エホバの証人はクリスチャンではありません。彼らは自分たちがクリスチャンだと言うかもしれませんが、エホバの証人は聖書の教えと反しています。
エホバの証人という団体は、独自で翻訳した聖書を用い、本来の(普通の本屋で買える)聖書の内容を曲げて、偽りの教えを広めています。エホバの証人が主張していることと、聖書の内容を照らし合わせていきましょう。聖書の多くの個所から検証していきますので、ぜひご自分で開いて確認してください。彼らは「イエス・キリストは神ではない」と言っています。しかし、聖書によると、イエス・キリストは神です。イエスは「わたしと父とは一つである」(ヨハネ10:30)と言いました。この節の文脈を読んでみると、32節と33節でイエスがご自身で自分を神だと主張したことを、周りの人たちも理解していたことがわかります。それだからこそ彼らは怒ってイエスを殺そうとしたのです。殺そうとされても、イエスは自分が神であることを否定しませんでした。
聖書のどの文脈にもイエスが神と同じ目的を持っていただけの存在であることは書かれておらず、イエスご自身が神であるということが明確です。実際に当時、そこに居た人たちが「イエスは自分で神だと主張した」ということを理解していたのです。その事実に対して、現代の人たちが独自の考えで、「イエスは神ではなく、神と同じ目的を持っておられた存在です」と言ったとして、あなたはどちらを信用されますか?実際に現場に居た人の証言のほうが、より根拠があるはずです。聖書は、イエス・キリストが神であることをはっきりと示しています。
同様にヨハネ8:58でも、イエスは「わたしはある」と言われました。これは旧約聖書の出エジプト記3:14で神が使われた名前と同じです。ここでも、イエスが自分を神だと主張したことを、この時に居た人々が理解していたことが文脈でわかります。創世記1章にある『エロヒム』とはヘブル語で、3つもしくはそれ以上の複数形です。父なる神、子なる神(イエス・キリスト)、聖霊なる神が、3つの位格を持った1つの神(三位一体)であるから、神を表す『エロヒム』という言葉が、創世記1章で使われているのです。もしイエス・キリストが神でなかったとしたら、エロヒムという言葉を神として使うのは適切ではないので、聖書が信用できない本になってしまいます。
ヨハネ1章で、始めにイエス(言葉)は神と共にあり、イエスは神であったと記しています。更に創られた全てのものは、イエスを通して創られたと書かれています。イエスは人間となられましたが、同時に100%神でありました。イエスが全てを創られた(ヨハネ1:3)のであれば、必然的にイエスが神であることになります。イザヤ42:8で、神はご自身の栄光を、他の誰とも共有しないと書かれていますが、ヨハネ17:5で、イエスは天地創造の前から、神と同じ栄光を持っておられたと言っています。神が他の誰とも栄光を共有することができないのなら、イエスが神ご自身であることは、ここでも明確です。
フィリピ2:5-11では、イエスと神とが同じ存在、イコールであることを示しています。イエスは人間となったので、位格としては神より下の立場ですが、あくまでも、三位一体の中での役割の違いであり、神であることに変わりはありません。これはヨハネ14:28と同じ意味です。イエスは父なる神を自分より偉大と言いましたが、自分が神でないと主張したことは一度もありませんでした。位格の立場については、父なる神が偉大であると主張していたのです。同じくヘブル2:7と2:16で、イエスが天使たちよりも低い立場とされたと書かれていますが、これはイエスが人間の肉体を取って地上に生まれたことで、天使たちよりも低い立場に置かれたという意味です。イエスが神ではないという捉え方はできません。フィリピ2:6にも、はっきりとイエス・キリストが神であると記しています。フィリピ2:7-8で、イエスが人となられた際、イエスは自分を無にして僕の身分になったと書かれています。父なる神は常に天におられ、人間の姿を取ることはなかったので位格としてはイエスより優れた立場にあるのですが、イエスと神とは1つなので、神であることに変わりはありません。フィリピ2:11でもイエスが神であると記されています。
