました。縦の授受関係を基礎として、横の授受関係が結ばれることが望まれたのです。


人間の堕落

 しかし、人間の創造にこのような目的があったにもかかわらず、今日の多くの人は、神をぬきにした生活をしています。これについて聖書は、
 「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない」(ロマ一・一〇~一一)
 と述べています。
 私たちの心を見てみても、あるときは一瞬にして善なる思いに結びつき、あるときは一瞬にして悪の心に結びつく両面性を発見します。心が善悪双方に傾きやすい性質を持っているのです。
 こうした人間の悲惨な状況に直面した使徒パウロは、次のように嘆息しました。
 「私は内なる人としては神の律法を喜んでいるのに、私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。私は、ほんとうにみじめな人間です・・・・」(ロマ七・二三~二四)
 ここにおいて私たちは、人間の内なる善心と悪心、良心と邪心の熾烈な葛藤、および矛盾を発見します。このような矛盾性にある人間は、まさに破滅状態に陥っている、と見ることができるでしょう。矛盾をかかえたものが、永く立ちいくことはないのです。
 しかし、このような矛盾性は、人類が初めて地上に生を受けたとき以来あったとは、到底考えられません。なぜなら、そのように矛盾性をかかえたものは、いかなるものであっても、生成することが不可能だからです。
 破滅状態にあるものは、生まれることすら不可能であったはずです。したがって、人類は生を受けてのち、しばらくしてからその矛盾性を持つに至った、と見なければなりません。
 つまり人類は、後天的に堕落したのです。
 堕落は、次のようにして起こりました。
 はじめて人間が生を受けたとき、人間は神との霊的な交わり、すなわち授受関係を持っていました。もし人間が、神とのその霊的な授受関係にのみとどまっていたならば、堕落は決して起こらなかったでしょう。
 しかし、最初の人アダムとエバは、神の戒めを破ることによって、サタンとの霊的なつながりに道を開いてしまいました。アダムとエバがサタンの声に従ったあのとき、彼らの心は一瞬にしてサタン的世界に通じ、それとの授受関係に入ったのです。
 一度通じてしまった授受関係は、簡単には元に戻りません。サタンとの授受関係は、アダムとエバのすべての子孫に伝達されました。
 以後すべての人は、自分の意向しだいで、一瞬に神との授受関係に通じ、あるいは一瞬にサタンとの授受関係に通じるのです。
 私たちの心の二面性は、私たちが神とサタンの中間位置にあることを示しています。私たちは心の持ち方次第で、一瞬に神の永遠の命に通じ、あるいは一瞬に、サタンと共に与えられる滅びに通じるのです。
 しかし実際には、神に通じる人は多くはなく、サタンに通じる人は多くいます。それはサタンの引力がいかに強いか、ということを示しています。
 多くの人は「自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、(サタンに)誘惑され」(ヤコ一・一四)、ついには滅びを招きます。サタンの力を断ち切らないかぎり、私たちはやがてサタンと共に、永遠の滅びに入らなければなりません。


神との間の引力

 サタンの力を断ち切るためには、人間と神の間に働く引力が、強くならなければなりません。しかし、今日多くの人は神に無関心であるため、その引力はわずかしか働かずにいます。
 たとえば、鉄を磁石に近づければ引き寄せられますが、紙や木を近づけても引き寄せられません。
 鉄が磁石に引き寄せられるのは、鉄は磁力線をあびると、表面の無数の分子がそれぞれ小さな磁石状態になるからです。Nの磁石が近づくと鉄の表面はSの磁石になり、Sが近づくと鉄の表面はNになるのです。こうして鉄は、磁石に引き寄せられます。
 同様に私たちが神との強い引力の関係に入るためには、私たちの内に、神への吸引力が生まれなければなりません。この吸引力を、「信仰」と呼ぶのです。


天使とサタン。内なる心次第で、私たちは
一瞬にして神に結びつき、一瞬にしてサタンに結びつく。

 神が人間を求めるだけでなく、人間もまた信仰によって神を求めて、初めて両者の間に強い引力が生じます。これはサタンの力を断ち切るための、強い原動力となるのです。
 しかし人間が真に神の側につき、神に結合するためには、もう一つ越えなければならないハードルがあります。人間は堕落し、罪に汚染されているため、そのままでは聖なる神に近づくことができないのです。
 そこで、人間を義なる者に回復させ、本来の状態に回復させる何かが必要になります。神はこのために、ご自分の御子であり、完全な義の人であるイエス・キリストを世に遣わされました。
 それは信じるすべての人が、救い主イエス・キリストとの霊的な授受関係を結ぶことにより、創造の本来の状態を回復するためです。聖書は言っています。
 「(イエス・キリストについて)私たちの見たこと聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです」(Ⅰヨハ一・三)
 すなわち神は、人がイエス・キリストとの霊的交わりをすることによって、人とご自身との交わりを回復しようとされました。
 それはイエス・キリストが、神との完全な交わりと、授受の関係にあるかただからです。私たちはこのかたと授受の関係を結ぶことにより、罪とサタンの力を断ち切り、神との関係を回復するのです。


