イエスとシャカの違い
聖書・ヨハネ福音書4章「サマリヤの女」の記事
にみる仏教とキリスト教の違い
イエスは一人の異邦人の女性に語りかけた
絵: anjotesorero(ii)
福音書の有名な「サマリヤの女」の記事から、イエス・キリストとシャカの違い、またキリスト教と仏教の違いについて、七つのことをお話ししたいと思います。
[聖書テキスト]
「主はユダヤを去って、またガリラヤに行かれた。しかし、サマリヤを通って行かなければならなかった。
それで主は、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近いスカルというサマリヤの町に来られた。そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れで井戸のかたわらに腰をおろしておられた。時は(ユダヤ時間の)六時頃(正午頃)であった。
ひとりのサマリヤの女が水をくみに来た。イエスは、
『わたしに水を飲ませて下さい』
と言われた。弟子たちは食物を買いに、町へ出かけていた。そこでそのサマリヤの女は言った。
『あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか』。
――ユダヤ人はサマリヤ人とつきあいをしなかったからである。――イエスは答えて言われた。
『もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者が誰であるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう』。
彼女は言った。
『先生。あなたはくむ物を持っておいでにならず、この井戸は深いのです。その生ける水をどこから手にお入れになるのですか。
あなたは私たちの先祖ヤコブよりも偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を与え、彼自身も、彼の子たちも家畜も、この井戸から飲んだのです』。
イエスは答えて言われた。
『この水を飲む物は誰でも、また渇きます。しかしわたしが与える水を飲む者は誰でも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます』。
女はイエスに言った。
『先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい』。
イエスは彼女に言われた。
『行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい』。
女は答えて言った。
『私には夫はありません』。
イエスは言われた。
『私には夫がないというのは、もっともです。あなたには夫が五人あったが、今あなたと一緒にいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことは本当です』。
女は言った。
『先生。あなたは預言者だと思います。私たちの先祖は、この山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます』。
イエスは彼女に言われた。
『わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのはこの山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。救いはユダヤ人から出るのですから、私たちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。
しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません』。
女はイエスに言った。
『私は、キリストと呼ばれるメシヤの来られることを知っています。その方が来られるときには、一切のことを私たちに知らせて下さるでしょう』。
イエスは言われた。
『あなたと話しているこのわたしが、それです』。
このとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話しておられるのを不思議に思った。しかし、だれも、『何を求めておられるのですか』とも、『なぜ彼女と話しておられるのですか』とも言わなかった。・・・・
さて、その町のサマリヤ人のうち多くの者が、『あの方は、私がしたこと全部を私に言った』と証言したその女の言葉によって、イエスを信じた。
そこでサマリヤ人たちはイエスのところに来たとき、自分たちのところに滞在して下さるように願った。そこでイエスは二日間そこに滞在された。そして、さらに多くの人がイエスの言葉によって信じた。そして彼らはその女に言った。
『もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方が本当に世の救い主だと知っているのです』」。
(ヨハネの福音書四・三~四二)
