御国を受け継ぐ者
- エペソ書1:11 -
シャローム宣教会
[エペソ書1:11] 「この方にあって私たちは御国を受け継ぐ者ともなりました。みこころによりご計画のままをみな行う方の目的に従って、私たちはあらかじめこのように定められていたのです。」
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*「御国を受け継ぐ」についてのさまざまな翻訳は、「御国を受け継ぐ者ともなりました。」(新改訳)、「約束されたものの相続者とされました」(新共同訳)、「神の民として選ばれた」(口語訳)、"In him we were also chosen"(NIV訳)で、「エクレーローセーメン」ἐκληρώθημενという動詞が使われています。
1. 御国を受け継ぐ者の祝福
*聖書には「御国を受け継ぐ」という同じ祝福を表すことばがあります。「資産を受け継ぐ」ということばもその一つです。
+ペテロの手紙第一1:3~5には、「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現わされるように用意されている救いをいただくのです。」と記されています。
特に4節で「資産」と訳されている「クレーロノミア」κληρονομίαということばは、「御国を受け継ぐ」ということばと同じ言葉です。また、「相続財産」を表わす言葉です。「これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。」と言われていますように、この相続財産は終わりの日に完全な形で私たちに与えられるものとして、それまで天においてしっかりと見張られており、守られているというのです。
*この「天に貯えられている資産、相続財産」をイエスは「天に積む宝」と表現しました。
+この宝は善行を積むことではありません。最も大切な財産を天に置くようにという話です。[マタイ福音書6:19~21]「19 自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。6:20 自分の宝は天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。6:21 あなたの宝のあるところにあなたの心もあるからです。」
*新改訳、口語訳では「宝」となっていますが、LB訳では「財産」となっています。「天に宝をたくわえる」とか、「財産を天に積む」とはどういうことでしょうか。
+ペテロの手紙第一では、神の子とされた者たちのために、すでに天に資産(財産、宝)が備えられているのに、マタイでは、「天に宝をたくわえなさい」、「天に宝を積みなさい」と命じられています。一見、矛盾するように見えますが、実は、そうではありません。マタイの場合には、自分の宝を地上ではなく天にたくわえなさい。その理由は、地上では虫がついたりさびたりして損なわれたりするし、あるいは盗人によって盗まれるかもしれないからだ、としています。天だと損なわれることも、盗まれる心配もないからだ。あなたの宝のあるところにあなたの心もあるのですから、「あなたの心を地上ではなく、天に置く」ということがここで強調されているのです。あなたの最も大切な宝を天におくこと。その宝を「貯える」とか「積む」という表現は、その資産を自分の力でふやしたり、多くしたりということではなく、その宝に対する心を豊かにすること、そこにしっかりと心を注いで生きるということを意味していると私は考えます。
*もうひとつ、「天の資産」に関連して取り上げたいイエスの言葉があります。これはルカの福音書10章に出てくる話です。
+イエスが自分の弟子たち70人を伝道に遣わします。その弟子たちがその伝道の働きから帰ってきてイエスにこういいました。「イエス様。あなたのお名前を使うと、不思議なことに、悪霊どもが服従するのです」と喜び勇んで報告しました。
その報告を聞いたイエスは「そうでしょう。そうでしょう。よくやりましたね」とほめるようなことを言いませんでした。「悪霊どもがあなたがたに服従するからと言って喜んではなません。確かに、わたしはあなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けました。だから、あなたがたに害を与えるものは何ひとつありません。ただ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」と。
*イエスはなぜこう言われたのか考えて見ましょう。
+弟子たちの伝道の働きは、ひとつの成果として報告されました。主の名によってなされた働きです。主のための働きでした。しかし、イエスはそうであっても、その働きの成果を喜ぶ弟子たちをたしなめたのです。なぜでしょう。働きの成果というものを喜びしている限り、働きの成果に次第に縛られていきます。成果をあげることができれば喜び、成果をあげることができなければ落ち込んだり、成果をあげられなかつた自分や人を見下げたり、頑張りや熱心さが足りないからだと非難するようになります。あるいは自分が人から見下されている、非難されていると恐れる心を持つようになります。もしそうなってしまうなら、敵の思う壺です。サタンの支配下に陥ることになります。ですから、働きの成果の如何によって喜んだりしているようでは、まだ未熟だといわんばかりに、「あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。つまり、何の働きがなくても、成果がなくてもあなたが御父にとって、愛されていること、御父の喜びの対象なのだということを喜びなさい。
+自分が御父に愛されていることを知ること、そのことを喜びとすることが、実は、どんな働きにもまして大切なことなんだとイエスは弟子たちに語ったのです。なんらかの良い結果出さなければ、だれからも評価されないとするこの世においては、このイエスの言われることがどんなに大切なことか理解できません。自分があるがままに御父のものとして愛され、受け入れられ、大切にされている喜びの存在だということを知っていることです。
