「宣教と教会形成」

                      

 

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マタイによる福音書28章16節~20節

                                             佐々木 稔

 

 私たちは2日前にはそれぞれ遣わされた教会で救い主イエス・キリストの復活を覚えるイースター礼拝を守り、また更にその前の週は救い主イエス・キリストの苦しみと死を覚える受難週の礼拝を守ったわけですが、今日からは3日間にわたって第43回の東部中会定期会が行われようとしているのであります。

 今東部中会は大きな流れとしては3年後の1991年の中会創立45周年を目ざして「6ケ年計画」に従って歩んでいるところであり、更に東部中会が宣教と教会形成において前進していくように祈るものであります。

 さて、今私たちは開会礼拝にあたってみ言を学ぼうとしているわけでありますが、先ほどお読みいただいたところは「宣教命令」、「伝道命令」或は弟子たちに大きな任務を与えたというので「大委任」(グレート・コミッション)と呼ばれるところであります。また更に父と子と聖霊の名による洗礼とイエスの教えによって弟子づくりをすることは具体的には地上に教会をつくり立てていくことになるので「教会建設命令」と言われることもあるかと思うのです。

 いずれにしましても復活したイエス、死からよみがえったイエスから、骨の髄まで真っ黒に汚れた罪人がそれによってのみ救済される素晴らしい福音の宣教が命じられ、かつその宣教を押し進めていく際の源泉であるイエス・キリストご自身の臨在の恵み深いかつ力強い約束が与えられているところです。

 そしてこのところは以前から沢山の研究書があるところで、理解の仕方、説明の仕方、言い方は実に多種多様であります。たとえば復活のイエスのこの宣教命令は旧約聖書創世記1章26節以下に与えられた文化命令(カルチュラル・マンデイト)と比較対応させられて、文化命令は全人類に与えられたものであるが、宣教命令はキリストからあがなわれた人類だけに与えられたものと言う人もいるのです。

 また復活のイエスのこの権威に満ちた宣教命令は旧約聖書中心記6章の「イスラエルよ、聞け」(シェマー・イスラエル)と言われるあの力強い箇所と比較対応して考えられるべきであると言う人もいるのです。

 またこの復活のイエスの魂の底までガンガン響いてくる神的権威に包まれた宣教命令は、旧約聖書の中庭記全体に見られる神が民に絶対的権威をもって語りかけている型、タイプと対応して考えられるべきであると言う人もいるのであります。

 またこの復活のイエスがご自分の僕である弟子たちに厳粛に、おごそかに重要使命を託している姿は旧約聖書に出てくる、偉大な紳がご自分の僕であるアブラハム、イサク、ヤコブ、モーセ、ョシュア、サムエルそして預言者たちに使命を託している厳粛なおごそかな姿をお手本として描いていると言う人もいるのです。

またここでナザレのイエスが復活によって権威を与えられた姿は旧約聖書ダェエル書7章で予告されていた人の子が日の老いたる者即ち神から権威を与えられることの実現とその始まりと考える人もいるのです。

 またすべての国民への伝道は聖書の最初の部分即ち創世記12章で神がアブラハムに「地のすべてのやからはあなたによって祝福される」と言った祝福の約束そしてそれはマタイによる福音書l章l節で「アブラハムの子であるダビデの子イエス・キリストの系図」として再確認されているその約束がキリストにおいて実現したことが表わされていると考える人もいるのです。

 また更にこのところはマタイ福音書の最初の部分である1章2章で言われていたイエスは王として生れたこと、イエスの誕生・出現は「神われらと共にいます」(インマヌエル)を実現すると言われていたことが、復活したイエスが主権者即ち王となること、また復活のイエスは聖霊において世の終りまで教会に臨在することにおいて実現したことが言われていると言う人もいるのであります。以上のように実にいろいろな仕方で理解されているところであります。

 しかし、いずれにしてもこのところはマタイによる福音書におけるイエスの自己啓示の最終段階でありかつマタイによる福音書におけるイエスの自己啓示の最高段階、クライマックス、頂点、キラキラ輝く冠の部分であることは間違いがないと思うのです。