その会話には仏教とキリスト教の大
きな違いが現われている ブロック画
[メッセージ]
現世に関する考え方の違い
主イエスの教えとシャカの教えは、様々の点で大きく異なっていますが、その違いの第一は、現世に対する考え方です。
シャカは、この世は生老病死をはじめとする苦しみで満ちていると説きました。これを四苦といいます。
ほかにも、愛する者と別れる苦しみ(愛別離苦 あいべつりく)、憎い者と会う苦しみ(怨憎会苦 おんぞうえく)、求めても得られない苦しみ(求不得苦 ぐふとくく)、煩脳の苦しみ(五陰盛苦 ごおんじょうく)など、この世は様々な苦しみに満ちています。
生老病死と合わせて、これらを「四苦八苦」(しくはっく)といいます。たしかにシャカの言うように、この世は四苦八苦の世界でしょう。
では、はたしてシャカは、この世界に何かの目的があると語るでしょうか。人の人生に何かの意味があるとか、意義があるとか、価値があるとか語るでしょうか。
いいえ、彼はそのようなことは語りません。単にこの世が苦しみであって、そこから離脱し、解脱する方法を説くだけです。仏教の初期の経典『スッタ・ニパータ』の中で、シャカはこう言っています。
「切に世を厭(いと)い嫌う者となれ。二度とこの世に戻ってくるな」
仏教の一派である浄土宗などでも、
「厭離穢土(おんりえど)・欣求浄土(ごんぐじょうど)」
ということが言われます。「厭離」は厭い離れること、「穢土」は穢れたこの世、「欣求」は熱心に求めること、「浄土」は極楽世界――キリスト教でいえば天国のことです。
この世は仏教徒にとっては、「厭離」し、厭い離れるべきものなのです。とくに原始仏教徒にとってはそうでした。
シャカにとって、この世は目的や意味を問うことさえ無意味なものであって、また単なる苦しみの世界であり、厭い離れるべきものでした。しかし、主イエス・キリストの考え方は違います。
主イエスは、今から二〇〇〇年前に肉体をまとい、人となってユダヤに降誕されました。シャカがこの世から解脱して出ていくことを考えたのに対し、主イエスは自ら、この世のただ中に飛び込んで来られたのです。
そして、いまやここで一介の庶民にすぎない一人の女性に話しかけられています。それは、世界の目的と意味、人生の目的と意味を、彼女に教えるためでした。
人生の目的は、神と共に幸福になることにあります。あなたがこの世に生まれたのは、あなたが神に喜ばれる者となり、またあなたが神を喜ぶためです。
神が「良し」と言って下さったものを喜び楽しみ、また神を永遠に喜ぶためです。こうしてあなたが神と共に幸福になるために、あなたはこの世に生まれたのです。
主イエスはこのサマリヤの女に言われました。
「真の礼拝者たちが、霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です」(二三)
主イエスと出会うとき、神と共に生きることの幸福がわかってくるのです。
主イエスがこの女性と会話を持たれた地――サマリヤは、もとは、イスラエルの北王朝一〇部族の住んでいた地でした。しかし、イスラエル一〇部族の主だった人々は、ずっと昔にみなアッシリヤ帝国に連れ去られてしまっていました。
そこに残ったのは貧しい人たちや弱い者たち、教育のない者たちばかりでした。サマリヤはいわば、落ちぶれた人々の住んでいた所なのです。それは日陰者のような人々と、その子孫の地でした。
もしユダヤの地を表とすれば、サマリヤは裏の地でした。そこには暗い過去と、日陰の伝統、苦難の歴史がありました。
しかし、そんな日陰者の地であっても、主イエスに出会うとき、神と共に生きる幸福が始まるのです。
この世は、たとえ苦しみがあっても、厭い離れ、捨てるべきものではありません。主イエスと出会うとき、私たちはこの現世のただ中に、真の幸福を築き上げることができるのです。
幸福観の違い
主イエスとシャカの違いの第二は、幸福観に関することです。
シャカは弟子たちに、
「欲望を捨てよ」「執着心を捨てよ」「妄執を捨てよ」
と言いました。シャカは"捨てよ"と説きました。これに対し、主イエスは"得よ"と言われます。主はサマリヤの女に言われました。
「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう」(一〇)。
イエスは私たちに「生ける水」を与える、と言われました。イエスはここで、"得る"ことによる幸福――生ける水を与えられて得ることによる幸福について、お語りになっています。
あるインド人のクリスチャンが、チベットに行ったときのことです。そこに、洞窟の中で毎日修行をしている僧侶がいました。
その僧侶は、すべての欲望を断つために、洞窟の暗闇から一歩も外に出ないのです。そしてあまりに長いこと暗闇の中にいたので、ついに目が見えなくなってしまいました。それでも、残る生涯を暗闇の中で暮らすつもりであると語りました。
インド人のクリスチャンはその僧侶に、
「あなたはこのような瞑想生活から何を学びましたか」
