神の働き人としての人生とは?
Ⅰコリント4章1-8節
Ⅰコリント1:10から4章の終わりまで、コリント教会に持ち上がった「分派問題」が取り上げられています。この分派は、「ペテロ派」、「パウロ派」、「アポロ派」というように、特定の伝道者を祭り上げて、互いにその正当性を論争する形で行われたようです。「キリスト派」とは、詳細は不明ですが、おそらくキリストとの霊的な関係を強調する排他的なグループだったのでしょう。
先週は、分派を起こした原因の一つである「この世の知恵」への過度の傾倒を取り上げました。今日の箇所は、ペテロやパウロやアポロなどの奉仕者との「人間関係」への過度の傾倒を取り上げます。これが、分派活動の第二の原因と思われるからです。さらに、パウロは、この「人間関係」(横の関係)への傾倒が優勢であった彼らに、「神との関係」(縦の関係)というもう一つの次元を提示します。今日は、このような事柄をご一緒に考えてみたいと思います。
(1)縦糸と横糸からなる世界観
「横の関係」に埋没したコリント人
あなたがたの間には争いがあるそうで、
あなたがたはめいめいに、
「私はパウロにつく」
「私はアポロに」「私はケパに」
「私はキリストにつく」と
言っているということです。 Ⅰコリント1:11b-12コリント教会の過ちの一つは、特定の伝道者との人間関係を偶像化することだったようです。彼らが4つの分派に分かれて論争をしていた根本的な原因に、特定の人間関係を最大の軸に生きていたことがあげられます。なぜなら、このような人間関係によって、人は自らのアイデンティティを見出し、安心が得られると思い込みがちだからです。
コリントの信者たちは、伝道者との人間関係を誇りとしていました。使徒パウロは、神学者としても思想家としても天才的な人物です。伝道者アポロの雄弁は群を抜いていました。弁舌では、恐らく、パウロをも凌ぐと考えた人もいたことでしょう。ペテロは<大使徒>と呼ばれるほどのカリスマ的な指導者でした。彼らはこのような素敵な人間関係を誇りに思い、それがすべてであるかのように、分派を形成していたのです。
すべては、あなたがたのものです。
パウロであれ、アポロであれ、ケパであれ、
また世界であれ、いのちであれ、死であれ、
また現在のものであれ、未来のものであれ、
すべてあなたがたのものです。
そして、あなたがたはキリストのものであり、
キリストは神のものです。 Ⅰコリント3:21b-23しかし、パウロは彼らの視野が一面しか捉えていないことを指摘するのです。それが、上記の文章です。彼らの人間関係を「横の関係」と呼ぶとすると、パウロは「縦の関係」が存在することを指摘します。「縦の関係」とは、「神との関係」です。「神との関係」は、目には見ません。霊的な体験として神を実感することができますが、現実的な面においては、「横の関係」に隠れています。ですから、分かりにくいのです。しかし、確かに存在するのです。というよりも、目に見える「横の関係」よりも、もっと確実なものなのです。
パウロは、このような理解から、彼らのパウロやアポロやペテロとの人間関係が神から与えられたものと考えるべきことを主張しています。それは、「使徒」([ギリシャ語]アポストロス)とういう呼び名からも明らかです。「使徒」とは、神の代言者として派遣された者を意味したのですから、「使徒」は神によって彼らに与えられたものなのです。さらに、すべての人間的な環境や時間と空間的な環境でさえ、神よって与えられたものとしています。このような観点から、「横の関係」に垂直的に介入する「縦の関係」に目に留めるように、パウロは語っているわけです。このように、「横の関係」と「縦の関係」という二つに次元を考慮する時に、「横の関係」に誠実でありながら、それに埋没して主体性を失うことにはならないのです。さらに、「縦の関係」によって、「横の関係」を解釈し、調整し、主体的に「横の関係」に関わるように、人々を促すのです。
「横の関係」の背後にある「縦の関係」
主ご自身がこう言われるのです。
「わたしは決してあなたを離れず、
また、あなたを捨てない。」
そこで、私たちは確信に満ちてこう言います。
「主は私の助け手です。私は恐れません。
人間が、私に対して何ができましょう。」
ヘブル13:5b-6「横の関係」の背後にあって見えない「縦の関係」が現実的に有効であることを考えて見ましょう。先ず、ヘブル13:5-6を見てみましょう。ここで、パウロは、最初に申命記31:6を引用して、その結論として、「横の関係」に対する「縦の関係」の優位を告白しています。
人間の現実的な生の地平において、「縦の関係」が「横の関係」よりも、強力なものとして認識されていることがわかります。神は「横の関係」の背後に隠れてではありますが、主権的に働かれる方として描かれているのです。
主に身を避けることは、
