ベルクーワの著作の紹介
第5章 偉大な奥義(処女降誕) 偉大な奥義(処女降誕).pdf
第5章は、「偉大な奥義」(The Great Mystery)である。わたしたちは、第2章の「受肉の動機」について議論するとき、受肉を罪の事実から切り離し、また、キリストの誕生に歴史的に伴う事実、すなわち、キリストの苦難と死から切り離すある一面的な見解について詳しく扱った。そして、わたしたちは、この見解は、すべて種類の異端を容易に引き起こす、事実上、人となることと肉となることを区別する(a distinction of becoming-man and becoming-flesch)。異端の危険は、受肉の独自の事実についての十分な考察から、わたしたちを引き離す。そして、もし、わたしたちが、受肉についての別個の研究を恐れ始めるなら、そのときには、パウロの言葉がわたしたちを打つにちがいない。「確かに偉大なのは、この信心の奥義である、/「キリストは肉において現れ、/霊において義とせられ、/御使たちに見られ、/諸国民の間に伝えられ、/世界の中で信じられ、/栄光のうちに天に上げられた」(口語訳聖書テモテ一3:16)。パウロが述べているこの奥義は、孤立させられるどころか、聖なる歴史の総計(sum total of history)にその場所を持っているが、しかし、ヨハネの言葉、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(ヨハネ1:14)において、わたしたちが、見い出すように、キリストの誕生において、神の奥義の尊崇に対する余地がある。
(1)キリストの誕生 キリストの誕生の時について、パウロの指し示しは、「今や」(now)明らかにされたという事実を持ち出すために、「世の始まりから隠されてきたが」という表現と不可分に結びついている。時が満ちては、神が御自身の御子を遣わす時に言及している。キリスト御自身が、「時は満ちた」(マルコ1:15)と言った。その表現は、神が御自身の御子を、御子に託したみわざに遣わす特別なその時の到来を示している。女から生まれて、御子が来るとき、そのとき、神の時が実現することが理解される。そして、こうして、その時は、如何なる自分勝手さからも自由なのである。時満ちての強調は、神の決定的行為にある。それは、今や、神の御子のイエス・キリストを遣わすことにおいて、歴史に明らかにされたのである。それは、神の国の到来である。それは、「時間における」(in time)、今や、明らかにされた偉大な奥義であり、ヘブライ人への手紙が、キリストは、「一度世の終りに現れた」(ヘブライ9:26)と言っているものである。この満ちることは、ヘブライ人への手紙の「ただ一度だけ」とも結びついている。すなわち、神の決定的行為は、今ここで、キリストの出現であり、彼は、「御自分の犠牲によって罪を除くために」来たのである。
ミカの預言が示し、指し示したものは、アウグストスの時代における世界的諸出来事の背景において、キリストの誕生という歴史的現実となったのである。これらの世界的諸出来事は、偉大な奥義から「排除されずに」(excluded)、偉大な奥義に「含まれた」(included)のである(ルカ2:1)。アウグストスは、旧約聖書のキュロスに比較されよう。彼は、神の御手にある器として神の民に仕えねばならなかった。そのように、アウグストスも、ローマ帝国のためのすべての活動をもって、また、まさに、この活動によって、彼は神のメシアの途を、ベツレヘムにおいて始まる途を、整えるのである。 (2)福音書の記すキリストの誕生 しかし、キリストの誕生は、何度も何度もロマンチシズムと理想主義が攻撃した。何故なら、キリストの誕生は、栄光に満ちた神現(theophany)でなく、受肉(in-carnation)だからである。すでに、初期の教会において、キリストの受肉を否定する者たちが出てきたが、ヨハネは、「これが」(this)、反キリストの精神と呼んでいる。 信仰のみがこの奇跡を理解することができる。受肉は、「シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。」(ルカ2:34)である。シメオンは、剣がマリアの魂を貫くことを見ていた(ルカ2:25)。また、キリストは、多くの人々の思いを明らかにすることを見ていた(ルカ2:35)。人々は、キリストを王としようとしたが(ヨハネ6:15 参照マタイ21:1-11)、しかし、キリストの謙卑は彼らにつまづきになった。「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。」(ヨハネ1:11)。 キリストは、貧しさの中で生まれたが、キリストの貧しさは、羊飼いたちと博士たちが、キリストを賛美することを妨げなかった。こうして、クリスマスの福音は、信仰とこの奥義、神の真のメシアしるしである「この」貧しさ(this poverty)の間の関係性を指し示しているのである(ルカ2:12)。ベルクーワは言う。「神の活動は、キリストの誕生において、そのように明らかであり、それは、ことごとくの人間的標準を超えている。すなわち、ことごとくの人間的構造(human construction)は、ここで生じたところのことに関する証言によって、取り去られている(ルカ2:15)。謙遜なアンナとシメオンは、メシアについての適切な期待を持っていた。すなわち、彼らは、ミカ5章の支配者(the Ruler)の出現をベツレヘムの低さ(lowliness)から切り離していない。シメオンは、イスラエルの慰められるのを待ち望んでいた(ルカ2:25)。アンナは、夜昼、断食と祈りをもって神殿にいた(ルカ2:37、参照 「そのとき、近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した。」(38節)。信仰によってこの奥義は理解される。今や、言葉は肉となり、恵みと真理に満ちていた(ヨハネ1:14)。マタイ1:21で、『この子は自分の民を罪から救うからである。』との告知にあるように、すべての人間的恣意性を排除するメシアの名前が与えられた」(94頁-95頁)。 キリストの救いの途は、謙卑の途で、すべての人間的栄光の逆である。マリアは、受胎告知の時の歌で、神の力と豊かさを歌っている。神の力において、恐ろしい出来事が、あたかももうすでに生じているかのように描いている。聖なる地は、まだメッセージの響きに満ちていないのに、天使たちは、平和の訪れをまだ持って来ていないのに。しかし、彼女は―時の満ちたことを―神の諸行為が圧倒的な幻において来りつつあることを見ている。「今や」(now)、ことごとくのことが、変わりつつある。神的標準は、すべての人間的関係性と標準を超えるであろう。力ある者は、座から引きずり落とされ、富める者は、空腹のまま追い返される。これは、革命でなく、神の力強い行為である。