と聞きました。するとその僧侶はこう答えました。
「私はすべての欲望を捨てて、欲望から自由になるために、こうしているのだよ。私が求めているのは涅槃だ。すべての感覚と欲求を滅ぼすことだよ。だが、私はまだ煩脳の闇の中にあって、いつそれを捨てられるともわからない。今それができなければ、来世でできるかも知れない」。
これを聞いて、インド人のクリスチャンは彼に言いました。
「あなたの欲求も感覚も、神から与えられたもので、それは滅ぼすためのものではなく、神の中で満たされるためのものです。
欲求を滅ぼそうとしても、それは無意味というものです。そもそも、欲求を殺そうと思うこと自体が欲求だからです。本当の救いは、欲求を捨てたり殺すことにあるのではなく、創造主なる神の中でそれを満たすことにあるのです」
と。このインド人のクリスチャンが語ったように、私たちが本当に幸福になるためには、私たちの欲求やすべての思い、霊的な必要が、神の中で満たされる必要があります。
主イエスは、「あなたに生ける水を与える」と言われました。この「生ける水」とは、現世を力強く歩んでいく神からの生命力や、活動力を意味しています。
サマリヤの女は、五回も結婚して、今は六人目の男性と同棲していました。五回も結婚できたというのは、彼女はたいへん美しい女性だったのでしょう。
しかし、五回も離婚した、あるいは死別したというのは、彼女がなかなか本当の幸福をつかめなかった、ということでしょう。また、今も別の男性と同棲してはいるものの結婚していないというのは、今はなんとか仲良くやっているが、いつ幸福が壊れるかわからない、という不安があるからかも知れません。
彼女の人生はいわば、飲んでは乾き、飲んでは乾き、渇いては飲む、という人生だったのです。
しかし、主イエスは彼女に、人生を力強く切り開いていく生命力、人生に本当の潤いを与える活動力――「生ける水」を与えると言われるのです。イエスはまた言われました。
「私が来たのは、羊(私たち人間)が命を得、またそれを豊かに持つためです」(ヨハ一〇・一〇)。
多くの人は、命を豊かに持っていません。しかし、私たちが命を得、それを豊かに持つためにイエスは来られました。私たちの人生に、命と、躍動と、充実と、価値と、輝きを与えるために、彼は来られたのです。
神から来る幸福
私たちに必要なのは、神から来る幸福です。私たちは物質的なものや、この世のものだけでは、決して永遠的な幸福を得ることはできません。
この世のものだけでは、飲んでは乾き、渇いては飲むという繰り返しで、本当の幸福はやって来ないのです。神から来る幸福――「生ける水」のみが、人を永遠に幸福にします。
あなたの人生はどうでしょうか。あなたは飲んでは乾き、渇いては飲むという繰り返しを経験しなかったでしょうか。
主イエスはここで、サマリヤの女の暗い過去を、みな言い当てられました。すると、女は驚きました。彼女は、自分の過去を人々には極力内緒にしていたのかも知れません。だから、驚いたのではないでしょうか。
彼女は、ユダヤ時間の「六時頃」――すなわち昼の正午頃に、井戸に水をくみに来ました。ふつうは涼しい朝方や夕方に水をくみに来るものなのに、わざわざ暑い時間の正午頃に来たというのは、おそらく人目を避けてのことに違いありません。そして、
「先生、・・・・もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい」(一五)
と彼女が言ったことから見ると、彼女はこうした人目を避けての生活はもういやになっていたのかも知れません。
しかし、イエスが彼女の暗い過去をみな言い当てて話をされたあと、彼女は町に帰って、「自分はキリストに会った」と喜んで人々に話し始めました。自分の暗い過去をみな言い当てられながらも、喜んで人々に証しした(話した)のです。
彼女の心の内からは、この時から「生ける水」が川のように流れ出しました。その結果、彼女から話を聞いたサマリヤ人たちの多くが、主イエスを救い主と信じるに至ったのです。喜びは倍増し、生ける水はさらに泉のように多くの生ける水を生み出しました。
イエスは、私たちの過去もつぶさに知っておられます。現在のこともよく知っておられます。そのうえで、あなたを愛しておられるのです。
主イエスは、あなたの思いを満たし、あなたの生命を幸福で満たそうとおっしゃられます。キリストによる「生ける水」は、あなたに本当の幸福、神からの幸福を与えるのです。
女性観の違い
主イエスとシャカの違いの第三は、女性観に関してです。
シャカは当初、女性の弟子を一人もつくりませんでした。
主イエスの場合、一二弟子はみな男性としましたが、その周りには初めから女性の弟子たちがたくさんいました。
ではなぜシャカが女性の弟子をつくらなかったのかというと、彼は女性というものをたいへん嫌っていたからです。仏教学者の岩本裕・教授によると、シャカは、女性は決して仏になれないと言いました。
仏教の経典の中でシャカは、「女性がなれないものが五つある」と言っています。