ギリシャ語の聖書の翻訳は、キリストが生まれる約200年前に、七十人訳聖書と呼ばれる聖書に翻訳されました。フィリピ2:11で「主」と表わされている言葉と、その七十人訳聖書で「神」(ヤハウェ、エホバ)と表わされている同じ言葉が、旧約聖書で使われています。ここでもまた、イエスが神であることが証拠付けられます。
イザヤ9:5(新改訳では6節)は、イエス・キリストがこの地に誕生する、およそ700年前に書かれたものです。その内容とは、その日みどりごが生まれ、彼の名前は永遠の父、力強い神と呼ばれる、というものでした。イエスキリストが神であるなら、その称号は適切です。逆にイエスが神でないとしたら、イエスに向けてそう呼ぶと書かれたこの聖句は、完全に間違いということになってしまいます。その日、神ご自身が人間となって世に来られる、という非常にわかりやすい意味の預言です。神と同じ目的を持った人間が生まれるのとは、まるで意味が違います。マタイ1:23で、イエス・キリストは『インマヌエル』である方だと記しています。インマヌエルとは『神と共にいる』という意味です。神であるイエスだからこそ、唯一この名前を持つことが可能です。他のどの人間にも、この名前は当てはまりません。イエスが神であるからこそ、この名前は彼にふさわしいのです。
1ヨハネ5:20で、イエスキリストは『真実の神』と呼ばれました。この節からどのようにして、イエスが神でないという解釈ができるでしょうか。もはや不可能です。聖書全体の文脈を注意して読んでください。イエス・キリストが神であることが明確にわかるはずです。創世記1:26で、『我々に似せて、我々にかたどって、人を作ろう』と書かれています。唯一なる神が『我々』と複数形になっているのは、父なる神、子なる神(イエス・キリスト)、聖霊なる神で成り立つ、三位一体の神だからです。申命記6:4では、神は唯一であると書かれています。これはヨハネ10:30でイエスが、『わたしと父とは1つである』と言ったことに戻ります。イエスが本当にまことの神である、と言ったことに間違いはありません。
地獄の存在
『地獄は存在しない』とエホバの証人たちは主張しますが、それも聖書的に間違っています。聖書は地獄の存在をはっきりと示しています。イエスキリストを救い主として信じてお任せしない者は、永遠に地獄で苦しむことになってしまう、と聖書は教えます。イエスキリストも、聖書も、地獄は存在すると宣言しています。ここでもエホバの証人の教えと聖書に、矛盾が生じています(マタイ25:41、46 / マルコ3:29 / 黙示録14:10-11 / 黙示録20:10、14)。地獄について詳しく知りたい方はこちらをクリックしてください。
14万4千人
エホバの証人は、天国は144、000人のエホバの証人の信者たちで満たされていて、それ以上誰も天国に入ることはできないと考えています。黙示録7:4-8と黙示録14:3-4の記事を使ってそう主張しているようですが、文脈を注意して読んでください。144、000の人々は全員、女性を知らないユダヤ人であると書かれています。聖書は預言の書であって、過去にまだ起こっていない、これから未来に起こる預言も聖書に書かれているのです。黙示録7章と黙示録14章の出来事というのは、未来に起こる預言で、過去にまだこのことは起きていません。この個所は、未来の預言の一部だからです。しかしエホバの証人たちは、天国はすでにエホバの証人の信者たちで満員数に達しているから、今後もう誰も入ることはできない、と教えています。
救いを得る方法
聖書の理解に関して、エホバの証人が決定的に間違っていることは、「救いを得る方法」です。聖書によると多くの聖書個所(例えばエペソ2:8-9 / ローマ3:20-28 / ヨハネ3:16-18など)で、イエスを信じてお任せすることこそが、唯一救いを得られる道だと示しています。個人の行いと救いとは全く関係がありません。必要とされているのは、信仰のみだというのが聖書のメッセージです。しかしエホバの証人は、行いが救いを得るために必要だ、と教えています。聖書との矛盾がここでも見られます。更に彼らは、行いによって救われると考えているために、自分が救われて天国に行く確信を持つことができないのです。一方聖書は、自分が救われている確信を持つことは可能だと教えます。今までに一度でも、イエス・キリストを信じてお任せしたかどうかで、救われているかそうでないかの区別がつきます。救いの確信を持つことができるのは、神の言葉を信じること。この方法のみです。今までも、人間はイエスキリストへの信仰を通して救いを得てきました。神のために人間が何か行いをしたからではありません。本物の救いは、私たちが何かをしたからではなく、イエスキリストが、私たちのためにしてくださったことによるのです。
