ヨセフに与えられた夢の解き明かし
創世記40章1節~23節
* 創世記40章で、ヨセフが入れられた監獄は侍従長(護衛長)のポティファルの家にある牢獄であったことがはじめて分かります。つまり、ヨセフはポティファルの管轄から離れたわけではなかったということです。しかも、エジプトの王の献酌官長(給仕役)と調理長官(料理長)の二人が過ちを犯したということで、ヨセフと同じ監獄に入れられますが、侍従長のポティファルはこの二人の世話係としてヨセフを任命したのです。一時、ポティファルは妻の告発を聞いて怒り、ヨセフを牢獄に入れはしましたが、ヨセフの持っていた管理能力を買っていてそれを利用したと言えます。
* 40章では、ヨセフに与えられている「管理能力」と彼に本来的に備わっている「夢を解き明かす力」が次第に明らかになりつつあり、その力がヨセフの生涯に大きく花開かせることになる前触れを感じさせてくれる章です。
舞台はすでに監獄の中ですが、侍従長の家にいた時と同じように、ポティファルから二人の囚人を直々に管理する任がヨセフに与えられました。これも神がヨセフとともにおられたことのあかしと言えます。
* さて、この40章のどこに強意形の動詞が使われているかを見てみましょう。4箇所で使われています。
上記に見られる強意形の動詞をポイントとして40章を瞑想してみたいと思います。
1. ヨセフの「管理能力の賜物」が活かされた
* 主がヨセフとともにおられるという祝福は、彼がどこにいてもすべて成功するということです。監獄においてかつての主人はヨセフに新しく囚人となった王の役人である献酌官長(給仕役)と調理長官(料理長)の二人の身辺の世話をすることを任じられました。それは、以前と同じように、ヨセフが自分の能力が認められて、それを生かせる場が与えられたことを意味します。「世話をした」と訳された「シャーラト」שָׁרַתの強意形は、そのことを強調しています。39章4節にもヨセフは自分に好意を示してくれた主人に対して「仕えた」というところにも同じく「シャーラト」שָׁרַתが使われていますが、新改訳では主語を主人としているために「側近の者とした」と訳しています。しかし原文の「シャーラト」の主語はあくまでもヨセフであり、ヨセフは喜んで主人に「仕えた」ことが強調されています。40章4節も同じくポティファルから任じられたとは言え、自分の能力を認めてくれた主人の命に従って、ヨセフが快く二人の世話をしたことがこここで強調されているのです。
* ちなみに、「シャーラト」שָׁרַתの類語に「アーヴァド」עָבַדがあります。前者はある特定の人や役職に仕えることを意味しますが、後者は一般的な意味で「仕える」という意味です。「シャーラト」שָׁרַתは、イスラエルの指導者モーセの従者(仕える者)となったヨシュアや幕屋の祭司として特別な役職のために仕えることに使われています。
2. 夢の内容を話した役人
* 40章には囚人となった二人の役人がそれぞれ夢を見ますが、それを解き明かす人がいないことをヨセフに告げます。ヨセフはこのとき、夢を解き明かすことは、神のなさることだとしながら、その夢を自分に話すように促します。その促しの「話してください」という動詞「サーファル」סָפַּרに強意形が使われています。
「サーファル」סָפַּרは、本来、数える、計る、正確に書き記すという意味ですが、強意形では語るーしかも、正確に、整理して語るーという意味になります。ヨセフから夢の内容を語るように促された献酌官長(給仕役)がヨセフに夢のことを「語りましたסָפַּר」。ここも強意形が使われています。ちなみに、「サーファル」סָפַּרが名詞になると「書記官」という意味になります。
* ところで、不思議なことにもうひとりの調理長官(料理長)がヨセフに夢を語るときには強意形ではなく、普通の「言った」という意味の「アーマル」אָמַרが使われています。同じく夢を語ったのですが、献酌官長(給仕役)の場合には強意形が使われ、調理長官(料理長)の場合は普通のパウル態が使われているのはなぜなのか、謎解きのようですが、一字一句が聖霊によって書かれたとするならば見逃せない事実です。おそらく、この場合、前者の献酌官長(給仕役)の夢が後にヨセフの生涯と深くかかわってくるからではないかと推察します。
ヨセフが解いた二人の夢の内容はきわめて対照的で、調理長官(料理長)の夢の解き明かしの場合にはあまりにもそっけなく(その運命が悲劇的であるゆえに)、ヨセフはなんらその者とかかわりをもとうとしていません。当然のことですが・・・。
3. 献酌官長に「盗み取られた」自分の運命を託したヨセフの過ちと二年間の沈黙
* ヨセフは献酌官長(給仕役)の夢の解き明かしの後に(つまり、調理長官(料理長)の夢の解き明かしがなされる前にすでに)、ヨセフは牢獄から出られるようにしてくれるよう嘆願すると同時に、自分の無実を強く訴えています。15節「実は私は、ヘブル人の国から、さらわれて来たのです。ここでも私は投獄されるようなことは何もしていないのです。」の「さらわれて来た」と訳された「ガーナヴ」גָנַבの強意形プアル態がここで使われています。プアル態とは強意形の受動態のことです。
* 「ガーナヴ」גָנַבの本来の受動態の意味は「盗まれる」という意味です。その強意形のプアル態では「盗み取られる」という意味になります。しかも原文では「ガーナヴ」גָנַבが二つ重ねられており、無理やり連れて来られたことがさらに強調されています。自分の生涯が「盗み取られた」とはなんと悲惨なことでしょうか。
* ところでヨセフは、自分のこれまでの生涯が「盗み取られた」という事実を献酌官長を通してパロに直接無罪を訴えるという方法で、一刻も早くこの牢獄から解放されることを期待しました。「ガーナヴ」גָנַבの強意形プアル態はその期待の表れを強調しています。しかしそのヨセフの期待は裏切られてしまいます。それは神の配剤であり、神のご計画には神の時と神の方法があることをヨセフに学ばさせるためであったと言えます。41章ではっきりするのですが、神はヨセフに神への信頼を学ばせるために二年間の時を与えたようです。神を信頼するという訓練は多くの時間を要するようです。
以上のように、ヘブル語動詞の強意形の用法は決して気まぐれなものではないことが分かります。つまり、動詞の強意形の存在が神のご計画における展開と深いかかわりをもっているように思えるのです。
* それにしても40章で、ヨセフが自分に夢の解き明かす能力があることを確信しているように思います。まさに「夢見る人」が「夢見る人」で終わることなく、「夢を解き明かす人」としての本領が発揮され始める章です。39章ではヨセフは自分が見た二つの夢のことを父と兄弟たちに話していますが、ヨセフはその夢の意味するところを確信する力が与えられていたことになります。この確信があったればこそ、エジプトでの「盗み取られた」自分の境遇に耐え得る力が与えられたのもうなずけます。なぜなら、ヨセフ自ら「夢の解き明かしは神がなさる」ことだとして、自分と神とのつながりを強く感じさせる表現がなされているからです。
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