「女性は、梵天王になることはできない。帝釈天になることはできない。魔王になることはできない。転輪聖王になることはできない。そして仏になることはできない」。
「梵天王」とか「帝釈天」「魔王」「転輪聖王」とかは、インドの神々です。女性はそれらになることはできない。それだけではありません。女性は仏になることもできないのです。
「女性は今日までだれも仏になっていない」
とシャカは言いました。
しかし、「おシャカ様。ぜひ女性の弟子もお持ちになって下さい」と弟子たちにせがまれ、シャカはやがて女性の弟子も持つようになりました。
そして教団の中に女性がたくさん入ってきたとき、彼は何と言ったでしょうか。
「女性が教団に入ってきたからには、仏教の教えは長くは続かずに堕落していくだろう。はじめの五百年間は、正しい教えも修行者も悟りもある正法時代だが、次の一千年は、教えと修行者だけの像法時代である。
その次には、教えだけの末法時代が一万年続くだろう。さらにその次には、教えも修行者も悟りもない法滅時代が約五六億七千万年続くだろう」。
いわゆる「末法思想」はここから生まれたのです。
シャカはまた、女性が仏になるためには、一度男性に生まれ変わらなければならない、と説きました。女性は女性のままでは仏になれない、男に生まれ変わってはじめて仏になれる、としたのです。
これを仏教では「変成男子」(へんじょうなんし)といいます。男に生まれ変わる必要があるというのです。
つまり、仏教では女性も一応仏になれると説くようになったものの、女性のままでは仏になれません。女性が女性に生まれた意味や価値、目的というものは、全く考えられていないのです。
たとえあなたが仏教の経典(仏教書ではなく)をあれこれ読んでも、女性が女性に生まれた意味や価値に関して書かれた言葉を、一つでも見いだすことはできないでしょう。
後世の仏教徒の中には、女性も女性のままで仏になれると説く者も一応現われましたが、仏教の経典を見る限りでは、女性は女性のままでは仏になれない、とはっきり書いてあります。また、
「お寺には、尼さんのように女性の修行者もいるではないか」
と言う方もいるかも知れません。しかし、仏教の教理によれば、尼さんは女性のままでは仏になれないのです。その後の輪廻転生で男に生まれ変わってから、はじめて仏になる可能性が出てくるとされています。
仏教の経典の中には、かつて大変立派な女性修行者がいた、という話が出てきます。その経典の中で、彼女は仏法を説いているとき、なんとシャカや皆の見ている前で彼女に男性の生殖器が生じた、という話になっています。男性にならなければ仏になれない、とされているのです。
仏教の経典にはまた、「浄土」(仏の国――キリスト教でいえば天国)には「女性は一人もいない」と書かれています。そこには男性しかいないのです。
「仏」という言葉自体、じつは仏典の言葉であるサンスクリット語では男性名詞です。また、仏の候補生――修行の途中にある人を「菩薩」といいますが、菩薩も男性名詞です。
仏も菩薩も、みな男性なのです。
「しかし、観音菩薩は女性的な雰囲気を持っていますが、あれは女性でしょうか」
という方もいるかも知れません。けれども観音菩薩もじつは男性なのです。仏教の教理によれば、仏や菩薩はみな男性だからです。
女性は女性のままで神の子になれる
一方、主イエス・キリストは、はじめから女性にも積極的に伝道されました。それはキリスト教においては、女性も女性のままで神の子になれるからです。
神の子になるのに、男性も女性もありません。聖書は言っています。
「あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なのである。・・・・もはやユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない」(ガラ三・二六~二八)。
神の御前では、男も女も同じ価値を持っています。男と女は、それぞれに尊い目的と意味を持って生まれました。
インドのクリスチャンが描いた主イエス。そして救い
の喜びを表すため主の御足に香油をぬる女。仏教
とキリスト教では女性観が大きく違う。
女性には女性に生まれた意味があり、男性には男性に生まれた意味があります。そして両者は同じく信仰によって救われ、同じく神の子となるのです。
主イエスがこのサマリヤの女に伝道されたとき、弟子たちはみな食物を買いに町へ行っていました。周囲には誰もいませんでした。
そのとき、主はこのサマリヤの女性――一介の庶民の女性に目をとめ、話しかけて伝道されたのです。しかし、じつはこれは当時としては大変驚くべきことでした。
というのは当時のラビ(ユダヤ人指導者)は、女性に対しては決して自分から挨拶をしなかったのです。ましてや一対一でラビが女性と話したりするのは、とんでもないことでした。
もしラビが一対一で女性と話している所を誰かに見られでもしたら、それはラビにとっては名声の破滅でした。ですから、