(3)キリストの処女降誕 初期の教会は、世界の真只中でイエス・キリストへの信仰を表明した時に、教会は、「彼は聖霊と処女マリアによって生まれ」と告白することによって、聖書の証言に近く留まっていた。これは、使徒信条のオリジナル・テキストであるあるが、後に、「聖霊によって宿り、処女マリアより生まれ」と変更された。このことは、教会は、単に、キリストの誕生を告白することでは満足せず、マリアは、処女マリアから生まれという(natus ex virgine Maria)特殊な方法で身ごもったということに、わたしたちを直面させる。こうして、キリストの処女降誕は、良心の如何なる危機なしに受け入れられ、告白された。 しかし、聖書の権威への攻撃以来、はるか遠くまで及ぶ批判に対するドアが開かれた。多くの人々にとって、マタイとルカの明白な言葉は、最早、「奇跡的」誕生への反超自然主義的時代の諸反対の安全装置ではなくなった。その結果は、特に19世紀以来、なお続いている状況を変化させた。 2世紀の終りに向かって、処女降誕は、「イエスの生涯」に単純に組み込まれたのでなく、信条において、キリスト教信仰の本質的部分として告白された。ユスチノス(Justin)は、ユダヤ教と異教の攻撃から、処女降誕を擁護した。イグナチウス(Ignatius)は、処女降誕を繰り返し語った。何世紀も通して、それは、教会における信仰の宝の疑う余地のない一部であった。そして、また、それは古い信条に組み込まれただけでなく、後の信条にも組み込まれた。 しかし、19世紀以来、教会と神学の両者が、反対した。古い信条が告白している処女降誕は、つまづきの石となった。それは、使徒信条の妥当性と信頼性についてのあらゆる議論を、他の諸点と共に、引き起こした。処女降誕についての新約聖書の証拠の相対的不足が強調され、このことから、それは、使徒的証言にもともとは属していなかったと結論された。あるいは、少なくても、それは、使徒的説教において支配的なキリストの復活についての証言と同等でないとされた。さらに、処女降誕と神々とその子孫の誕生についての他の物語との間の種々の平行的事柄が指摘し得ると思われる宗教史的研究からの強い影響が感じられた。 処女降誕の理念は、偉大な人物の神的起源を説明することにおける頻繁なモチーフとして見られた。そこで、ベルクーワは言う。「こうして、処女降誕は、神話的なものによる世俗的なものの境界線の奇跡的な奇抜な浸透に関する異教的神話のレベルに置かれてしまった」(98頁)。さらに、処女降誕は、ローマ・カトリックのマリア論と密接に結びついた。それは、マリア論的思考の構造に適しているとして同意する多くの人々を生じさせた。それは、その結果として、マリアの無原罪受胎(the immaculate conception)となった。 そこで、わたしたちは、今日、この処女降誕の告白を考察しなければならない。「つまづきの石」の性質は何なのか。教会は、単純に、この伝統を繰り返すだけでよいのか。あるいは、教会は、世界の真只中でなお告白するのか。もっともと、この告白は、思弁の、あるいは、神話的思考の結果なのか。それとも、聖書の教えを単純に言及しているのか。危険にさらされているのは、教会のこの単純性である。
2.ブルナーの処女降誕論の誤り
処女降誕を再び激しく攻撃したのは、「神秘と言葉」(1924年)、「仲保者」(1927年)を書いたブルンナー(E.Brunner)である。ブルンナーは、シュライエルマッハー派の主観主義と神秘主義に反対して、早くも、1924年に、言葉(the Word)を対置させた。処女降誕との関連で「神の言葉」に訴えたことは、19世紀の批判的傾向から縁を切ることを意味したということを含意してはいない。すでに、1927年のキリスト論において、ブルンナーは、処女降誕に強調的に反対した。彼は、受肉の告白は、最初から、その根本的理念、すなわち、処女マリアから生まれ(natus ex virigine Maria)を不明瞭にする表現の重荷を負わせられていたという結論に達した。ブルンナーにとって、この教義の聖書的根拠は、不十分であった。特に、新約聖書的基礎が弱いものとされた。すなわち、パウロも、ヨハネもそれに少しも言及していない。
ブルンナーは考えた。神の御子は、完全に、そして、まったく、わたしたちの人間性を取った。それは、御子が「両性の産み出したもの」(product of the two sexes)である。それゆえ、誰でも処女降誕を主張する者は、奇跡を尊ばず、奇跡を説明しようと試みるのであり、彼はそれを崇める(magnify)のでなく、それを縮小する(minimize)のであり、それを透明化するために、それを捉えるのである。神の御子は人間的な、自然的な仕方で、世界に来たのでないことを断言することによって、人は、イエス・キリストの起源に関する仮現論的概念の悲劇的犠牲になるのである。この告白の拒否は、不信仰のしるしではなく、不完全な信仰に対する勝利であり、言葉は「肉」(flesch)となったという偉大な奥義に対する深遠な尊崇を示すのであると、ブルンナーは考えた。 後に、ブルンナーは、この課題を「教義学 Ⅱ」において、再度取り上げた。受肉の「事実」(fact)を強調し、彼は、受肉の「如何にして」(how)を扱っていると思われる新約聖書の伝承があることを承認して、彼は、この伝承を理解することを試みている。詳しい吟味の後、彼は、マタイもルカも受肉の「如何にして」(how)には関心が少しもなく、イエス・キリストの人格に関心があるという結論に達している。この点においては、彼らは、永遠的御子について、何も知らない。こうして、彼らは、キリスト論のひとつの段階(a stage)を表している。その中で、受肉の主題は、まだ現実になっていなかったのである(had not yet become actual)。彼らは、イエスの起源を扱っている。そして、処女降誕を答えとして与えている。実際、もし、わたしたちが、テキストを文字通りに取るならば、それは、「神の御子の先在」(pre-existence of a Son of God)を排除するであろう。わたしたちが、ここで読むことは、受肉に関するパウロとヨハネの教えに調和せず、むしろ、受肉の代替(altenative)である。「明白な対立がある」、そして、それは、もし、教会が受肉を告白することを望むなら、教会は決して処女降誕を受け入れることはできないという理由のためである。というのは、誕生についての記録における「生む」(begetting)理念は、実際は、アリウス的思考から来ている。すなわち、イエスは、「生まれた」(begetting)、そして、神によって時間の中で造られたという思考から来ている。 ブルンナーは、ヨハネ福音書の序言は、処女降誕の教理に実際に反対しているということは、不可能ではないと考える。それゆえ、この教理は、受肉についての新約聖書の宣教(keryguma)の部分ではない。それは、新約聖書における未来を何故演じないかの理由を説明する。使徒たちは、それについて知らないし、また、知っていても、それは重要でないあるいは不正確(incorrect)と考えた。ブルンナーは、この教理は、それは、使徒的証言においてほとんど何の役割も果たさないのであるが、信条に組み込まれることによって、教会の教理の規範となり、キリスト教信仰確立した部分になったことは、顕著な事実と考えた。こうして、教会の告白は、キリストが「人間」となったという告白に根本的に矛盾する「異なった体系」(alien body)をなお含んでいる。ブルンナーによれば、それは、キリストの真の人間性の否定であり、キリスト論における仮現論の裁可である。この教理は、聖書的よりもヘレニズム的であり、より禁欲的である性の否定的評価(a negative evaluation of sex)に基づいている。すなわち、それは、禁欲的傾向をさらに進め、こうして、マリア論の主な柱のひとつとなるのであると考える。
3.バルトの処女降誕論の誤り
