パウロからローマにいる聖徒たちへ


【新改訳2017】ロ―マ人への手紙1章1節
キリスト・イエスのしもべ、神の福音のために選び出され、使徒として召されたパウロから。

【新改訳2017】ロ―マ人への手紙1章7節
ローマにいるすべての、神に愛され、召された聖徒たちへ。私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにありますように。


1. なにゆえに、パウロはローマにいる聖徒たちに手紙を書いたのか

  • ローマ人への手紙は、第二次伝道旅行において、コリントから送られた手紙です。それまでパウロが書いて送った手紙は、彼が開拓した教会の中に緊急的な問題が起こり、それに対処するためのものでした。テサロニケ人への手紙、ガラテヤ人への手紙、コリント人への手紙がそうです。ところが、パウロは一度もローマに行ったことがありませんし、自分の建てた教会もありません。そのローマにいる聖徒たちに手紙を送ったのは、やがてローマを宣教の拠点として、伝道の働きを西(スペイン)に拡大したいという思いがあったようです。そのためには、ローマにいる聖徒たちが、神の福音についてより正しく理解している必要があったと思われます。ちなみに、ローマ人への手紙を「パウロによる福音書」とする聖書解説者(市川喜一氏)もいるほどです。

  • パウロがローマを拠点にして活動したいという思いは、ローマに知り合いがいたからです。その知り合いとは、かつてコリントで出会った一組の夫婦です。その夫婦の名前は「アクラというポント生まれのユダヤ人および妻ブリスキラ」です。しばしば聖書は「プリスキラとアクラ」(使徒18:2)という言い方をしていますが、おそらく、それは妻プリスキラの方が夫に比べて霊的な賜物が豊かに与えられていたのかも知れません。いずれにしても彼らは、皇帝がユダヤ人をローマから退却させる命令を出したことで、コリントに行き、そこでパウロと出会ったという不思議な出会いでした。彼らは「天幕作り」という同じ仕事をしながら、パウロと同居していただけでなく、パウロからの霊的な指導を受けたのです。彼らとパウロは神の導きによってそれぞれの道を歩みますが、プリスキラとアクラとはローマに戻っていたようです。パウロがローマを拠点として宣教の働きを拡大したいという思いの中に、彼らの存在は大きなものであったに違いありません。ですから、ローマ書16章にある挨拶の筆頭に、「私の同労者であるプリスキラとアクラ」の名前が登場しているのです(16:3)。

  • コリントで三か月ほど滞在する機会が与えられた時に、パウロは神の福音について論理的にまとめ、整理して説明しています。また、ユダヤ人と異邦人との関係についても奥義として語っています。これまで啓示された奥義、ならびに、神の福音の理解を文書化することは、パウロ自身にとっても必要なことであったのかも知れません。のみならず、ローマ人への手紙はキリスト教の歴史においてきわめて大きな影響を人々に与えてきました。たとえば、西洋ではアウグスチヌスやマルチン・ルター、ジョン・カルヴィン、ジョン・ウェスレー、日本では無教会派の内村鑑三とその追随者たちによって、この手紙はキリスト教の真髄として、深く研究されて来ました。いつの時代でも、聖書のみことばの真理が浮き彫りにされることによって、霊的ないのちが回復されてきたことは事実です。

2. この手紙はだれによって記され、だれによって届けられたのか

  • パウロの手紙の多くは彼自身によって書かれました。ところが、他の手紙にまさって一番長い手紙であるこのローマ人への手紙だけは、ある者が代筆したようです。16章22節に「この手紙を筆記した私テルテオも、主にあってあなたがたにごあいさつ申し上げます。」と記しています。

  • パウロはやがて訴えられた訴訟を上告するためにローマに行くことになりますが、それはかなり後のことです。この手紙をコリントからローマへ届けた人物、その名前は「ケンクレヤにある教会の奉仕者(改定第三版では「執事」(しもべ、あるいは仕える人を意味する「ディアコノス」διάκονος)」をしていたフィベという女性でした(16:1)。