イサクの生涯 (1)~(11)


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 イサクの生涯(1) 「身から出る者」   

  (創世記十五章全体)

    信仰によるゼロからの進発

 アブラムがカランを出たときは、七十五才でした(創世記十二の四)。彼の場合は、若さのための未経験のゆえの不安ではなく、高齢のゆえの不安、体力的な不安、環境の変化に順応出来るだろうかという不安がありましたでしょう。「どこに行くのかを知らないで」故郷を後にして「出て行きました」(ヘブル十一の八)。間もなく彼は、飢饉にであいました(創世記十二の十)。その後、アブラムの家畜の牧者たちと甥のロトの家畜の牧者たちとの間に、争いが起こり、ロトと牧草のある地域を分割して争いを避けたのです(創世記十三章)。その後、異郷の王たちに甥のロトとその財産を奪われ追跡して奪い返した結果(創世記十四章)、異郷の王たちににらまれていると思い、アブラムは、王たちを恐れていました。その時、「恐れるな、・・・あなたの受ける報いは非常に大きい。」と主が語られたのです。

 《その報いとは何だろうか。「主よ、私に何をお与えになるのですか。私にはまだ子供がありません。・・・」》このことがアブラムの率直の気持ちではなかったでしょうか。
 そうです。イサクは、アブラムの切なる願いによって与えられた子供でした。彼の期待の応えとして与えられた子供でした。彼の祈りの答えとしての子供がイサクだったのです。イサクは、一節によれば、報いとして神より授けられた子供です。しかし、このところに来るまでのアブラムの忍耐と信仰の生涯は、波乱と不安に満ちていたことでしょう。

    アブラムの焦燥

 アブラムは、その富を相続する子供がまだいませんでした。それで、アブラムは、その時、しもべであったダマスコ出身のエリエゼルを養子に迎えていたようです(二節)。北部メソポタミヤのヌズで発見された紀元前一五〇〇-二〇〇〇年のものと言われる文書によりますと、実子のないときには、その家の奴隷が養子とされて跡継ぎになりうるが、もしその後、実子が生まれた場合には、養嗣子でなく、実子がその跡を継ぐべきことが、明示されています。アブラムの場合にも同じことが行われたのかもしれません。アブラムは、一応、しもべを跡継ぎとはしていたものの、自分の子供のないことに、人間的な寂しさを感じていたのではないでしょうか。それにしても、主が「大いなる国民」とする(十二の二)と約束されたのにもかかわらず、このような形をとらざるをえませんでしたのは、不安と焦燥の結果だったのかも知れません。しかし、神は、このエリエゼルではなく、アブラムの実の子が継ぐべきであると宣言され、空の星の数のようにアブラムの子孫が増すことをお約束くださいました。実の子がアブラムの跡を継ぐのですと宣言された神の言葉に対して、アブラムは、約束をしてくださったお方、神は、真実な方であると信じ(ヘブル十一の十一)、望み得ないのにもかかわらず、なおも望みつつ信じたのでした(ローマ四の十八)。その信仰を神は義と認められたのです。

    信仰の後継者はどこから

 では、アブラムの跡を継がなければならない、「あなた自身から生まれ出て来る者」《身から出る者》(創世記十五の四)とは、私たちにとって一体どういう人のことを指しているのでしょうか。現代の私達にとって大切なことは、実の子供がいるかいないかが重要なのではないと思います。いるならば、彼らが霊の子供になっているかどうかであるでしょうし、もしいないとしても、一人でもイエスさまのお救いに導かせて頂き、霊の子供を生むことが出来ているかどうかではないかと思います。私たち一人一人が今あるのは、私たちのために祈り続け、救いに導いてくださった方、救われた後、何かと指導してくださった教会の兄姉方、さらに、その人たちをも救いに導かれたかたがた・・・・がいたからである、と逆上って行きますと、何か、霊の系図のようなものが出来てくるかも知れません。私たちにとりましての祈りの課題は、これから後、私たち一人一人のあとに、霊の系図がどのようにつながって行くのだろうかということは、救霊の問題でもあり、祈りの課題でもあります。私たちの後に続く霊の系図を見て、傲慢になってしまってはなりませんが、神さまから、星をちりばめた銀河のような祝福に満ちた霊の系図(『思慮深い人々は大空の輝きのように輝き、多くの者を義とした者は、世々限りなく、星のようになる。』ダニエル十二の三)を完成して頂けることを心から祈りたいものです。そのためにも、まずどなたか一人を救いに導かせて頂き、「あなた自身から生まれ出てくる者」、霊の子供を一人与えられるよう祈り始めましょう。

    約束の地の再確約

 さて、アブラムは、神さまの約束を信じて義と認められた(六節)後、さらに神は、「この地をあなたの所有としてあなたに与える。」(七節)と以前に約束されたこと(十二の七、十三の十五)を、もう一度確約してくださいました。そのとき、アブラムは、一つの質問をしました。それは、「神、主よ。それが私の所有であることを、どのようにして知ることが出来ましょうか。」というものでした(八節)。これは、不信仰の言葉ではありません。何故ならば、このすぐ直前に、神は、彼を彼の信仰によって義と認められたからです。アブラムは、ここで信ずる根拠となる何かを求めたのではなかったでしょうか。現代の私たちも、日毎に、あるいは、事あるたびごとに、選択の分岐点で、神の聖言をくださいと主に求めます。特別にそのことのために与えて頂いた聖言を、そうすることの根拠、より所とするように、アブラムもカナンの地が自分の所有となるための根拠を欲しかったに違いありません。