カール・バルト(K.Barth)は、ブルンナーに真正面から反対した。ブルンナーが、使徒信条(Apostolicum)の個条を批判した同じ年の1927年に、バルトは、「神の言葉についての教えの序言」(1927年)で、処女降誕を擁護した。バルトは、自分がブルンナーと不一致なのは、「異なった」神学の結果(the result of their different theology)であると書いた。バルトは、ブルンナーの批判に多くの弱点を正しく指摘した。バルトの用語の核(core)は、これである。すなわち、バルトは、処女降誕を、イエス・キリストにおける神の「新しい、主権的」活動の「しるし」(a sign)と見たのである。バルトは、「教会教義学Ⅰ/2」において、クリスマスの「奥義」は、聖書においても、教義においても、「クリスマスの奇跡に言及されることによって示されている」と述べた。古い信条の言葉は、非常に重要である。受肉の真の奥義は、イエス・キリストが真の神でもあり、真の人でもあるということと考えた。しかし、この奥義に関する証言は、特殊な形式(a special form)で、わたしたちに与えられた。バルトは、「使徒信条」(1935年)において、「処女から生まれ」(natus ex virgine)は、「キリストの真の神性と人性に関する証言の唯一形式と外観(only the form and appearance)である」と述べた。そして、最初から、教会は、この証言を「この」形式(in this form)において聞いてきた。バルトは、処女降誕のこのしるしとしての性格(a sign-character)の意味を明白にする。マルコ2章の出来事に言及することによって、そこは、「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」(マルコ2:10)と、イエスが中風の人をいやして言うところである。「しるしと出来事!」(Sign and Issue !)。強調は、出来事(受肉 incarnation)にあるが、しかし、「しるし」は出来事に注目を向ける。
今や、神が、「新しい」歴史を始め、古い世界における主権的活動を開始する時、その時、これがキリストの誕生において起こるのであり、最早、男の世界ではないのである。男の諸創造と男の創意工夫の才(ingenuity)は、考察に入って来ない(「神の言葉についての教えの序言」)。バルトは、「公正」(justice falls on man)は男に落ち、女は神の新しい主権的な活動の対象にあり、女は、受ける者である、すなわち、「処女から生まれる」(natus ex virgine)のであると言うところまでも行くのである。こうして、処女降誕は、「しるし」となる。それは、生じるとこころのものをわたしたちに指し示し、わたしたたちに奥義を示す。マリアの処女性は、男の否定(negation)でなく、「神に対する男の可能性、適合性、できること(his capability)」の否定である(「教会教義学Ⅰ/2」)。対象は、完全に「新しい始まり」(new beginning)である。受肉は、「処女マリアの人格においてのみ存在するようになるが、しかし、それは、今意志しない、今果たさない、今創造しない、今主権的でない者の人格においてのみである。その者は、受けることだけができる者であり、意志し得て、備えをすることができるだけの者であり、自分に何かがなされだけの者であり、また、自分と共に何かがなされるだけの者である」(「教会教義学Ⅰ/2」)。 しかし、形式と内容、しるしと事実の密接な関係が維持されるとしてさえも、処女降誕は、「しるしにすぎない」(Nur die bezeichnung)(「教会教義学Ⅰ/2」)のであり、メッセージにおける認識論的資料であって、存在論的資料ではないのである。バルトは、受肉の基礎あるいはキリストの無罪性に関心はなく、奇跡の指し示すもの(indication)に関心がある。バルトは、空の墓との平行をここで引き合いに出す。そして、彼は、処女降誕との類比を尋ねる。「それは、外的事実のしるしの手段によってよりも、他の何かの方法で、彼ら(弟子たち)に啓示されたであろうか」。そして、「もし、空の墓が、それは、事実それ自身にのみ真剣に関連するために、除去されてもよいし、あるいは、クリリチャンの自由に任されてもよいところの真の事実の浅薄な形式にすぎないものとして信じられたなら」(「教会教義学Ⅰ/2」)、復活の奥義は、真に受け入れられたであろうか。 バルトは、事実―受肉―を喜んで受け入れようとするが、しかし、しるしを受け入れようとしない人々に向かって、しるしは、自分勝手に選ばれてはならないと争った。「外面的事柄」から区別された啓示の内容、「中心的事柄」のみに関心をもつことは、抽象ではないか。他の「内容」を持つためにもまた、人が、しるしを拒否することは、客観的ではないのではないか(「教会教義学Ⅰ/2」)。 「しるし」(処女降誕)を「事実」(受肉)から分離するべきでないというバルトの関心にもかかわらず、バルトは、彼の「認識論的」と「存在論的」の区別を実際にはしているのである。しるし-事実の関係性を例証するために、マルコ2章の奇跡(いやし-赦し)に、バルトは言及するが、しかし、バルトは、何故、キリストの受肉の奇跡は、適切な平行として理解されるのかを示していないことは、顕著である。ベルクーワは言う。「バルトは、聖書のどこに処女降誕の『しるし』としてのこの認識論的性格が示されているかを指摘もしていない。クリスマス物語におけるキリストの誕生の唯一のしるしは、羊飼いたちが、約束の成就を認めるであろう幼児を包む布である。さらに、もし、処女降誕が、はるか遠くまで届くそのような意義を持つのであれば、何故、福音書は、処女降誕について、もっと多くのことを言わなかったのか」(106頁)。真に、処女降誕は、御子が人間性を取ることにおける神の新しい主権的な活動を啓示するが、しかし、認識論的と存在論的を対比させることは、ひとつの奥義におけるアプリオリな分離をするためでなく、福音書の証言に従えば、(受肉と処女降誕)のすべての局面が織り合わされているからである。 そこで、ベルクーワは言う。「バルトが、『しるし』と呼ぶところのものは、一瞬間足りとも、クリスマス物語における相対的に独立した要素として取り出されてはならない。それは、神が、この『形式』(form)によって、受肉の事実に関する何か特別なことを意味することを望んだという場合ではなく、むしろ、処女降誕の事実は、分けられない全体(an indivisible totality)の部分であることがわたしたちに知られるためであった」(106頁)。 続けて、ベルクーワは言う。「さらに、空の墓との平行は、中心において誤りであることを証明している。バルトは、空の墓は、単に、意義を伴うしるしではなくて―存在論的より、むしろ、認識論的に―キリストの体をもった復活と不可分に結びついているのである。それゆえに、キリストの処女降誕は、しるしか、―事実かしるしか―内容、関係性かという問題性を負わせられてはならないものであり、世界の出来事における男の機能についてのバルトの特殊なしるし概念(sign-concept)を負わせられることは言うまでもない。しかし、しるし概念は、多くの人々に訴えると思える。何故なら、それは、あるつまづき的結論に導かないからである。それは、結婚の価値を下げる傾向を含まないし、また、それは、キリストの無罪性を証明するからである。こうして、現在、わたしたちは、鋭い批判だけでなく、時には、躊躇しつつ、時には、強調的に、『処女マリアより生まれ』という教会の告白を、神主権的恩恵の『指し示し』、『しるし』として、より理解的な態度をも見い出す。すなわち、神人協力説に反対する処女降誕として、それは、しばしば、救いの教理に勝利をもっては入ってきたところのものである。」(106頁-107頁)。
4.処女降誕の重要性は、第二義的ではない
このしるし概念は、しばしば、処女降誕の重要性のより相対的な考察という結果になる。バルトは、しるしと事実の不可分離性を強調したが、他の人々は、この密接な結びつきを捨て去った。たとえば、処女降誕は、キリストの復活と比較され、両者には、重要性において、かなりの違いがあるという結論が引き出される。コルフ(Korff)は、「キリスト論 Ⅱ」において次のように述べている。処女降誕と復活は、同じレベルにはない。復活それ自身は、啓示であるが、しかし、処女降誕は、「啓示に伴うしるし」である。それは、復活よりも中心から遠くへ動かされ、「キリスト教のより第二義的な、間接的な内容」の部分とされると、コルフは述べている。
