信仰者ギデオン
士師記7章1節―21節
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はじめに
本日は、旧約聖書の土師記のお話をします。土師記というのは、どのようなものかと言いますと、出エジプトしたイスラエルの民が、40年間の荒野の旅の後、約束の地であるカナンの地、パレスチナの地に定住してからの200年間あるいは300年間の歴史を描いているものです。
では、その期間は、どんな状態であったかといいますと、イスラエルの民は、約束の地を与えてくださった慈しみ深い神を、しばしば忘れ、他の神々に心を寄せたのです。人間というのは心が弱いものです。真の神から大きな祝福を受けたにもかかわらず、真の神を忘れてしまう弱いものです。
そして、イスラエルの民が真の神を忘れると、イスラエルは力が弱くなり、周囲の異教の民を族から攻められ、支配され、苦しむのです。そこで、イスラエルの民は、反省し、悔い改め、真の神の助けを求めるのです。すると、恵み深い神は、イスラエルの民の求めをその都度、何回でも受け入れ、イスラエルの民によい指導者を与え、異教の民の支配から解放されるのです。このパターンが、何回も繰り返されるのです。
それで、そのことには霊的な真理があります。今日のわたしたち罪人は、真の神を忘れて、人生を歩もうとしますが、そのときには、わたしたちは罪の力に支配されます。しかし、その生き方を変え、神が与えてくださった救い主イエス・キリストに従うときに、わたしたちの人生は、罪の支配から解放され、真の自由が与えられることによく似ているのです。
ちなみに、「土師」というのは、「さばいて治める者」という意味です。すなわち、「イスラエルに生じる問題を上手に扱って治めていく者」という意味です。一言でいえば、当時のイスラエルの指導者のことです。いろいろな問題を上手にさばいて、イスラエルをうまくまとめていく働きをする者のことで、一言でいえば、指導者のことです。
そして、この土師記には、12人の土師、すなわち、12人の指導者が出てきますが、今晩は、ギデオンについてです。ギデオンといえば、今日、ホテルや学校などに聖書の無料配布を行っているギデオン聖書協会というのがありますが、そのギデオン聖書協会も、今晩お話しするこのギデオンの名前をとったものです。
それで、ギデオンは、軍人でもなく、武人でもなく、ひとりの農夫に過ぎないものでした。しかし、神は、ギデオンをやさしく何度も励まし、イスラエルの敵であったミデアン人との戦いの指導者として立てたのです。そして、ギデオンも、神の励ましに従順に従い、ミデアン人との戦いに勝利するのです。こうして、ひとりの信仰の人ギデオンを通し、多くの人々が祝福を受けるのです。信仰は、いつの時代でも、自分と自分の周囲の人々に、必ず豊かな祝福をもたらします。
そこで、今晩は、ギデオンは、わずか3百人で、13万5千人の敵に勝利した出来事についてお話しをします。
1.ミデアン人が攻めてきました
早速聖書に入りましょう。あまり細かいところに入らないで大きな流れで見ていくことにいたします。さて、では、ギデオンと沙漠の遊牧民族で気の荒いミデアン人との戦いは、どこで、どんなふうになされたでしょう。すると、別名、エルバアルと呼ばれたギデオンは、イスラエル北部のガリラヤ湖から西南へ20キロほど離れた「エン・ハロド」、すなわち、ハロデの泉というところに陣を敷きました。他方、敵のミデアン人は、イスラエルよりも北側に陣取って、両者がにらみ合いました。
1節に「エン・ハロデのほとりに陣を敷いた」とありますが、「エン・ハロデ」というのは、ヘブル語で「断続的に吹き出す泉」という意味です。従いまして、一定の間隔をおいて、水がゴボゴ吹き出してくる泉であったろうと思われます。一説では、大変、水の量の多い、またとてもきれいな泉で、直径20メートルほどの池のようになっていたといわれています。砂漠地帯のイスラエルにおいて、それほど大きくて、水の量の多いにじみというのは珍しかったでしょう。そこで、ギデオンは、水がなくなって、喉が乾くという心配のない、この泉のそばに、イスラエルの人々を集めて、陣を敷いたと考えられます。
