神の愛を表す言

 

ヨハネ福音書 1:1-5


聖 書

1初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。2 この言は、初めに神と共にあった。3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。5 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。


はじめに


ヨハネによる福音書は、だれによっていつごろ書かれたのかと言えば、イエス様の12弟子の1人のヨハネが書いた、あるいは、12弟子の1人のヨハネから聞いたことを、その弟子たちが書いたと言われています。どちらを取るにしても、人類の中で、神の子のイエス様に最もそば近く仕えた12弟子の1人のヨハネから出ていることは間違いないでしょう。そして、その12弟子の1人のヨハネから出た文書は、ヨハネによる福音書だけでなく、ヨハネの手紙一、二、三、さらに、ヨハネの黙示録があります。これらをまとめて、しばしばヨハネ文書といいます。


       12弟子の1人のヨハネは、かなり長生きして、おじいさんになったと考えられます。そこで、ヨハネによる福音書も含めてヨハネ文書といわれるものは紀元80年代から90年代にかけて書かれたと思われます。新約聖書の中で、最も遅く書かれました。そのため、ヨハネは、若いときから、イエス様について生涯熟慮してきたことを書いたことになります。それで、ある種の霊的深さがあるのでしょう。ヨハネは、若いときには、霊的な豊かさを持つヨハネ文書といわれるものを書くことはできなかったでしょう。いろいろな経験をし、年をとり、おじいさんになって、円熟していたゆえに、霊的な豊かさを持つヨハネ文書といわれるものが、初めて書けたのでしょう。そこで、わたしたちは、霊的豊かさをもつヨハネによる福音書に皆で取り組んで、信仰的に豊かに養われるものになりたいと願っています。


1.「言」というのは、受肉前のイエス様を表します


わたしたちが、この書き出しを見てすぐに気がつくことは、「言」という表現が、何回も出てくることです。1節に、3回、2節に1回、3節に2回。4節に1回、10節に3回、11節に1回、12節に1回、14節に1回、計13回も出ています。わたしたちはここで、疑問を持つでしょう。「ヨハネの序言、『言』という表現がこんなに多く出てきたかしら?」と思うのです。本当にそうです。実は、これまでの口語訳聖書には、こんなに多くは出てこなかったのです。


       これまでの、口語訳聖書には、「言」という
表現は6回だけです。ところが、今度の新共同訳聖書には、13回も出てきますが、これは、訳し方によるのです。今度の新共同訳聖書のように、13回も出てくるように訳すこともできるのです。どちらも可能です。
 では、ヨハネの序言に、口語訳聖書では6回、新共同訳聖書では、13回も出てくる「言」というのは、具体的に、何を表すかと言いますと、受肉前のイエス様を表します。マリアから生まれる前の神の子を表します。そのことは、14節を読み合わせますとすぐにわかります。14節に、「『言』は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」とありまして、「言」とは「父の独り子」、すなわち、父なる神の独り子であるイエス様を表していることがわかります。ただし、まだ「肉」、すなわち、人間となっていないので、マリアから生まれる前のイエス様を表しています。


では、どうして受肉前のイエス様が、「言」と表現されているのかと言いますと、それは、イエス様が、創造主である真の神の意志を私たち罪人である人類に伝えてくれるからです。「言」というものは、何かを相手に伝えるための手段です。コミュニケーションの手段です。「言」というものは、広く解釈すれば、動物にもあります。テレビの番組を見ておりましたら、クジラは、水中である声を出して、仲間とコミュニケーションをとるそうです。それは広い意味では言葉になるというのです。また、ミツバチのダンスはよく知られています。ミツバチは、時々、円を描くように飛ぶそうですが、それは、どちらの方角に、どのぐらいの距離のところに蜜があるかを仲間に知らせているそうです。それで、広い意味では、言葉になるというのです。こうして、広い意味では、動物にも言葉があるといえるようです。


しかし、厳密には、「言」は、もちろん、人格を持つ者同士の意志の伝達、疎通の手段です。コミュニケーションの手段です。意志、思い、考え、感情を伝える手段です。しばしば、わたしたちは、言葉が足らないゆえに、相互の意志の伝達がうまくいかないときがあります。「一言足りないんだよなあ」とか「あのとき、一言そういってくれれば、こんなことにはならなかったのに」などと言います。こうして、「言」というものは、意志を伝える手段です。もちろん、昔からそうでした。新約聖書の書かれた1世紀の地中海世界においても「言」は、意志の伝達の手段でした。


