第7章 約束と成就
はじめに・・・旧約聖書の意義の再確認 第7章は、「約束と成就」(Promise and Fulfillment)である。では、この章におけるベルクーワの問題意識は何か。すると、これから、イエス・キリストのついての聖書の使信の考察をしていくにあたって、旧約聖書の証言の意義の考察は欠かせない。確かに今日、旧約聖書についての多くの神学的研究の新しい関心は、反ユダヤ主義(anti-semitism)への反発(reaction)からほとばしり出た。すなわち、反ユダヤ主義の影響の下で、多くの人々は、旧約聖書は特にユダヤ人の宗教(a Jewish relogion)を表していると見て、旧約聖書の価値を過小評価した。 しかし、反ユダヤ主義だけが旧約聖書の価値を下げたのではない。すでに、マルキオンやハルナックなどが、旧約聖書は、キリスト教会にとって何の価値もないと語っていた。しかし、今や、反ユダヤ主義の影響による旧約聖書の過小評価への反作用として、旧約聖書はユダヤ人の宗教の単になる文書ではないことが強調されるようになった。 そして、旧約聖書は、イエス・キリストの教会にとって、神の啓示の書(the record of God’s revelation)として、また、旧約聖書と新約聖書は調和ある一体性(a harmonious unity)として、教会は正しく見た。そこで、ベルクーワは言う。「旧約聖書も、このルートによって、旧約聖書のキリスト論的釈義の問題が再び前面に出てくる、イエス・キリストについての証言の書とし再び見なされたのである」(110頁-111頁)。 この流れで、ウイルヘルム・ヴィッシャー(Wilhelm Vischer)の「旧約聖書のキリスト証言」(第Ⅰ巻1935年、第Ⅱ巻1942年)が、大きな刺激となった。ある人々は、フィッシャーの見解を受け入れて、旧約聖書のキリスト論的釈義をさらに詳しく行った。しかし、また、ある人々は、旧約聖書の新しい比喩的釈義が始まるという不安を覚えた。というのは、ヴィシャヤーは、テキストへの真の歴史的アプローチを損なって、旧約聖書のどこからでも、キリスト証言を聞こうとしたからである。 この結果、今日、旧約聖書をめぐって新しい緊張が生じている。たとえば、ハルナックは、旧約聖書の価値はとっくに過ぎ去った(quite gone)と語った。しかし、逆に、旧約聖書の並はずれた価値(the surpassing siginificance)について最も精力的に述べる人物にも出会うのである。たとえば、ファン・ルーラー(Van Ruler)がそうである。ファン・ルーラーは次のように語った。旧約聖書も真の聖書(a real Bible)である。使徒は、新しい聖書を書かなかった。使徒は、唯一の聖書でる唯一の旧約聖書の解釈をしたにすぎない。新約聖書の「書物は後ろの説明書きのリストとしてのみ意図された。リストがその書と違うものを含んでいるということは、新約聖書を書いた人々の耳に冒涜的に響いたであろう」と、彼は述べている。 しかし、このファン・ルーラーの立場に対する反発が出てきた、すなわち、約束の成就が、贖いの充満を旧約聖書以上に明白に精巧に啓示したという新約聖書の独自の意義が、ファン・ルーラーの極端な叙述においては、脅かされ、色あせたものにされてしまうという反発が出てきた。そこで、ベルクーワは言う。「こうして、旧約聖書と新約聖書の関係性(relationship)が、神学のプログラムの再出現したのである。ある観点からすると、わたしたちがこれらの疑問を扱わねばならないことは明白である。なぜなら、闘争は、旧約聖書におけるメシア的預言を軸にして関係するからである」(115頁)。
1.旧約聖書の預言の新約聖書における成就
これらの疑問は、ユダヤ人会堂とキリスト教会の間における大きな闘争の観点から、より重要である。この闘争においては、教会は、贖いの進展(progress of redemption)と、旧約聖書と新約聖書の約束と成就の関係(promise-fulfillment relationship)について信仰的に証言するが、他方、ユダヤ人会堂も逆のこと、すなわち、旧約聖書と新約聖書の無関係性を証言する。 そこで、教会は、新約聖書に訴えて、両聖書の相互関連性と調和を指摘し、明白にする。そこで、ベルクーワは言う。「わたしたちは、成就を示す福音書と書簡における引用の豊さに言及するのである」(115頁)。キリストは自ら「聖書はわたしについて証しをする」(ヨハネ5:39)と宣言している。旧約聖書は、ユダヤ人にとってのみ意義をもつ書物でなく、キリストの人格とみわざに直接関する書物である。また、復活後、キリストは、エマオ途上の2人の弟子に、旧約聖書の成就を語った(ルカ24:25-27)。「そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」。 福音書記者たちと使徒たちは、多くの折に、旧約聖書の約束がイエス・キリストにおいて成就したことを語っている。キリストの誕生について。また、キリストの多くの事柄は旧約聖書の預言者の語ったことの成就としている。キリストに反対するユダヤ人の不信仰の事柄は、イザヤ預言の成就である。ペンテコステにおけるペトロの説教において、キリストの復活は、預言者ダビデの預言の成就である。旧約聖書の成就と見なければ、旧約聖書は心がベールで覆われていることと同じである(コリント二3:14以下)。 ベルクーワは言う。「教会、あるいは、神学が、約束と成就を語るとき、それらが言及していることがこの疑い得ない相互関連性なのである。人は、それらは、旧約聖書のキリスト教的性格格を言及しているのであると言うことができる。人は、聖書についての告白(credo)を、旧約聖書はキリスト教的(Christian)と言うことは時代錯誤ではないというこの叙述へ煮詰めることができるのである」(117頁)。 わたしたちは、キリストの誕生とインマヌエル預言の結びつきを聞く(マタイ1:23、イザヤ7:14)。エジプトへの逃亡とホセア預言の「エジプトから呼び出した」(マタイ2:15、ホセア11:1)、受難の夜、キリストが一人にされることと羊飼いが打たれること(マタイ26:31、ゼカリア13:7)、悲しみの人、イエス・キリストとイザヤ53章。 また、キリストは、旧約聖書全体の成就と見なされている。キリストは犠牲の小羊(ヨハネ1:29)、マナ(ヨハネ6:22以下)、荒野の青銅の蛇(ヨハネ3:14)、旧約聖書全体が、来るべき贖い主イエス・キリストを指し示し、来るべき贖い主イエス・キリストを軸として回っている。イエスの周囲の人物の預言の成就もそうである。洗礼者ヨハネ(マラキ3:1、マタイ11:10)、ユダの裏切りと死の預言の成就(ヨハネ13:18、詩編41:9、使徒言行録1:20.詩編109:8)ベツレヘムにおけるキリスト誕生(ミカ5:2、マタイ2:5-6)、十字架の預言と成就(ヨハネ19:36、詩編34:20、出エジプト12:46)。これらの少しの例は、教会は、いかに旧約聖書と新約聖書を不可分の結合(the indissoluble connection)を指摘してきたことか。こうして、「教会は、旧約聖書と新約聖書の両方を信仰と実践の経典として維持したのである」(118頁)。