イエスキリストが人間を救うことができるのは、イエスキリストが神だからです。イエスは、人々の彼に対する礼拝を受けとりました。礼拝は神のみが受けるべきで、イエスは人々の礼拝を拒否することはありませんでした。イエスキリストは水の上を歩き、盲人を癒し、死から復活して、彼を信じる全ての人間に、永遠のいのちを与えることがおできになる方です。それはイエスが神であるからに他なりません。
使徒20:28で(ですから、自分自身と群れの全員に注意を払っていなさい。聖霊は、神がご自身の血をもって買い取られた、神の集会を牧させるために、あなた方をその群れの中で監視者とされたからです。)、神はご自分の血を流されたとあります。イエスキリストが十字架で血を流したので、これは非常に納得のいく節です。イエスが神であるから、そのように記されているのです。もしこれがイエスのことでないとしたら、いつ神は血を流されたのか?という大きな疑問が残るでしょう。答えは明白です。イエスこそ神です。それなのでイエスが十字架で血を流されたとき、神が血を流されたのです。
イエスは神の子とも呼ばれますが、ヘブル語で『子』とは必ずしも肉体的な実子のことではなく、それよりは実質や人格を指す言葉です。それなのでマルコ3:17で、ヨハネとヤコブは『雷の子』と呼ばれました。それは彼らの名字が雷だったのではなく、彼らの人格が雷のようであったので、彼らはそう呼ばれたのです。使徒4:26で、バルトロマイは『励ましの子』と呼ばれました。彼もヨハネたちと同じように、彼の人格的特徴をそのまま名前として呼ばれました。同じようにイエスキリストも時々、『人の子』『神の子』と呼ばれました。どちらの称号もイエスに適切です。イエスは2000年前に人となられたので、人としての性質を持っていました。イエスは神であるので、神としての性質をも持っています。それなのでイエスはそのように呼ばれ、そこに矛盾はありません。『神の子』はイエスが神であることを示し、『人の子』はイエスが人となったことを示しています。イエスは100%人間であると同時に100%神です。
聖書は私たちに、イエスは神であるということと、救いは私たちの行いとは一切関係なく、ただイエスへの信仰によるもの、ということを明確に教えます。この2つのポイントを理解して聖書を読むことは非常に大切です。エホバの証人たちが信じているイエスと、聖書が私たちに教えるイエスとは違っています。更に救いの方法に関しても、彼らの教えと聖書の教えとは正反対です。真理は1つであり、真理は矛盾がありません。そして聖書は、救われる方法は1つだとはっきりと教えています。エホバの証人はクリスチャンではありません。彼らは聖書の教えを否定している団体です。
ヨハネ20:28で、弟子のトマスは明らかにイエスに向かい、主、神と呼んでいます。明らかにトマスは、イエスが神であると思っていたことがはっきりとわかります。そしてトマスが自分をそう呼んだことに対してイエスは一度も否定していません。トマスはイエスに答えた、「わたしの主、わたしの神よ!」。更にイエスは、他の人々からも神としての礼拝を受け、それを否定しませんでした。ヨハネ9:38で、彼は、「主よ、信じます!」と言って、イエスを拝んだ。
聖書は、礼拝する相手はまことの神だけであると私たちに教えています。イエスご自身も、礼拝する相手はまことの神のみであると言っています(マタイ4:10)。イエスこそが神ご自身であり、トマスは正しかったのです。そしてトマスだけでなく、人間がイエスを神として礼拝することは(マタイ8:2 / マタイ14:33 / ルカ24:52 /ヨハネ20:28)、間違っていません。もしイエスが神でなかったのであれば、トマスや他の人々から神として崇められたとき否定しなかったイエスのほうが、間違っていたことになります。イエスは彼らを決して否定せず、彼らの礼拝を受け入れました。