「(あとで)弟子たちが帰ってきて、イエスが女の人と話しておられるのを不思議に思った」(二七)
というのも無理ありません。このような光景は、弟子たちにとっては常識はずれの行動に見えたからです。
現代の私たちの感覚からすれば、このヨハネ四章の記事は、ごく普通の出来事のように思えるかも知れませんが、これは当時のユダヤ人にとっては、たいへん革命的な出来事だったのです。原始仏教の教団規則の中にも、
「男子修行者は、女子修行者との一対一の挨拶はもちろん、一切の会話を持ってはならない」
という厳しい規定があります。ですから、もし仏教の修行者がこのサマリヤの井戸での出来事を見たら、それはもうびっくりしたことでしょう。
けれども、主イエスはそんなことは全く気になさらなかったのです。それほどに、イエスは一人一人の魂を大切にされた、ということができるでしょう。主は男性にも女性にも、分け隔てなく、全く同じように伝道されたのです。
キリスト教においては、男も女も、等しく神の子になれるからです。女性も女性のままで神の子になれます。男性に一度生まれ変わる必要などありません。
仏教の経典にはまた、
「女は、大便と小便のつまった汚い容器である」
というようなことが書いてあります。しかし、もし「大便と小便のつまった汚い容器」と言うなら、男もそうだと思うのですが、どういうわけか仏教の経典には、男に関しては決してそのような言葉がありません。
女性に対してだけそう言われていて、たいへん失礼な話だと思いますが、仏教の経典にはあちこちにそういった言葉が散らばっているのです。
しかし、聖書によれば、男も女も同じように醜い罪人です。どちらも同じように罪深い存在です。ですから、男も女も、ただ信仰によって救われるのです。
子どもに関する考え方の違い
主イエスとシャカの違いの第四は、子どもに関する教えです。
このサマリヤの女は、五度も結婚したというのですから、おそらく子どもも何人かいたでしょう。聖書は彼女の子どもたちについて何も記していませんが、子どもは、どんな親にとっても大きな関心事です。
仏教とキリスト教において、子どもに関する考え方で最も際だった違いは、子どもの死に関することでしょう。
じつは仏教解説家の「ひろさちや」氏が書いていることですが、仏教では、子どもの死は非常に罪が深い、とされているのです。なぜなら子どもの死は、親を断腸の思い、深い悲しみに追いやるからです。
仏教には、「因果応報」また「自業自得」とも呼ばれる教理があります。子どもがそんなに早く死んでしまったのは、自分の前世の「業」(ごう)があるからだとされます。
「業」というのは人間の行ないのことで、未来に善悪の報いを招く原因となるものをいいます。子どもが早死にしたのも、自分の悪業が原因で、自業自得とされるのです。
そればかりか、その子は早死にして親を悲嘆にくれさせたことで、新たに悪い業を積んでしまったことになります。
そういうわけで仏教では、早く死んだ子どもほど罪が深いのだそうです。そうした子は、三途の川(この世とあの世の境に流れる川)を渡ることができないと言い伝えられています。
子どもは三途の川のほとりにある「賽の河原」で、鬼にいつまでも、いじめられているのだそうです。幼くして死んだ子どもほど、鬼にいじめられて泣き叫んでいるそうです。
ところが、そういう子どもたちを救ってくれるということで登場するのが、「お地蔵さん」です。
最近では「水子地蔵」というのも多いようで、胎児や赤ちゃんのときに死んだ子どもたちを地蔵菩薩がちゃんと極楽に運んで下さる、という信仰が一方にはあるわけです(ひろさちや著『仏教の常識』徳間文庫)。
けれども、キリスト教では、地蔵などというものは全くいりません。水子地蔵も全くいりません。キリスト教では、幼くして死んだ子ほど罪がなく、そのまま天国に入れるからです。
「あなたがたも悔い改めて、子どもたちのように
ならない限り、決して天の御国には入れません」
キリスト教では、伝統的にプロテスタントでもカトリックでも、胎児や幼児のうちに死んだ魂はそのまま天国に行くと信じられてきました。
主イエスはあるとき、小さい子どもを呼び寄せ、人々の真ん中に立たせて言われました。
「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて、子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には入れません」(マタ一八・三)。
これは別の言い方をすれば、純真無垢な幼い子どもほど天国に近い者であって、そのまま天国に入れる者である、ということでしょう。イエスはさらに言われました。
「あなたがたは、この小さい者たちを、ひとりでも見下げたりしないように気をつけなさい。まことにあなたがたに告げます。彼らの天の御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ているからです」(マタ一八・一〇)。