2.比喩的(アレゴリカル)釈義
さて、ここで、教会と神学に大きな影響を与えてきた比喩的釈義(the allegorical exegesis)を考察しよう。比喩的釈義とは、本分(text)を離れ、いわゆる「文字通り意味」(sensus lieralis)を超えて、より深い意味、より深い真理を求めて、本文の真の霊的理解(spiritual understanding)を目指す釈義のことである。 比喩的釈義は、ユダヤ人哲学者フィロン(Philo)が、旧約聖書はギリシャの知恵を教えていることを示すために、旧約聖書にすでに比喩的アプローチをしたことで知られている。たとえば、人は、創世記14章に述べられている王たちは、心理学的諸条件であることを発見し、こうして、この個所は、今日のわたしたちの時代に意義を得るとした。 しかし、比喩的釈義は、フィロンだけではない。教会においても、なされてきた。たとえば、バルナバとクレメントのアレクサンドリア学派(the Alexandrine school of Clement)やオリゲネスがそうである。オリゲネスにおいて、わたしたちが、もっと勤勉に真の意味を探すため、聖書はその真の意味を文字通りの見せかけの背後に実際に隠していると述べている。オリゲネスは、与えられた個所の文字通りの意味、精神的意味、霊的意味(the literal,the psychic,and the pneumatic meaning)を区別した。そして、中世においては、意味の4段階(four levels of meaning)の区別をした。 比喩的釈義は、聖書の恣意的解釈(arbitrariness in the interpretation)への開かれた入口であったことは明白である。しかし、それにもかかわらず、比喩的釈義に対して、激しい反発がずーっとあった。特に、アンテオキア学派は、文字通りの意味に帰ることを要求した。 中世において、ある人々が、比喩的釈義に伴う恣意性に気づいていた。トマス・アクイナスもある程度まで気づいていた。特に、リラのニコラウス(Nicolaus of Lyra)は、4つの意味に反対し、テキストの文字通りの意味に帰ろうとした。しかし、真の革命は、宗教改革においてであった。エラスムスでなく、ルター、そして、特に、カルヴァンであった。カルヴァンは、オリゲネスの比喩的釈義に反対して、文字通りの意味を追求した。そこで、ベルクーワは言う。「真理は比喩敵釈義によってのみ示されるというこの意見を、カルヴァンは、テキストの豊さ(fertility)を指し示している聖書の真の意味からわたしたちの注意をそらそうとするサタンの作り話(a fiction of Satan)と見なす」(122頁)とガラテヤ書4:22の註解で述べている。 また、カルヴァンは、コリント二3:6の釈義において、文字通りの意味と霊的意味を区別することを拒否し、オリゲネスの見解を非常に有害な誤り(a pernicious error)として戦った。ベルクーワは言う。「この理由のゆえに、カルヴァンは、文字通りの意味の健全な扱いを求めて活力をもって取り組んだ(wrestles)」(123頁)。 しかし、比喩的釈義は、今日、再び、重要になってきている。何故なら、聖書の単純な意味から新たな切り離し(a renewed dissociation)があるからである。確かに、以前のような比喩釈義ではない。以前は、あのよきサマアリア人のたとえを、エリコは世界を意味し、追いはぎに襲われた人はアダム、エルサレムはパラダイスと理解した。また、聖書に出てくる盲人とハンセン氏病の人は、異邦人と理解した。しかし、今の時代の比喩的釈義はこのようなことをしない。今の時代の比喩的釈義は、専門的、文学的批判的釈義への激しい反発から生じたのである。心理学的、霊的、神学的、そして、実存的釈義の類の多様性の真只中にあって、キリストを証言する旧約聖書を正当に扱うキリスト論的釈義への帰還(s return to the Christlogical exegesis)があるのである。 すなわち、人々は、最早、正当な歴史的釈義では満足しない。文脈から文字通りに語るのを聞くことに満足しない。それらを飛び越えて、旧約聖書はキリスト証言であるという旧約聖書の心を聞くことを強調するのである。そこで、ベルクーワは言う。「再び、旧約聖書は基本的にキリスト証言であることを全教会に明白にするであろう結びつきと類比(connections and analogies)を求める研究がなされているのである」(125頁)。こうして、今日、以前とは違う比喩的釈義が生じたのである。
3.現代の旧約聖書の比喩的釈義
(1)ヴィッシャー 現代の旧約聖書の比喩的釈義は、聖書の歴史的釈義を受け入れず、聖書は、キリスト証言の書として、聖書の歴史的文脈や歴史的状況を無視し、飛び越えて、旧約聖書のどこからでも、キリスト証言を自分勝手に引き出す。たたえば、ヴィッシャーがそうである。ウイルヘルム・ヴィッシャー(Wilhelm Vischer)は、「旧約聖書のキリスト証言」(第Ⅰ巻1935年)を書いたが、彼は、テキストの歴史的局面と実際の出来事は最早重要ではないと主張する。何故なら、旧約聖書の目的は、報告的正確さ(not reportorial accuracy)ではなく、「証言」であり、この証言の提示によって歴史の実際の事実はさらに明らかになると考えるからである。そこで、ベルクーワは言う。「この見解の結果は、贖いの歴史的視野の首尾一貫した除去(a consistent elimination)である(125頁)。 たとえば、ヴィッシャーは、カインのしるしは、「十字架のしるしが最も深い意味において新たにされるのであり、カインのしるしの象徴的内容を確認するのである」と述べ、カインのしるしは、義認の教理の個所(locus de justificatione)となるのである。 (2)ヘルバルト ヘルバルト(Hellbardt)においては、結果は、もっと明白で、極端な形式において、ヴィッシャ-をはるかに超えている。