喜びの献げ物
マラキ書1章1節―3節、3章8節―10節、3章23節―24節
はじめに
本日は、旧約聖書にみんなで親しむという趣旨で、旧約聖書からのお話です。聖書は救いの書として、罪人であるわたしたち人間の救いを権威をもって教えていますが、旧約聖書は救い主キリストが出現する前に書かれ、新約聖書はキリストが出現してから書かれました。
そこで、本日は、旧約聖書の最後のマラキ書の説教ですが、正直なところ、あまりなじみがないかもしれません。マラキ書の説教を聞いたことがあるという方はあまりいないでしょう。わたしも、聞いたことがないのですが、自分では、以前に、教会の祈祷会で、1章1回の割で、数回お話したことを思い出します。
そこで、今回、ご一緒にマラキ書を学びたいと思いますが、マラキ書の特色は、3つあります。ひとつ目は、イスラエルが、神の愛を疑ったことです。2つ目は、イスラエルは、十分の一の献げ物をしなかったことです。3つ目は、神は救い主メシアのさきがけとして、洗礼者ヨハネを遣わすという予告をしたことですが、これら、3つをお話すると、かなり時間が長くなるので、3つ目の神は救い主メシアのさきがけとして、洗礼者ヨハネを遣わすという予告をしたことについては、割愛させていただきます。できるだけ、わかりやすくお話できればと願っています。
1.マラキ時代のイスラエルの霊的状況はひどいものでした
それで、まず、わたしたちは、マラキ書の理解のため、マラキという人物がいつの時代のどのような人物かを見ましょう。名前から見ておきますと、マラキというのは、わたしの使者、わたしのメッセンジャーという意味です。すなわち、わたしとは、神のことです。ですから、神から遣わされたメッセンジャーという意味です。神から遣わされて、神の言葉、神のメーセージをイスラエルの人々に語る働きをする人、すなわち、預言者です。
キリストよりも4百数十年前のイスラエルの預言者です。そして、神は、マラキを用いて、イスラエルの民に内容がとても重いメッセージを語らせました。
すなわち、当時は、バビロン捕囚から帰ってきて、エルサレム神殿を再建し、神礼拝を再開してから、約百年経過していましたが、人々は、信仰の熱意を失い、形だけの礼拝をしていました。そのため、心が神から離れ、いろいろな罪がイスラエル社会に広がっていました。それゆえ、神の祝福はありませんでした。そのままでは、神から裁かれ、審判されてしまいます。
そこで、預言者マラキは、イスラエルの人々が、神から裁かれないように、罪を悔い改め、信仰の姿勢をもう一度根本から整え直すようにとのメッセージを担わされたのです。これは、重いメッセージでした。
1章1節に「託宣。マラキによってイスラエルに臨んだ主の言葉。」とありますが、「託宣」というのは、もともと、「重荷」という意味です。ですから、直訳すれば、「重荷。マラキによってイスラエルに臨んだ主の言葉。」となります。
そして、その重荷の意味は、預言者とされたマラキが、イスラエルの人々に語らねばならなかったメッセージ、主の言葉は、悔い改めなければ、裁かれますよというとても重い内容のものであったことを冒頭で読者に伝えています。
ですから、暗い感じがします。それに比べると、キリストが出現した新約時代は、冒頭から、明るさと希望が強く感じられます。たとえば、新約聖書の最初の書物のマタイによる福音書1章1節を見れば、「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。」と力強く言われていて、アブラハムおよびダビデの子孫の救い主イエス・キリストがついに出現してくださいました。その系図を記しますという意味で、喜びと希望が弾んでいて、読者の心を明るくします。