では、その時、ギデオンとともに戦うイスラエルの人々はどのぐらいいたかと言いますと、3節からもわかるように、最初、3万2千人いました。そして、3万2千人もの人々がいても、これだけ豊かな水のあるところなら心配がないとギデオンは考えたのでしょう。戦いの時に、水がなくなって、喉が乾いたら戦いは負けてしまうでしょう。しかし、その心配がないところに、ギデオンは陣を敷きました。
では、他方、敵のミデアン人およびミデアン人の連合軍は合わせてどのぐらいいたでしょう。すると、次の8章10節から13万5千人いたことがわかります。すなわち、ギデオンが率いるイスラエルの人々は、3万2千人でしたから、その4倍もいました。したがって、人間的にみれば、勝敗はもう見えていました。人間的にみれば、イスラエルは間違いなく、ミデアン人日本負ける状態でした。3万2千人と13万5千人が戦って、どちらが勝つかといえば、13万5千人の方が勝ちに決まっています。そこで、少し後の12節では、イスラエルの敵は、「いなごのように数多く、平野に横たわっていた。らくだも海辺の砂のように数多く、数えきれなかった」といわれています。砂漠の遊牧民族であったミデアン人はらくだになって怒濤のように攻撃するのが得意だったので、らくだがおびただしくいたことを、わざわざ記しています。ミデアン人は、無数のらくだに乗って攻め入ってくるときは、地響きがして、当時の人々は恐れおののいたでしょう。今日でいえば、無数の戦車が地響きをたてて攻めてくるようなものでしょう。
ですから、ギデオンに率いられた3万2千人のイスラエと12万5千人のミデアン人の戦いは、人間的にみれば、誰が見たって、イスラエルの敗北は明白です。イスラエルとしては、もっともっと戦う人々が欲しかったでしょう。
ところが、神は、驚くべきことをしました。イスラエルの3万2千人は、数が多すぎるので、数を減らせと、ギデオンに命じ、ギデオンも従順に応じたのです。2節と3節がそうです。「主はギデオンに言われた。『あなたの率いる民は多すぎるので、ミデアン人をその手に渡すわけにはいかない。渡せば、イスラエルは、わたしに向かって心がおごり、自分の手で救いを勝ち取ったと言うであろう。それゆえ、今、民にこう呼びかけて聞かせよ。恐れおののいているものは皆帰り、ギレアドの山を去れ』」と言われている通りです。「ギレアドの山」というのは、ギデオンに率いられたイスラエルの人々とミデアン人が戦おうとしていた場所ですが、ギデオンが、戦いをしないで家に帰りたい者は帰ってよろしいと言ったので、2万2千人は、さっさと帰ってしまい、残ったのは、1万でした。
このことは、人間的にみれば、イスラエルに勝ち目は、ますますなくなったことを意味します。13万5千人の敵と戦うのに、3万2千人でも少ないのに、さらに、2万2千人が帰ってしまって、1万人しかいなくなってしまったのですから、なおさら勝ち目はなくなりました。しかし、神は、余裕シャクシャクで何の心配もしておりません。全く平気です。
さらに、神は、驚くべきことをしました。ギデオンと戦う人々が3万2千人から1万人に激減しても、それでもまだ多いから、もっと減らすように、ギデオンに命じ、ギデオンも従順に従いました。それでどのようにして減らしたかと言いますと。5節、6節で言われております。すなわち、そこは、先ほども触れたように、水の豊かなところでしたが、1万人を水を飲みに連れて行きました。すると、人々の反応は2つに分かれました。大多数は、「ウワー水だ!」と言って、いきなり、腹這になって、顔を水の中に突っ込んでガブガブ飲みました。しかし、3百人は、周囲に警戒しながら、いつ敵から攻撃されても対応できるように、水際に膝まづいて手で水をすくって飲みました。そこで、神は、その3百人だけを残し、9千7百人は家に返すようにギデオンに命じましたので、ギデオンはそのようにしました。