       年をとって、かなりのおじいさんとなり、円熟していたヨハネは、イエス様は、創造主である真の神の意志を罪人である人類に伝える働きをするので、イエス様のことを「言」として表すことがベストとして、数十年間熟慮に熟慮を重ねた結果表現したのです。本当にそうです。イエス様は、わたしたちに、神はわたしたちを愛によって救ってくださるという救済の意志を伝えてくださるので、イエス様は、「言」なのです。


では、神は、愛によって罪人である人類を救ってくださるという神の意志を伝える「言」の働きをする、イエス様は、どのようなお方なのでしょう。すると、ヨハネは、3つのすばらしいことを教えていますので、順番に見ていきましょう。1つ目のことは、イエス様は、永遠から存在していた偉大な、はかり知れないお方であることを、教えています。イエス様は、いつから存在したのでしょうか。それは、永遠からでした。イエス様は、神の御子として永遠から存在しておられるお方で、時間の初めに、神が万物を7日間で創造したときにも、もちろん、もうすでに存在していました。1節がそうです。「初めに言があった」とありまして、「初めに」といわれていますが、「初めに」といえば、それは、聖書の第1ページのまさに冒頭の御言葉、旧約聖書・創世記1章1節の「初めに、神は天地を創造された」の「初めに」を表しています。


       ですから、神が、時間の初めに、天地万物を創造されたときに、もうすでに、「言」といわれる受肉前のイエス様、すなわち、神の御子がもうすでに存在していたことを、この表現で表しています。そして、時間の初めに、もうすでに、存在していたということは、永遠から存在していたということと同じです。イエス様は、確かに、マリアから生まれて、この世の時間の中に歩むことになりますが、だからといって、マリアから生まれたときに、初めて存在するようになったのではなく、時間以前から、すなわち、永遠から存在されていた、偉大なお方なのです。


       年をとって、円熟した、おじいさんのヨハネが、若いときから数十年熟慮した結果、イエス様について教えたことの2つ目のすばらしいことはなんでしょうか。それは、イエス様は、神の御子として、父なる神と永遠の愛のまじわりをしておられた偉大な計り知れないお方であるということです。


「言は神とともにあった」とあります。「ともにある」というのは、もともと、向かいあっているという意味で、「言」といわれる神の御子と父なる神が、向かいあって、永遠の愛のまじわりをしていることを表す、本当に、感動的なすばらしい表現なのです。神の御子と父なる神が心が完ぺきに通じあって、計り知れない豊かな愛の中で交流していることを表しているのです。そこには、不十分さ、不完全さはまったくありません。こうして、受肉前の神の御子イエス様は、父なる神と対等・同等で、永遠の愛のまじわりをしていた、ホントに偉大なお方なのです。


       では、年をとって、円熟した、おじいさんのヨハネが、若いときから数十年熟慮した結果、イエス様について教えたことの3つ目のすばらしいことはなんでしょうか。それは、イエス様は、神であるということです。「言は神であった」とありますが、ここでは、そのものずばりで、「言」といわれるイエス様の神性、神であることを表しています。イエス様は、本来、神の永遠の御子であり、神性を持たれるお方であり、神御自身なのです。

こうして、晩年の円熟したおじいさんであったヨハネは、イエス様についてのよき知らせである福音書を書くのに、若いときから数十年にわたる熟慮を重ねた結果、イエス様を「言」として印象深く書いたのです。「初めに言があった」という表現は、1度読んだら忘れられない印象深い表現として、読者の心の最も深いところ、魂の最も深いところに、根を深く張るでしょう。わたしも、若いときに、求道者の時に1度読んでもう覚えてしまいました。


「言」という表現を見ますときに、わたしは1つのことを思い起こします。数年前に、日本のある有名な書店からシリーズものの本が出ました。思想的な本です。その書店は、思想的なものを出す書店として有名な書店でしたが、思想的な本の新しいシリーズを出すということで、広告を作りました。その広告にはこんなことが書いてありました。現代は、言葉のはんらんの時代である。信頼できない言葉が満ちあふれている。そこで、そのような時代に、なぜ、また、思想的な本、すなわち、言葉で本を出すのかと問う人がいるかもしれない。