しかし、古い信条は、聖書が教え、処女から生まれ(natus ex virgine)を聖霊の活動(聖霊によって身ごもり)と直接的に結びつているところことを単純に引用している。そして、明らかに、第二義的と第一義的の関係性に関して何の問題も含んでいない。ベルクーワは言う。「第一義的と第二義的な性格を根拠にして、古い信条に誤りを見い出す者は誰でも、受肉した言葉であるお方の啓示に関する神の奥義の重要性の寸法(measure)を判断する人間的能力を過大評価しているのである。わたしたちは、このしるし概念とこの重要性の相対化は密接に結びついていることを深く確信する。明白な、歴史的に形成された聖書の証言は、その『重要性』に関する結論を引き出すことにおいて、非常に注意深く出発することをわたしたちに警告するのである」(109頁)。 初期の教会は、処女降誕の意義についての考察に関しては、聖書の証言を告白し、尊崇することから異口同音に出発した。しかし、わたしたちの時代においては―すでに19世紀において―軸の移動が知られる。今や、それは「逆転した」。最初に、「しるし」の意味が見い出されねばならない。そして、これが明らかでないと、信仰告白自身が疑問とされる。多くの人々が、以前の手続きは、ハイリンリッヒ・フォーゲル(Heinrich Vogel)の表現に従えば、知性の自殺(a suicide of intellect)と考えている。1892年に、アイゼナッハ宣言(Eisenach Declaration)が発せられた。それは、処女降誕をキリスト教の「基本条項」(fundamentals)のひとつと考えるところの「良心の嘆かわしい混乱」(the deplorable confusion of conscience)を扱っている。そのような混乱は、信頼できる信仰にはなはだしく矛盾していると言う。何故なら、啓示は、「真理」に関心を持たないし、あるいは、処女降誕の教えにも関心を持たないからであると言う。
5.カトリックのマリア論との関係
処女降誕の批判は、しばしば、極端に、不注意になされてきた。たとえば、ある人々は、処女降誕とローマ・カトリックのマリア論との必然的結びつきを発見すると主張してきた。それは、実際、ローマ教会により、1854年に、処女降誕は、マリアの無原罪受胎を意味すると定められた。批判者たちは、処女降誕の教理は、結婚の聖性(sanctity)の誤解を前提すると主張した。そして、こうして、原罪を避けるために、通常の結婚を除くことによって、キリストの無罪性を説明することを試みた。
処女降誕を受け入れ、また、それを、聖書が教えるところをはるかに超えて行くことは、可能であった。こうして、それは、まぎれみないつまづきの石となった。わたしたちは、初期の教会に、処女降誕が神々(deities)のあらゆる結婚と(弁証的に!)比較されるとき、すでにそれを見る。しかし、処女性とマリアの奇跡の理念を抱くことは、不可能でないということは、処女降誕と自然的結婚を通して原罪が伝達(transfer)されることのそのような結びつきを見い出す彼らにおいても、特に見い出される。 ベルジャーエフ(Nikolai Berdyaev)は、ブルンナーの「仲保者」を読んでいて、ブルンナーのキリスト論の悲哀(pathos)の呪縛下に来た時に、ベルジャーエフは、処女降誕の拒否にも出会った。しかし、そのとき、ベルジャーエフは、「それは、わたしを悲しくさせ、わたしを悩ませもした。それは、そのとき、わたしたちが、ことごとくのものを水中に落とすのと同じと、わたしには思えた。何故なら、そのとき、他のことごとくのものが無価値で、無益であったからである」と言った。 しかし、ベルジャーエフのブルンナーの批判への失望は、密接に結びついているブルンナーの全体のマリア論と生についての概念(conception of life)と結びついている特別な背景を持っている。そして、疑いもなく、ローマ・カトリックのマリア論と処女降誕の間の典型的結びつきがある。この理由のゆえに、このローマ化の過程は、処女降誕の告白によって、歴史的に優先している。そこで、ベルクーワは言う。「使徒信条の告白に関する限りでは、それは、聖書におけるその決定的な証拠を見い出す。そして、もし、わたしたちが、すべての最初に、それは聖書に正しく訴えているかと尋ねさえするならば、この告白に正当性が与えられるのである」(111頁)。
6.ルカ1:35
ルカ1:35は、「天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」である。御霊の力(the power of the Spirit)が、ここで宣言されている。「覆う」(overshadowing)は、山上の変貌についての説明でも使われている言葉である。すなわち、「雲が彼らを覆った」とある。この覆うことにおける強調は、その力によってメシアの誕生が宣言される神的力にある。バルトが、マリアへの御霊の力における強調は、生むこと(generatio)でなく、命令(jussio)あるいは、祝福(benedectio)と言及したとき、コーンスタム(Kohnstamm)は、「聖なるもの」において、如何にしてそのような区別が説教され得るのか、また、如何にして異教の人々へ伝道的メッセージとして提出できるのかという疑問を投げた。しかし、明らかに、これは、最も早い時から、一瞬間足りとも、覆うことの独自の性格を傷つけることなしに、区別がなされてきた。コーンスタムの神々への結婚への言及に対する正当化の跡づけはない。さらに、これは、クリスマスにおけるヨセフの立場によって確認させられる。御霊の行為は、非常に特殊な性格ものであり、実際、御父の御子であるお方が、マリアから「人として」(as a man)生れるこの独自な出来事における至高の力が命令(jussio)、あるいは、祝福(benedectio)として描かれねばならないのである。これは、すべての思弁を制限する。
7.イザヤ7:14との関連
イザヤ7:14は、「それゆえ、わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。」であり、マタイ1:23は、「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる」という意味である』。である。そこで、マタイの引用は、イザヤの原文以上の意味を持つと取られてきた。イザヤ7:14は、「おとめ」は、ヘブル語では、alma(アルマ「若い女」young woman)であり、ヘブル語では、bethula(ベスラ「処女」virgin)ではない。それゆえ、処女降誕とイザヤ7:14は、並行関係はないと批判される。
これらの問題と密接に関係している他の疑問は、イザヤ7:14のしるしの性格の問題である。主は、アハズの時代の困難な条件の時代の真只中で、アハズの不信仰に対するしるしを与える。そのしるしは、自分の子どもの名前を、「インマヌエル」(Immanuel)と呼ぶであろう若い女(a young woman)の信仰である。ここで、疑問は、その若い女の信仰が、あるいは、その奇跡的誕生が、「しるし」(sign)を含むかどうかである。疑いもなく、この若い女の信仰は、イザヤの預言において役割を果たす。彼女が自分の子どものために選ぶ名前は、彼女の時代の悲観主義に対する勝利を証明し、救い、すなわち、インマヌエル―「神は我々と共におられる」―を与えるであろう神への暗黙の信頼を啓示する。 ある人々は、神の賜物(God’s gift)をしるしと考える。そのときには、もちろん、alma-bethulaの問題は、少しも入ってこないし、誕生の奇跡もないと考える。その場合、母の信仰は、しるしである。しかしながら、このことは、信仰のこの行為をしるしに関係させる人は誰でも、イザヤ7:14とマタイ1章の如何なる可能的な関係性をも抹消しようとする。 たとえば、H.N.リダボス(H.N.Ridderbos)は言う。「マタイによる福音書略解Ⅰ」(1952年)において、預言者は、奇跡的誕生を語っていはいない―「彼が与えたしるしは、他の何事かに言及している」―しかし、それにもかかわらず、その預言は、キリストにおいてその本質的実現を得たのであると。