心の目が開かれて
- エペソ書1:15~18 -
シャローム宣教会
[エペソ書1:15~18] 「15 こういうわけで、私は主イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対する愛とを聞いて、16 あなたがたのために絶えず感謝をささげ、あなたがたのことを覚えて祈っています。17 どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。18 また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、」
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パウロの神への賛美が終わったのちに、パウロがエペソの教会の人々のために祈っています。その祈りの内容が17節以降に記されています。エペソ書にはもう一つ、パウロの祈りがまとまって書かれている箇所があります。それは3章の終わりの部分ですがいずれも、祈りの内容は実に深く、しかも重要な内容が含まれています。
1. 模範的なエペソの聖徒たち
*「こういうわけで」とありますが、「こういうわけで」とは「どういうわけ」なのでしょうか。この接続詞が意味することはなんでしょう。これまで書いてきたことーとりわけ3節から14節までの神への賛美―を受けてということなのでしょうか。あるいは、話題転換のためのパウロの口癖でしょうか。・・・実は、答えは後者の「話題転換のためのパウロの口癖」です。- コロサイ書1:9、Ⅰテサロニケ2:13参照。
*パウロは「私は主イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対する愛とを聞いて、あなたがたのために絶えず感謝をささげ、あなたがたのことを覚えて祈っています。」(15~16節)と書いています。「主イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対する愛とを聞いた」となにげなく書いてありますが、これはとても素晴らしいエペソの教会の人々に対する称賛です。
(1) 縦と横の関係
*「主イエス・キリストに対する信仰」と「すべての聖徒たちに対する愛」とは密接な関係にあります。第一義的には、まず縦の関係が重要です。「主イエスに対する信仰」という縦の関係、これは神との関係です。これがしっかりしてくると同時に、横の関係、つまり「すべての聖徒たちに対する愛」がしっかりとしてきます。縦も横も、いずれの方向も重要ですが、優先順位があります。それは縦の関係が優先です。
*イエスさま自身もこのことを強調されました。イエスは十戒と言われる神の律法を以下のように二つに要約されました。
+ 「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛すること。」
+ 「あなたの隣人をあなた自身のように愛すること。」
*ちなみに、3章にあるもうひとつの「パウロの祈り」も、その優先順位がはっきりしています。まず、「あなたがたの内なる人を強くしてください。」と祈ります。この「内なる人」とは、実は信仰によって私たちのうちに住まわれるキリストのことです。この「内なる方」との愛の関係に根差しながら、「すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。」と祈っているのです。この順序を忘れないようにしましょう。
+すでに1章で、エペソの教会の人たちが縦の関係においても横の関係においてもしっかりしていることをパウロは聞いて感謝しています。しかし、そこで満足しないで、継続的に、そしてより深く成長できるように祈っているのです。
*神が、イエス・キリストによって、そして御霊が私たちひとりひとりのために(過去において)何をしてくださったか、(現在において)何をして下さっているのか、そして(将来において)何をしてくださろうとしているのか。そうした神の恵みが分かってくるとき、神との交わりが深まっていきます。そして同時に横とのつながりも新しくされていくのです。とりわけ、愛におけるかかわりが豊かにされていくのです。
(2) 神へのはじめの愛から離れてしまったエペソの教会
*その意味において、エペソの教会は同じアジアの教会の中でも模範的な教会であったと言えます。かつては、魔術、オカルト、占いの霊に支配され、それによって生きていた多くの人々が解放されて、そのエペソの町に神の教会を建て上げていったからです。これはパウロにとってとても喜ばしいことだったと思います。自分が3年半も手塩にかけて育ててきた教会が、自分が去った後、様々な問題でめちゃくちゃになり、教会が力をなくしたわけではなく、むしろ反対に成長を続けていったことを知ったからです。しかし、後に、このエペソの教会は模範的な姿を失ったことが、ヨハネの黙示録の中で非難されています。その非難とは、「初めの愛から離れてしまった」というものです。[参考:ヨハネの黙示録 2:1~5]
