女性の牧師

主に従おうとしている人たちは、すべての点において聖書にかかれていることに従うよう努めるべきです。自分たちの感情が正しいと言っているから、などは理由にはなりません。聖書はそれぞれのサブジェクトに対し、何が正しいことであるかを教える権威を持っています。どのような人が、教会で責任を持って人々に教える立場になるべきかについても同様です。例えば個人の感情や、与えられている賜物によって、その人を教会の牧師としてふさわしいと、神様からのサインのように思うことがあっても、神様から出ることは決して、聖書と矛盾することは有り得ません。

牧師として教会で教えたいと考える女性はいます。しかし聖書はこのことに関して、牧師は男性がなるべきだと教えています。スピーチの能力が優れている女性も多くいますが、それは関係なく、聖書が何と言っているかが重要です。人々の共感を得られないだとか、女性も男性も同じであるべきだという、この世の価値観は、クリスチャンにはそぐいません。人々の感情や意見に関わらず、神様の言葉である聖書に従うべきです。この世は、それがどうしてなのか理解できません。そして信じない者は聖書を受け入れるのを拒むかもしれません、しかし神様に従いたいと願うクリスチャンは、聖書の言っていることに従うはずです。

1テモテ2:11-12で、聖書は男性に教会の牧師を務める権限を与えています。女性にはその権限は与えられていません。第二テモテ2:2-7や、テトス2:6-8など、男性は多くの箇所で説教をするように言われています。女性は夫を支え、夫に従い、子供を愛し、家事にいそしみ、信心深く、神に対して正直であるようにと聖書は言っています(1テモテ3:11 / テトス2:3-5)。

聖書を教えることに対して、聖書は女性より男性にその権威を与えています。例えば女性が政治やビジネスの世界にいることや、宣教師や福音を人々に伝えることなどの権威について、聖書は何も言っていません。女性は教会の中で、積極的に手伝うことができるし、そうすべきです。しかし聖書は教会の牧師という特定した役割においては、男性がなるべきだと教えています。旧約聖書に登場するデボラという女性は、政治的なリーダーでした(士師記4:4)。新約聖書では、フェベという女性が教会を手伝っています(ローマ16:1)。イエス・キリストの復活を他の人々に一番最初に告げたのは女性でした(マタイ28:1-10 / ルカ24:33-24)。しかし教会での牧師という立場において男性と女性の関係は、男性が教え、女性は学ぶという立場です。

1テモテ3章とテトス1章で、教会のリーダーの条件として、一人の妻の夫であることが挙げられています。同様に家庭をよく治め、評判の良い人であることも挙げられています。教会の頭がキリストであるのと同様に、男性は女性の頭だというのが、神が定めた順番です。

旧約聖書において、祭司は全て男性でした。教会の中において(1テモテ2:11-14)、そして家庭において(エフェソ5:22-33)、神はその順番を定めました。三位一体にも順番があります。父なる神が、子なる神(イエス・キリスト)を遣わしました。三位一体には優劣はありません。父なる神と子なる神とはイコールであり、同じ栄光を共有し、始まりも終わりもありません。三つにして一つの神なのです。父なる神と子なる神の両方が、聖霊なる神を遣わしました(ヨハネ6:38 / ヨハネ14:26)。ここにも優劣はなく、同じ神です。それと同じように、個人は神が定めた順番に従うことが可能です。そうするなら、神にとってその個人は、牧師や他の教会員と同じように貴重な存在です。

神は、アダムを最初に創造され、そのアダムの助け手としてエバを創造されました(創世記2章)。これが神が定めた順番です。牧師という立場は、権威のあるものです。そしてその立場には男性が置かれるべきであると、1テモテ2章で述べられています。男性の方が女性より優れているということではありません。イエスは父なる神に従いましたが(ヨハネ14:28)、イエスは父なる神とまったく同じです。女性も男性と同じように価値ある存在です。教会でリーダーとなる立場と、その個人の存在価値とは関係ありません。神の側から見れば、どの人も同じ尊い存在です。

女性の牧師たちは、この世的には良い仕事をし、結果をもたらしているように見えるかもしれませんが、自分の経験に基づいて正当化しているのであり、聖書には基づいていません。人間が聖書に従うべきなのであり、聖書を自分の欲望に従わせてはなりません。例えば女性のクリスチャンしかそこで説教できる人がいなかった場合(伝道などで、彼女だけが成長したクリスチャンであった場合)、その教会でリーダーとなれる、成長した男性のクリスチャンが現れた段階で、そのリーダーシップは彼に託すべきです。1テモテ3章に当てはまるクリスチャンの男性が、聖書を教えることを望んでいるにも関わらず、女性がその男性から聖書を教わる気がない場合、その女性は聖書の教えを否定していることになります。

1コリント14:34で、女性は教会内では黙っているようにと書かれています。全く口を開いてはいけないということではなく、静かに聞く姿勢でいなさいということです。教会のリーダーである牧師の立場は男性が取り仕切るべきであり、その他の教職は女性によって守られるのが理想です。女性が子供の聖書学級で教えたりするのは、教会のリーダーの元で奉仕をしているので、男性を教えていることにはなりません。そして子供たちは彼らの両親からも聖書を学ぶことができます。女性が聖書を学ぶとき、男性から離れて学ぶように記している聖書箇所はどこにもありません。聖書勉強には、それに参加することを望む全ての人が参加するべきです。主は女性を用いて素晴らしいことを成し遂げら れますが、私たちは聖書に基づき、イエスに従う努力をするべきです。

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