水腫をわずらっている人の癒し

ルカ 14章1ー6節


 今日の箇所は、〈水腫をわすらっている人〉の癒しの記事です。ユダヤ社会では、〈安息日〉の礼拝が終わったあと、説教したラビや友人知人を家に招いてちょっとした宴会を開く習慣がありました。この宴会では、昼食を共にしながら、ラビの談話を聞いたり、ラビに質問したり、また、互に情報交換などをしたりして、中身のある交わりが持たれることがあったのです。これは、現在もなお続いているそうです。おそらく、この日はイエスがその会堂で説教をなさったのでしょう。礼拝が終わったあとで、イエスは〈あるパリサイ派の指導者の家〉に招かれました。この〈指導者〉とは、ユダヤ議会の議員のことです。また、そこには、〈律法の専門家、パリサイ人たち〉も招かれていました。ところが、そこにはこういう宴会に招かれるほずがない一人の男がいたのです。彼は、〈水腫をわずらっている人〉でした。

 〈水腫〉とは、リンパ液や体液のバランスが崩れて、患部が異常にむくむ病気です。心臓や腎臓の機能が低下したり、栄養不良になったりすると、全身に浮腫が現れることがあります。当時は、この病気に対する偏見があって、神から呪われた結果であると受け取られていたようです。ラビたちは不品行の罪の結果と考えたとされています。ですから、彼に同情を寄せる人はなく、当然彼の癒しを願う人もなかったと思われます。安息日にイエスが癒しを行うと、彼に対する遠慮をまったくせずにせずに、イエスを攻撃できるまさに最適の材料となる人物でした。おそらく、イエスが家に入られた時、〈イエスの真正面に〉この男が鉢合わせするように、誰かが画策したに違いありません。そして、イエスが彼を癒すかどうかに、みなの視線が釘付けになりました。このような敵対的な視線の真っ只中で、イエスは癒しを行われました。今日は、〈水腫をわずらっている人〉が癒されるプロセスを中心に、ご一緒に聖書のテキストを見てみたいと思います。また、この箇所にはもう一つの癒しがあります。そのこともご一緒に見てみましょう。 


(1)〈水腫をわずらっている人〉


安息日の宴会にて

ある安息日に、食事をしようとして、パリサイ派のある指導者の家に入られたとき、みんながじっとイエスを見つめていた。そこには、イエスの真っ正面に、水腫をわずらっている人がいた。            ルカ14:1-2

 〈水腫をわずらっている人〉は、新約聖書ではここだけしか出てきません。旧約聖書では神に呪われた結果とする箇所もあるのですが(民数記521-22)、〈水腫〉という病気のすべてが呪われた結果とされているわけではありません。これは、他の病気にも言えることです。このように、部分的な記述や信条の一部だけを絶対的な原理と見なして、それであらゆることを一元的に解釈することを、原理主義というのです。原理主義が価値観や世界観に現れると、大きな悲劇に繋がることがあります。

 原理主義は、現在の国際社会への最大の脅威ですが、元はといえば、個人の心の中で起こるものなのです。イエスは、このような原理主義の立場を決して採られませんでした。イエスの聖書解釈は、まず聖書全体を網羅するような包括的なものでしたから、聖書の一部で、世界のすべてを解釈する原理主義とはまったく違ったものでした。また、解釈の適用も相手の立場を無視して一方的に押し付けるものではなくて、相手の立場を十分に理解した上で、適切に適用されたのです。このような聖書解釈が、癒しに繋がったのです。


父なる神のみこころを認識するイエス

イエスは、律法の専門家、パリサイ人たちに、「安息日に病気を直すことは正しいことですか、それともよくないことですか」と言われた。  ルカ14:3

 〈水腫をわずらっている人〉が癒されるプロセスの最初に、イエスの聖書解釈があったことをもっと詳しく見てみましょう。3節をご覧ください。ここで、イエスは〈律法の専門家、パリサイ人たち〉に質問されました。〈安息日に病気を直すことは正しいことですか、それともよくないことですか〉。モーセの律法では〈安息日〉にはすべての仕事を休まなければならなかったのですが、ラビたちは医者による治療行為も禁止しました。ただ、直ちに治療をしなければ命に関わるような重い病気の場合は、例外とされていました。このような〈安息日〉での医者の治療行為の禁止を、ユダヤ人はイエスの癒しにも適用したわけです。

