高山右近
自分の領地よりも、天の御国をとったキリシタン大名


        米治一作

キリシタンの地・高槻

 高山右近(たかやまうこん)は、洗礼名を「ジュスト」といい、最も高名なキリシタン大名であった。彼は織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三代の世にわたって生きた人である(一五五三?~一六一五年)
 高山右近の父は、高山飛騨守ダリオ(洗礼名)で、やはり熱心なキリシタンであった。ダリオは、大和国(やまとのくに)(奈良県)の沢(さわ)城主であった。
 父ダリオは伝道に熱心で、やがて彼の伝道により余野城主の黒田氏が、家族や家臣たちと共に洗礼を受けた(一五六四年)。その一〇年後、ジュスト高山右近は、この黒田氏の長女・ジュスタ(洗礼名)と結婚した。
 このとき高山右近は、すでに高槻(たかつき)(大阪府)の城主となっていた。高槻城内の身分ある家臣たちも、ほとんど皆キリシタンとなっていた。父ダリオは、すでに家督を譲り、そこで教会のために専心していた。
 城内には、立派な教会堂が建てられ、宣教師(バテレン)たちの住院も建てられていた。神学校(セミナリヨ)もつくられた。
 庭園の周囲には、花咲く木々が植えられ、その一方には大きな数本の木の下に、三つの階段のある大十字架が立てられていた。その後ろには水を引いて池が造られ、魚が泳ぎ、あたり一面には、遠くから取り寄せた雛菊(ひなぎく)やバラ、ゆりなどが咲き乱れていた。
 これらはすべて、キリシタンの祈りと憩いのためであった。
 アンジェラスの鐘は人々を聖堂へとさそい、ジュスト(高山右近)とジュスタ(妻)、ダリオ(父)、マリヤ(母)らは、宣教師たちから聖書の話を聞き、歓談し、祈りの日々を送っていた。
 また父ダリオと右近らは、働き手を失った寡婦(かふ)や孤児の生活を助けることも、忘れなかった。彼らは貧しい一信者の葬儀に自ら棺を担うなど、身をもって愛徳のわざを行なった。
 たくましく頭脳明晰(めいせき)な右近は、時には説教を引き受け、神のみことばを人々に語った。妻ジュスタは、この夫を誇りとし、心から敬愛してやまなかった。そこには、世の常の幸福とは異なる世界があった。
 右近は農村にも大十字架を立て、その階級を選ばない伝道は、大きな実を結びつつあった。右近は、古代イスラエルの王ダビデにも似た豊かな知恵と、人徳とによって領内を治めたので、人々は彼を心から尊敬した。
 一五七七年には、宣教師オルガンチノを迎えたが、この年だけでも領内の二四〇〇人が受洗し、高槻はさながらキリシタン国となっていった。


最初の試練

 しかし平和に暮らす高山右近とその妻ジュスタたちのもとに、最初の大きな試練が訪れたのは、その翌年であった。
 右近は当時、荒木村重(あらきむらしげ)を直接の主君として仕えていた。それで荒木村重のもとには、右近の妹、およびまだ四歳の長男ジョアンが、人質として取られていた。
 ところが、荒木村重は突然、織田信長に向かって反旗をひるがえしたのである。これは信長にとって、足元をすくわれかねない重大事件であった。
 信長は右近に、高槻城の開城を要求してきた。高槻は、京都と大阪の中間に位置する戦略的な拠点であった。
 しかし信長に背いた荒木村重のもとには、人質として右近の妹と長男が取られている。もし信長に高槻城を開城すれば、村重は人質を殺すだろう・・・・。
 右近は、人質を取り返すべく努力したいので、しばらく猶予(ゆうよ)が欲しいと伝えた。信長は喜んだが、右近の決心を促すため、フランシスコその他の宣教師たちを捕虜とし、人質とした。
 どちらにも人質を取られた右近は、厳しい選択に迫られた。このとき父ダリオは、もし開城するならキリシタンに禁じられている自害も辞さぬと言って、開城に反対した。
 妻ジュスタも、わが子のことを思い、眠れぬままに右近に訴えた。
 「お願いでございます。ジョアンたちが殺され、父上が自害あそばすようなことは、どうぞなさらないで下さいませ」。
 しかし、右近は静かに言った。
 「私とて、命をおろそかにするものではない。しかし、アブラハムはわが子イサクを捧げようとしたではないか。また天主(デウス)(神)は、この世のために御子(みこ)の犠牲をお受けになった」。
 そう言うと右近は、武士の衣服を脱ぎ、紙子(かみこ)だけになって城を出、信長のもとへ向かった。開城、降伏である。妻ジュスタたちは、人質の生命のために天主に祈っていた。
 信長は右近のいさぎよい姿を見ると、いきりたち、しかし喜びを隠さず、
 「さすがジュスト(右近)じゃ。案じるな、バテレン(宣教師)の命も教会も、保証してとらせよう。人質も無事取り戻されようぞ」
 と言って、急いで荒木村重を攻め打つために走り去った。
 やがて荒木村重は、自分の城を棄(す)てて降伏。人質は、右近のいる高槻城に戻った。妻ジュスタは、長男ジョアンをひしと胸に抱きしめ、天主に心からの感謝を捧げ、また夫の勇気ある行動をたたえた。
 しかも天主は、右近と妻ジュスタの祈りに答えてくださった。信長に城を落とされた余野の義父や、母、弟妹を、右近の高槻城に迎え入れさせてくださったのである。
 キリシタン嫌いの親類の圧力を受けて信仰を棄てていたジュスタの母も、それ以来信仰に立ち返った。


