北王国イスラエルは,アッシリヤ軍による3年間のサマリヤ包囲の後,前722年に攻め落された.イスラエルの民はアッシリヤへ移され,北王国イスラエルの歴史は終った(Ⅱ列17:5‐6).アッシリヤ軍は更に南王国ユダに侵攻したが,エルサレムを落すことは出来なかった.それはユダの王ヒゼキヤの信仰に対する主の答によることであった(Ⅱ列18‐19章).しかし,ヒゼキヤに続く王マナセは,このことから学ばず,王としての55年間にユダとエルサレムに取り返しのつかない不信と堕落をもたらした(Ⅱ列21:1‐9).これに対する主のさばき(同21:10‐15)は,マナセ自身の晩年の悔い改め(Ⅱ歴33:10‐17)や,彼の孫ヨシヤの改革(Ⅱ列22:1‐23:25)によっても撤回されることはなかった(同23:26‐27,24:3‐4)
その間,度重なる反乱に対する戦いと被征服民に対する武力による圧制により,アッシリヤの農業は荒廃し,軍隊は弱体化した.前625年にバビロンの王座に着いたナボポラッサルは,翌年アッシリヤ軍を打ち破り,前623年までにはアッシリヤからの独立を果していた.前612年にバビロニヤ軍はメディヤ軍と(恐らくスキタイ軍とも)連合してアッシリヤの首都ニネベを攻め落した。
これに対してエジプトの王パロ・ネコ2世は,バビロニヤに対抗するためにアッシリヤと同盟を結び,エジプト軍はユダを通って北上した.これを阻止しようとしたヨシヤは,前609年戦死した(Ⅱ列23:29,Ⅱ歴35:20‐24).ネコはエルサレムでヨシヤの後に王となったエホアハズを廃し,エルヤキムをエホヤキムと名付けて王にした(Ⅱ列23:34)。
バビロニヤ軍とエジプト=アッシリヤ連合軍との戦いは,前605年にカルケミシュでネブカデネザルの率いるバビロニヤ軍の勝利で終った.これによってネブカデネザルの覇権は,シリヤ全土からパレスチナにまで及んだ.エホヤキムもその支配の下に服した(Ⅱ列24:1).その際,人質が取られたが,その中にダニエルたちが含まれていた(ダニ1:1‐4,前605年)。
エホヤキムは3年間ネブカデネザルに服したが,その後,彼に反逆した(Ⅱ列24:1).それは前601年にバビロニヤ軍とエジプト軍が戦った時両軍の受けた打撃が大きく,バビロニヤ軍が態勢建て直しのため自国に退いていた時期に当る.態勢を建て直したバビロニヤ軍は,再びユダとエルサレムを攻略した.前597年にエルサレムは陥落し,エホヤキムの後に王となっていたエホヤキンは,即位後3か月にして捕えられ,多くの有力者たちと共にバビロンへ移された(Ⅱ列24:8‐16)。
この時捕囚となった人々の中にエゼキエルがいた.エゼキエルの預言活動はこの捕囚の5年目(前593年)に始まった(エゼ1:2)。
ネブカデネザルはエホヤキンのおじ(ヨシヤの第3息子)マタヌヤの名をゼデキヤと改め,王位に就けた(Ⅱ列24:17,前597年).しかし,ゼデキヤは親エジプト派の声に動かされ,反バビロニヤの国々との同盟に加わった(エゼ17:13‐15,エレ27:1‐11,28:1‐4).ゼデキヤはネブカデネザルから召喚されてバビロンへ行った(エレ51:59,前594年頃)が,その後も親エジプト派と親バビロニヤ派の間で揺れていた.最終的には親エジプト派の声を受け入れ,反バビロニヤの立場をとるようになった(Ⅱ列24:20)。
前588年にバビロニヤ軍はエルサレムを包囲した(Ⅱ列25:1).前586年にエルサレムは陥落し,ゼデキヤは捕えられてバビロンへ移された(同25:2‐7).その後エルサレムは破壊され,民は貧しい民の一部を除いて,バビロニヤへ移された(同25:8‐21).この捕囚は,前539年にバビロンを陥落させたペルシヤの王クロスによる帰還の勅令が出るまで続いた(Ⅱ歴36:22‐23)。