「捧げもの・献金」について


Q 献金はなぜするのですか?


神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。Ⅱコリント9:8


献金は、教会におさめる月謝や、入場料ではありません。あくまでも神に対する捧げものなのです。昔、CSの子供にどうやって神様に届けているのかと質問されましたが、もちろん神は霊的な存在であり、お金を必要としてはいません。全ては神の創造物であり神のものです。献金は、神のみ体である教会の様々な働きの必要のためや、奉仕者の給料としても用いられます。しかし、あくまでも神に捧げられるもので、非常に霊的なものなのです。


<献金の種類>(教会によって呼び方、種類などは異なる)

・一般献金・・・礼拝、集会などで捧げる献金

・十一献金・・・収入の十分の一を捧げる献金

・感謝献金・・・特別に神に感謝することがある時、献金をもって感謝する献金

・指定献金・・・献金の対象(個人・教会など)や、使用目的(孤児院・海外宣教など)が指定されている献金


<十一献金>

アブラムはすべての物の十分の一を彼に与えた。創世記14:20

十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためして見よ。・・・・わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。マラキ書3:10


十分の一献金とは、毎月(あるいは毎週収入のある人は毎週)収入があった時に、収入の十分の一の金額を献金するものです。もちろん強制ではありませんが、マラキ書3章8節には、十分の一と奉納物を盗んでいる。とあるので、収入の十分の一は、本来神の物なのです。十分の一献金とは慣れていない人にとっては決して簡単な事ではないと思います。しかし、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかを試してみよ。とあります。聖書には神を試してはいけないとありますが、ここだけは試して見よ。とあります。私も、以前は十分の一に葛藤を覚えました。しかし、聖霊の促しに従って一大決心をして捧げました。その結果、給料が10万円もいい職場に代わることが出来たのです。以前は夜7時まで働いていましたが、5時で帰れるようになりました。十一献金とは、生活の面で神に信頼することを意味します。経済とは、人間の弱い部分でその部分で神に信仰が持てない時、この世のお金に頼って生活しなければいけません。神がどんな時にも支え必要を満たしてくださる事を信じ、多少きついと思っても捧げる時、確かに神が豊かに支えて下さる事を体験できます。十一献金とは神に対する信仰と献身の現れです。

また、十一の捧げ方としては、収入が入った時点で初穂の最良の部分として十分の一を取り分け捧げましょう。


<一般献金>

礼拝などで捧げる献金のことを一般献金といいます。集会ごとに献金を捧げます。


わたしに奉納物をささげるように、イスラエル人に告げよ。すべて、心から進んでささげる人から、わたしへの奉納物を受け取らなければならない。出エジプト25:1

私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。Ⅱコリント9:6


神の前に出るときは、捧げものを持っていきます。しかし、重要なのは金額よりも捧げる心です。神は捧げものがほしいのではなく、捧げる人の心を見たいのです。献金は神に対する礼拝の現れで、信仰表明です。献金を捧げるとお金が減ると感じる人もいるでしょう。しかし、聖書には、献金とは、種まきのようなもので、多く蒔く人は多く刈り取ると、あります。献金することはさらに豊かな祝福を受ける秘訣なのです。捧げる人は確かに経済的にも祝福されています。では、無理してたくさん捧げればいいのかというと、そうでもありません。


ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。Ⅱコリント9:7


一人ひとり心に決めた、喜んで捧げられる金額を献金しましょう。いずれの献金も強制ではありません。献金とは、感謝と信仰の現れなのです。神はその信仰に応じて祝福を与えてくださいます。捧げることは、豊かな祝福を刈り取ることなのです。


蒔く人に種と食べるパンを与えてくださる方は、あなたがたにも蒔く種を備え、それをふやし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。Ⅱコリント9:10


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