 著者のマタイは最古の福音書と言われるマルコによる福音書を既に持っていて、いろいろなところでマルコによる福音書を使ったと思われるが、しかしマタイによる福音書の著者はマルコによる福音書の終り方とは全然違った終り方に意識的にしたわけであります。マルコによる福音書とは違う自分だけが持っていた材料、資料を用いて組み立てた、書いた、或は編集したのです。マタイは復活のイエスの権威にみなぎった犬宣教命令を与えるおごそかな姿そしてそれと共に宣教の力の汲めども尽きないコンコンと湧き出るイエス・キリストの変ることのない臨在の恵み深い力強い約束によって自らの福音を終ることを計画したのであります。

 

I.

 

 さて、ではおごそかなしかし慰めに満ちた宣教命令、マタイによる福音書におけるイエスの自己啓示の最終段階かつ最高段階即ちキラキラ輝く冠であるこの宣教命令はどんな状況で与えられたのでしょうか。すると聖書はキラキラ輝くイエスの自己啓示の最高段階である宣教命令はガリラヤのある山で、裏切って脱落したユダを除く11人の弟子たちに与えられたと語るのです。

 16節に「ガリラヤに行って」とありますがこれは28章7節では空の墓の中にいたみ使いおよび10節では復活のイエスご自身からガリラヤヘ行くように指示されたのであります。

 マタイによる福音書においてはメシア・イエスのわざは異邦人の地、暗黒の地、霊的荒廃の地と言われたガリラヤから始まって、そして十字架でつまずいた弟子たちを再びガリラヤで集めて、世界宣教に送り出すというかたちで終るのです。即ちメシア・イエスのわざはガリラヤから始まってガリラヤで終るという組み立て方なのだろうと思われるのです。

 ルカによる福音書は弟子たちはエルサレムから離れないで聖霊降臨(ペンテコステ)を待つようにということで終りそして使徒行伝のペンテコステにつないで行くのです。しかしマタイによる福音書はまた違う組み立て方と思うのです。

 さて、ではマタイにおけるイエスはその時自己を最終的に啓示する場としてどこを具体的に選ばれたのかというと「山であった」のです。具体的にどこの山であったかは特に記されておりません。マタイはその必要を感じなかったと思われます。

 山というのは旧約の時代においても偉大な神が自らのみこころを人々におごそかに厳粛に啓示する場所として用いられたのです。シナイ山でモーセを通して、人がそれに従えば必ず祝福される十戒が与えられたり、或はカルメル山において偶像バールの預言者と対決したエリヤの祈りに応じて自らの偉大な力を強力に啓示したりしたのです。

 またマタイによる福音書自身においてもイエスは山上の垂訓と言われるように山或は小高い丘でおごそかに権威をもって教えたのですし、またある高い山においてはイエスはまばゆい神の子に変貌して自らを強力におごそかに啓示したことがあったのです。

 以上のように旧約においてもマタイ福音書自身においても山は偉大な神或は偉大なメシア・イエスの自己啓示の場として用いられたが、今またマタイ福音書のしめくくりの啓示、キラキラ輝く冠としての最高啓示も山の上でなされたのです。

 さて、ではその時イエスの弟子たちは復活のイエスに対してどのように反応し、応答したのでしょうか。聖書を見ると弟子たちは復活のイエスに出会って礼拝したが、しかし、ある者たちは疑ったというのです。

 私たちはここを見て疑問に思うのです。「疑う者がいた」と記されているのは何を言おうとしているのかと思うのです。それである人々はイエスの復活ということは高度な霊的真理なので疑いを持つことを表わしていると考えるのです。しかしある人々は別にマタイは弟子たちの復活のイエスに対する不信仰を語ろうとしたのではなく、復活したイエスの姿の変容を語るためのマタイ的表現であると考えるのです。即ち、復活後のイエスの姿はそれまでの姿とは違ったところがあることを表わしていて今やそれまでの低い状態から高い状態、へり下りの状態から高挙された状態、けんそんな状態から高く挙げられた状態へ移ったメシア・イエスの神々しい姿、栄光と権威に満ちあふれている姿、いわば神的な栄光に或は天的栄光に輝きわたっているようなことを表わしていると考えるのです。