さて、では、マラキが預言者とされた、キリストよりも4百数十年前のイスラエルはどのような状況だったのでしょう。すると、霊的にひどい時代でした。バビロン捕囚から帰ってきて、エルサレム神殿を再建し、神礼拝を再開してから、約百年経過していましたが、人々は、神礼拝ができることがどんなにすばらしいことかを理解しようとせず、信仰の熱意を失い、形だけの礼拝をしていました。そのため、心が神から離れ、いろいろな罪がイスラエル社会に広がっていました。
たとえば、罪の赦しのために神にいけにえとして献げる動物は、本来、傷のない最良のものを献げるように命じられていました。ところが、イスラエルの人々は、エルサレム神殿で、自分たちの罪の赦しを願うため、祭司に儀式をしてもらうとき、自分たちがもっている一番質が悪い動物を平気で神に献げていました。目がつぶれた動物、足が折れた動物、病気にかかった動物、さらに、他の人から盗んできた動
物を平気で神に献げていました。1章8節、13節、14節で言われている通りです。ひどいでしょう。人にだってそんな失礼なことしなかったのに、神に対して平気でしていたのです。信仰がゆるんでいました。
また、イスラエルの夫たちは、若いときに娶った妻が、年取ったときに、自分勝手に離縁し、周囲の外国の若い娘を平気で娶って、楽しく暮らことが流行しました。そのため、離縁された年取った妻たちが、困り、苦しみ、路頭に迷い、嘆きました。これもひどいでしょう。夫婦は生涯連れ添って愛情を完成させていくべきものです。2章14節から16節に記されています。
また、イスラエルの人々は、禁止されていた呪術に平気で頼りました。神に対して守る気持ちが最初からないのに、神に平気で偽りの誓いをしました。農園の主人たちは、労働者をさんざん働かせて、賃金を払いませんでした。自分の周囲の貧しいやもめ、みなしご、寄留者を見ても、人々は見ぬふりで、助けの手を差し伸べることをまったくしませんでした。これらのことは、3章5節に記されています。
さらに、このあと丁寧にお話しますが、イスラエルの人々は、旧約時代の十分の一の献げもののおきてを平気で破っていました。3章6節から12節がそうです。
このように、当時のイスラエルには、信仰のゆるみから来るいろいろな罪が広がっていました。それゆえ、もちろん、神からの祝福はありませんでした。逆に、神は、イスラエルが罪を悔い改めるため、こらしめとして、いなごによる作物不作や、ぶどうが実らなかったりしました。
すると、イスラエルの人々は、自分たちの罪に原因があると思わず、神が悪い、神に原因があると考えました。そして、神に仕え従うことなどむなしい、神など礼拝してもつまらない、何の益もないとすねていました。
3章14節で、「神に仕えることはむなしい。たとえ、その戒めを守っても/万軍の主の御前を/喪に服している人のように歩いても/何の益があろうか。」と言われている通りです。
この意味は、神に信仰をもって仕え従うことなどむなしい、すなわち、空虚で、無価値である。また、喪に服している人が悲しむように、神の御前で、自分の罪を思って悲しみ、そして、反省し、悔い改めることなど、何の益ももたらさない。だから、わたしは、喪に服している人が悲しむように、神の御前で、自分の罪を思って悲しみ、反省し、悔い改めることなどしない。そんなことは、何の得にもならないと逆切れしている意味です。要するに、罪を悲しんで悔い改めたりしません。そんなことより、上手に立ち回って、甘い汁を吸った方が、得ですよという意味です。ぜんぜん、信仰のよい香りがしません。神の民は、信仰のよい香りがするものですが、ぜんぜんしないでしょう。クリスチャンもそうです。必ず、キリストのよい香りがします。でも、当時の神の民イスラエルの人々は、信仰、心、良心がまひ状態でした。
そして、極めつけは、神からの祝福がないのは、神が悪いとし、神に原因があると考えたことです。神が、イスラエルを愛していないからだ。自分たちは何も悪くない。神が自分たちを愛していないからだ、すべては神のせいと考えていました。