というのはJ.リダボス(J.Ridderbos)が、「イザヤ書略解」および「イザヤ預言におけるメシアの到来Ⅱ」(1920年)において述べているように、「より以上の含意が」(a further implication)があるからである。それは、イエス・キリストにおけるインマヌエルの十分な現実性に関する。そして、イザヤがこの忠実さについて語る様式(manner)は、イエスの将来の処女降誕を指し示している。 この釈義によれば(それは、わたしの意見では、人が、イザヤ7:14の「おとめ」(virgine)を、「文字通りに処女マリアとして」読む以上に、すべてのデータを正当に扱っているが)、信仰において与えられる「インマヌエルという名前に強調が、正当にも、また、なされ得る。しかしながら、この信仰を「しるし」とすることは、マタイがイエス・キリストを預言の実現と考えていないことを意味しない。彼は、「処女」降誕(the virigin birth)について語ったヨセフへの天使の告知の説明の後で、これをすぐに書くことができたのである。 こうして、マタイ1章(「この」誕生 this birth)における出来事は、単純に以前の預言が「真実になること」(a coming true)ではなく、一方においては、アハズの時代の信仰と「インマヌエル」という名前と関係していて、他方においては、キリストの処女降誕の奥義とイザヤの預言におけるまだ中心的でないところのことを関係させている成就なのである。イザヤにおいては、「インマヌエル」は、神の救いの活動の「しるし」であったのに、成就においては、「インメヌエル」それ自身が、十分な光の中に来たのである。「インマヌエル」という名前は、本質的に、神の指示で(at God’s、instruction)、マリアの子ども、すなわち、イエスに与えられる名前と同じなのである。 そこで、ベルクーワは言う。「マタイは、イザヤを誤って引用したと信じる人々は、預言と成就の関係性の密接さを誤って判断している。『奇跡的』誕生に言及することによって、マタイとイザヤの結びつきを説明する人々は、イザヤが、何故「おとめ」(virigin、bethula)という言葉を使わなかったかを説明できない。もし、それが、しるしを与えることにおいて主な目的であるなら、さらに、『インマヌエル』という名前との関連における成就は、背景に退かねばならない」(116頁)。 しかしながら、それ自身が、イザヤ7:14の信仰局面(faith-aspect)におもに関心を持っているという釈義は、マタイとの結びつきにとって正当でないと言われてきた。グレシャム・メーチェン(Gresham Machen)は、「処女降誕」において、「何故、通常の誕生は、しるしと見なされるのか」と尋ねている。わたしたちは、この疑問をイザヤにおけるインメヌエル預言に置かれた強い強調の光において理解できる。イザヤ7:14の意義を、若い女の信仰の確信(confidence of faith)に限定する人々は、これらの強調を正当に扱っていない。 しかし、信仰は、アハズの不信仰と対照的に立つ、単に、真理の主観的な表現ではなく、神の活動に向けられた信仰とイザヤ7:14の文脈におけるものは、それから分離され得ない。それゆえに、信仰のしるしか、それとも、神の扱いのしるしかというジレンマはない。何故なら、両者は相関関係にあり、預言の意義は虚しくなく、「神の扱いに相応している」信仰の確信にあるからである。預言は、なお神秘に満ちている、しかし、「インマヌエル」は、理念、希望、期待でなく、預言がすでに証言している現実性である。重要な点は、神が与えるしるしであり(イザヤ7:14a)、神の救い、そして、ずっと後でのみ、この救いの十分な意義は、それが成就されるときに、理解されるであろう。 そして、マタイが、告知の後で、「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。」と書くとき、彼は、それによって、救済論的なこのメシア預言が成就したことを指し示しているのである。そして、「インマヌエルという名前に十分注目する人は、イザヤとミカの関係において、イザヤの奥義的叙述の成就を見るであろう。それは、マタイにとっても、マリアとヨセフとマタイが描くことを許されたこととの関係で生じたその成就を見い出すのである。 ベルクーワは言う。「それゆえ、わたしたちは、処女降誕の事実の受容性に関するわたしたち自身の諸理念によって、進むべきではなく、それを福音書が明白に処女マリアからの誕生として描く処女降誕の意義を吟味するとき、聖書の文脈における証言に対する敬意をもって満たされるべきことを勧められるのである」(117頁)。
8.処女降誕と結婚
処女降誕は、受肉に関するメッセージの多くの部分であるので、わたしたちは、わたしたちが、聖書の明白な証言への尊崇から、この点で止まるべきかどうかを尋ねるかもしれない。何故なら、わたしたたちに、肉における神の御子の途を告げるこの事実は、啓示によってのみ、知られるからである。この疑問は、「処女マリアから生まれ」(natus ex virgine )の「意義」に直接触れる。もし、人が、処女降誕のしるし理論を拒否するなら、人は、「存在論的」概念に到達するに違いないと言われる。それは、通常、処女降誕は、キリストの無罪性を保証するのに必要であり、これは、転じて、結婚の特殊な概念を意味する。
これは、たとえ、それが、これらの神学者たちが、結婚あるいは生殖を罪の遺伝的伝達を意味するものと必然的に意味していても、処女降誕とキリストのきよさ(holiness)の間の関係に関する継続的な問いを説明している。バーフィンク(Bavinck)は、「改革派教義学Ⅲ」において、処女降誕は、「キリストの無罪性の本質的、究極原因ではない」と述べて、処女降誕は、「キリストの神性と先在と結びついているのみならず、キリストの絶対的無罪性とも結びつている」と言っている。同様な表現は、どこででも見られる。そして、そのような推論は、思弁へと危険に近づくかないかどうかという疑問が起こる。バーフィンクが、キリストの神性と先在と罪を犯し得ないこと(impecability)を並べていることは、わたしたちを驚かす。最初に、彼は、キリストの神性と先在を取り上げる。彼は、「すでに人格として存在していた」キリストが、人間的方法において、肉に入ってきて、キリストが、なおいと高き神の御子であることに留まる唯一の途であるとして、処女降誕を考える。 キリストにおける問題点は、人間的存在の通常の誕生でなく、受肉、すなわち、人間性(assumtio naturae humanae)を取ることである。キリストの人格は、生殖の産物の人格ではない。というのは、言葉が肉となったからである。バーフィンクは、キリストも神性と先在の現実性によって示されている受肉の奥義の独自性を見る。この聖書的洞察なしに、処女降誕を拒否する人々は、彼らのキリスト論における養子論(adoptionism)を、如何にして逃れるかが明白でない。ナザレのイエスにおいて、わたしたちは、父と母から生まれ、それから、不可把握的様式で、神の御子と合一した人間の子どもを扱っているのではなく、御子は遣わされ(his being sent)、そして、この世界に来た(his coming)神の御子の受肉を扱っているのである。 それゆえ、しばしばなされたように、キリストの誕生をある種の仮現論を根拠にしてはならない。処女降誕は、キリストの起源と存在の「特別な性格」(special character)を明白にしようとの願いから結果した。生まれるということの「通常の」(ordinary)事実は、キリストの人間性の「現実性」と「完全性」を表す。しかし、この推論の出発点は間違っている。処女降誕は、仮現論と関係なく、逆に、キリストの「神性」と「先在」と結びついている。このことは、キリストの神性と先在からアプリオリに、合理的に、キリストの処女降誕を演繹することを意味しない。 ベルクーワは言う。「しかしながら、わたしたちの目的は、キリストに関する他の証言から孤立させられていない聖書的証言である。わたしたちは、解釈しようとしていない。わたしたちは、「自然的生殖」(natural procreation)は、キリストの『人間性』の認識のために絶対的に必要であるというようなブルンナーの論拠に対して、また、この理由のゆえに、処女降誕の教理を仮現論の結果と考える人々に対して、警戒しなければならないのである」(120頁)。
