まれつきの盲人のいやし

- ヨハネ福音書8:129:1-739 -

シャローム宣教会 


[ヨハネ福音書8:129:1-739]8:12 イエスはまたらにってわれた。「わたしはですわたしにしてやみのむことがなくいのちのつのです。」、「9:1 またイエスは途中まれつきの盲人られた9:2 弟子たちはについてイエスに質問してった。「先生盲目まれついたのはだれがしたからですかこのですかその両親ですか。」9:3 イエスはえられた。「このしたのでもなく両親でもありませんのわざがこのれるためです9:4 わたしたちはわたしをわしたのわざをわなければなりませんだれもくことのできないます9:5 わたしがにいるわたしはです。」9:6 イエスはこうってから地面につばきをしてそのつばきでられたそしてその盲人ってわれた9:7 ってシロアム(してえばわされた)いなさい。」そこでってったするとえるようになってってった。」、「9:39 そこでイエスはわれた。「わたしはさばきのためにこのましたそれはえないえるようになりえる盲目となるためです。」

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共観福音書(マタイマルコルカ)はいずれも盲人開眼奇蹟っていますしかもその奇蹟共観福音書場合イエスの伝道生涯後半でイエスがエルサレムにかっていく途上での出来事として位置づけられています共観福音書後半きなテーマはイエスはなぜこのられたのかということですちなみに前半のテーマはイエスとは何者」、ですイエスが弟子たちにあなたがたはわたしをだれだとうかとの質問弟子筆頭であるペテロがえたあなたはける御子キリストです。」福音書前半のテーマのえですそのからイエスはご自分がエルサレムにって長老祭司長律法学者たちからくのしみをされそして三日目によみがえることを弟子たちにえはじめられたのですとろこが弟子たちは3ものイエスと寝食にしながらイエスのわれることばの意味はだれ一人いなかったのですこれから自分こることをイエスはしてられますが弟子はそのことについてあえてれるもなくその意味するところをねるもいませんでした

 

イエスがこれから自分こる重大なことをめているそんなときに弟子母親がイエスのもとに自分息子たちがやがて出世して一人はあなたの一人はあなたのにおいてくださいとみましたそのことをていた弟子たちはこのことでてたとあります自分たちも五十歩百歩たいしたわらないことをえていたということです

 

イエスは弟子たちにかってこういました。「あなたがたはわたしのことをもわかっていないイエスはとてもしまれ孤独じられたかもしれませんそんなそれぞれの福音書がこぞって盲人かれるという奇蹟記事しているのですそのえはただ、「かれることの大切(重要性)えるためでした

 

マタイの福音書 9:27-3120:29-34  

二人盲人してイエスはかわいそうにってらのをさわられた

 

マルコの福音書 10:46-52

盲人乞食のバルテマイにしてイエスはさあきなさいあなたの信仰があなたをったのです

 

ルカの福音書 18:35-43

ある盲人してイエスはえるようになれじてから、「あなたの信仰があなたをした

 

さてヨハネの福音書では共観福音書設定なりますヨハネの福音書では、「というテーマのらかになりつつある状況でこの出来事位置づけられています

 

8:12イエスはまたらにってわれた。「わたしはですわたしにしてやみのむことがなくいのちのつのです。」

ここのイエスのことばはやみのたちにかってっていますここでのらとはイエスを告発しようとするたちですイエスを告発しようとするたちはだれひとりとして自分がやみのにいるとはっていないしえてもいませんですからイエスのっていることが理解できません

 

イエスもらとのやりとりをでこういます843、「あなたがはなぜわたしのしていることがわからないのでしょうそれはあなたがたがわたしのことばにけることができないからです。」。「けようとしないったのではなく、「けることができないからだとつまり相手けるかけないかの意思問題ではなく必然的くことができない状態にあるということですそれはどういうことでしょうか

 

また44節以降イエスはらのである悪魔について言及しはじめます悪魔ははじめから真理っていることはなくでありいやりの」、つまりすべてのりのとしての存在だといっているのですなぜイエスのこうとしなのかそれはらがりのによって支配されているからだとしています

 

イエスに敵対するユダヤしてはっきりとイエスはあなたがたはからていないからだ(8:47)断言しますユダヤもユダヤイエスにしてあなたが悪霊につかれていることがこそわかりました。」(8:52)ということで両者決定的断絶らかにされていることがヨハネの852るとされていますこの断絶のしまいには(ユダヤ)ってイエスにげつけようとしたとありますこの出来事ヨハネは9章全体いてまれつきの盲人のいやしの出来事とそれにからむ出来事しているのです

 

. イエスのまれつき盲人するまなざし

 

共観福音書盲人からダビデのってイエスのもとにていますところがヨハネの福音書では91にあるようにイエスのからっていますイエスがまれつきの盲人められたのです

弟子たちはこのとき質問します。「先生盲目まれついたのはだれがしたからですかこのですかそれともその両親ですか。」イエスはすかさずえられました。「このしたのでもなく両親でもありませんのわざがこのわれるためです。」(3)

 

しみの現実にぶつかるときくのがこれはなにかのではないかのろいではないか先祖のたたりや因縁ではないかとえますある宗教でははっきりと先祖をきちんとらないからこんな不幸きるんだとえますところがイエスの視点った視点からのえでしたそれはこのまれつき盲人なのはのわざがこのわれるためだというのです過去ではなく未来視点けますこの盲人にとって必要なのはしみの原因詮索することではなく盲人をもたらすことです