これが、キリスト出現の4百数十年前のマラキの時代の神の民と言われるイスラエルの状況でした。わたしたちは、神の民が何という有様だと言うかもしれません。そして、これじゃ、だめだよな、神から祝福されないよなと言うでしょう。
でも、わたしたちも、このようにならないとは、言えないかもしれません。長い信仰の生涯において、わたしたちも、信仰の熱意を失い、神を信仰して何の益があるのか、神を礼拝して何の得があるのかと思ってしまうときがあるかもしれません。そのようなときには、わたしたちも、この旧約聖書のマラキ書を思い出し、読み直し、信仰の姿勢を整えたいと思います。そして、恵みにより、整え、生き生きとした、はつらつとした信仰生活に戻り、豊かな祝福を神から受けることができることを覚えておきたいと思います。
2.神は、イスラエルを変わらず愛していました
さあ、これで、マラキの時代の礼霊的状況がわかりました。では、神は、マラキを通し、どのようにイスラエルに語ったでしょう。すると、まず、第1に、神は、御自分は、イスラエルをなお変わらず愛していることを力強く教えてくださいました。それが、1章2節から3節です。
イスラエルの人々は、神は、自分たちを愛していない、愛しているというなら、いったいどのように愛してくださったのか教えて欲しいとうそぶいていました。
そこで、神は、イスラエル民族の先祖のヤコブとエドム人の先祖のエサウを引き合いに出して教えました。そこに、ヤコブとエサウが出てきますが、ヤコブはイスラエルの先祖です。エサウは、死海の南東部に住むエドム人の先祖ですが、ヤコブとエサウは、創世記25章19節以下に記されていますように、イスラエルの先祖のイサクから生まれた双子の兄弟でした。でも、エサウが先に出てきたので、エサウが兄となり、タッチの差でヤコブが弟となりました。
それゆえ、エサウは、兄として長子の特権、すなわち、跡継ぎとして、父イサクから救いの祝福とこの世の祝福を受け継ぐ権利を持っていました。でも、ヤコブは、弟でしたので、長子の特権はありませんで、救いの祝福は得られず、この世の祝福しか受けられませんでした。
ところが、兄、長子のエサウは、信仰的なもの、霊的なものを軽んじました。あるとき、狩から帰ってきて、お腹が減りました。すると、弟ヤコブが煮ていたレンズ豆の煮物と交換に、長子の特権をヤコブに与えてしまいました。
こうして、ヤコブは、何と弟だったのに兄の長子の特権を手に入れ、父イサクから救いの祝福とこの世の祝福を受け継ぐことになりました。そして、その後、紆余曲折がありましたが、実際に、ヤコブは、父イサクから救いの祝福とこの世の祝福を受け継ぎ、神に愛されるイスラエル民族の先祖になり、後にイスラエル民族は、肥沃なイスラエルの地に住むことになりました。
一方、エサウは、長子の特権を失ったため、救いの祝福を失い、この世の祝福だけで生きる民族になりました。そして、エサウの子孫であるエドム人は、死海南東の岩山に住みつき、岩の高台に難攻不落と言われた町を作り、そこで生きていきました。
ですから、イスラエルとエドム人は、血がつながった民族でしたが、そのようないきさつがあったので、エドム人は、常に、ヤコブの子孫のイスラエルを敵視して、非人道的なひどいことをしました。たとえば、バビロン軍の攻撃により、エルサレムが陥落炎上したとき、エドム人は、イスラエルを助けず、手を打って喜び、さらに、これ幸いと、エルサレムに侵入し、さんざん略奪をしました。
では、それからどうなったでしょう。確かに、イスラエルは、バビロンに捕虜として捕らわれました。でも、神が変わらず愛してくださったので、再び、イスラエルの地に帰り、エルサレム神殿まで建て直し、神礼拝を再開することさえもできたのです。これは、常識を超える神の大きな愛でした。