人に信頼するよりもよい。
主に身を避けることは、
君主たちに信頼するよりもよい。
詩篇118:8-9もう一つ、詩篇118:8-9を参考にしましょう。ここにも、「縦の関係」の現実性と有効性が告白されています。この現実性と有効性は、「横の関係」との関わりにおいて述べられていることに、まず注目する必要があります。私たちは、「縦の関係」があるから、「横の関係」から逃げられるというわけではないのです。この意味で、隠遁者的発想は必ず行き詰ることになります。夏目漱石の『草枕』の冒頭に、このような一節があります。
「智(ち)に働けば角(かど)が立つ。情(じょう)に棹(さお)させば流される。意地を通(とお)せば窮屈(きゅうくつ)だ。とかくに人の世は住みにくい。人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣(りょうどな)りにちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。住みにくさが高(こう)じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟(さと)った時、詩が生れて、画(え)が出来る。」
漱石が「住みにくい」と言っているのは、人間関係の点で「生きにくい」ということだと思います。これは、今も昔も同じです。むしろ、今の方が生き方の選択肢が広がっただけ、生き安くなったのではと思います。漱石のような文豪さえ、生きにくさを感じたのであれば、ほかの人はなのさら、そうであったのでしょう。漱石は、「住みにくい」からと言って、そこから逃げられないことを知っています。このように、漱石の視点は、コリント人と同様、「横の関係」に束縛されたものでした。このような制限された視点から、「生きにくさ」を解消するために、「詩」や「画」という芸術があると言いました。しかし、パウロの視点は、「横の関係」における問題を「縦の関係」に解決を求めることができるということなのです。
さらに、「縦の関係」は、「横の関係」を支える基盤と意味を与えてくれるのです。「縦の関係」に生きてこそ、「横の関係」が癒され、調整され、築かれるのです。いろいろな価値観に翻弄される現代人にとって、「縦の関係」は拠り所であり、生きる指針と言えるのではないでしょうか?
(2)垂直的な人生観
「御霊」か「肉」かに属する
さて、兄弟たちよ。私は、あなたがたに向かって、
御霊に属する人に対するようには
話すことができないで、
肉に属する人、キリストにある幼子に
対するように話しました。 Ⅰコリント3:1クリスチャンなったコリント人は、神を信じていましたが、まだ「横の関係」の方が現実的に思え、身近に感じていました。だからと言って、「縦の関係」が非現実であるというわけではありません。彼らの信仰は、まだ知識に偏っていて全人的に神に委ねるまでには至っていなかったということだと思います。知識としては神を知っているが、また、神を体験的に知るまでにはなっていなかったのです。
パウロは、<御霊に属する人>と<肉の属する人>に、キリスト者を分けました。と言っても、これは、厳密な境界線を引いて、「あなたは御霊に属する人、あなたは肉に属する人」とクリスチャンを分類するものではありません。<御霊に属する人>とは、「縦の関係」が優勢な人、すなわち、「現実に生ける神」とともに生きている人のことです。<肉に属する人>とは「横の関係」が優勢な人であると言えます。<肉>([ギリシャ語]サルクス)とは、「生まれながらの罪人としての性質」を意味します、すなわち、生まれた時から慣れ親しんできた、神に離反した「人間性」(理性)のことです。彼らは、まだ「縦の関係」に十分に目覚めていません。あるいは、まだこの世の価値観に留まりたいという情念が強いのです。
「縦の関係」によって自分を解釈する
しかし、私にとっては、あなたがたによる判定、
あるいは、およそ人間による判決を受けることは、
非常に小さなことです。
事実、私は自分で自分をさばくことさえしません。
私にはやましいことは少しもありませんが、
だからといって、それで無罪とされるのではありません。私をさばく方は主です。 Ⅰコリント4:3-4「横の関係」が優勢な人は、他人との比較によって自分を解釈します。日本人にとっては、これは「世間体」を気にするということですね。他人との比較によって自分を判断する人は、優越感と劣等感の呪縛に囚われるのです。これは、大変に辛い精神状態です。しかし、「縦の関係」が優勢な人は、「横の関係」に振り回されることは少ないのです。彼らは、他人との比較に苦しめられることはありません。なぜなら、神によって愛されている自分を認識することから、自分の人生を受容し、神に個別的に与えられたものとしての独自の人生を享受します。こうして、自分が他と比較できない独自の存在であることを発見し、本来の自分に生きることができるのです。比較によっては、このような観点は出てこないのです。