幼な子担当の天使たちは、その顔をいつも神に向けているというのです! これは、その天使たちは幼な子の魂を常に神に結びつけようとしている、ということのように思えます。
"意識"というものがまだ明確に形成されていない幼な子であっても、"無意識"の上では、心は神に結びついているのです。
生後九ヶ月で臨死体験をしたある男の子は、自分が臨死状態に入ったあと、暗いトンネルをぬけてから、明るい光を見たと言っています。そしてその明るい場所に出ると、自分は「神様と共に遊んでいた」と述べました(メルヴィン・モース著『臨死からの帰還』徳間書店、二四九ページ)。
幼な子ほど、無意識的に自分が神に属する者であるという感覚を、持っているようです。ですから特に、生まれることもなく流産してしまった胎児(水子)などは、死のあとに光の天使にあたたかく迎えられ、そのまま天国に入ると信じてよいでしょう。
その子たちは、賽(さい)の河原で鬼にいじめられてなどいません。「地蔵」も全く必要ないのです。
キリスト教では、赤ちゃんの葬式においては、死を悼むより、むしろまっすぐその子が神のふところに帰った喜びを強調するのが習わしです。
もちろん、子どもとのしばしの別れという悲しみはあります。しかし、子どもがそのまま天国に入り、今は父なる神のあたたかいふところで休んでいる、という平安のほうが大きいのです。
また、やがて自分もこの世の生を終えたあと、天国で子どもに会えるという安心感もあります。
永遠の命に関する考え方の違い
主イエスとシャカの違いの第五は、命、とくに永遠の命に対する考え方です。
仏教の経典によると、ある日シャカのもとに、子どもを病気で失った女がやって来ました。女は自分の悲しみを訴えました。するとシャカは彼女に、
「村々をまわって、『今まで死人を出したことのない家がありますか』と聞いてまわりなさい」
と言いました。彼女は言われたとおり、村々をまわって、今まで死人を出したことのない家を探しました。
しかし、どこを探しても、そんな家などありませんでした。こうしてシャカは、死が人間にとって必然的なものであることを、女に納得させたのです。
シャカは、このように「死」を強調しました。彼はまっさきに「死」を語るのです。
これに対し、主イエスはまっさきに、「永遠の命」を語られます。
「しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命への水がわき出ます」(一四)。
イエスはまた、ラザロの墓の近くで、マルタという女性にもこう語られました。
「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません」(ヨハ一一・二五~二六)。
イエスは「永遠の命」を語られるのです。こう言うと、創価学会の人などは、
「いや、創価学会でも永遠の命は説きますよ」
と言うかも知れません。現代仏教の一つである創価学会などでも、「永遠の命」ということを言います。けれども、創価学会で説く「永遠の命」とは輪廻転生のことです。輪廻転生が「永遠の命」という言葉で呼ばれているのです。
輪廻は、生命が猿に生まれ変わったり、犬に生まれ変わったり、人間に生まれ変わったり、天人や、地獄の住人に生まれ変わったりという話です。
そうした生まれ変わり・死に変わりを繰り返して、宇宙の大生命の中から現れたり、また宇宙の大生命に溶け込んだりということを繰り返している――それを創価学会などの仏教系新興宗教では、「永遠の命」と呼んでいるわけです。
しかし、その「永遠の命」とは、死んだり生まれたりということの繰り返しにすぎません。主イエス・キリストの説かれる「永遠の命」は、これとは全く違います。
イエスの言われる「永遠の命」は、輪廻のことではありません。飲んだり渇いたり、渇いたり飲んだり、生まれたり死んだり、死んだり生まれたりといった繰り返しではありません。
それは決して「渇くことのない泉」、尽きない生命のことなのです。それは永遠の神の国、天国、また来たるべき新天新地にまで続く、永遠に朽ちることのない不死の生命です。
それは信仰によって信者のうちに宿り、天国と復活を経て、新天新地において開花・結実します。
永遠の命というものは、なにかのモノとして与えられるのではありません。それはじつは、永遠の神および救い主キリストと、私たち信者との間の愛と生命の交わりが、永遠のものとなり、永遠の躍動と、充実と、輝きを持つようになることによるものです。イエスは言われました。
「永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです」(ヨハ一七・三)。
永遠の命は、神とキリストを「知ること」にあるのです。
「知る」は、観念的知識として知るということではなく、自分の全存在をあげて対象とかかわることです。頭の中の知識として知るのではなく、相手と自分が深い関係に入るのです。
創世記四・一に、アダムは「その妻エバを知った」と書いてあります。これはアダムが頭の中でエバについての知識を得た、という意味ではありません。アダムとエバが夫婦関係に入った、という意味です。