では、他方、エサウの子孫のエドム人はどうなったでしょう。すると、エルサレムが、バビロン軍により、陥落炎上させられてから、4年もしないうちに、今度は、自分たちが、バビロン軍に攻められ危うくなりました。さらにその後、アラビヤ砂漠のナバテヤ人という民族に攻められ、自分たちの町が廃墟にされてしまい、やむなく、イスラエル領の南部のユダの地に逃げてきました。そして、最後には、イスラエルの民に併合、吸収され、エドム人という民族は、歴史から姿を消してしまいました。
両者の違いは何でしょう。すると、神は、イスラエルをより愛し、エドム人を「憎んだ」、すなわち、より少ししか愛さなかったからです。
それゆえ、ヤコブの子孫のイスラエルには、回復がありましたが、エサウの子孫のエドム人には回復がありませんでした。ヤコブの子孫のイスラエルは、バビロン軍により、人間の目から見れば、致命的打撃を受けても、何と、ちゃんと再び、エルサレムに帰り、しかも、エルサレム神殿を再建し、神に造られた人間として一番大切な、神礼拝を再開できたのです。これは、すべて神の大きな愛によることでした。
でも、エサウの子孫のエドム人は、町が破壊されても、再建できず、流れ流れて、最後には、自分たちが敵視してきたイスラエルに併合、吸収され、民族として地上から消滅してしまい、回復がありませんでした。エドム人が住んでいた山は、荒廃し、荒れ廃れ、エドム人の「嗣業」、すなわち、エドム人が受け継いだ地は、荒れ野となり、野の獣のジャッカルの住処となり、回復はなかったのです。
なお、1章2節と3節の「わたしはヤコブを愛し エサウ
を憎んだ。」の「憎んだ」という言い方に、わたしたちはびっくりするかもしれません。確かに。激しい言葉ですが、意味は、憎しみだけで、愛がまったくないというのでなく、より少ししか愛さなかったという意味です。ヤコブに与えたと同じ祝福をエサウには与えなかったという意味です。
ですから、イスラエルは、歴史の事実として、神の大きな愛で変わらず愛されていたのです。バビロン捕囚から帰ってきて、エルサレム神殿を再建し、神礼拝をしながら人生を歩めることは、神の大きな愛による祝福なのです。神を礼拝できること以上に大きな祝福はないのです。イスラエルの人々は、これに気づき、心から感謝し、喜ぶべきでした。
今日もそうです。わたしたち、人間にとり、わたしたちの造り主である真の神を礼拝できること以上の祝福などありません。神礼拝は、人間の最高の祝福です。神礼拝が最高の祝福と知ることが大事です。そして、神礼拝を通して、聖霊の豊かな働きにあずかり、自分の人生を動かしていく心、魂、霊魂、精神が、救いの喜びで満ち溢れることが大切です。人間が、神礼拝できなくたったら大変です。暗黒です。希望がありません。でも、神礼拝がある限り、人類は、恵みにより、すべての罪を赦され、明るく、希望を持ち、神との心満たされるまじわりで、1日1日大きな価値を持ってこの世界で胸を張り、神から与えられた使命感をもって喜んで生きていけます。これは、すべて神がなおわたしたちを大きな愛で愛してくださっていることによります。礼拝は、神の大きな愛のしるしです。
3.イスラエルは、十分の一の献げ物の定めを平気で破っていました
さて、では、イスラエルが、十分の一の献げ物の定めを平気で破っていたことについて、神は、どのように教えたでしょう。3章8節から10節を開きましょう。すると、神は、それは、イスラエルの民が、神のものを盗んでいるのと同じだと言って、これからは、十分の一の献げ物の定めを喜んで守るように、そうすれば、神は、天の窓を開いて、雨を降り注ぐように、祝福をイスラエルの民に豊かに与えてくださることを力強く約束してくださいました。
8節、9節に「偽る」という言葉が、4回も出てきて、目立っていますが、「偽る」という言葉は、もともと、「盗む」という言葉です。ですから、8節、9節は、実は、もともとは、これまでの口語訳聖書のように、「人は神の物を盗むことをするだろうか。しかしあなたがたは、わたしの物を盗んでいる。あなたがたはまた『どうしてわれわれは、あなたの物を盗んでいるのか』と言う。十分の一と、ささげ物をもってである。あなたがたは、のろいをもって、のろわれる。あなたがたすべての国民は、わたしの物を盗んでいるからである。」となりまして、激しいすさまじい表現になっています。