    約束の成就に不可欠の十字架経験

「それらを真っ二つに切り裂き、その半分を互いに向かい合わせにした・・・煙の立つかまどと、燃えているたいまつが、あの切り裂かれたものの間を通り過ぎた。」(十、十七節) これがアブラムが信じる根拠であると、神はおっしゃられるのです。これは何を意味するのでしょうか。十字架を象徴しているといってよいでしょう。「それらを真っ二つに切り裂き」とは、死ぬことであって、十字架を指しています。「あの切り裂かれたものの間を通り過ぎた」とは、死を通ることであって、つまり十字架を経験することを意味しているかも知れません。アブラムはよもや思ってもいなかったでしょうが、その後何年かしてやっと与えられたひとりごのイサクを、しかも、かわいい盛りでたくましく育ちつつある途上のイサクを祭壇のうえに献げるという試みに遭遇したのですが(創世記二十二章)、これは、アブラムにとって十字架そのものでした。自我に砕かれ、自分に死んで初めて、すべてを主に明け渡すことが出来たのでした。この霊の経験を通過しなくては、あの「・・・ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」(四節)との約束は、成就しなかったでしょう。ここで神は、アブラムに、彼がこの地を嗣業として得ることが出来るのは、十字架経験によるのであり、十字架によって自我が砕かれて初めて、彼の跡継ぎが将来において、この地上に立つことが出来ると言っておられるのではないでしょうか。

    私たちと十字架経験

 私たちの霊的生活の基本は、何といっても十字架経験がはっきりしているかどうかではないかと思います。十字架経験を明確にしたとき、地上において神のために生きることが出来るのではないでしょうか。仮に、誰かが十字架について説明出来たとしても、もしその人が十字架の上のイエスさまからのお取り扱いを頂いておりませんならば、霊的な役割を果たすことは出来ないことでしょう。ただ十字架を通り過ぎたものだけに、煙の立つかまどがあり、燃えているたいまつがあるのだということを、主は私たちに見せておられるように思います。言い換えますと、ただ死を通り過ぎた者こそ、試練を受けて潔められ、真実の明かりがあるのではないでしょうか。
 ここに多くの人達の問題点があるのかも知れません。肩書の数を数えてみたり、事あるたびごとに、無意識のうちに自分を宣伝してみたり、多くの人達は幼稚なことをやっていては、そうだとは気が付かないのです。少しの力があり、他の人と比べて少しでも働きがあると、自分は主の手にあって神のために大いに役立つ者であると思い込み、うぬぼれてしまいます。中身を見ると、実質的には、そうではないのです。つい、自分が、何者かになってしまう誘惑に無意識のうちに陥ってしまうことはないでしょうか。自分が何様かであるかのような気分になったとしても、それは錯覚であり、かえって幼さの現れではないかと思います。

    主の働きの中に何を持ち込むか

 問題はどこにあるのでしょうか。主の働きの中に、何を持ち込むかということに原因があるのではないでしょうか。もし私たちが、自分自身についての誇りや、うぬぼれたいことや、見えっ張りの心を、主の働きの中に持ち込んで来るとするなら、もうそれで、その人は失敗です。なぜ失敗なのでしょうか。その人の失敗は、話が下手だからではありません。力不足だからでもありません。それは、「あなた」というその人自身が間違っているからではないでしょうか。つまり十字架経験がその人にないからです。自我が磔殺(たくさつ)されていないからです。自分が死んでいないからです。そして自分に死んでいないからです。初めには霊から語り始めたのに、だんだんと肉がちらついて来るのです。初めは主によって語っても、何と容易に、いつの間にか自分によって語ってしまっているのです。十字架の主の死の効力は、私たちを潔い者にしてくださいます。煙の立つかまどの前には、燃えているたいまつのまえには、必ず死があります。十字架があるのです。十字架のお取り扱いを受けていないならば、その人は、いくら聡明で、知識があり、話がとても上手であっても、その人には、人を刺し通すような光はありません。ですから、主のために働くということは、人の聡明さや知識によってなされるものではなく、その人自身が、《十字架の経歴》(ガラテヤ二の二十)を必要とするものではないでしょうか。十字架を認識している人、十字架の経歴をもっている人だけが、初めて、神の前に立つことが出来ると、主は、この聖書の個所で訴えておられます。

    主が働かれるとき

 アブラムが何頭かの生き物を連れて来て、二つに裂き、裂いたものを互いに向かい合わせて置いた後、《彼は深い眠りに襲われました。すると突然、暗黒の恐怖が彼を襲ったのです。》(十二節)十字架が何であるかを経験していないと、暗黒が襲っても、余裕しゃくしゃくで、暗黒など恐るべきものだなどと、思ってもいないのです。しかし、十字架が何であるかを経験している人は、自分には何一つ方法がなく、自分はとてもだめだということを、すなわち、自分の力では、暗闇に打ち勝つなど全く出来ないということを認識しているのです。自分の弱さをいやというほどに見せつけられ、自分は神の恵みと力とを頂かないと、何もすることが出来ないし、また、何かをするに相応しくないと気づいたとき、そのときこそ、神さまが力強く働いてくださるときであり、その人が主のために本当の意味で働きを開始するときではないでしょうか。
 アブラムは、どのようにして跡継ぎを与えられ、この地を所有とすることが出来たのでしょうか。繰り返しますが、彼は、死を通り過ぎ、十字架を通り過ぎることによってであります。そうして初めて、この地で神のために生きることが出来るのではないでしょうか。


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