キリシタンがますます増える

 高槻領内のキリシタンはますます増え、教会は少なくとも二〇を数えるようになった。
 一五八一年春には、聖週間と復活祭が、高槻で盛大に行なわれた。聖週間が厳粛に守られたのち、復活の大祝日にはグレゴリオ聖歌が流れ、パイプオルガンの音の響き渡る中に、ミサ聖祭が荘厳にとり行なわれた。
 この年には、領民二万五〇〇〇人中、一万八〇〇〇人がキリシタンとなっていた。これには、右近たちの人格的感化や、模範が大きく影響している。
 翌年、信長は死んだ。家臣・明智光秀の謀叛(むほん)によってである。
 このとき明智光秀は、宣教師オルガンチノに、右近宛の手紙を書くよう強要した。それは、右近が明智光秀に味方するよう、求める内容であった。しかしオルガンチノは、希望通りの日本文のほかにポルトガル語で、
 「たとえ磔刑(たっけい)に処せられても、明智光秀に味方せぬよう」
 と記して使いに渡した。
 これを見るまでもなく、右近は、主君を殺した明智光秀には従わなかった。
 右近は、羽柴(はしば)秀吉(豊臣秀吉)の側についた。秀吉は右近を信じ、人質も取らなかった。
 秀吉は大阪城を築き始めていた。右近は、秀吉にオルガンチノ師をひきあわせて土地を与えられ、河内岡山の教会を移した。
 この年の降誕祭は、河内はもちろん、摂津(せっつ)、京都、堺などからもキリシタンが大勢集まり、盛大に新教会でミサが行なわれた。多くの大名や、武士たちが右近のすすめで教会を訪れ、彼の感化によって信仰に入った。
 その中にはシモン黒田孝高(くろだよしたか)、レアン蒲生氏郷(がもううじさと)、アウグスチノ小西行長(こにしゆきなが)、秀吉の祐筆(ゆうひつ)(書記)であるシモン安威藤治、それに名医メルキオール曲直瀬道三、細川ガラシヤ、大谷吉継などがいた。
 秀吉は、キリシタンを嫌う家臣や仏教僧らの言葉には耳を貸さず、右近に全幅の信頼を寄せていた。
 ある茶室で秀吉が、高山右近および荒木村重と同席した時のこと、秀吉は右近の勇気や親切について、大変な褒め方をした。すると、右近とは仲のあまり良くなかった村重が、
 「右近の勇気は見せかけのものに過ぎませぬ」
 とけなした。秀吉は顔色を変え、
 「何を申すか。自分は、右近が全く表裏のない人物であるのを熟知しておる。右近のことをそのように悪しざまに言う奴は好かぬ。出てゆけ!」
 と大声でしかり飛ばした。この一件以来、秀吉は村重と距離を置き、永いあいだ会おうとしなかった。
 これほど右近に全幅の信頼を寄せ、キリストの福音にも接していた秀吉であったが、彼はなかなか信者になろうとはしなかった。
 ある日秀吉は、大阪の教会へ現われたとき、供をしている諸候たちにこう言った。
 「わしはバテレン(宣教師)たちが、本願寺の坊主どもより正しいことを、よく承知している。バテレンは清浄な生活をおくり、坊主どものように汚れていない。
 わしはまた、キリシタンの教えに満足している。女どものことさえなければ、わしもキリシタンになってもいいと思っているほどだ」。
 秀吉が「女どものこと」と言ったのは、彼が多くの側女(そばめ)をはべらせていたからである。
 また秀吉は、古馴染(ふるなじ)みのロレンソ修道士にもこう言った。
 「わしが大勢の女たちを持つことを、バテレン(宣教師)が許してくれれば、わしは今すぐにでもキリシタンになるのだがな。デウス(神)の教えで守り難いのは、それだけじゃよ」。
 するとロレンソは、笑いながら答えた。
 「では私が許してさし上げますから、キリシタンにおなりください。殿下は戒律を破った罰で地獄に落ちられるでしょうが、殿下のまねをしてキリシタンになった大勢の人が、救われますから」。
 これを聞くと秀吉は、機嫌をそこねるどころか、大声で笑ったという。