9.フォレンホーベンの不十分な受肉観
フォレンホーベン(D.H.Th.Vollenhoben)は、「カイパーとわたしたたちにおける仲保者についての洞察」(1952年)において、キリストの奇跡的誕生を単に受け入れ、擁護するだけでは事足りないと述べた。すなわち、フォレンホーベンは、「アダムとエバの創造後は、どの人間存在は、父と母の両者の種(the seed)から生じる」という事実から、より以上の結論を引き出そうとした。その結果、わたしたちは、ジレンマに出会う。すなわち、「キリストは完全な人でないか、あるいは、キリストに関しても、父的要素(the fatherly factor)が除かれてよいかどうか。しかしながら、仲保者は、『完全な』人間であらねばならないゆえに、新しい男性的種(a new male seed)が創造されたということが起こる。」と述べた。
そこで、ベルクーワは言う。「フォレンホーベンは、こうして、ブルンナーの立場(『自然的』生殖)に反対する論拠をかなり『弱める』ことになってしまう。この点において、わたしたちは、思弁に注意しなければならないし、また、受肉の独自性、人間性を取ること(assumtio humanae naturae)を、キリストの人間性の現実性から何かの価値低落をさせることなしに受け入れなければならない」(121頁-122頁)。
10.キリストの無罪性の根拠は、わざの契約に入っていないことである
わたしたちは、バーフィンクが処女降誕をキリストの神性と先在だけでなく、キリストの絶対的無罪性にも関係させていることを考えてみよう。バーフィンクは、他のところで、処女降誕はキリストの無罪性の本質的根拠「ではない」(not)と言いっていることは、矛盾しないのか。バーフィンク(そして、改革派神学一般)は、処女降誕はキリストの無罪性の根拠とすることに注意深かったと一般的に解釈されてきたが、しかし、バーフィンクの「矛盾」(Bavinck’s contradiction)が示しているように、このことを主張することは、難しいことであることをテストする時がきた。
改革派神学は、結婚および生殖の罪深い本質に少しも関心をもたなかった。すなわち、ローマのように、極めて首尾一貫的に発展させられていなくても、ローマ・カトリック的異端に準じる傾向性にも、なお関心をもたなかったし、また、マリアも、原罪に関係があるというコルフ(Korff)による叙述を否定もしなかった。重要なことは、原罪(the original guilt)の問題であった。処女降誕に関する議論の背後に、わたしたちは、養子論と並んで、神の裁きとしての原罪の現実性に関する疑問を見るのである。 一般的に言えば、しばしば、不適切な諸動機が、処女降誕とキリストの無罪性についての考察に役割をはたしてきた。実際、「処女から生まれ」(natus ex virgine)の意義について、プロテスタントとローマ・カトリックの間の明白な区別をするのが難しかった時があった。 改革派神学が、処女降誕との結びつきで、キリストの無罪性を語ったのは、教義学的推論のために、第一義的ではなかったのである。それにもかかわらず、それをこの関連で語るという事実は、不可避的に誤解を招く結果となった。第一には、それは、常に、明白には区別しなかったゆえに、第二には、それは、『罪』(sin)を結婚関係において強調する見解と一致するように常に『見えた』(appeared)ことのゆえにである。しかしながら、区別はなされ得るのである。すなわち、ここでも問題点は、神の裁きと定めとしての原罪の問題であることを示すことは、可能である。バーフィンクが、キリストの聖化(sanctification of Christ)について、「改革派教義学 Ⅲ」において、幾つかの個所で指摘していることは、理由がないことではない。 誤解の理由のひとつは、多分、通常、「聖化」は、個人的に犯される罪のきよめ(purification)に言及する言葉であり、こうして、そのような罪があることを前提する。しかしながら、聖書は、聖化について異なった類の聖化をも語る。わたしたちは、キリストは、神の聖者であることを知る。しかし、キリストは、ヨハネ110:36で、「それなら、父から聖なる者とされて世に遣わされたわたしが、『わたしは神の子である』と言ったからとて、どうして『神を冒涜している』と言うのか。」と御自身で言う。この聖化は、罪深い状態からきよい状態への変化を意味しないで、任務(a task)への分離、救いのきよいみわざの奉仕への聖化を意味する(ヨハネ10:36)。御父は、キリストを、キリストの職務の実現のため聖化することができる。聖霊の力による第二のアダムとして、そして、キリストに聖霊を「限りなく」(not by measure)与えることができる。キリストは、聖霊を注がれたメシアである(イザヤ61:1)。 そこで、ベルクーワは言う。「教会と神学が、処女降誕をキリストのきよさと結びつけて何度も何度も述べてきたとき、これは、究極的に、思弁の結果でない。『天上的なもの』と『地上的なもの』を引き裂く『グノーシス的動機はないし、また、地上における生の悲運(the doom of life on earth)』を特に連想させる低い結婚観はないのである。それは、聖書が指摘しているように、アダムにおける人類のとが(guilt)に対する神の扱いの実現を考えたのである。地上の生の実際に関係しない『理想的人間』(an ideal man)を構成することを試みる人は誰もいない。これは、マリアからの真の誕生を実際に拒否するグノーシス的・二元論的に染まった概念に、わたしたちが、しばしば発見する理念である。キリストの処女降誕の奥義は、まさにこれである。すなわち、キリストが聖なりお方(the Holy One)として、この生の現実に入るということである。・・・地上の人間の生に関することごとくの価値を下げる思考を完全に除くことは、実際、可能であり、必要である。そのとき、それは、処女降誕の告白についての如何なるマリア論的推論を拒否することも可能である。というのは、処女降誕の目的は、処女性を崇めることでなく、カルヴァンと他の人々が、結婚と性殖の価値を下げることに反対したとき、直感的に理解したように、アダムにおけるすべての人類への神の裁きについての深遠な意味を明白にすることなのである。キリストの処女降誕は、キリストを神の裁きから除くためという信仰は、仮現論への傾向に帰せられてならず、また、言葉の受肉の否定に帰せられてもならない。むしろ、その逆が正しい」(130頁)。
11.処女降誕と旧約の誕生物語
しばしば、処女降誕と神の新しい主権的行為を啓示する旧約聖書の子どもたちの誕生の間の結びつきが見られた。そこで、疑問が生じた。これらの出来事は、処女降誕と何か明白な関係性が問われ、シュタウファー(Stauffer)は、「新約聖書神学」において、処女降誕の理念は、「イサク、サムソン、洗礼者ヨハネの奇跡的誕生が、前兆となった(foreshadowed)」と言っている。