  ユダヤ人の宗教指導者たちの根本的な過ちは、神のわざである癒しを、医者の治療行為と同じ次元のものと考えたことにあります。これは、神がなさったことに、人間がケチをつける行為であって、神への冒涜なのです。しかし、イエスは、医師の治療行為と同じ次元でご自分の癒しを議論されることをあえて認められたのです。相手の理解のレベルまで降りて行って、課題を考えさせるというのは、イエスのいつもの教え方でした。とにかく、イエスは、誰がなんと言おうと、〈水腫をわずらっている人〉への神のみこころが、直ちに癒すことであることを認識しておられました。彼らの狭い聖書解釈に押されて癒しを伸ばすよりも、神のあわれみの心を直ちに実践することを選ばれたのです。癒しへのプロセスの第一に、イエスが父なる神のみこころを深く認識しておられたことが挙げられます。 

                           

(2)父なる神のみこころを共有する


みこころを見分ける

私は祈っています。あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、あなたがたが、真にすぐれたものを見分けることができるようになりますように。 ピリピ1:9-10

 イエスは、安息日であっても直ちに彼を癒すのが、父なる神のみこころであることを知っておられました。この知識はどこから来たのでしょうか?一つは、聖書全体を見渡す包括的な聖書解釈であることはすでに触れました。もう一つの面があるのです。それは、父なる神との交わりによって、みこころを共有しておられたことなのです。その点では、キリスト者も同じなのです。デボーションにおいて語られる神の御声を、そして具体的な局面で語られる神の御声を注意深く聞き分けることによって、具体的な状況における神のみこころを共有することができるのです。

 ピリピ19-10をご覧ください。ここに、〈真にすぐれたものを見分ける〉とあります。〈真にすぐれたもの〉には定冠詞が付いていて、しかも複数形です。それは生きる上での具体的な個々の状況における「神のみこころ」にほかならないのです。〈見分ける〉(ドキマゾー)は、新約聖書に22回出てきますが、このうち17回はパウロ書簡で出てきます。パウロが好んで使った言葉の一つなのです。パウロは、何が神のみこころかを見分けることの重要性を、誰よりも認識した人でした。なぜなら、パリサイ派時代の彼の聖書解釈が、ユダヤ人の伝統に影響を受けて、真正なメシアを真正なものと〈見分ける〉ことに見事に失敗したという苦い経験があったからです。いわば、かつての彼の聖書解釈が激しく神に敵対するものでさえあったのです。具体的な課題について〈見分ける〉という作業が正しく行われないなら、神に従うことができなばかりか、神への反逆とさえなる、パウロは誰よりもそのことを知っていたはずです。


父なる神の憐れみを共有する

しかし、彼らは黙っていた。それで、イエスはその人を抱いていやし、帰された。           ルカ14:4

 癒しに至るプロセスの第一は、「神のみこころを見分ける」ということであったことを見てきましたが、プロセスの第二をルカ14:4から考えてみましょう。それは、「憐れみ」の感情なのです。イエスは、「神のみこころ」を見分けて、それを事務的に行ったのではありません。また、ご自分の教団を大きくしようとか、名声を得ようと願って、野心的な動機から行ったわけではないのです。癒しへと突き動かす「憐れみ」の感情を父なる神と共有されていたからなのです。〈水腫をわずらっていた人〉は、偏見を持たれていましたので、誰も彼に触る人はもちろん、同情する人もありませんでした。しかし、イエスだけは違っていたのです。彼を〈抱いていやし(た)〉のです。そこには、病に苦しむ彼の実存への深い理解、弱い立場の人を思いやるイマジネーションが見られます。