*エペソにある教会はとてもすばらしい教会であると主は評価されていますが、ただ一つだけ非難すべきことがあるというのです。それは「はじめの愛から離れてしまった」ということです。初めの頃ほど愛してはいないということです。「はじめの愛」とは「主イエス・キリストに対する信仰であり、-主イエス・キリストへの愛です」。その方との愛から離れてしまうことは致命的です。横との関係も危うくなってきます。胸に手を当てて考えてみて(そのことに気づいて)、早急に悔い改めて、はじめの愛に立ち返らない限り、取り返しのつかないことになります。さもなければ、エペソの教会の燭台を諸教会の中から取り除く、と警告されました。
+この警告は、一見、イエス・キリストとの関係におけるはじめのような純粋な愛から離れたように私たちは考えますが、実際は、聖徒たちに対する愛が、兄弟姉妹たちに対する愛がすでに欠け始めていたことを示しているのかもしれません。その治療法は「どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい。」というものです。
*熱い恋愛をして、結婚しても、長いつきあいのうちにはその熱も次第に冷めてしまうものです。神との関係においても最初は熱いものがあっても次第に冷めるということがあるかもしれません。エペソの教会も実はそうでした。どうしたら最初の愛、はじめの愛に戻ることができるのでしょうか。それは「悔い改め」です。聖霊の助けに促されて私たちははじめて悔い改めることができます。そして悔い改めて、正しいかかわりを持つことができるならば、私たちはだれであっても、どんな失敗をしたとしても、神に祝福されるのです。
*現代は、自己啓発・自己変革のツールとして「積極的思考」がとりざたされています。たしかに積極性はいいのですが、願望充足が目標ですのでその満足が得られないと、欲求不満症候群となり、自己啓発が自己破壊となりかねません。積極思考はウラを返すと相手よりも優れたい、相手の下になることは死んでもイヤだとの嫌人思考ともなります。自己変革は自らの人知・人能・人力によってはなされないということを覚えてください。
2. 心の目が開かれること
(1) 神をさらに深く知るために
*さて、17節から始まるパウロの祈りの中身を見ていくことにしましょう。
「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の 御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。」
+まず、この祈りは誰に対して祈っているかといえば、「私たちの主イエス・キリストの神」、すなわち、「栄光の父」にです。この表現はここだけです。新共同訳では「栄光の源である御父」と訳しています。「栄光に輝く父」と訳す聖書もあります。
+この「栄光の父」に、パウロは「知恵と啓示の御霊」を与えて下さいますようにと祈っています。なんのために、それは神を知るためです。すでにエペソの教会の人々はクリスチャンであり、すでに主イエス・キリストを通して御父である神をすでに知っているはずです。また、神の愛を持って聖徒たちが互いに愛し合っています。そうした彼らに、神を知るために、知恵と啓示の御霊が与えられるように祈っているというのは、「さらに深く神を知る」ということでなくてなんでしょう。
*神を知ること、神を識別する能力は、知恵と啓示の御霊が与えられなければ得ることはできません。と同時に、それは次の18節に出てくる「心の目が開かれること」「あなたがたの心の目がはっきりと見えるようになる」ことと無関係ではありません。
「また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか ・・をあなたがたが知ることができますように。」
(2) 心の目が開かれて見えるもの
*心の目がはっきりと見えるようになって見えるようになるものはなんでしょうか。チャートでは、三つに分けることができますが、実は、1の「神の召しによって与えられる望み」と、2の「聖徒の受け継ぐべき栄光の富」とは同じ内容です。3の「信じる者のうちに働く神の力」については次回に学びたいと考えています。
+これまでもパウロは神への賛美の中で、「私たちはキリストにあって、御国を受け継ぐ者となった」というフレーズや、また前回学んだように「聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証」というフレーズ。このことをパウロは受けて、さらに、私たちがその「御国を受け継ぐ」という希望をしっかりと持って生きることができるように「心の目が見えるように」と祈っているのです。
*この世においていついのちが奪われるかもしれない状況の中で、神の子たちがどこに目を向けて歩むべきか、ペテロは諭したのです。それは決して失われることのない、朽ちることも汚れることもない、消えていくこともない天における資産(相続財産、嗣業、天の宝、栄光の富)という「生ける望み」でした。それは換言するなら、「神ご自身」ということができます。あるいは、「栄光の望みーあなたがたのうちにおられるキリスト」「私たちの望みなるキリスト」ということができます。「神の召しによって与えられる望み」、「聖徒の受け継ぐべき栄光の富」とは、キリストをわがものとするということです。
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