サラの笑いは、アブラハムの不信仰に相応している。彼は笑う。「アブラハムはひれ伏した。しかし笑って、ひそかに言った。「百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか。」(創世記17:17)。サラの笑いの後、神の奇跡が告げられる、「主に不可能なことがあろうか。来年の今ごろ、わたしはここに戻ってくる。そのころ、サラには必ず男の子が生まれている。」」(創世記18:14)。そして、イサクの誕生が、神の活動に大きな強調をもって描かれる。「彼女は身ごもり、年老いたアブラハムとの間に男の子を産んだ。それは、神が約束されていた時期であった。」(創世記21:2)。 サムソンの誕生も、マノアの妻の不妊に対する奇跡的の光において表わされている(士師記13:2)。わたしたちは、また、主の天使の名前に表わされたこの新しい救済論的行為の奇跡を見る(士師記13:18)。再び、わたしたちは、ハンナの不妊について読む。主は、ハンナの胎を閉ざした(サムエル上1:5、参照2:8)。彼女の祈りが聞かれる。しかし、マムエルはエルカナとハンナの子どもであることが明白に語られている(サムエル上1:9)。神が、ハンナを覚えることは、生殖を抹消しないし、ハンナは神の奇跡的諸行為を讃美している(サムエル上2章 特に5節)。最後に、エリサベツの老年ゆえの不妊について読む(ルカ1:7)。彼女も、神が行ってくださったことを讃美している。「主は今こそ、こうして、わたしに目を留め、人々の間からわたしの恥を取り去ってくださいました。」(ルカ1:25)。 これらのデータを読むとき、わたしたちは、シュタウファーが、処女降誕の理念は、これらすべての出来事によって「準備され、前もって整えられている」と言うとき、何を意味しているのかを問う。シュタウファーによれば、マタイもルカも、「キリスト論が灰色の過去に戻っていくこと」、また、処女降誕の理念が「同じような宗教史的表現によって暗示されていたこと」を持ち出そうとしているのである。しかしながら、旧約聖書は、処女降誕を説明していない。それらは、神の民の扱いにおける神の恵みと力を例証している。しかし、父性(fatherhood)の問題は何の役割も果たしてはたいない。神の奇跡は、不妊のののしりを打ち砕く。エリサベツは、マリアへの告知において、「あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。」(ルカ1:36)とさえも述べている。 ベルクーワは言う。「しかし、マリアの場合は、状況はまったく違う。キリストの誕生は、極めて独自である。すなわち、それは、受肉の奥義である。わたしたちは、マリアの人生において現わされた他の顕示(the other manifestations)と同じ性質の一般的な奇跡的力を扱っているのではない。旧約聖書の誕生における告知は、キリストの誕生の告知と大きく違っている。そして、その違いの理由は、この奥義の性質にある。すなわち、言葉は肉となったという奥義である」(132頁-133頁)。
結び
以上で、第5章「偉大な奥義」の紹介が終わったので、解説として、7点を記す。まず第1点は、「偉大な奥義」というタイトルは、テモテ一3:16の「 信心の秘められた真理は確かに偉大です。すなわち、/キリストは肉において現れ、/“霊”において義とされ、/天使たちに見られ、/異邦人の間で宣べ伝えられ、/世界中で信じられ、/栄光のうちに上げられた。」から来ている。しかし、新共同訳聖書では、「奥義」と訳されておらず、「秘められた真理は確かに偉大です」となっているが、以前の口語訳聖書では、「 確かに偉大なのは、この信心の奥義である、/「キリストは肉において現れ、/霊において義とせられ、/御使たちに見られ、/諸国民の間に伝えられ、/世界の中で信じられ、/栄光のうちに天に上げられた」。」と訳されていて、「奥義」と訳されている。ちなみに、英訳聖書(The New Reveised StandardVersionでは、Without any doubt,the mystery of our religion is great:He was revealed in flesch vindicated in spirit,seenby angels,proclaimed among Gentiles,believed in throughout the world ,taken up in gloryである。ここから、The Great Mysteryとタイトルがつけられた。
ちなみに、ベルクーワは、この「キリストのみわざ」の第2章で「受肉の動機」を扱っている。そこでは、キリストの受肉は、人間が堕落して罪人にならなくても、人間のより高い完成のために必要であったと主張する人々もいるが、それは、誤りで、聖書は、キリストの受肉は、堕落して罪人になった人間を罪から救う目的と結びついていることを、ベルクーワは詳しく論じた。そこで、今度は、この第5章「偉大な奥義」においては、キリストが肉において現れたのは、具体的には、処女降誕によるので、ここでは、処女降誕の教理が詳しく扱われる。 第2点は、キリストの処女降誕は、マタイとルカにおいて、極めて明白に疑い得ない仕方で記されているのも、かかわらず、否定したり、現代人に受け入れ易く弱めたりする人々が、絶えず現われた。そこで、ベルクーワは、20世紀のブルンナーの処女降誕論を取り上げる。結論として、ブルンナーは、処女降誕を否定した。ブルンナーは、処女降誕は、原初の使徒的宣教には入っておらず、キリストの出現を教義学的に説明するための試みとして後から入ってきた者とした。しかし、これは、聖書の権威と信頼性に対する反する誤りである。 第3点は、バルトの処女降誕論である。バルトは、ブルナーと違って、処女降誕を否定せず、奇跡と認めた。バルトは、処女降誕を、イエス・キリストにおける神の新しい、主権的活動のしるしと見た。すなわち、それまで、男が死支配してきた世界の流れが変わり、女は神の新しい主権的な活動の対象になることのしるしなのである。処女降誕論は、これまでは、神の御子が出現するという存在論的に理解されてきたが、そうではなく、新しいことが始まるキリストの受肉を指し示すしるしの性格を持つものと考えた。受肉と処女降誕論の関係は、事実としるしの関係と考え、処女降誕論を指し示すことに意義があることを、キリストの復活と空の墓の平行関係で語った。 しかし、ベルクーワは、バルトの処女降誕論は、おかしいと批判する。何故なら、処女降誕論の事実は、受肉と分けられない全体性、トータリテーを構成していて、受肉と事実と分け、処女降誕論は、受肉のしるしすることはス可能であるからである。また、バルトは、受肉と処女降誕論は、復活と空の墓と並行関係で説明しているが、どうして、両者が平行関係なのかをまるで説明していない。何故なら、空の墓は、単に、意義を伴うしるしではなくて、キリストの体をもった復活と密接不可分に結びついているのである。それゆえに、キリストの処女降誕と受肉も、しるしか事実かという問題性を負わせられてはならないものである。また、処女降誕論は、男が世界を支配するものとしての終わりを示し、女が世界を動かす新しい時代の始まりというバルトの特殊なしるし概念は、聖書的根拠がない。 第3点は、イザヤ7:14とマタイ1:22、23の関係であるが、ベルクーワは、イザヤ7:14は、中心的には、キリストの処女降誕が意味されていたわけではないが、しかし、イザヤ7:14は、当時の状況だけの意味でなく、それ以上の含意があった。それゆえ、マタイは、マリアの受胎において、イザヤ預言の実現成就を確信を持って書くことができたという立場である。 第4点は、処女降誕とキリストの無罪性の関係である。ベルクーワは、改革派神学が、処女降誕との結びつきで、キリストの無罪性を語ってきたことを認めているが、しかし、同時に、改革派神学は、カルヴァンをはじめとして、処女降誕との結びつきで、キリストの無罪性を語ることに注意してきたことも事実であることを述べている。 実際、カルヴァンは、「綱要」(Ⅱ-13-4)において、キリストの無罪性が、処女降誕に基礎づけられることに反対している。