秀吉のキリシタン禁令

 秀吉は結局、天の神のもとにひざまずくことは、なかった。彼は神の前にへり下ることなく、むしろますます征服欲を燃やし、傲慢(ごうまん)になって、朝鮮にも出兵して人々を従えようとしていた。
 一五八六年にコエリョ宣教師が、オルガンチノ師やロレンソ以下の随員を従え、秀吉の大阪城を訪れた。右近は、彼らに同行した。
 秀吉は宣教師たちとの会談の中で、天下統一を果たした今は、望みは死後に自分の名をとどめ、権勢を伝えることだけだと語った。また、国は弟の秀長にゆずって、自分は朝鮮とシナ(中国)を征服するつもりだ、と打ち明けた。右近はそれを聞いていた。
 宣教師たちとの会談は、ごくうちとけた雰囲気の中で行なわれ、謁見(えっけん)は成功裏(せいこうり)に終わったようにも見えた。しかし、右近は重い心で城へ帰ってきた。
 疲れの見える右近は、妻ジュスタと共に祈祷所へ入った。祈り終わった右近は、いつもの快活さとは異なる沈痛な面持ちで、ジュスタに語り始めた。
 「同じ霊名(洗礼名ジュストとジュスタ)をいただくそなたとは、身も心も一つでありたい。そなたは女の身なれど、申し聞かせる。
 このたびの大阪城でのコエリョ様のお言葉には、暗い予感がするのじゃ。関白(かんぱく)(秀吉)殿の朝鮮出兵に、軍船を斡旋(あっせん)なさるとか、九州のキリシタン大名を集められるとか、バテレンにあるまじき発言をされた。
 しかし、どのようなことが起ころうとも、我々は信仰を貫き通さねばならぬ」。
 秀吉によって、青天のへきれきのごとくキリシタン禁令が下ったのは、その翌年のことであった。
 為政者というものは、自分の権威をおびやかしかねないものが存在することを、とかく恐れるものである。秀吉も天下を取ったとき、その恐れに取りつかれたのであろう。
 秀吉ははじめ、宣教師たちの持ってきた真新しい文化に興味を示し、それを自分の統治に利用した。しかしやがて、「神の前の平等」を説くキリスト教や、強固な団結力を持つキリシタンの存在に対して、恐れの念をいだき始めたのである。
 これには、側近の者たちの煽動(せんどう)もあったろう。秀吉は、バテレン(宣教師)追放令を発するに先立ち、右近にキリシタンの信仰を棄(す)てよとの命令を伝えた。そして、
 「棄てぬときは領地没収、追放に処する」
 と。
 しかし右近は、何のためらいもなくこう答えた。
 「いかなることがあろうとも、信仰は棄てませぬ。私が家臣や領民をキリシタンになるよう導いたことは、私にとって最大の手柄と思っております」。
 領地か信仰かの、いずれかを選ばねばならなくなったとき、右近は信仰をとった。父ダリオはそれを支持した。
 しかし、このとき友人や同信の者たちさえもが、表面だけでも信仰を棄てたと言って秀吉の怒りを和らげるようにと、すすめた。右近は、
 「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得があろうか」(マタイ一六・二六)
 の御言葉をあげて、その誘いを退けた。
 秀吉は、右近を失うことを悲しみ、千利休(せんのりきゅう)を使いとして送って、
 「前言を取り消すならば」
 と持ちかけた。しかし、右近は妥協しなかった。右近はむしろ、秀吉の前に出て、教えを説いて斬られることも考えたが、全教会に及ぶ危害を思って、その衝動に耐えた。
 茶道をもきわめ、「利休七哲」の一人に数えられていた右近は、その夜、茶をたてて静かに瞑想と祈りにふけった。
 翌朝、彼は晴々とした顔で家臣たちに事の次第を伝え、
 「必ず天主が、皆の父となり給うであろう」
 と言って、信仰を失わないように諭した。
 こうして右近は、数名の従者だけを連れて、領地を去った。