ヘルバルトは、「旧約聖書と福音」(1933年)、「ホセアのキリスト証言」(1935年)を書いた。ヘルバルトにおいては、旧約聖書と新約聖書の間に贖いの歴史的相違(no actual redemptive-history)は現実に存在しないのである。彼にとっては、贖いの歴史における真の進展は存在しないのである。旧約聖書と新約聖書の唯一の違いは、旧約聖書は福音の現実性を真理として証言し、新約聖書は救いの現実性を証言するという違いである。すなわち、旧約聖書は、福音の真理(truth)を証言し、新約聖書は福音の現実性(reality)を証言するのである。 こうして、ヘルバルトにとっては、旧約聖書と新約聖書は、約束と成就の事柄、律法と福音の対照でなく、旧約聖書も新約聖書もどちらも福音のメッセ-ジなのである。旧約聖書のメッセージは、すでに、神が、御子の犠牲によってわたしたちを憐れみ、そして、神のこの行為が御子が犠牲となっていくことと、主が僕となっていくことに必然的に流れ込まねばならねばならないのである。 そこで、ベルクーワは言う。「これらの人々は、旧約聖書と新約聖書は、同一である(identical)として語ることを躊躇しないのである。というのは、彼らの理念は、唯一の歴史的線上における進展でなく、中心の周囲を巡る円なのである。この円において、右と左に、二つの孤が中心から等距離なのである。こうして、約束と成就という全概念が代えられているのである」(125頁)。 ヘルバルトにとって、関心は、キリスト証言に限定されている。この認識原理が彼の頂点である。彼にとっては、旧約聖書も新約聖書もどちらもキリスト証言である。そのゆえ、歴史における神の進展的行為を無視して、キリスト証言を語ろうとするのである。 (3)ベルクーワの見解 以上のような現代の比喩的旧約聖書の釈義は、受けいれられない。真理の背後に真理があるとして、テキストの歴史性と状況性を無視して、どこからでもキリスト証言を引き出そうとする比喩的釈義は、神が真に語ったことからの逃避(escape)である。また、贖罪史の統一性を理解する努力からの逃避である。また、キリストに旧約聖書の約束の成就を見る新約書の概念からの逃避である。 ベルクーワは言う。「偏りなしに、正直に、教会と神学者たちは、全聖書を研究しなければならない。それは、彼らが、注意して、世界を通した神の歴史的経過の豊さと神が御自身の民を扱ったことの豊さを理解し始めるためである。この仕方において、人は、聖書自身から生じてくる継続性を見るであろうし、こうして、恣意的釈義の特徴を失うであろう」(130頁)。 (4)カトリックの比喩的釈義への態度 わたしたちは、プロテスタントの釈義家たちの方が、カトリックの釈義家たちよりも、比喩的釈義の危険に気づいているという事実にしばしば驚かされる。たとえば、カトリックの神学者のヴォーゲル(C.J.De.Vogel)は、「アリウスの対するアタナシウスへの語りかけ」(1949年)を書いた。その中で、ヴォーゲルは、アタナシウスは、アリウスへの返答において、「あなたの命は危険にさらされ、夜も昼もおびえて、明日の命も信じられなくなる」(申命記28:66)を引用している。これらの言葉は、教父にとっては、わたしたちの命である十字架につけられたお方を明白に思い出させる。しかし、ここは、神の民の不信仰に課せられる神の呪いが意味されているので、テキストには、確かに、十字架につけられたお方が意味されてはいない。でも、ヴォーゲルはアタナシウウスのこの釈義に反対せず、これは、言葉の通常の意味ではなく、冥想(meditation)であると言う。そして、「言葉は、預言的意味で理解されており、歴史的文脈からは極めて遠く離れている」と述べている。こうして、ヴォーゲルは、比喩的釈義への抵抗を弱めている。 (5)ダニエルー カトリックのダニエルー(Danielou)は、教父たちの魅惑的な比喩的釈義を挙げている。ダニエルーは、「聖書の予型の発生についての研究」(1950年)を書いた。その中で、たとえば、アダムの眠りと教会の誕生の間の平行、神秘的出エジプト、エリコの陥落と世界の終わりの平行を挙げている。ダニエルーは、これらの釈義は教会の伝統的蓄積(the traditional deposit)に蔵していると述べている。しかし、ベルクーワは言う。「教父の釈義においては、恣意的な釈義の対する批判的洞察の明らかな弱さが現われている」(131頁)。 (6)ファン・ルーラー 聖書は、約束と成就の関係で、すなわち、聖書的歴史的観点(the biblical-historical point of view)の光から正しく理解される。しかし、ファン・ルーラー(Van Ruler)は、旧約聖書が真の聖書であるという命題を守るため、継続的啓示を激しく拒否した。でも、ファン・ルーラーは、継続的啓示の理念には、いろいろな常軌を逸した行動が含まれていると言う。3つ挙げている。ひとつは、歴史についての誤った概念である。継続的啓示の概念は、直線的見解が前提されているが、聖書の歴史観は循環的見解である。第2に、啓示の継続の概念は、教理の伝達として見られているが、聖書の啓示観はイエス・キリストにおいて起こる現実(reality)における出会い(encounter)である。人間の肉における神の御子によるわたしたちの罪の赦しの一回的事実は、継続的啓示のことごとくの概念を排除する。第3に、約束と成就というパターンは、約束を無効化する。何故なら、実現された救いは約束に取って代わってしまうからである。ファン・ルーラーは、この第3が、「すべてのキリスト教の範疇の最も致命的混乱(the most fatal confusion)なのである」と述べている。 (7)ベルクーワの反論 ファン・ルーラーの考えでは、約束と成就という関係は成立しない。ファン・ルーラーの命題は、余りにも強く反発によって条件づけられている。当時、聖書の歴史観は、クルマン(Cullmann)の「キリストと時」(1946年)によって、歴史の循環論的概念に不利となる直線的概念に変わった。そのため、多くの人々が、約束と成就の関係を、また、啓示の継続的理念を認めるようになってきた。 しかし、ファン・ルーラーは、この理念に反対し、維持できない前提から出発した。まず、第1に、進展的、あるいは、継続的啓示の理念は、必然的に主知主義的啓示概念と織り混ざるというファン・ルーラーの考えは正しくない。逆に、人は、継続的啓示の理念は、神と神の民の出会いにおける神の行為の思想で充満しているのである。 新約聖書自身が、キリスト御自身の言葉において、旧約預言の成就を語っている。「そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた」(ルカ4:21)。パウロも「わたしたちも、先祖に与えられた約束について、あなたがたに福音を告げ知らせています。つまり、神はイエスを復活させて、わたしたち子孫のためにその約束を果たしてくださったのです。それは詩編の第二編にも、/『あなたはわたしの子、/わたしは今日あなたを産んだ』/と書いてあるとおりです」(使徒言行録13:32、33)と語っている。そこで、ベルクーワは言う。「人は、『継続的啓示』という言葉を真に拒否できない。何故なら、全旧約聖書は、神が肉となった御言葉の神秘の現実(reality)に進んでいくように、神のダイナミックな目的ある行為をわたしたちに証言しているからである」(134頁)。 ヘブライにおいても、わたしたちは、「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが・・・」(1:1)とあるのを見る。ベルクーワは言う。「贖罪史における進展(progress)がある。神の行為には進展がある」(135頁)。「古い契約から新しい契約への移行は、多くの余型的な犠牲が除かれて、今や、偉大な犠牲が来たのである」(135頁)。 さらに、ベルクーワは言う。「そして、そのように、新約聖書は、単に歴史的回想としてでなく、今や、すべてのみ使いたちの驚きを惹き起す現実(reality)に光をあてている啓示の充満として、旧約聖書で満ちているのである」(137頁)。
4.旧約聖書啓示の歴史的性格
以上に述べてきたすべてのことは、旧約聖書啓示の歴史的性格に含まれている。しかし、旧約聖書啓示の歴史的性格と言っても、旧約聖書の贖いの歴史の経過が詳細な体系化として提供されているわけではない。啓示の歴史は、神が世界と御自分の民を扱うことにおいて踏まれた道をたどることを試みるのである。それは、ちょうど、わたしたちがイエスの伝記を書くことができないのと同じように、古い契約下における神の贖いの行為の経過について包括的な記述を提供できない。でも、旧約聖書は、疑いもなく、わたしたちに歴史を与えることを計画している。神の贖いは、歴史に入る、歴史における完成を見出し、また、見出そうとする。 そして、神の啓示は、旧約聖書においてわたしたちに来るが、それらは、明快な断片(lucid fragments)と呼べるであろう。これらの断片がキリストの到来における強力な全完成(a mighty whole culminating in Christ)の部分を構成するのである。たとえば、あちらこちらで、アッスリア人、フェリシテ人、バビロニヤ人などが、神の行為において役割を果たすのである。 また、神の行為はいろいろな異なった状況に依存している。わたしたちは、いろいろなときに、メシアについて、誕生の場所、名称、苦難、孤独、不名誉などを知る。こうして、神の扱いの経過について、わたしたちは、わたしたちのために保存された「断片」において読むのである。それは、救いについてのわたしたちの知識が、イエス・キリストにおける恵み深い行為の充満に関係するためである。 また、ヘブライ11章で言われているように、いろいろな時期に生きた人々が、信仰によって生き、死んだところの人々の新約聖書の回廊において生じる。彼らの生きたことが、種々の仕方で、神が自己を啓示される幕屋、神殿、王家の血筋、捕囚、神殿再建、出エジプトなどの神の行為に包含されている。 そして、この神の啓示において、神は、神の民の罪と、全人類の罪と悲惨を示す。罪と悲惨は、自分で自分を購うことができず、自分の墓穴を掘ることになるのである。しかし、同時に、神は、贖いの計画を啓示する。それは、神の真実と憐みの啓示であり、永遠に確かであり、恵みによってのみ救われる残りの民の啓示である。 しかし、わたしたちは、わたしたちを旧約聖書の数少ない特別にメシア的テキストに限定してはならない。メシア的発言は、キリストを証言する全旧約聖書の背景に対してのみ、わたしたちに意味があるからである。贖い主の人格とみわざは、新約聖書に劣らず、旧約聖書においても、不可分に結びついている。救いは人間の肉から生じるのではなく、天が開けることと、神の下降によってのみ生じるのである。救いは人からでなく、まして、イスラエル人からでなく、神の憐みから生じる。イザヤ1:18で言われているように、真っ赤な罪を白くするのか神である。 旧約聖書においては、この救いの輪郭は、遠くから見えるようになった。そして、いつの日か十分な歴史的現実となるものの影であった。オビンク(H.W.Obbink)が、「旧約聖書の神学的反省」で述べているように、神がその救いを啓示する形態は、イスラエルにおいて、まだ知られていなかったのである。そのことは、ローマ16:25でも語られている。 そこで、新約聖書は、この救いを「世々にわたって隠された」、また、「その計画は今や現わされて」(ローマ16:26)と描かれている。「世々にわたって隠された」というのは、古い契約下におけるキリストについての計画についての啓示がまったくなかったという絶対的意味ではない。しかし、この言い方は、わたしたちの肉の現実性(reality)に入ってきたキリストについての圧倒的な計画(mystery)を示すものである。この計画は偉大であって、神が肉において現れるのである。こうして、新しい契約は現実となったのである。イスラエルの歴史の意味は、キリストにおいて啓示されたのである。というのは、救いは、世界のために意図されたからである。 このことは、エフェソ3:5、6でも言われている。「この計画は、キリスト以前の時代には人の子らに知らされていませんでしたが、今や“霊”によって、キリストの聖なる使徒たちや預言者たちに啓示されました。すなわち、異邦人が福音によってキリスト・イエスにおいて、約束されたものをわたしたちと一緒に受け継ぐ者、同じ体に属する者、同じ約束にあずかる者となるということです」。旧約聖書と新約聖書の対照は絶対的ではない。旧約聖書によっても、救いの約束が、アブラハムにおいて祝福されると言われていた世界の民に今や広がったのである。マタイ13:16、17でも、「しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである」と言われている通りである。 そこで、ベルクーワは言う。「これが、進展と成就(progress and fulfillment)によって意味されているものである。神の恵みが現れたのである。しかし、この比べられず越えられない現実は、旧約聖書を闇に置くものではない。何故なら、来るべきキリストについての数多くの首尾一貫性(the numerous coherences)のゆえに、旧約聖書はイエス・キリストにおける救いの現実性をなお明るく照らしているのである」(141頁)。