すなわち、男性と女性の結婚関係から生まれれば、キリストも罪美として生まれるので、それを避けるため、男性の関係なしに、女のマリアからだけ生まれたというのでれば、女のマリアには、アダムから由来する原罪がないかのように思われてしまうが、そんなことはなく、女のマリアにも原罪はあり、処女マリアから生まれても、アダムから由来する原罪を取る。そこで、アダムに由来する原罪を取らないで、人間性を取る仕方が、聖霊の超自然的働きによる奇跡的誕生であったのである。それゆえに、聖霊の働きによる処女降誕は、キリストは、アダムを頭とするわざの契約に含まれていなかったこと、それゆえ、キリストは、アダムから生じた原罪(guilt とが、有罪性、罪責)から自由であって、原罪がないこと、また、マリアから生まれることによって取った人間性が、誕生においても、その後の生涯においても、絶えず、聖霊の働きによって、罪の腐敗(pollution)から守られて、きよいこと、聖であることを意味すると、ベルクーワは、カルヴァンの線に沿って述べている。そこで、ベルクーワは、ルカ1:35の御言葉、「」が重要であることを語る。こうして、キリストの聖霊の働きによるマリアからの超自然的奇跡的処女降誕は、キリストがわざの契約に含まれていないゆえに、アダムの原罪を受け継がないこと、キリストがマリアから生まれることによって取った人間性が、聖霊の働きにより、誕生においても、その後の生涯においても、罪の腐敗からきよく守られるためであったことがわかる。わたしは、キリストの無罪性ということを聞くとき、かつて、岡田稔先生が、キリストの無罪性は、キリストがわざの契約に入っていなかったことによると言われていたのを思い出す。本当にそうである。カルヴァンも、ベルクーワもそう言っている。 そして、ベルクーワはさらに言う。キリストは、聖霊の働きにより処女マリアより、超自然的に、奇跡として、生まれたゆえに、わざの契約に含まれておらず、アダムに由来する原罪もなく、さらに、マリアから生まれることによって取った人間性が、誕生のときも、誕生後も常に絶えず、罪の腐敗から守られ、きよめられていたゆえに、神の裁きからから自由であり、キリストの職務のため、任務のため、救いのみわざのために、聖霊により備えられていた。だからこそ、アダムに由来する原罪をもつ人類の罪を、自発的に、積極的に、身代わりに担い、十字架の苦しみと死とで、救いの途を開らけたのであると。 第5点は、処女降誕と旧約の誕生物語の関係である。旧約聖書には、不妊の女性が何人も出てきて、神の主権的活動によって、子を生んでいる。そこで、ある人は、これらの旧約の出来事は、キリストの処女降誕の前兆と理解するが、ベルクーワはそれは無理であると言う。処女降誕は、あくまで、神の御子の受肉、言葉の受肉で、根本的違いがあると語る。 第6点は、処女降誕についてのカトリックの誤りについてである。カトリックは、1854年に、処女降誕は、マリアの無原罪受胎を意味すると定められた。これは、両性の結婚による原罪の伝達を避けるために、通常の結婚を除くことによって、キリストの無罪性を説明することを試みた結果であった。このことは、キリストの無罪性の根拠を処女降誕に置くことの誤りに導くひとつのきっかけになった。 第7点は、わたしたちの教派のウェストミンスター信仰基準において、処女降誕はどのように扱われているかを見よう。すると、ウェストミンスター信仰告白第6章「人間の罪、およびその罰について」の第3節のアダムの罪の転嫁において、キリストが除かれることを暗に語っている。「彼らは全人類の根源であるので、彼らから普通の出生によって生まれるすべての子孫に、この罪のとが(guilt)が転嫁され、また罪における同じ死と腐敗した性質とが伝えられた」とあるが、ここで、キリストの名前は出てこないが、キリストの出生は、普通の出生によらない聖霊の働きによる超自然的奇跡によるので、アダムに由来するとがと罪の腐敗した性質(corrupted nature)が伝達されていないことを暗に示している。 また、もうひとつの証拠聖句のコリント一15:21、22、45、49を見ると、そこは、死が一人の人アダムによって来たのだから、復活も一人の人キリストによって来るという対照がなされている。そして、45節では、「最初のアダム」に対照して、キリストは、「最後のアダム」と言われており、49節では、「わたしたちは、土からできたその人の似姿となっているように、天に属するその人(キリスト)の似姿になるのです」と言われて、両者がここでも対照させられている。こうして、コリント一15章においては、キリストは、アダムと対照させられていて、アダムをかしらとするわざの契約に含まれていないことがわかる。それゆえ、如何なる意味でも、アダムに由来するとが(guilt)、有罪性、罪責を、キリストは負わない。 また、第7章「仲保者キリストについて」の第2節のキリストの二性一人格との関連で、三位一体の第二人格の神の御子が、人間の性質を取った方法が、「・・・彼は、聖霊の力により、処女マリアの胎に彼女の本質をとって、みごもられた」と述べられていて、処女降誕であることを告白している。 また、同じ第7章第3節の仲保者職と保証人職へキリストの召しと遂行で、「主イエスは、このように神性に結合された彼の人性において、限りなく聖霊をもってきよめられ油注がれ・・・それは・・・仲保者と保証人の職務を遂行するために完全に備えられるためであった」と述べられて、聖霊の働きは、キリストの処女降誕においてだけでなく、その後も生涯にわたって、仲保者と保証人の職務遂行のため、救いのみわざへの奉仕のため、聖霊によるキリストの聖化が明白に語られている。 大教理問答においては、問22の答において、「公人としてのアダムと結ばれた契約は、彼自身だけでなく、彼の子孫のためにも結ばれていて、普通の出生によって彼から出る全人類は、その最初の違反において、彼にあって罪を犯し、彼と共に堕落した」とあり、キリストという名前は出ていないが、しかし、普通の出生でなく、聖霊の力による超自然的奇跡による出生をしたキリストは、わざの契約に含まれていなかったので、アダムにおいて、またアダムと共に罪を犯すことがなかったことが告白されている。参照聖句を見ると、ローマ5:12-20、コリント15:21、22が挙げられているので、先に見たことがここでも当てはまり、キリストは、アダムをかしらとするわざの契約に含まれていないことがわかる。 問37の答において、「神のみ子はキリストは、聖霊の力により、処女マリアの本質をとって彼女の胎に宿り、彼女から生まれて、真実の体と理性的霊魂をとることによって、人となられた、しかも罪がなかった」とあり、聖霊の力による処女降誕は、神の御子が、罪を取らずに人間性を取る仕方として語っている。 小教理問答では、問16の答で、「あの契約がアダムと結ばれたのは、彼自身のためだけでなく、子孫のためでもありました。それで、普通の生まれかたでアダムから出る全人類は、彼の最初の違反において、彼にあって罪を犯し、彼と共に堕落したのです」とあり、普通の生まれ方をしなかったキリストは、アダムと結ばれた全人類を含むわざの契約に含まれていなかったことがわかる。それゆえ、アダムにあって罪を犯すこともなかったし、また、アダムと共に堕落することもなかったことがわかる。 また、問22の答えで、「神の御子キリストが人になられたには、聖霊の御力によって処女マリアの胎に宿り・彼女から生まれながらも、罪はないという仕方で、真実の体と理性的霊魂をおとりになることによってでした」と述べて、処女降誕は、御子が罪を取らないで、人なる仕方であることを語っている。 以上のことから、ウェストミンスター信仰基準においては、処女降誕は、キリストがわざの契約に含まれていないこと、また、罪を取らないで人間性を取る仕方、また、その人間性が、誕生においても、誕生後も、生涯にわたって、仲保者職と保証人職を遂行するために、聖霊によってきよめられ、備えられるためであったことを教えている。
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