こうして、ギデオンのところには、3百人しかいなくなりました。最初は、3万2千人もいたのに、今や、たったの3百人です。それで、ここで大切なことは、神の余裕と神の命令に従順に従うギデオンの信仰です。神は、イスラエルの敵が13万5千人の大軍であろうが、全く恐れないのです。平ちゃらです。全然気にしないのです。びびることが全くないのです。そして、その余裕ある偉大な神に、信仰によって、ぴったりとくっついて離れないギデオンの姿があります。これが勝利の秘けつです。わたしたち一人ひとりの人生も同じでしょう。偉大な神に信仰によってぴったりくっついて離れないことが、わたしたち一人ひとりの人生に、必ず勝利をもたらすでしょう。
2.神は、農夫ギデオンを励ましてくださいました
さて、では、余裕シャクシャクの偉大な神は、それからどうしたでしょう。すると、いよいよ、ミデアン人と戦うように命じるのですが、しかし、ギデオンは、もともと、軍人や武人ではなく、ひとりの農夫に過ぎないものです。そこで、神は、ギデオンを励ますために、ひとつの恵み深い仕掛けをしてくださいました。この仕掛けによって、ギデオンは勝利を確信して立ち上がることができました。
では、その仕掛けとはなんでしょう。すると、それは、ミデアン人に不思議な夢を見させることでした。9節と10節を見ますと、「その夜、主は彼に言われた。『起きて敵陣に下っていけ。わたしは彼らをあなたの手に渡す。もし下っていくのが恐ろしいなら、従者プラを連れて敵陣に下り、彼らが何を話し合っているかを聞け』」とあります。特に、「もし下っていくのが恐ろしいなら」といわれているところを見ますと、ギデオンは、まだ、ミデアン人との戦いに恐れを感じていたのでしょう。また、恐れを感じていたとしてもおかしくはないでしょう。なぜなら、ギデオンは、いよいよ、これから、生まれて初めて、戦闘状態に入っていくからです。農夫、日本流に言えば、お百姓さんであったギデオンにとって、恐れを感じていてもおかしくはないでしょう。
そこで、神は、そのギデオンの心の内を知って優しく励ましてくださるのです。具体的には、敵と戦う前に、ひとりの僕を連れて、敵陣に忍び込み、そこでミデアン人が話すことを聞けば、勝利の確信が出ることを教えてくれたのです。10節の、「従者プラを連れて」とありますが、「プラ」という名前の意味は、ヘブル語で「堂々とした」という意味の名前です。ですから、名前から判断すると、その僕は、堂々とした勇気がある人であったのかもしれません。神は、ギデオンを助けるのに、1番良い人を備えてくださったのでしょう。
そこで、ギデオンは、堂々とした、物おじしない、勇気のある僕を連れて、ミ家デアン人の陣地に忍び込みました。では、そこで、何があったのでしょう。すると、ギデオンは、ミデアン人の1人が、自分の見た夢を仲間に話しているのをたまたま聞いて、これで勝てると最後の徹底的な確信を持つことができたのです。
では、その夢はどんな夢でしょう。13節、14節で記されておりますように、その夢は、ひとつの大麦のパンがごろごろ転がっていって、天幕を押しつぶしたという夢でした。そして、その意味は、イスラエルがミデアン人に勝という意味でした。「大麦」というのは、当時、貧しい人々が食べるパンのことです。通常は、小麦でパンを作りましたが、貧しい人々は、小麦でなく、大麦でパンを作って食べたのです。そこで、大麦は、砂漠の獰猛な遊牧民族のミデアン人に支配されて貧しかったイスラエルを象徴しています。