それに答えていう。言葉が信頼できない時代であればこそ、信頼できる言葉として、思想的な言葉の本をあえて出版する。それゆえ、ぜひ買ってほしいと書いてあったのです。わたしは、その広告を読みまして、おかしくて、1人で笑ってしまいましたが、同時に、そのことは、まさに、イエス様にあてはまるなあと思いました。確かに、今の時代は、言葉が信頼できない時代とも言えるかもしれません。しかし、その様な今の時代にあっても、わたしたちを愛して、救ってくださるという神の救済の意志を表す「言」であるイエス様こそ、絶対的に信頼できる「言」であることを心にしっかり覚えたいと思います。


2.受肉前のイエス様は万物創造のわざに参加しておられました


イエス様は創造のわざに参加していたのですから、御自身は、造られたものではないのです。造った側にいたのです。万物の創造のわざは、確かに父なる神が中心的になさるわざでしたが、しかし、父なる神だけが行ったのではなく、父なる神とともに、受肉前のイエス様も、また、聖霊なる神も参加していたのです。ですから、万物創造は、父・子・聖霊なる三位一体の神のわざであり、受肉前のイエス様も積極的に参加していたのです。3節がそうです。 


       3節は「万物は言によって成った。成ったもので、『言』によらずに成ったものは何一つなかった」とありまして、「成った」という表現が3回出てきますが「成った」というのは、創造されて存在するようになったという意味ですが、特に、「言によらずに成ったものは何一つなかった」という表現は、強調で、創造されて存在するようになった万物の中で、「言」、すなわち、受肉前の神の御子イエス様によって創造されなかったものは、何一つないという、とても強い言い方になっています。


わたしたちは、ここで疑問を持つかもしれません。「万物の創造の時に、受肉前のイエス様が参加していたというが、それ、ホント?」と思うのです。本当です。旧約聖書・創世記1章の万物創造のところを見ますと、「神が光あれと言われた。すると光があった」とか、「神は大空があれと言われた。すると大空があった」いうふうにして、神、すなわち、父なる神御自身が次々と万物を創造していったことがわかります。


       しかし、創世記1章2節を見ますと「…神の霊が水の面を動いていた」とありまして、「神の霊」、すなわち、聖霊も創造のわざに参加していたことがわかります。では、受肉前の神の御子キリストが創造に参加していたことは、どのようにしてわかるかといいますと、実は、父なる神が万物を創造するとき、光あれと言われたとか、大空があれと言われたというふうに、言葉を用いて創造したと記されていますが、言葉を用いて創造したということが、神の御子キリストが創造のわざに参加していたことを表しているのです。イエス様は、神の「言」として、創造に積極的に参加しておられた偉大な計り知れないお方なのです。


こうして、年をとって円熟しておじいさんになったヨハネは、イエス様は、父なる神とともに、また、聖霊なる神とともに万物を創造したお方として、何らためらわずに、堂々と力強く表明し、読者の一人ひとりが、イエス様を神として揺るぎなく信頼して歩むように求めています。そして、イエス様の神性、すなわち、神であることをはっきり教えることこそが、実は、ヨハネによる福音書を書く動機でした。


       わたしは、ヨハネによる福音書の説教のため、アウグスチヌスという4世紀から5世紀に活躍したキリスト教の有名な先生の「ヨハネによる福音書説教」を買いまして、合わせて読んでいるのですが、ヨハネがヨハネによる福音書を書いたいきさつについての伝承があることを初めて知り、そこを読んだとき、ヨハネによる福音書の根本がわかったような気がしました。こういう伝承、言い伝えがあるのですね。


12弟子の1人のヨハネは、キリストが天にお帰りになってから65年間、伝道しておじいさんになったときに、ローマ皇帝ドミチアヌスのキリスト教迫害によって、指導者としてとらえられ、地中海のパトモスという島に幽閉されました。その後、幽閉から開放され、以前から、牧会していたトルコ半島のエフェソに戻りました。すると、ヨハネが幽閉されていた間に、キリスト教の異端によって教会が霊的に荒らされて、キリストの神性が否定され、マリアから生まれる前はキリストは存在しなかったという主張が広がっていたので、多くの牧師たちから、その異端を反撃するために書いてほしいと懇願されたそうです。そこで、ヨハネによる福音書を書きました。そして、そのときには、もうすでに、3つの福音書、すなわち、マタイによる福音書、マルコによる福音書、ルカによる福音書があり、ヨハネもそれらを読んでいたけれども、それらよりももっと強くキリストの神性を書こうとしたのである。それゆえに、ヨハネによる福音書は、初めから終わりまで、イエス様が神であることが強く教えられているというものです。こういう言い伝えがあるようですが、わたしは、この言い伝えを読んだときに、「ヨハネによる福音書はそういうものか。なるほどなあ」と根本がわかったような気がしました。そして、年をとって、円熟しておじいさんになっていたからこそ、ヨハネは、若いときから長い期間にわたって考えて蓄えてきたものを十分に活用し、熟慮に熟慮を重ねて、書けたのであろうと思いました。