マニラへの船出

 しばらくして右近は、有馬領でコエリョ師に出会った。コエリョ師は、自分の軽率な発言を恥じ、右近の信仰をたたえた。右近は師を責めることなく、むしろ今後のことを語りあった。
 やがて、秀吉の怒りも和らぎ、ほとぼりも冷めつつあった。
 一五八九年には、貧しさの中に信仰生活を送る右近たちの姿に打たれた利家の計らいと、秀吉の弟・秀長のとりなしとによって、右近に二万石が与えられるようになった。その後も、右近の熱心な伝道活動のゆえに、多くの武士や農民、婦人たちが洗礼を受けた。
 一五九九年になって、秀吉は没した。
 秀吉が死に臨もうとするとき、謁見(えっけん)を許されたポルトガル人司祭ロドリゲスは、しきりに秀吉に魂の救いを説いた。しかし秀吉は、かたくなに眼を閉じて聞き入れず、世を去った。
 秀吉は、日本という一つの世界を手に入れた。しかし彼は、「まことのいのち」を得ることはなかった。
 秀吉はその権勢を後の世に伝える者となったが、その権勢は一時的なものにすぎない。人は自分の死の向こうにまで、権勢を持っていくことはできないのである。しかし、もし彼が回心して神におぼえられる者となっていたならば、神は彼の名を、高く引き上げられたことであろう。
 秀吉ののちに天下を取ったのは、徳川家康であった。
 家康ははじめ、キリシタンに対して比較的おだやかな態度をとった。しかしやがて幕藩(ばくはん)体制確立のために、キリシタンの思想を排除しようと、弾圧を始めた。そして一六一三年には、宣教師の国外追放令も発した。
 家康は、右近に対する処遇がキリシタンや、その武将たちをいかに刺激するかを、恐れていた。もし国内で右近を処刑するならば、その光景は、かえって人々に深い感銘を与えてしまうだろう。
 実際、かつて秀吉のもとで行なわれた長崎の「二六聖人の殉教」(一五九七年)が、そのいい例だった。二六人の処刑は、キリシタンへの見せしめとしてなされたはずだった。ところが天国の希望に喜々として死に就(つ)く彼らの姿は、かえって見ていた人々に深い感銘を与え、キリシタンになる者が急増してしまったのである。
 家康は、右近らを、人知れず葬ろうと考えた。
 そのとき右近らは、海辺の住居に移されていた。一六一四年一〇月、右近ら約一〇〇名は小型船やジャンク船に乗せられて陸を離れ、その後エステバン・デ・アコスタ号に乗り移った。
 家康の期待した棄教者(ききょうしゃ)がいなかったので、船は立錐(りっすい)の余地もないほどであった。
 家康は、船が港を出たら撃沈せよ、と命じた。しかし、その命令を持った使いの者が港に着いた時、もう船の姿はそこにはなかった。