5.メシア待望の起源
(1)歴史的あるいは心理学的動機からの説明 旧約聖書は、神の約束の書であるので、教会は、尊崇をもってその声に聞き従う。しかし、ユダヤ教会のように、イエスは、旧約聖書が約束していたメシアという信仰をもたないで、旧約聖書を読むこともできる。これは、キリスト教会とユダヤ教会の決定的違いである。しかし、ユダヤ教会の旧約聖書の読み方は根本的に誤っている。このことは、使徒言行録8:35で、エチオピアの宦官が、イザヤ53章が誰のことを語っているのかと尋ねたとき、フィリポがイエス・キリストのことを語っていると正しく教えたことからもわかる。そして、イザヤ53章がイエス・キリストのことを語っていることを知ったときに、宦官の暗かった魂に光が輝き、彼は喜びにあふれて旅を続けたのである。 このように旧約聖書は、メシアを約束しているが、では、旧約の契約のメシア待望(the Messianic Expectation under the Old Covenant)の起源は何か。これは、最も核心を突く問題である。旧約聖書への中立的、歴史的・批評的アプローチは、メシア願望(Messianic hopes)は、神の啓示からでなく、歴史的あるいは心理学的動機(historical or psychological motives)から生じたと考える。グレツマン(H.Grezmann)は、「メシア」(1929年)を書いた。その中で、メシア待望の民族的待望は、他の民族においてと同じように、民族の理想を実現する英雄を望む(the hope for a hero)というかたちを取ると述べている。すなわち、メシア待望は、イスラエルの民が困難にあるとき(in need of)、精神の危機のとき(in spirit of)生じる、願望(wish)は思想の母であると説明される。すなわち、人間の心からメシア待望が生じたと歴史的あるいは心理学的動機から説明した。こうして、メシア待望は、基本的に、待望がイスラエルにおける救い(rdemption)を求める心理学的に理解される叫び(a psychologically understandable cry for redemption)となる。メシア待望が神の啓示からでなく、イスラエルの困窮(need)と神の救いが結びついてしまうのである。 確かに、イスラエルの民がエジプトで「彼らの奴隷のゆえに」叫んだとき、その叫びは天に届き、神が彼らの嘆きを聞き、契約を思い起こされたのは事実である(出エジプト2:23-25)。また、士師記においても、イスラエルの子らが周囲の敵に悩まされて、自分たちの罪と背教を告白して、救いをもとめたとき、神はイスラエルを救った(士師記10:10-18)。 こうして、困窮とその解決(satisfaction)の心理学的理論は、メシア的待望の起源と同じように関係づけるが、この関係づけは、悲惨と救いの関係(the relation of misery and salvation)という因果律(a causalconnection)、を作り出す。すなわち、悲惨が救いの理念の起源と信じられてれしまい、人間の困窮と神の救い(divine redemption)の結びつきを否定してしまうのである。この悲惨と救いの結びつきは、人間の心の限界内における因果律である。 (2)神の啓示がメシア待望を生じさせた しかし、歴史的あるいは心理学的動機からの説明でない可能性もある。それは、聖書的な説明である。神の啓示それ自身が繰り返し人間の期待を起こさせ(repeatedly arouse)、そして、そのメシア待望は恵みの背景に起源する(spring)のである。すなわち、神は、契約を思い起こしてくださるのである。そして、神の救いの関心ゆえに、救いを求める叫び、天が開くようにとの叫びが、困窮のとき、繰り返し、生じるのである。この叫びは、人間の心によっては説明され得ないものである。というのは、イスラエルの困窮のとき、メシア待望が弱くなるということもあるからである。救いを求める叫びは、神の約束への応答(response)であり、神御自身に希望を求めるように動かす御霊の実である。 また、主なる神は、イスラエルの困窮のときだけでなく、イスラエルの喜びや繁栄のときにも、救いについての啓示を起こし、促してくださるのである。 そこで、ベルクーワは言う。「基本的に、二つの可能性がある。それらは、イスラエルの宗教とそれに付随するメシアの希望は、敵対的環境の重圧の下でイスラエル自身から生じたか、それとも、悲惨の真只中にあって新しい希望をもたらす神の啓示への応答(in response to the divine revelation)において生じたかである。この理由のゆえに、イスラエルの希望の起源についての闘争は、そのように重要で決定的である。すべては、わたしたちが、聖書は、あるいはわたしたちが、民族としてのイスラエルの全存在について先天的な偏りなしに、「先入観なしに」、イスラエルの歴史の経過に直面しようとするかどうかである。すなわち、イスラエル民族は神の選びにより存在し、神の啓示に応答して、宗教とそれ付随するメシアの希望が生じたと受け入れるかどうかである」(145頁)。 メシア待望の心理学的見解か、それとも、啓示的見解かの選択は、サムエル下23:1-7に記録されているダビデの強力なメシア待望において、明白になる。「神に従って人を治める者」、また、「神を恐れて治める」メシア出現の待望は、イスラエルの困窮のときに語られたのでなく、平和で安定しているときである。そして、この預言は、主の霊がダビデを通して語っている。そこで、ベルクーワは、エデルコールト(Edelkoort)の「キリスト待望」、および、プロクッシュ(O.Procksch)の「旧約聖書神学」(1950年)に同意して、「ダビデのメシア待望は、神の手の賜物に基礎づけられ、神の啓示の実りである」と述べる。 それゆえ、人はメシア待望について、啓示以外の他の起源を求めることはできない。たとえば、ハンス・シュミット(Hans Scmidt)は、「歴史と現代における宗教」の「メシア」という論文 において、メシアについては、三つの見解があると語っている。ひとつは、神話的見解(the mythtical view)で、メシアは、動物世界にさえも達する自然における変化を伴って出現すると見る。二つ目は、歴史的愛国的見解(the historical-patriotic view)で、世の終りにダビデが王として帰還すると見るが、後には、ダビデ家の王が帰還するとトーンダウンする。