悔い改め
- 使17:30 -
「さて、神はこのような無知な時代を、大目に見てくださいましたが、今は,どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます.」(使17:30)
使徒たちの福音宣教の中心には悔改めがおかれ,悔改めによる救いが強調されているが,それは信仰による義認と矛盾するものではない.真実な悔改めこそが,純粋な信仰に連なるもので,悔改めを伴わない信仰は,真の救いに導く信仰とは言えない. 主イエスは「悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)と宣言し,パウロも「神に対する悔い改めと,私たちの主イエスに対する信仰」(使20:21)を強調している.
1.旧約聖書において
⑴ 悔改めの要素を含むものとしては「立ち返る」という語が多く用いられており(申30:2,イザヤ30:15,エレミ35:15,ホセア6:1,14:1,ヨエル2:12),罪や神への不服従の状態から神に立ち返ることを表している.
-「あなたの神、主のもとに立ち帰り、わたしが今日命じるとおり、あなたの子らと共に、心を尽くし、魂を尽くして御声に聞き従うならば、(申30:2)
⑵ その中には,個人的な例もあるが,多くは集団的,民族的な行動,行為についてのものである.
2.新約聖書において -「悔改め」(<ギ〉メタノイア)は心の転換を意味する.
⑴ バプテスマのヨハネは「悔い改めなさい.天の御国が近づいたから」(マタイ3: 2)と叫び,主イエスも同じことばをもって宣教を開始された(マタイ4:17).
⑵ 主の來臨の目的は「罪人を招いて,悔い改めさせるため」(ルカ5:32)であると明言され,昇天の際にも,「罪の赦しを得させる悔い改めが」世界に宣べ伝えられること(ルカ24:47)を約束された.
-「また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、(ルカ24:47)
① 悔改めは,初代教会にとっても中心的な主題であった.
② 五旬節(ペンテコステ)の日の最初の説教は「悔い改めなさい」というペテロのことばで締めくくられた(使2:38).
③ 回心したパウロも伝道旅行に際してすべての人の悔改めの必要を強調した.
-「今は,どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます」(使17:30).
- 使徒パウロが,あらゆる機会にあらゆる場所で説いたことは,「ユダヤ人にも
ギリシヤ人にも神に対する悔い改めと,私たちの主イエスに対する信仰」(使 20:21, 參照; 使26:20)であった.
④ 使徒の働きや使徒たちの手紙,ヨハネの黙示錄にこの語が頻繁に用いられていることは,初代教会が悔改めの経験を重視していたということのあかしである.
⑶ 個人個人の具体的経験として明示されている.
① 単なる後悔や打算的なものであってはならず(參照; 使8:924,ヘブラ12:1617).
② 深い罪の認識,生活の改変を伴う根本的,徹底的な転換であった(ガラテ1:23
24,Ⅰテモテ1:1315,參照; マタイ3:8,ルカ19:8,使19:1819,26:20,Ⅰエサロ1:9).
-「ただ彼らは、「かつて我々を迫害した者が、あの当時滅ぼそうとしていた信仰を、今は福音として告げ知らせている」と聞いて、わたしのことで神をほめたたえておりました。(ガラテ1:2324)
⑷ 悔改めをするのはその人自身であるが,そのために神御自身が恵み深く働いておられる.
① 悔改めは神からの賜物である(使5:31,11:18).
② 聖霊が罪を認めさせるという悔改めに至る働きをされる(ヨハネ16:89).
③ 御子イエスの十字架の事実を,真心から人が仰ぎ見る時に,悔改めに至るのであ
る(使2:3637,3:1820).
-「だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。(使2:3637)
④ 神の慈愛,忍耐が人々を悔改めに導くと使徒たちも指摘している(Ⅱペテロ3:9,ローマ2:4).
-「ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです.(Ⅱペテロ3:9)