初めて読む人は、びっくりするかもしえません。十分の一の献げ物をしないと、神のものを盗むことになるのか。それじゃ、わたしは、クリスチャンになれないと誤解してしまうかもしれせん。クリスチャンには、いくらでもなれますので、誤解がないように、丁寧にお話します。
それで、十分の一の献げ物という言い方が、8節と10節で2回出ていますが、これは、旧約時代の神の民イスラエルに対する神の命令、律法、おきて、戒めでした。イスラエルの民が、奴隷であったエジプトから。神の立てた指導者モーセにより、出エジプトして、肥沃なカナンの地、すなわち、パレスチナの地を目指して、40年の荒れ野の旅が始まったとき、シナイ山のふもとで、神は、イスラエルと契約を結び、世界の多くの民の中で、イスラエルの民だけを特別に神の民として、救いと祝福と永遠の生命を恵みとして与えることを約束してくださいました。
そこで、神は、罪が赦され、救われたことに対し、イスラエルの民が喜びと感謝の心から、十分の一の献げ物をするように命じました。たとえば、旧約聖書のレビ記27章30節と32節で「土地から取れる収穫量の十分の一は、穀物であれ、果実であれ、主のものである。それは聖なるもので主に属す。・・・・牛や羊の群れの十分の一については、牧者の杖の下をくぐる十頭目のものはすべて、聖なるもので主に属する。」と命じていました。
すなわち、農作物の収穫をしたとき、喜び感謝して、十分の一を神に献げるように、また、牛や羊などの家畜の十分の一を、喜び感謝して、神に献げるようにという意味です。
それで、根本的に大切なことは、神の恵みにより、自分たちの罪がすべて赦され、救われて、神とのまじわりに心満たされて生きることが、どんなにすばらしく、無限の価値をもつか、それゆえ、この世のものをどれだけ多く献げても、感謝しきれない、でも、感謝のしるし、また、自分たちの献身のしるしとして、十分の一を神に献げるというということをよく理解したうえで、献げることが大切でした。
この根本的思いが抜けてしまうと、神への献げ物は、単なる負担、重荷となります。また、神に無理矢理取られるものと感じてしまい、献げるのが惜しくなったり、しぶしぶ献げたりになってしまいます。また、献げても、何の意味もない、献げるよりも、自分たちで使った方がよいということになります。実際、マラキの時代にそのようになり、イスラエルの民は、十分の一を献げることをしませんでした。
そこで、神は、マラキを通し、恵みにより、イスラエルの民が、罪をすべて赦され、救われて、神とのまじわりに心満たされて生きていることが、どんなにすばらしく、無限の価値をもっているかをよく理解し、感謝のしるし、また、自分たちの献身のしるしとして、十分の一を神に献げるようにしなさい。そうすれば、神は、天の窓を開いて、雨を降らすように、イスラエルの民に、農作物やぶどうの豊かな収穫を、再び、祝福として与えることを約束してくださったのです。
それで、ここで、特に、注目すべき驚くべきことがあります。それは、10節で、神は、イスラエルの民が、農作物や牛や羊などの家畜の十分の一を、「倉、また、「わたしの家」、すなわち、神の家と呼ばれる貯蔵庫にちゃんと納めなさい。そして、神が、その十分の一の献げ物を祝福しないかどうか、試してみなさいと言っていることです。
これは、驚くべき発言です。なぜなら、神は、以前から、わたしを試してはならないと命じていたからです。旧約聖書の申命記6章16節で「あなたたちの神、主を試してはならない。」と言われている通りです。その意味は、神が、イスラエルに対して恵み深いかどうかを試すようなことをしてはならないという意味です。なぜなら、神が、恵み深いことは真実で疑う必要がまったくないからです。