そして、三つ目は、偉大な預言者たちによる前の二つの動機の綜合もしくは一層の精巧化である。 こうして、人は、メシア的啓示の理念を脇に置いてしまうと、これら異なった動機を求めなければならなくなり、王的支配者(royal ruler)、同時に、この支配の特色を見出さねばならなくなる。しかし、この王の理念が実現される王は、オリエントの専制君主にはいない。というのは、この王は、サムエル下23:1-7のダビデの預言に言われているように、「神を恐れて治める」メシア王であり、そして、また、この王は、イザヤ53章に預言されているように主の苦難の僕(the suffering servant of the Lord )と充分に調和する王なのである。そこで、ベルクーワは言う。「来るべきメシア王(the cming Messiah-king)についてのすべての預言は、その唯一の最終的なそして合法的な啓示を、イエス・キリストの王性(the kingship of Jesus Christ)に見い出すのである。この支配とこの謙卑の独自の比べられない調和が、旧約聖書を読むことにおいて、覆いが取り除かれるのである」(147頁)。 そして、旧約聖書におけるメシア預言と言えば、創世記3:15の母なる約束との関連で、スキルダー(K.Schilder)は、「ハイデルベルク信仰問答 Ⅱ」(1949年)において、「最初の意図的謎」(the first intentional riddle)と呼び、ここは「神の権威の教育的行使」(to God’s pedagogical exercise of authority)に仕える(serviceable)と語った。 また、創世記49:10のシロ・テキスト(Shiloh-text)についても、スキルダーは、ここにも「神秘的表現」(mysterious expression)の使用の意図がある可能性を説明している。これらは、疑いもなく、旧約聖書の断片的、部分的、半影的なものに関係している。これらは、今度は、歴史における神の進展的行為(God’s progressive action in history)に関係している。 そこで、ベルクーワは言う。「旧約聖書は、メシア像についての体系的な完全に透明な分析をどこにも提示していない。しかし、今やそこで、今やここで、今やその歴史的状況と文脈において、来るべきメシアの種々の特色が現れるのである。王的支配者(the royal ruler)の理念は、神を恐れることと結びついているのである。というのは、メシアは、彼は、神が世に来りつつあることを実現するのであるが、同時に、ダニエルの夜の幻の人の子(the Son of man)でもある。強力なメシア、そのお方において、神は世と御自身を和解させるのであり、同時に、ダビデの若枝であり、主の僕なのである。ここに、わたしたちは、二性の教理を除いてでなく、新約聖書が彼を神の子にして人の子と示すまでは知られないメシアについての神の啓示を見い出すのである(149頁)。
6.旧約信者も、新約のキリストの贖いに十分豊かに与った
最後に、ベルクワーは、ここで、もうひとつの問題を短く扱う。それは、贖罪史的・歴史的、古い契約から新しい契約への移行の観点から(in view of the redempitive-historical progress and the transition from the Old to the New Covenant)見て、古い契約の下にいた信者は、贖いの豊さに与ったかどうかという問いを立てることは、大切なことである。 この問いに対して、人は、しばしばためらうことがあり得る。たとえば、コッケウス(Coccejus)がそうである。コッケウスは、古い契約下の信者と新しい契約下の信者を本質的に区別した(an essential distinction)。彼の見解は、旧約聖書の信者は、新約聖書の信者が受けた罪の真の赦しに与ることなく、彼らの罪の神の「見過ごし」(passing by)を享受したにすぎないという意見において頂点に達した。この理由は、罪の赦しは、キリストの血を流すという歴史的行為に先立ち得ないという理由であった。コッケウスは、ローマ3:25とヘブライ10:18に訴えた。彼の見解の背景は、贖い一般の理念(the idea of redemption in general)を根拠にしてでなく、歴史的に考察したいという願いであった。すなわち、十字架におけるキリストの和解の歴史性は、絶対的に決定的(absolutely determinative)と考えなかったのである。罪は、赦される前に、まず最初に宥められなければならない(must be atoned)と考えたのである。 こうして、コッケウスは、思弁的にならないように考えたが、しかし、聖書への正しくない訴えによって、キリストの贖いを歴史化して(historicizes redemption in Christ)、もうひとつの極端に陥ってしまったことは明白である。コッケウスの反思弁的、反スコラ的見解は、すべての時代に対する神の救いのみわざ(God’s work for all times)は、宥めの歴史的現実にまさに含まれるので、その結果、人はキリストと同時代でなくても(not a contemporary of Christ)、救いから宗教的に疎外される必要はないのであるという事実を否定させてしまったのである。こうして、宥め(atonement)の永遠的意義が認められるのである。 しかし、コッケウスは、すべての時代に対するこのキリストの罪の宥めの普遍性を拒否したが、ローマ・カトリックも、すべての時代に対するこのキリストの罪の宥めの普遍性を拒否して、その都度のミサを繰り返し行っている。ミサは、キリストの十字架は、もし、キリストの犠牲が前方へ突進する時代(in onward rushing time)において繰り返されなければ、意義をもたないと考える。 そこで、ベルクーワは言う。「しかしながら、教会は、ミサについてのこの見解は、根底においては、イエス・キリストの苦難の普遍的力と意義における否定以外の何ものでもない」(150頁)。また、「旧約聖書と新約聖書のどちらも、かつて約束され、今や到来したひとりのメシアの祝福の充満を受けるのである」(151頁)。
7.旧約聖書の尊重