キリストとの授受、交わりが、私たちを
神との正常な授受関係に回復する。


キリストとの授受

 私たちは、キリストを救い主として信じることにより、キリストとの授受関係を結びます。これは具体的にいうと、次のことです。
 第一に、私たちはキリストを信じることにより、キリストの十字架の死の事実との授受関係を結びます。聖書は言っています。
 「私たちの古い人は、キリストと共に十字架につけられた」(ロマ六・六)
 「古い人」とは、人間の堕落性のことであり、罪に汚染された自分のことです。聖書は、この「古い人」はキリストと共に十字架につけられた、と言っています。
 キリストに対して信仰を働かせる人は、キリストの死の事実とつながれ、その死との授受関係に入るのです。私たちは、"滅びに向かう自分"に対して死に、決別をなすのです。
 もしあなたがキリストを信じるなら、あなたはキリストの死と一つになり、あなたの「古い人」は死んだのです。あなたが今生きているのは、あなたの古い人ではありません。キリストによる「新しい人」が生きているのです。
 「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマにより、キリストと共に葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです」(ロマ六・四)。
 罪とサタンの支配下にあったあなたは、すでに死んだのです。
 第二に、キリストを信じる者は、キリストの復活の事実との授受関係に入ります。
 「(神はあなたがたを)キリスト・イエスにおいて、共によみがえらせてくださいました」(エペ二・六)
 あなたは、単に死んだだけでなく、キリストと共によみがえらされました。あなたは「新しい人」に復活したのです。
 「誰でもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」(Ⅱコリ五・一七)
 「私たちの内なる人は、日々新たにされています」(Ⅱコリ四・一六)
 もはやあなたの命は、サタンの支配下にはありません。あなたの命は神のものとなったのです。
 あなたの死と復活の本質的な事実は、神の側ではすでに出来上がっています。あなたはそれを、信仰によって受け取らなければなりません。
 「このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい」(ロマ六・一一)
 神の側では、事実がすでに用意されているのだから、信仰によってそれを受け取り、思いの中でそれを認めるべきなのです。そうすれば、その思いによってあなたはキリストの死と復活の事実との授受を行ない、それと一つになるのです。
 第三に、キリストを信じることによって、あなたはキリストの昇天の事実との授受を行なうようになります。
 「(神はあなたがたを)キリスト・イエスにおいて・・・・共に天の所にすわらせてくださいました」(エペ二・六)
 キリストを信じるあなたは、キリストを通し、天国との授受関係を結ぶのです。
 あなたの肉体は今地上にあっても、あなたの霊は、すでに天国に通じています。あなたはやがて、肉体が死ねばすぐさま天国に迎え入れられますが、それ以前であっても、霊はすでに天国との交流を始めているのです。
 あなたは祈りを通し、しばしば天国の姿をかいま見ます。天国はもはや、あなたから遠いものではありません。あなたの魂は、すでに天国に通じ、交流を始めているのです。


キリストの事実との一体化

 第四に、キリストを信じることにより、あなたはキリストの義との授受関係を結びます。
 「キリストは私たちにとって・・・・義と、聖めと、贖いとになられました」(Ⅰコリ一・三〇)
 信仰によって私たちは、キリストとの授受関係に入り、キリストの義とも一つになるのです。
 罪深く堕落していた私たちは、キリストとの交わりを通し、罪を赦され、きよめられ、贖われ、義と認められます。キリストの力強い義が、私たちを浄化するのです。
 神は私たちを見るとき、私たちの罪をご覧にならず、私たちの信じるキリストの義をご覧になります。私たちの罪と不義は、キリストの広大な義のもとに葬られたのです。
 第五に、キリストを信じるあなたは、キリストの幸福との授受関係を結びます。キリストは言われました。
 「わたしはあなたがたに、わたしの平安を与えます」(ヨハ一四・二七)
 「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです」(ヨハ一五・一一)
 キリストを信じる者は、キリストの持っておられる幸福との交わりに入り、その授受関係によって、全き幸福を得るのです。キリストの幸福はあなたのものであり、あなたの幸福はキリストのものです。
 キリストとの授受関係による平安と喜びは、外界の状況の変化によって決して取り去られることのない、全き幸福です。それは魂の内側からわきあがってくる、絶対的な幸福なのです。
 最後に第六のものとして、あなたはキリストを信じることにより、キリストの永遠の命との授受関係を結びます。キリストは言われました。
 「永遠の命とは・・・・唯一のまことの神であるあなた(神)と、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです」(ヨハ一七・三)
 この「知る」は、単に頭の中で知識として知るということではなく、相手との深い授受関係に入ることを意味します。「永遠の命」は、私たちが父なる神と御子キリストとの霊的な交わりに入り、深い授受関係を結ぶことにあるのです。
 父なる神および御子キリストは、永遠の命の根源なる方です。そのかたと、信仰を通して愛と生命の交わりをすることは、私たちに永遠の命をもたらすのです。
 永遠の命を与えられた私たちは、肉体の死後も、天国で永遠に生き続けます。そして世が改まる際、輝かしいキリスト者の復活の時が来ると、私たちは永遠の命の体を与えられるのです。
 このように、サタンとの授受関係を結んで堕落した私たちは、キリストとの授受関係を結ぶことによって、本来の創造目的に回復するのです。

 

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