また「天幕」というのは、もちろん、テントのことですが、砂漠に張って寝泊まりするためのテントことで、これは砂漠にテントを張って寝泊まりする遊牧民族のミデアン人を象徴しています。それゆえに大麦のパンがごろごろ転がって天幕を押しつぶしたというのは、ギデオンに率いられたイスラエルの人々がミデアン人をつぶしてしまうということで、戦いに勝利することを意味します。そこで、そういう夢を見たということを聞いたもう1人のミデアン人は、その夢の意味は、ギデオンがミデアン人に勝利することを表していると話しましたが、その話を聞いたときに、ギデオンの心から恐れは消え去り、勝利の確信が宿りました。
そして、これら一連のことは、農夫にすぎない弱い自分を励ますための、神の配慮であることを知りましたときに、ギデオンは、その場で、地面にひれ伏しん神に心から感謝しました。15節は素晴らしいですね。「ギデオンは、その夢の話と会食を聞いてひれ伏し」とありますが、これは、もちろん、夢の話を聞いたとき、これは神のお導きで、弱い自分を励ましてくださるための神の恵みの配慮であることを知ったときに、地面に顔を擦りつけるようにしてひれ伏し、神のやさしい配慮に心から感謝したことを表します。
ひれ伏して神に感謝するということは、今日でも、クリスチャンにはあるでしょう。わたしにもしばしばあります。助けを切実に求めるとき、また、大きな恵みを受けたときには、わたしは、会堂でひれ伏し、神に心からお祈りをします。しばしばしますよ。
3.ギデオンは、神への信仰により勝利しました
さて、ギデオンは、いよいよ、ミデアン人と戦いをします。では、その戦いはどんなものであったでしょう。すると、それは、奇襲作戦でした。ミデアン人は寝静まったころ、すなわち、夜の10時か11時ごろ、当時の人々が、眠りに入ったころ、突如襲ったのです。18節に「ギデオンと彼の率いる百人が、深夜の更の初めに敵陣の端についたとき」とありますが、「深夜の更の初め」というのは、今日で言えば、夜の10時か11時ごろです。夜早く寝た当時においては、この時間は、もうぐっすり寝入っているときです。
では、ギデオンの奇襲作戦はどういうものだったでしょうか。すると、3百人のイスラエルの人々を百人づつの3つの小隊に分けました。そして、3百人全員が、右手には牛あるいは羊の角をくり抜いて作った角笛を持ちました。また、左手には、空の水がめの中にたいまつを隠し入れておかせました。そして、ミデアン人の陣地に侵入して、水がめを砕き割り、たいまつの光を輝かせ、さらに、角笛をいきなり吹かせました。そのため、ミデアン人は、不意をつかれ、びっくり仰天し、寝ぼけ眼で跳び起き、同士打ちはするは、逃げ出すはで総崩れになりました。
それで、ここで大切なことは何かと言いますと、戦いの信仰的な根拠付けをはっきりさせたことです。20節に「『主のためにギデオンのために剣を』」と叫んだ」とありますが、この戦いは、主なる神の栄光を表すための戦いであり、そのためにギデオンが器として用いられる戦いであることを、3百人がはっきりと自覚していたことです。
戦いをするときには、何のための戦いなのか、その目的や性格や趣旨や根拠がはっきりしてなければ、力が入りません。しかし、何のための戦いか、その目的や性格や趣旨や根拠がはっきりしていれば、力が入ります。
今日でも同じです。百人のうち1人しかクリスチャンのいない日本の社会にあって、わたしたちクリスチャンには、信仰的、霊的戦いがあるでしょう。しかし、その信仰的、霊的戦は、わたしたちを恵みによって救ってくださった神の栄光を表すため、またキリストの栄光を表すためであることを、わたしたちは十分自覚し、意味を認めているでしょう。
結び
こうして、ギデオンは勝利を得ます。戦いの経験のない1人の農夫にすぎないギデオンが勝利したのは、偉大な神にぴったりついて歩んでからです。今日のわたしたちの人生にも、いろいろな事柄が敵のようにわたしたちの前に立ちふさがることがあります。しかし、わたしたちも、偉大な神にぴったりついて歩んで、いろいろな事柄を乗り越え、勝利して行きたいと思います。聖霊が、わたしたち一人ひとりの心に豊かに働いて、偉大な神への信頼と従順の思いを強くしてくださるように祈りましょう。