わたしたちは、ヨハネによる福音書の学びを通して、ヨハネが根本的に教えようとしていたイエス様の神性、すなわち、神であることを魂の深いところでますます確信し、信頼し、信仰のすばらしい対象として偉大なイエス様を見上げて安心して歩んでいきたいと思います


3.イエス様は人生を照らす明るい光になってくださいます


神であるイエス様は、わたしたち一人ひとりに永遠の生命を与え、人生を照らす明るい光になってくださいます。4節と5節がそうです。


       4節で「言の内には命があった。命は人間を照らす光であった。」とありまして、「命」という表現が出てきます。「命」は、ヨハネによる福音書に、キーワードとしてこれから何回も出てくる霊的生命のことです。「命」といっても「永遠の命」といっても同じです。「命」という言い方で、ヨハネによる福音書に25回、「永遠の命」という言い方で11回出てきます。そして、意味するものは、神とのまじわりにおいて人を真に、しかも永遠に生かすことができる計り知れない価値をもつ霊的命のことです。イエス様はこの霊的命に無限に満ち溢れておられ、誰にでも恵みとして与えることができます。


       また、「光」という言い方はヨハネによる福音書に20回出てきます。そして「光」というのは、イエス様のことです。イエス様は、人間が、暗い罪ゆえに人生の道を迷わないよう、人間を明るく照らしてくださるので、光にたとえられます。後に、イエス様は、御自身を「わたしは、世の光である」と語りますが、イエス様は一人ひとりが罪ゆえに暗くなって大事な人生を迷わないように、人の光となり、一人ひとりの人生を、救いの真理の光で、煌々と明るく照らしてくださるお方なのです。


イエス様は、今日も、救いの光、真理の光として輝き続けていますが、罪のこの世は、キリストという真理の光を消し去ろうとします。しかし、イエス様という真理の光の方がはるかに強いので、罪のこの世は、光に勝つことができません。世の終わりまで力強く輝き続けます。


       わたしたちは、ここで、「アレッ、変だなあ」と思うでしょう。わたしも変だなあと思いました。実は、5節に「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」とありますが、これまでの口語訳聖書では「光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった」となっていました。そして、意味は、「暗闇」にたとえられる罪のこの世は、イエス様という真理の光を消し去ろうとしますが、しかし、イエス様という真理の光の方がはるかに強いので、罪のこの世は、光に勝つことができません。真理の光は、力強く世の終わりまで輝き続けます。そして、神によって起こされた人々がイエス様という真理の光に必ずやって来るという意味でした。


ところが、今度の新共同訳聖書は、最後のところが「やみは、これに勝たなかった」というのではなく、「暗闇は光を理解しなかった」となっています。それで、私たち、「アレッ、変だなあ」と思うわけですが、実は、新共同訳聖書のようにも十分に訳すことができるのです。そして、多くの人々は、新共同訳聖書のように「暗闇は光を理解しなかった」と訳した方がよいと考えています。すると、意味はどうなるかというと、「暗闇」にたとえられる罪のこの世は、イエス様という真理の光を、罪ゆえに理解しないのです。しかし、それにもかかわらず、イエス様という真理の光は、罪のこの世で力強く輝き続けている。そして、神によって起こされた人々が、イエス様という真理の光に必ずやってくるという意味になります。ですから、どちらの訳でも、根本の意味は変わらないことを覚えておけばよいでしょう。


結び


こうして、わたしたちはヨハネによる福音書の書き出しのところを見ます。イエス様は、真理の光として煌々と明るく輝いてわたしたち一人ひとりの人生を照らしてくださっています。それゆえに、わたしたちは、1度しかない大事な人生の道を間違えることなく、正しく、そして、喜びに満ちて歩むことができます。本当にありがたいことです。わたしたちは、これからも、信仰のすばらしい対象であるイエス様を見上げて、ともに信仰の道を歩んでいきたいと思います。また、真理の光であるイエス様を信頼して歩む人が1人でも多く起こされるように祈りたいと思います。


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