 ピーター・ワグナーという神学校の教授が、自分にはできたから他人にもできるはずだ、という思い込みが隣人を苦しめることがあることを指摘して、それを「投影」(プロジェクション)と呼んでいます。それは、自分の経験ややり方を他人に「投影」しようとすることです。昔私が塾をやっていた時に経験した感情を、ある方にお話したことがあります。生徒たちに勉強を教えていると、「なぜ、こんな当たり前のことが分からないのだろう」という思いに取り付かれて困ったことがあったのです。それで、一時間の授業が終わると、ストレスでクタクタになっていました。すると、彼女は「あなたは教師には向いていない」ときっぱり断言したのです。教師というのは、生徒の学習のレベルから始めなければならないが、私は自分の状況から始めている、ここに、根本的な間違いがあったのですが、彼女はそのことを見抜いたのでしょう。ピーター・ワグナーの説明した「投影」を、知らず知らずのうちに行っていたのです。相手の状況を十分に理解し、そこから始めなければ、多くの傷つく人々が出るだけなのです。自分の状況から始める人は隣人を癒すことができないのです。今問題になっている「いじめ」も、いじめられる側の気持ちがまったく無視されてしまっていることに原因があります。最近では、この辺の理解が深まり、「いじめ」とは、本人が「いじめ」と認識することと再定義されるようになりました。


(3)もう一つの癒し


相手の理解のレベルで

それから、彼らに言われた。「自分の息子や牛が井戸に落ちたのに、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者があなたがたのうちにいるでしょうか。」 ルカ 14:5

 ここで、ルカ145をご覧ください。ここは、イエスが如何に優れた教師であったかを証明する一コマです。イエスは、安息日に神による癒しを行うことが正しいことであると教えるために、高度な神学的議論を避けて、最も分かりやすい話をされました。すなわち、安息日に〈自分の息子や牛が井戸に落ちた〉というケースを取り上げて、さあ、あなたならどうするか、と問い掛けたのです。井戸に落ちても、浅い井戸だったら、直ちに命が危なくなることはないだろう。こういう場合は、ラビたちの教えに従うなら、安息日が終わる日没まで待たなければならない、そういうことがあなたにできるだろうか?そう、イエスは問い掛けたのです。

 〈自分の息子や牛〉というのは、彼らが何よりも大切に思っていたのでした。〈牛〉は耕作に利用され、現在の農家が所有するトラクターと同様、毎年財を産み出す大切な財産であり、さらに、家族でもあったのです。イエスは、何よりも大切に思っている者が被害者であるケースを持ち出されたのです。それで、〈水腫をわずらっている人〉を直ちに癒すべきかどうかを、自分の問題として彼らは考えざるを得なかったのです。あなたが自分の子どもや牛を大切に思う気持ちは、神が〈水腫をわずらっている人〉を憐れむ気持ちと同じなのだ、だから、あなたがたが〈子どもや牛〉を〈すぐに引き上げてや(る)〉ように、わたしも彼を〈すぐに〉癒してあげたいのだ、ということですね。


ユダヤ人の反応

彼らは答えることができなかった。
                 ルカ 14:6

 これまで、〈水腫をわずらっている人〉の癒しを見てみましたが、この段落には、もう一つの癒しが書かれているのです。それは、宴会に招いた人と招かれた人たちの認識の癒しなのです。その人が何をどう認識しているかが、すなわち、認識の質そのものがその人の人格と言って良いと思います。ですから、認識の癒しは、心の癒しと言って良いと思います。イエスが〈水腫をわずらっていた人〉の立場にシンパシーを感じていた、その認識がイエスの人となりなのです。「投影」とはその逆を行くものですが、偏見はその最たるものです。このような認識の歪みは、隣人だけでなく、本人をも苦しめるものなのです。精神医学の専門家は、認識の歪みがパニック症候群やその他の精神症状の根本的な原因であることを指摘しています。ある方は、他人と比較することで自分を測るという認識が小さい時から植えつけられていて、人生を狂わせたことを告白しているのです。

 ルカ146をご覧ください。イエスに教えられた彼らは、〈答えることができなかった〉とあります。一言の弁解も言い訳もなかったことは、自分たちの認識が間違っていたことを自分で納得したので、言い返すことができなかったということなのです。これは、現代の認知療法そのものだと思います。イエスは、2000年前にすでにこの療法を知っておられたのです。みことばによって、自分の歪んだ認識、間違った認識を自覚するようになると、その人の心が癒されます。このように、みことばによる認識の歪みの気づきを、日々のデボーションで経験するという特権が、キリスト者にはあるのです。それだけではありません。その人が関わっている人間関係も癒されていくのです。


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