上記のみことばを見てみましょう。パウロは、分派活動を行って、パウロを支持したり、パウロを捨てたりするコリント人の「判定」は取るに足りないことだと言っています。「横の関係」しか見えていない人は、比較に奔走し、比較に翻弄されるのです。ですから、自分固有の人生を生きるために、「縦の関係」は枢軸として重要なのです。
(3)人生に使命を担うという概念
現実の生への召命
私たちは神の作品であって、
良い行いをするために
キリスト・イエスにあって造られたのです。
神は、私たちが良い行いに歩むように、
その良い行いをもあらかじめ
備えてくださったのです。 エペソ2:10近世以来、人間は自らのうちに、さらには自分を取り巻く自然や宇宙の中に、存在の根拠と意味を求めてきました。その結果、自らを、偶然にたまたま存在するようになった、存在の確たる意味なんでない孤独な人間、不条理で偶発的な運命に翻弄される人間と認識するようになったのです。しかし、人間が本当に神の被造物であるのなら、自らや自然(被造物)の中に自己を支える意味を見出すことができないのは、当然のことなのです。意味は、創造主との関係において見出されるのです。
パウロは、上記の箇所でこのことを訴えているのです。ここには、<神の作品>([ギリシャ語]ポイエーマ:つくられたもの、被造物)としてのパウロの認識が表明されています。この理解が基本にあるときに、存在の意味が明らかになり、また、その意味から「いかに生きるべきか」が分かってくるのです。<良い行い>とは、このような「生き方」のことなのです。具体的には、エペソ5-6章で展開されている、夫婦関係、親子関係、社会関係におけるあり方のことです。さらには、霊的な面から言えば、悪霊との戦いに勝利する人生のことなのです。このような点から考えれば、<良い行い>とは、第一には今置かれている環境という現実面における「神のみこころ」であると言えます。現実面から逃避して、別に使命に派遣されることではありません。今の夫婦関係や親子関係や社会関係を、より良きものとすることなのです。あなたの家庭や職場や学校が、<良い行い>の舞台となるのです。
「神のみこころ」をいろいろな関係において行う時に、「神のコミュニケーション」を真似ることが必要です。「神のコミュニケーション」とは、人間の文化脈、さらに個人の理解や習慣のレベルまで降りていって、対話を成立させるということです。このような「神のコミュニケーション」を習得しなければ、関係を破壊することになるのです。
使命への召命(人生の管理者として)
こういうわけで、私たちを、キリストのしもべ、
また神の奥義の管理者だと考えなさい。
この場合、管理者には、忠実であることが
要求されます。 Ⅰコリント4:1-2パウロが述べる人生観のもう一つの側面は、<管理者>という概念です。パウロは、自分を<神の奥義の管理者>と呼んでいます。<管理者>([ギリシャ語]オイコノモス)とは、「一家の事務の全権を委ねられている執事」のことを指します。主人の下で、主人の代理として実務を行うのが、彼らの役割でした。<神の奥義>とは、この場合「神の啓示」としての「福音」を意味します。ですから、パウロは、神の啓示としての福音を伝える「使徒」という、自分に固有な召命のことを語っているわけです。
これは、使徒以外の職務にも言えることです。神の摂理によって、それぞれの職務に<管理者>として召されているのです。<管理者>には、多くの自由が許されています。しかし、その自由は、主人のみこころを目指した方向で使用されるべきものです。主人が貿易商なら、<管理人>は、使用人を雇うにしても、新しい交易路を開拓するにも、主人の商売の方針に従って、決断し行動する自由なのです。こうして、「神のみこころ」と「個人の自由」が調和するのであり、これが、神が望む「神と人との関係」なのです。
というのは、すべてのことが、
神から発し、神によって成り、神に至るからです。
どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。
アーメン。 ローマ11:36最後に、ローマ11:36にある、パウロの基本的な世界観を取り上げたいと思います。ここには、「横の関係」は「縦の関係」に圧倒され、吸収されています。誰がどうあがこうとも、神の摂理を阻むことができるものは存在しません。そして、様々な出来事が絡み合う複雑な世の中で、時間の経過とともに、最終的には「神のみこころ」が勝利するのです。ですから、この神に全面的に委ねて生きることを、パウロは主張するのです。
http://www1.bbiq.jp/hakozaki-cec/PreachFile/2008y/081102.htm