マニラでの死

 右近らを乗せた船は、一路、マニラ(フィリピン)へと向かった。
 誰はばかることのない航海であった。「ボートピープル」「難民」となった彼らだが、大海原を静かに進む船からは、いつも讃美歌と祈りの声が聞こえていた。
 順風で行けば一〇日ほどの航程である。しかし老朽船の船脚(ふなあし)は遅く、また逆風・暴風にさまたげられて、航海は一か月以上に及んだ。
 この間に、四人の者が死んだ。なかには、在日三二年、聖人のほまれの高かった六四歳のクリタナ師も含まれていた。
 ある日、水夫たちの不注意で、船室が水浸(みずびた)しになってしまった。しかし右近は、誰をも咎めることなく、ぬれた書物を孫たちと一緒に一枚一枚ていねいに乾かした。
 マニラが近くなったとき、モレホン師は先にマニラに入って、右近らの到着をマニラ総督に伝えた。
 マニラ総督ファン・デ・シルバは、すでにグスマン著『ゼズス会(イエズス会)東洋伝道史』を読んで、右近たちのことを知っていた。彼はすぐに右近らの歓迎を計画、受け入れ体制を整えてくれた。
 右近たちが港に入ってきたとき、熱狂したマニラ市民は岸壁を埋め、一発の礼砲を合図に歓迎の砲声が響き渡った。その中を右近たちが上陸した。
 総督は彼らを官邸に招き、涙を流して労をねぎらった。右近らは、日本の武士流の礼儀正しさで、深い感謝を表した。
 ジュスタをはじめ婦人たちも、離れてつつましく控えながらも、熱い涙を流さぬ者はなかった。総督は彼らを馬車に乗せて町を案内したが、道は歓迎の市民で埋まり、聖堂の鐘が鳴り渡った。
 聖堂に着くと、彼らは馬車を降り、感謝の祈りをささげた。
 総督は右近に、私的にも、また国王からも扶助(ふじょ)をと申し入れた。しかし右近は、仕えずして禄(ろく)を受けることを固辞(こじ)した。彼はあくまでも日本の武士であり、高潔の士であった。
 しかしマニラでの生活は、総督の並々ならぬ好意によって、必要のすべては満たされていた。
 妻ジュスタは、日本を出る前から夫の健康が気がかりであったが、夫の旅の疲れはいちじるしかった。到着後四〇日目にして、右近は熱病にふした。
 右近はモレホン師に言った。
 「私は死の近いのを感じております。ただ家族を悲しませぬため、口には致しません。
 バテレン方やキリシタンに囲まれて死ねるのは、天主の思し召しであり、私はその恩寵に感謝で一ぱいでございます。どうか皆様にお礼を申し上げてください。
 私が去ったあとも、妻や子ども、孫たちのために、必ずや天主が彼らの父となって導いてくださるでありましょう」。
 さらに、危篤(きとく)に瀕(ひん)した右近は、苦痛を耐え忍ぶべきこと、信仰を守り続けること、バテレンの指導に従って教えを受けるべきことなどを、人々に諭した。また孫たちには遺書として、
 「模範的キリシタンになるように」
 としたためた。こうして右近は、一六一五年二月五日に息を引き取った。
 妻ジュスタは夫の最期の装いとして、大切に日本から持ってきた武士の盛装をさせ、胸に十字架を抱かせながら語りかけた。
 「あなた様は良き戦いを戦い、走るべき道程を走り終え、信仰を守り通されました。こののち、殿のためには、天で義の冠が待っているばかりでございます」(二テモ四・七~八による)
 そして、
 「安らかにお眠りくださいませ。私もいつかお跡(あと)を」
 と、そっと頬に触れた。
 マニラ総督は、右近の死を知り、盛大な葬儀をとりおこなった。右近の遺体は立派な棺におさめられ、総督官邸の広間に安置された。
 その日は、マニラ中の教会の鐘が鳴り響くなか、右近の足に接吻しようとする市民や、棺をかつぐ役を得ようとする人々で、ごったがえした。そのあと棺は、サンタ・アンナ聖堂の大祭壇のかたわらに埋葬された。
 こうして高山右近の魂は、永遠の神のもとへ帰り、その永遠の生命の中に入った。
 妻ジュスタは、その後の彼女の生涯を、夫と持った幸福な生活の思い出に生きた。
 当時、大名や武将は、複数の妻や妾(めかけ)を持つのが常であった。しかしジュスタは、夫ジュストの愛したただ一人の妻として、そののち天国で夫と喜びのうちに再会する望みを抱いて生きることができたのである。
 高山右近の肉体に死が訪れたとき、彼は地上において、一切の領地を持っていなかった。しかし右近がこの地上に残した良いわざと、愛の行ないとは、永遠に神におぼえられている。
 「まことのいのち」は、領地や権勢の中にあるのではなく、この世の財産の中にあるのでもない。それは、永遠の神との愛の交わりのうちにあるのである。

 

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