後に、イエス様もそうでした。救い主メシアのイエス様が、出現したとき、サタンは、荒れ野でイエス様を誘惑し、イエス様が、人類のための救いの道を開かないようにするため、エルサレム神殿の屋根にイエス様を立たせ、言いました。天の神が、イエス様を愛して、守るか、試してみたらどうか。この高い屋根から飛び降りても、イエス様が、打ちつけられないように、天の神が天使を遣わして、イエス様を守るかどうか、試してみたらどうかと誘いました。
すると、イエス様は、申命記6章16節「あなたの神である主を試してはならない」という御言葉を引用して、サタンの誘惑を退けました。こうして、神は、御自分が、恵み深いことは真実なので、神を試してはいけないと常々教えてきました。
ところが、全聖書の中で、このマラキ書1箇所だけ、人間が、神を試しなさいと積極的に命じているのです。神は、イスラエルの民が、十分の一の献げ物を喜んでしたときに祝福しないかどうか試してみなさいと命じたのです。その意味は、もちろん、イスラエルの民が、喜んで十分の一の献げ物をすれば、天の窓を開いて、それにまさる豊かな祝福を必ずしますよという意味です。
そして、興味深いのは、「天の窓」の窓は、複数形になっています。ですから、天の窓をひとつだけ開いて祝福するのでなく、天の窓を全部がらっと開いて祝福するというとても印象深い、読者は、一度聞いたら忘れられない言い方になっています。
こうして、マラキ書は、神への献げ物に対する神からの豊かな祝福を力強く読者に教える書物としてとてもよく知られているのです。クリスチャンは、マラキ書といえば、神への献げ物を教える書物だよなと言うでしょう。
本当にそうです。今日は、旧約時代でなく、救い主のイエス様が出現した新約時代です。それゆえ、旧約時代の十分の一のおきては、使命を果たして拘束力を失いました。その証拠に、キリストの教会が成立した新約聖書には、十分の一の献げ物をしなさいという言い方はどこにもありません。
それよりは、神への献げ物の根本精神をより強く教えるようになりました。すなわち、神の子キリストの十字架の深い苦悶と死により、救われていることを心から感謝し、喜んで献げることを強調しました。そこで、1世紀の伝道者パウロは、「各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。」とコリントの信徒への手紙二9章7節で教え、献げ物は、神から無理矢理取られるかのように惜しんだり、しぶしぶ献げるのでなく、喜んで進んで自発的に献げるように力強く教えました。
では、十分の一という教えはどうなったかというと、クリスチャンは、みんなでそれを目指しましょうという目標となったのです。もちろん、十分の一を献げられなかったら祝福されないなどいうことはありません。根本的に大切なことは、キリストの血のあがないにより、自分のすべての罪が赦され、救われて、神とのまじわりで心満たされこの世界で生かされていることが、どんなにすばらしく、無限の価値をもっているか、それゆえ、この世のものをどれだけ多く献げても、感謝しきれない、でも、自分の心から感謝のしるし、また、自分の献身のしるしとして、献げれば、この世界とこの世界に満つるすべてのものの真の所有者である偉大でいつくしみ深い神は、天の窓を全部がらっと開いて、あなたとあなたの家庭を必ず豊かに祝福してくださるのです。この根本を信仰でよく理解したうえで、わたしたちは、これからも喜んでみんなで献げていきましょう。
結び
以上のようにして、旧約聖書のマラキ書を見ます。わたしたちは、わたしたちに向けられた神の大きな愛を心の深みにおいて確信し、神礼拝を豊かな祝福として覚え、キリストの犠牲により、救われていることを感謝し、喜んで神への献げ物をし、希望を持って明るくよい人生を歩んでいきたいと思います。聖霊の導きと恵みを、みんなで祈りましょう。
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