モルモン教とキリスト教の違い
キリスト教がある人には真実で、他の人にはそうではないというようなことがあるのでしょうか。
マーク・ハンサード
モルモン教とキリスト教との違いについて疑問をもたれている方がおられるかもしれません。今日は少しその違いについて触れてみたいと思います。
モルモン教をキリスト教の一派だと考えている人が多いようです。それもそのはず、モルモン教でも、「神」、「イエス・キリスト」、「聖書」と言った言葉を頻繁に用いるからです。しかし、モルモン教の人たちはクリスチャンとは違った意味でこれらの言葉を使用するのだと言うことを知っていなければなりません。
一つの例を挙げてみましょう。クリスチャンが「神」という言葉を用いるとき、それはこの転地万物を創造された、永遠の中に存在する唯一の神を意味します。しかしモルモン教の場合はそうではありません。彼らは多くの神が存在すると信じており、そのすべての神は以前は人間であったと考えているのです。つまり彼らが「父なる神」という言葉を使うとき、それは人間から進化した神が今この地上を支配しているという意味になるのです。モルモン教の創設者であるジョセフ・スミスはこう語っています。「全ての神々がそうしたように・・・あなたがたも神になれるよう良く学ぶ必要がある。」[<1]
モルモン教では、この神になるための条件として、完全になること、またモルモン教の信条や儀式を完全に守り行うことをあげているのです。
モルモン教同様、世界にある様々な宗教はこの様に完全になることや、宗教的儀式を守り行なうことに焦点をおきます。
新約聖書の中で、パウロという人は彼がイエス・キリストを信じるようになる前どれほど宗教的な人間であったかを説明しています。彼はパリサイ派という最も厳格なユダヤ教の一派に属し、すべての教えを堅く守っていたと言っています。あげくの果てにはその宗教的熱心さのゆえに、イエス・キリストを信じ、またその教えを説く者たちを迫害、投獄し、また死にさえも至らしめたと告白しているのです。しかしその後イエス・キリストを信じるようになったパウロは、それまでより頼んでいた宗教的努力を捨て去り、ただイエス・キリストに信頼することを学ぶようになったわけです。パウロは新約聖書の中で、宗教的な努力により頼むことをしないようにわたしたちに訴えかけているのです。どんなに努力を重ねても私たちは完全になることはできません。逆に私達が完全になろうとすればするほど、私たちは自分自身の中にある「罪」というものの存在に気づかされると聖書は教えています。
そうではなく、神様はわたしたちとの個人的な関係を望まれているのです。イエス・キリストは私たちの罪を背負って身代わりに十字架にかかってくださいました。つまり私たちは自分のとがを自分自身で背負う必要がなくなったのです。私たちはどんなに頑張っても自分自身の罪を償うことはできません。その代わりにイエス・キリストが私たちの罪の代価を支払ってくださったのです。私たちにできることはただこのことを感謝して受け取り、イエス・キリストとの個人的な関係を回復することだけなのです。パウロは新約聖書の中でこの様に言っています。「キリストの中にあるものと認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。」(ピリピ3:9)
またこのようにも書かれています。「すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。全ての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないのゆえに、値なしに義と認められるのです。」(ローマ3:22-24)
神様はあなたとの個人的な関係を持ちたいと願っておられます。もしあなたが神様からの罪の赦しを受け取りたいと思うなら、今すぐそれを手に入れることができます。[コネクション]という項目をお読みいただければ、そこにどうすればよいのかが書かれています。またイエス・キリストという方についてもっとお知りになりたい方は[「盲目の信仰を超えて」]という記事をお読み下さい。
(1) ジョセフ・スミス著 Journal of Discourses,6:4
イエス・キリストとの個人的な関係を持つには
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