ただ。「のわざがあらわされるためにはひとつの条件がありますそれはイエスのわれることをそのままじることです97はそのことをしています

9:7ってシロアム(してえばわされた)いなさいそこでってったするとえるようになってってった。」

 

2のカナの婚礼でもぶどうがなくるという事態してイエスのマリアは手伝いのものに、「あのわれることをでもしてあげてくださいいましたそして手伝いのたちがイエスのわれるままにがめをでいっぱいにたしたときにそれはぶどうになっていたのですぶどうがないのにがめをでいっばにたすという行為理性的えるならばおかしなことですでも手伝いのたちはイエスのわれるようにしましたここです奇蹟こるのは・・・

 

4てくるひとり息子病気にそうなときにイエスのもとにった父親がイエスからわれたことはなんでしょう。「っていきなさいあなたの息子っているでした息子父親はイエスのわれたようにじて帰途についたのでした

 

5のベテスダのにいた38年間せっていた病人にイエスがったのはだったでしょうか。「きて自分げてきなさい。」でしたそのはイエスがわれたとおりにいましたするとがることができたのです

 

9でもじく信仰められていますイエスは地面につばきをしてそのつばきでられたそしてその盲人ってわれた。『ってシロアムのいなさい。』こんなことでくのでしょうかなくとも盲人はイエスのわれるとおりにしましたするといたのですイエスのわれることをそのままじてみるすると不思議のわざがこるのです

 

2. 盲人開眼奇蹟していること

 

ヨハネはここでまれつきの盲人いた。「ああかったかったということをそうとしたのではありません肉体のいやしを契機として霊的かれることの大切さをこれからそうとしているのですこれまで何度ってきたようにヨハネがげるイエスの奇蹟なる不思議奇蹟ではなく、「しるしばれます。「しるしとはあることをもっと大切なことをすサインですまれつきえなかったかれるという奇蹟そうとしていることそれがのサインです

 

ヨハネの福音書9章全体結論39にあります

そこでイエスはわれた。「わたしはさばきのためにこのましたそれはえないえるようになりえる盲目となるためです。」

 

自分えているという盲目となりして真理ることもできなくなってしまうとい宣言ですイエスはくりわれます。「わたしはですわたしに、」

(1) してやみのむことがない。「やみのとはサタンのりに支配されていることそのりの支配むことがないという意味

(2) いのちの(ヨハネ12) 

ここのいのちの真理ともえられますすると真理はあなたがたを自由にしますというイエスのことばの意味かりますつまりイエスをじて御父とのかかわりをつならば真理によってりをえられ神以外のものに支配されることから解放されてきることができるということですりを真理つということはイエスをイエスにうことなしにはありないことだということをヨハネはたちにえているのです

 

またイエスをじることでえないえるようになるイエスをむことでえているとっている盲目とされてしまうということになるということをイエスは警告しています霊的かれることがどもとしてきるできわめて重要事柄です霊的開眼なしにどもがこのにおいて自信をもってきることはできないからですそれゆえたちはからわれた(シロアム意味)であるイエスのもとへそのそののことばにそのにとどまる必要があるのです

 

ヨハネの福音書においてつばきということばが使われているのはこの箇所だけです共観福音書においては、「つばきをかける」、「つばきをかけられるという表現侮辱的行為(をかかせられること)として以下のようにいられています

(1) マタイの福音書27:30

またらはイエスにつばきをかけげてイエスのをたたいた

(2) マルコの福音書10:34

するとらはあざけりつばきをかけむちついにしますしかし三日よみがえります。」

(3) ルカの福音書18:32

異邦人されそしてらにあざけられはずかしめられつばきをかけられます

 

イエスの受難共観福音書では受動的であるのにヨハネの福音書では積極的であり受難けるということが強調されていますイエスが盲人して地面につばきをしてそのつばきでられその盲人るという一連行為はそのことを示唆していますヨハネにおける受難受動態でなく主体的行為なのですしかも地面につばきをするという行為象徴的ですというのは、「地面された語彙はギリシアではカマイ(χαμαι)ですがこれをヘブルにするとハーアダーマー(הָאֲדָמָה)です創世記によれば最初アダム(ハーアーダームהָאָדָם)ですアダムはるべき(最後のアダム)のひなです(ローマ5:14)本体からわされたとしてのイエスにありますそのからつばきをかけられるという恥辱わうのです。「地面につばきをしてそのつばきでられその盲人という表現でイエスが受難けるとなることをイエスはしるしとしてわしそれをヨハネがしたとえます

 

また地面につばきをしてそのつばきでられそしてその盲人ってシロアムのわせるという一連行為当時においては安息日違反でありするだとされたのですしかしそれ以上重要なことはイエスが盲人して地面につばきをしてそのつばきでられその盲人ただけでなく、「シロアム(わされたהַשִּׁלֹחַ)っていなさい。」ったことです。「ベレーハー(בְּרֵכָה)語源バーラフ(בָּרַךְ)ひざまずくという意味祝福される意味されていますつまり、「シロアムのっていなさいとはわされたメシアのにひざまずくなら祝福されることを意味しますその祝福とはえないものがえるようになるという開眼奇蹟なのです

 

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