同様に、永遠の命は神とキリストを「知ること」だというとき、それは、私たちが神およびキリストとの深い霊的な愛の交わりの関係に入ることを言います。そこにこそ永遠の命がある、という意味です。
たとえば扇風機をまわすには、電源プラグをコンセントにさしこまなければなりません。コンセントにさしこめば、扇風機をいつまででも回すことができます。
扇風機自体に、エネルギーがあるのではありません。扇風機がコンセントを通じて電気との交わりを持っているので、その交わりがある限り、いつまででも回り続けられるのです。
私たちも同様です。創造主にして命の根源なる神、およびその救い主キリストと、霊的な深い愛の関係を私たちが持つ限り、私たちには永遠の命があります。その霊的な交わりこそが永遠の命なのです。
それが永遠の命ですから、それはたとえ私たちの肉体的生命が途絶えても、天国へと通じます。またやがて終末の復活を経て、新天新地へと至るのです。
天地創造の神について語られるイエス
主イエスとシャカの違いの第六は、シャカは天地万物の創造者なる神を知らず、一方イエスは神を明確に説かれるということです。
かつてアメリカのシカゴで開かれた宗教者会議で、ある有名な仏教徒がこう述べました。
「仏教は神も神々も拝まない。仏教は外に援助を求めず、求めるのは本人の努力だけである」
と。仏教は、本当の神について何も教えてはくれないのです。しかし、主イエスは本当の神について明確に教えて下さいます。
「神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません」(二一~二四)
とイエスは言われました。私たちが霊とまことによって礼拝すべき方がおられると、イエスは語られるのです。
天地万物を創造された真の神を教える宗教でなければ、本当の宗教とは言えません。昔アウグスチヌスという人は、
「神よ。あなたは私の内に、あなたの形をした空洞をおつくりになりました。その空洞は、ただあなたによってしか埋めることができません」
と言いました。私たちには、天地の創造主なる神によってしか埋められることのない"心の空洞"があります。永遠の愛のおかたによってのみ満たされる"心の空洞"があるのです。
私たちが、霊とまこととをもって神を礼拝するとき――その時にのみ、その心の空洞は愛と命で満たされます。
イエスは今も生きておられる
シャカと主イエスの違いの第七は、シャカは死に、主イエスは今も生きておられる、ということです。
シャカはあるとき、弟子から質問を受けました。
「ブッダとなられたあなたは、死んだあとも存在し続けられるのですか。それとも、絶滅してしまって、何もなくなるのですか」。
この問いに対し、シャカは「存在し続けるのでも、絶滅するのでもない」と言って、明確に答えることをしなかったといいます。彼は、死後のことは黙して語らなかったのです。
やがて、シャカが死ぬ日がやって来ました。シャカは激しい下痢をもよおし、食中毒で死にました。弟子たちは悲しんで葬儀を行ない、彼を火葬にして、その骨を分け合おうとしました。
ところが、仏教学者の渡辺照宏氏によると、そのとき八つの部族がシャカの骨を要求し、骨の奪い合いが起こったそうです。武力抗争にまでなったのです(渡辺照宏『仏教』岩波新書一二〇ページ)。しかし、その後ドローナという人が調停に入って、
「争ったりしないで、仲良く分けましょう」
と言って、シャカの骨は八つの部族に分けられることになりました。それで八か所に「仏舎利塔」が建てられ、そこに安置されるようになったのです。
舎利とは骨のことで、仏舎利とはシャカの骨ということです。仏舎利塔は、日本の各地にもありますが、仏教では死人を拝んでいるのです。
けれども、主イエスの弟子たちはそうではありませんでした。彼らは、イエスの骨を奪い合う必要などなかったのです。
イエスが復活されたからです! イエスは復活後も四〇日にわたって共にいて、指導して下さり、それから天に昇って行かれました。
イエスは今も生きておられるのです。弟子たちは伝道しながら、常にそのことを感じました。
初代教会のクリスチャンたちがいかに勇敢であったかは、有名です。彼らが殉教をも恐れずに伝道できたのは、イエスが生きて彼らと共におられたからです。
あなたも、イエスが今も生きておられることを知ることができます。
一九世紀末期にヒマラヤに生まれたインド人で、サンダー・シングという人がいました。彼は小さい頃から霊的に敏感で、様々な宗教書を読みあさり、真の神を求めていました。
サンダー・シング
家は代々、ヒンドゥー教の一派シーク教でした。サンダー・シングはこの家に育ち、七歳の頃までには、ヒンドゥー教の聖典バガバッド・ギーターを全部暗唱するほどになっていました。
一五歳の頃までには、すでにイスラム教の聖典コーラン、インドの聖典ウパニシャッド、ヴェーダ、シャーストラ、グラント、仏教の聖典などを読破していました。
しかし、彼が一四歳のとき、最愛の母と兄が亡くなりました。二人の死は、彼に耐え難い悲しみと孤独をもたらしました。