わたしたちは、反ユダヤ主義の宣伝から受ける旧約聖書の軽視を指摘して、この章を始めた。多くの人々が旧約聖書を、かなりの期間、相対化した後で、新約聖書における成就に訴えるようになった。それゆえ、旧約聖書を過小評価する者は、新約聖書から価値を奪うことに終わると言われるようになった。新約聖書に対する評価をもって語りながらも、旧約聖書を高く放りあげる人は、ハルナック(Harnack)のように、新約聖書についての貧弱な見解をもたざるを得ない。古い契約から新しい契約への贖いの歴史における進展は、旧約聖書の証言の除去を意味しない。この源泉(source)の除去は、貧弱の結果しか生まない。 ベルクーワは言う。「旧約聖書を拒否すれば、人は、人間の悲惨と神の贖いの行為の広い背景、神の義と怒り、神の愛ときよさの背景から引き離されたキリストを残すことになるであろう。そこには、貧弱と誤りの結果しかない。では、わたしたちは何を期待することができるのか。すると、旧約聖書が、キリストの祝福された、恵みに満ちた生涯において、また、最後の謙卑において、成就され、実現されたときに、キリスト御自身が旧約聖書に強調して訴えたのである。十字架の上においてさえも、キリストが見捨てられたときにも、若いときから御父の書かれた言葉を熟慮してきたキリストの心から、旧約聖書の言葉が響いたのである。それゆえ、教会は、旧約聖書を無視して、新約聖書が理解でいないようにならないために、キリストに従うのである」(151-152頁)。
結び
以上が第6章「約束と成就」である。42頁もあり、また、内容が非常に濃い。ベルクーワのこの章の問題意識は、旧約聖書をどのように見るかである。すなわち、旧約聖書に対して、どのような姿勢と態度を取るかである。ユダヤ教のように、旧約聖書のみを認め、旧約聖書が、イエス・キリストの出現、人格、みわざを証言し、約束していることをまったく認めない立場もある。また、キリスト教と言いながらも、マルキオンやハルナックにように、旧約聖書を認めず、新約聖書しか認めない立場もある。 このような状況で、キリストの教会にとって、旧約聖書についての正しい見方、姿勢、態度はどのようなものかが問われる。すると、ベルクーワは、旧約聖書は、イエス・キリスト御自身が、「聖書はわたしについて証をするものだ」(ヨハネ5:39)に従って、キリスト証言の書と見るのである。 では、旧約聖書は、確かに、キリスト証言の書であるが、どのように証言しているのか。キリストの出現、人格、みわざについて、組織体系的に証言しているのか。すると、そうではなく、神が、御自分の民であるイスラエルと世界の扱いの歴史の経過において、啓示の進展として、いろいろなときに、いろいろなしかたで、いろいろな状況において証言しているのである。すなわち、救いの歴史、贖いの歴史として進展的に、キリストの出現、人格、みわざを約束として啓示しているのである。 そして、旧約聖書の約束は、すべてイエス・キリストにおいて、すなわち、新約聖書において実現、成就し、現実(reality)となっているのである。そこで、旧約聖書と新約聖書の関係が、この章のタイトルとして、「約束と成就」とされたのである。 また、旧約聖書がキリスト証言の書と言っても、それは、旧約聖書のそれぞれの個所の歴史性や状況を無視して、旧約聖書のどこの個所からでも自分勝手に、自由に、恣意的に、キリスト証言を語ることではない。それは、旧約聖書の恣意的解釈であり、ある人々が現代においてもしている比喩的釈義(allegorical exgesis)に陥ってしまう。 そうでなはなく、旧約聖書のそれぞれの個所の歴史性や状況を文脈を正当に釈義した上で出てくるものであり、また旧約聖書全体が、キリスト証言であることを意味している。 では、旧約聖書は、キリスト証言であり、キリスト待望、メシア待望が語られているが、メシア待望の起源は何か。すると、ある人々は、イスラエルが敵に苦しめられるイスラエルの困窮のときに、イスラエルが困窮から救い出してくれる英雄、ヒーローとしてのメシアを求めたことに起源するという歴史的・心理学的説明をするが、ベルクーワは、これは、誤りと言う。何故なら、確かに、出エジプト、士師記において、そのようなことがあったが、しかし、メシア待望は、イスラエルが困窮でなく、平和で安定しているときにも語られているので、この説明は誤りである。メシア待望は、神の啓示への応答であり、神御自身が民の心に起こしてくださるものであり、御霊の実である。メシア待望の起源は神の啓示である。神が契約を思い起こして助けてくださることから、また、イスラエルの民の心に神が起こしてくだるもので、御霊も実として生じるのである。 しかも、待望されるメシアは、ただ単に強いオリエントの専制君主的な王的支配者でなく、ダビデが預言したように、神を恐れる王であり、イザヤ53章が予言したように、主の苦難の僕でもある。こうして、待望されるメシアは、謙卑と高挙の王である。人間的に考えれば、相反するが、しかし、神の御計画、啓示においては、相反せず、完全に調和している。 また、旧約聖書と新約聖書の関係は、メシアの約束と成就と言うと、では、メシアの約束があっても、まだ実現成就しない旧約時代における信者は、メシア・キリストの十字架の贖いの前に生きた人々なので、キリストの贖いの祝福には与れなかったのではないかとの疑問が出る。実際、コッケウスも、与れないと考えた。しかし、これもまた誤りである。キリストの贖いは、すべての時代に対する神の救いであり、キリストの贖いの普遍的絶対的決定的効果をもつものだからである。それゆえ、旧約時代の信者も、新約時代の信者と同じく、キリストの贖いの豊さ(riches)に十分に与ったのである。 以上が第7章「約束と成就」の要旨であるが、では、わたしたちの教派が採用しているウェストミンスター信仰基準は、旧約聖書をどのように見ているか。すると、ウェストミンスター信仰告白においては、第1章「聖書について」においては、旧約聖書と新約聖書を聖書としてであるが、特に、旧約聖書に関するところは、第2節で、旧約聖書39巻も含めて聖書全体が、「これらはみな、神の霊感によって与えられており、信仰と生活の規準である」と述べられている。また、第8節では、「(昔の神の民の国語であった)ヘブル語の旧約聖書は・・・」と述べて、旧約聖書がヘブル語で書かれていたことを語っている。第9節では、旧約聖書も含めて、聖書は、比喩的に解釈されてはならず、文字通りの意味を求めるべきことが語られている。 また、ウェストミンスター信仰告白第7章「人間との神の契約について」の第5節において、「この契約は、律法の時代と福音の時代とで異なって執行された。律法のもとでは、それは約束、預言、割礼、過越の小羊、その他のユダヤ国民に与えられた予型や規定によって執行され、それらはすべて来るべきキリストを予示していて、約束のメシアへの信仰に選民を教え育てるのに、その時代にとっては聖霊の働きによって十分で有効であった。