これが「御国を受け継ぐこと」「朽ちることも汚れることもなく、消えていくこともない資産」であり、「天に宝を積むこと」であり、「あなたがたの名が天に書き記されている」ことであり、「国籍は天にあること」なのです。
*天国(あるいは「天の御国」)が素晴らしいのは、そこに真珠の門や黄金の道、水晶の川、いのちの木があるからだけではありません。神がおられるだけでなく、神が私たちとともにいてくださるからです。私たちが天国で相続するものの中で最高のものは、実は、神ご自身なのです。
*「天ある資産(相続財産)を受け継ぐこと」「御国を受け継ぐこと」―その中身とはいったいなんでしょうか。確かにそれは神からのプレゼントであることは確かなのですが、物質的なモノだと思われますか ? 霊の世界ではモノは必要ありません。モノでないとしたら、相続財産とはなんなのでしょう。それは、天に備えられている相続財産の中心は神ご自身との愛に満ちたいのちの交わりです。
2. かかわりの奥義
*「私の愛する方は私のもの。私はあの方のもの。」(雅歌2:16)
本来、この歌は男女の愛を歌ったものですが、主と私の愛のかかわりを指し示しています。 これは愛の究極的なかかわりの形であると言えます。お互いに相手のものでありながら、決して相手を搾取したり、支配したりしない関係です。それでいて一つなのです。これが御父と御子の関係であり、神と私たちの究極の関係でもあるのです。
*神は、私たちを神のものとしてくださるだけでなく、ご自分を私たちのものとしてくださるのです。神は、奴隷を自分の所有物にするような仕方で、私たちを神のものにするのではありません。私たちを、神の子どもとして、愛の対象として、神のものにしてくださるのです。しかも、神もまた、ご自身を私たちのものとしてくだるのです。
*御子にとっての最大の特権は御父とのゆるぎない愛の交わりでした。御子イエスの喜びは、永遠の昔から、御父の家を住みかとし、御父にとどまり、御父の愛の中にとどまり、御父のことばにとどまることでした。イエスはそのことを喜びとしたのです。それと同じように、神の子どもに与えられている最大の祝福は、父なる神さまとの愛の交わりにあります。これが御子イエス・キリストによって約束されている「御国を受け継ぐ祝福」です。
*聖書の最後の書巻であるヨハネの黙示録の結論は、「神の御顔を仰ぎ見る」ことです。かつてエデンの園で、人間が罪を犯して神の御顔を避けて以来、神は失われた人を探し求めつづけて、御子イエスをこの世に遣わされました。救いの完成は、神の御顔を仰ぎ見ることの幸いです。神のスマイルの中に迎え入れられ、歓迎される祝福です。
*あの「放蕩息子」のたとえ話に登場する息子が経験したことです。彼は父の家のなかにある財産を得たことが彼の喜びだったのでしょうか。いいえ、彼にとっての最大の喜びは、息子としての資格はないと思っていた自分を息子としてあるがままに迎え入れてくれた父の存在です。その父の存在こそが彼にとってなににも代えがたい相続財産だったのではないでしょうか。すでに、彼には自分に対しての相続財産は使い果たしていました。「あなたはわたしの愛する子」と呼ぶ声がたえず聞かれる父の家。その家に住むことこそ、価値のある資産、だれにも奪われることなく、傷つくことも、汚れることもない天の相続財産―それは父の存在です。その父は彼のものなのです。彼も父の愛すべき対象、父のものなのです。
*使徒パウロは、コリントに宛てた手紙の中で、「愛についての賛歌」を記した箇所があります。13章です。愛がないなら、ほかにどんなすばらしいものを持っていたとしても、何の値打ちもない、とパウロは述べています。愛がなければどんなによいことをしたとしても、何の役にも立たないとも言っています。そして「愛は決して絶えることがありません。」愛は永遠にすたれることがないということです。・・・とはいえ、今、私たちが経験する愛は、鏡にぼんやりと映るものを見ている程度だとパウロは言います(同時の鏡は、銀でできており、今日の鏡のようなものではありませんでした。ぼんやりとしか映りませんでした。)。そのように、私たちが経験できる、知ることのできる神の愛というものは一部分でしかないこと、一部分しか経験できないとしています。しかし、やがてときが来ると、その時には顔と顔とを合わせて見ることになると断言しています。神の御顔を仰ぎ見ることになるということです。より直接的に、神の愛の声を聞き、しっかりとハグされ、神の深い愛の喜びを私たちは経験できるということです。完全に知り知られるという関係です。御子イエスはこの愛の中におられた方だったのです。
*使徒パウロはいつまでも残るものは信仰と希望と愛だと述べました。そしてその中で一番すぐれているのは愛だと述べています。なぜ、愛が一番優れているのでしょうか。それは愛が完全に現わされるとき、信仰も希望も必要なくなるからです。天において、最高の愛、最上の愛し合う家が備えられています。神の子どもとされた者たちは、その神の家において、満ち足りるのです。
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*私はすでにキリストにあって「御国を受け継ぐ者」とされているのです。完全な相続財産である神ご自身との交わりは、天にしっかりと備えられていますが、私たちは聖霊によって、この世でその前味を味わうことができるのです。私たちはその愛の味覚をたっぷりと味わい楽しむことです。なぜなら、そこにすべての力の源泉が隠されているからです。このことに気づく者は幸いです。
*いよいよ「私たちは彼(キリスト)にあって御国を受け継ぐ者ともなった」ことを喜びとしながら、神をほめたたえる者でありたいと思います。
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