彼は、死とは何なのか、来世とは何なのか、永遠の幸福はどうしたら見いだせるのかを、切実に追い求め始めました。これを期に、彼の神への探求は本格的なものとなったのです。
夜遅くまで聖典を読みふけり、学者や僧侶のもとにも行って問いかけましたが、満足する答えは得られませんでした。
ヨーガを究め、サマーディ(瞑想三昧)に入る術も修得しました。けれども、それも彼の心を満たすものではありませんでした。
ミッション・スクールに入学してから、キリスト教にふれる機会がありましたが、シーク教徒だった彼は、異教に反発。宣教師に石を投げ、聖書を人々の前で引き裂き、焼き捨てるという暴挙に出ました。
ところが、聖書を焼き捨てたことは、心を平和にするどころか、彼の心をますます不安にさせたのです。彼はそれから三日目に、とうとう死をかけた決断をしました。
それは、もし彼が朝まで祈り続けて神からの道が示されなければ、日の出前に鉄道自殺を遂げる、という決意でした。
一九〇四年一二月一八日の朝三時、彼は凍てつく寒さの中で水をかぶり、救いの道を示したまえと一心に神に祈り始めました。
「おお、神よ。もし本当におられるのなら、わたしに正しい道を示して下さい。わたしはサードゥー(献身者・聖者)になりましょう。さもなくば、自殺します」。
そして心の内につぶやきました――「何も啓示がなければ死ねばよい。あの世で神を見いだせるだろう」。
彼は朝三時から祈り始めましたが、答えが得られないまま、四時半になりました。突如、室内が明るい光に照らされました。光はさらに強まり、浮かぶ光の輪の中からやがて神々しい人が現われました。
シャカかクリシュナ(ヒンドゥー教の神の一つ)か、と思った彼は、そのかたを礼拝しようとしました。すると、次の言葉が稲妻のように彼の心の中に響きわたったのです。
「あなたはなぜ、わたしを迫害するのか。わたしがあなたのために十字架上でこの命を捨てたことを思え」。
彼の前に現われたおかたは、予想していたインドの神仏ではなく、彼が三日前に焼き払ったあの聖書の語る救い主――神の御子イエス・キリストだったのです。その体には、二千年前に受けた傷の跡がくっきりと見えたといいます。
その御顔は慈愛に満ち満ちていました。こうしてサンダー・シングは、それまで一度たりとも味わったことのない、真の心の平安と歓喜を見いだしたのです。
この日を境に、彼はクリスチャン・サードゥーとして、宣教を開始することになりました。この時の経験が本物であったことは、その後の彼の宣教のすさまじさが物語っています。
敵国の宗教に転向したことで、彼は家から追放され、毛布一枚、聖書一冊しか持たずに出ていきました。その時に持たされた毒入り弁当で、死ぬ寸前にまで至りましたが、主イエスが彼を不思議な方法でお救いになりました。
彼は洗礼を受け、キリストにならって荒野で四〇日間の断食行も行ないました。迫害を受けること度々でしたが、彼の宣教によって多くの人がキリストを受け入れました。
彼の前では暴徒もひれふし、人食い豹も子猫のようになついたといいます。彼が祈ると、いやされる病人が続出しました。
彼は晩年、キリスト教に対して最も偏見の強いチベットに宣教に行きました。そこで彼は行方不明になりました。おそらく殉教したのであろう、と言われています。
主イエスはあの日以来、つねにサンダーシングと共におられました。サンダーシングが主イエスを見たのは、鉄道自殺を思っていたあの日だけのことではありません。彼は以後つねに、目の前に主イエスを見ていたのです。
イエスの生きておられることはあなたも体験できる
私たちも、つねに目の前に主イエスを見ることができます。サマリヤの女は、イエスに言いました。
「私は、キリストと呼ばれるメシヤの来られることを知っています。その方が来られるときには、一切のことを私たちに知らせて下さるでしょう」(二五)。
するとイエスは言われました。
「あなたと話しているこのわたしがそれです」(二六)
イエスこそ、ギリシャ語でキリスト、ヘブル語でメシヤと呼ばれる救い主なのです。旧約聖書のすべてのキリスト預言は、彼において成就・実現しました。彼こそ、神が全人類のためにお与えになった救い主です。
私たちの目の前にも、つねに主イエスがおられます。しかし、それを主イエスと認めるか否かは、あなたの心の目が開かれるか否かにかかっています。
聖書は、そのあなたの目を開くために与えられました。イエスはあなたにも、
「このわたしがそれです!」
と言われます。
あなたも、救い主イエス・キリストが今も生きておられることを、人生で体験できるのです。
昔イスラエルの王ダビデは、
「私はいつも、私の前に主を置いた」(詩篇一五・八)。
「私の目はいつも主に向かう」(詩篇二五・一五)
と言いました。私たちも、心の目が開かれるなら、いつも目の前に主イエスを見ることができます。
イエスは今も生きておられるのです。そしてあなたを愛し、あなたの人生に本当の幸福を与えようとしておられます。
久保有政著