このメシアによって、彼らは完全な罪をゆるしと永遠の救いを得ていた。それは、旧約と呼ばれる」とあり、旧約時代も恵みの執行期間として語られ、旧約時代が「約束」の時代、「約束のメシア」の時代、「来るべきキリストを予示」の時代として語られ、そして、旧約時代の信者は、来るべき約束のメシアを信じて、「完全な罪のゆるしと永遠の救いを得ていた」と確信をもって断言していて、あいまいさがなく、素晴らしい。 また、第8章、「仲保者キリストについて」においては、特に、第6節で、「あがないのみわざは、キリストの受肉までは、彼によって実際にはなされなかったのではるが、それでも、その徳力と効果と祝福は、世の初めから引き続いて、いつの時代にも、約束・予型・犠牲の中に、またそれらによって選民に伝達された。そこにおいて彼は、へびの頭を砕くべき女のすえ、世の初めからほふられて、きのうもきょうもいつまでも変わることのない小羊として啓示され、表象されていた」とあり、旧約時代にも及ぶキリストの贖いの普遍的絶対的決定的効果が疑いもなく明白に力強く語られていて素晴らしい。 また、第11章「義認について」の第6節で、「旧約の下での信者の義認は、これらすべての点から見て、新約のもとでの信者の義認と同一であった」と述べて、旧約時代の信者は、キリストの十字架の贖いがまだなされていなくても、約束のメシア・イエス・キリストを信仰して、新約時代の信者と同じに義認され、新約時代の信者と同じ完全な罪のゆるしと永遠の救いを得ていたことが、これまた、明白に揺るぎなく告白されていて素晴らしい。 第22章「合法的宣誓と誓願について」の第2節においては、「・・・宣誓は旧約におけると同様に新約においても、神のみ言葉によって保証されているので・・・」と宣誓の合法性を語っている。 第27章「礼典について」の第5節では、「旧約の礼典は、それによって表象され表示される事柄に関しては、実質的に新約の礼典と同一である」とあり、礼典が表す救いの恵みは、旧約時代も、新約時代も同じであることが語られている。 では、ウェストミンスター大教理問答において、旧約聖書、旧約時代はどのように見られているか。すると、まず、問3において、旧約聖書は、新約聖書とともに「神のみ言葉、信仰と服従のただ一つの規準である」ことが告白されている。 問33では、恵みの契約の施行の仕方は、旧約時代と新約時代では違うことが述べられている。 問33 恵みの契約は、常に同じやり方で施行されたか。 答 恵みの契約は、常に同じやり方で施行されたのではなく、旧約の下では新約の下でのそれとは違っていた。 問34では、「恵みの契約は、旧約の下では、どのようにして施行されたか」。 答 「恵みに契約は、旧約の下では、約束、預言、いけにえ、割礼、過越、その他の型や規定によって施行された。それはみな、やがて来るべきキリストを予兆したものであり、選民を約束のメシアを信じる信仰に教育するのに、その時代のために十分であった。彼らも、当時、このメシアによって完全罪のゆるしと永遠の救いをえていた」。 すなわち、旧約時代は、来るべきメシアを約束し、予兆していたこと、また、来るべき約束のメシアを信じることで、完全な罪のゆるしと永遠の救いをえていたことが、ためらいなく、明白に語られていて素晴らしい。 問45においては、キリストがこの世の王と違うことが教えられている。 問45 キリストは、どのようにして王の職務を果たされるか。 答 キリストは、世から一つの民をご自身のもとに召し出すこと、彼が彼らを可見的に支配する手段である役員と律法と戒規とを彼らに与えることにより、その選民に救いの恵みを授けること・彼らの服従に報いること・彼らの罪のために正すこと・彼らのすべての誘惑と苦難の下で彼らを守り支えること・彼らのすべての敵を抑制し征服すること・ご自身の栄光と彼らの益のためにすべての事柄を力強く統御することにより、また神を認めず福音に従わないその他の人々に報復することによって、王の職務を果たされる。 以上のようにして、旧約聖書も、新約聖書も、メシアは支配者、すなわち、王であることを語っているが、そのメシア王は、この世の権力で支配する世俗の専制君主と違って、救いの恵みを与える信仰的、霊的意味での王である。 では、小教理問答においては、旧約聖書、旧約時代はどのように見られているか。すると、問2で、「旧新約聖書にある神の御言葉だけが・・・」と述べて、旧約聖書は、新約聖書とともに、神の御言葉であることを表明している。 また、問26では、キリストの王職について述べている。 問26 キリストは、どのようにして王職を果たされますか。 答 キリストが王職を果たされるのは、わたしたちを御自身に従わせ、治め、守ってくださること、また御自身とわたしたちとのあらゆる敵を抑えて征服してくださることにおいてです。 ここでも、旧約聖書も、新約聖書も、メシアは支配者、すなわち、王であることを語っているが、そのメシア王は、この世の権力で支配する世俗の専制君主と違って、信仰的、霊的意味での王であることを表明している。 以上のようにして、ウェストミンスター信仰基準は、旧約聖書、また旧約時代について語っているが、特に、第7章「約束と成就」との関連においては、ウェストミンスター信仰基準も、旧約聖書と新約聖書の関係を約束と成就で見ていることがわかればよいと思う。 それにしても、ベルクーワは、教義学者、組織神学者であるが、旧約聖書学についての英国、ドイツ、オランダ、フランスの文献も実におびただしく多く広く丹念に読んで、それらを踏まえて議論していることは、素晴らしい。さすがは、20世紀の世界的改革派神学者である。近代・現代の旧約聖書学の研究の成果を十分踏まえたベルクーワの説得力のある議論を読んで、わたしは、旧約聖書は、キリスト証言の書、旧約聖書と新約聖書の関係は、キリストの人格とみわざについての約束と成就の関係、そして、それは神による啓示の歴史的進展、すなわち、救済史であること、また、メシア待望は罪人が自力で起こせるものでなく、神が契約に基づき、イスラエルの民の心に起こしてくださる啓示への応答であり、御霊の実であること、また、まだキリストが出現しない旧約の信者も、キリストの贖いの祝福の充満を受けていたことが、どんなに素晴らしいことかを、改めて、一層強く強く確信することができた。旧約聖書の素晴らしさと豊さにさらに目が開かれた思いがして、わたしはとてもうれしい。さらに、ベルクーワのキリスト論の紹介と解説を、使命感をもって行っていきたい。
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