 復活後のメシア・イエスの変容、復活したイエスにはそれまでとは違ったところがあったことはヨハネによる福音書、ルカによる福音書も記しているところです。たとえばョハネによる福音書20章15節以下で、それまでイエスと親しい交わりにあったマグダラのマリヤでさえ、声をかけられ、自分の目で見いても復活後のイエスをすぐには識別できなかったのです。またルカによる福音書の24章13節以下のエマオ途上にあった2人の弟子は復活したイエスが彼らと並んで歩いて語りかけてもすぐにはそれが復活したイエスとはわからなかったのです。

 そのように復活したメシア・イエスの姿は以前とは違ったところがあったと思われるのです。それ故に弟子たちは最初はそれがイエスかどうか疑ったと考えるのです。

 以上のどちらを取るにしろ、弟子たちはいつまでも復活のイエスを疑っていたわけではなく、その疑いはすぐに解消したことが暗黙のうちに了解され、前提とされているのです。

 

Ⅱ.

 

 さて、では天の父なる神のみこころに従って十字架の呪いの死に至るまでの従順のきわみを示して死に、3日目に死からよみがえって罪人救済の素晴らしい途を開いたイエスは弟子たちに何を語ったのでしょうか。それが福音の宣教の命令です。そしてこの宣教命令と言われるイエスの言葉は極めて明快に3つの要素、3つの部分、3つの柱で成り立っていると考えられるのです。第1の要素、第1の部分、第1の柱は18節で宣教命令の揺ぎなき礎え、根拠、土台としてのメシア・イエスの絶対的権威です。第2の要素、第2の部分、第2の柱は19節と20節前半でメシア・イエスの絶対的権威に基づく宣教命令そのものまたその命令の内容です。第3の要素、第3の部分、第3の柱は20節後半でとてつもなく大きな命令であり任務である世界宣教をしていく際の霊的力の源泉、コンコンと湧き出てくる汲めども尽きない唯一の源であるイエス・キリストご自身の聖霊による臨在の恵み深いかつ力強い約束です。こうしてこのところは権威と命令と約束という3つの要素、部分、柱がガッチリ生命的に相互連関的に組み合わされて成り立っていると思われるのです。

 それで今私たちが特に注目したいことは何か、それはここに意識的、自覚的、計画的に「すべて」という言葉が4回使われているということです。ギリシヤ語では「すべて」はギリシャ語でパス(πas)或はパンタ(πanta)です。英語ではa11(オール)です。そして今私たちはここでイエスの言葉に4回も出てくる「すべて」を手がかりとして流れを見ることにしたいと思うのです。

 では、ここで4回出てくる「すべて」の最初はどこでしょうか。18節です。「いっさいの権威」の「いっさい」がそうです。これは「すべての権威をさずけられた」という意味です。

 メシア・イエスは勿論それまでにも、復活以前にも権威が与えられていなかったわけではないのです。その証拠にメシア・イエスは山上の垂訓においても権威をもって教えたし(7章29節)、「地上で罪を許す権威」をもっていたし(9章6節)、「汚れた霊を追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやす権威」をもっていて、伝道旅行に行く弟子たちにもその権威を与えたほどでしたし(10章1節)、また11章27節によれば「すべてのことは父からわたしに任せられています」とそのものズバリで語られているほどです。しかし、それにも拘らずメシア・イエスは低い状態においてはその権威はある意味では覆われていたのですが、でも今復活により高い状態に入りメシア・イエスの権威は極めて明白になったのです。

 そしてここにある「いっさいの権威を授けられた」即ち「すべての権威を授けられた」というのは旧約のダェエル書7章の人の子が日の老いたる者即ち神から主権を授与されるという約束が今やメシア・イエスにおいて実現し始まったことを語っていると思われるのです。メシア・イエスの主権が万人に見えるかたちで現われるのは世の終りのイエスの再臨の時ですが、しかしこの時に既にそれが開始したのです。

 こうしてメシア・イエスはパウロのピリピ人への手紙2章の言葉にあるようにどこまでもへり下り、けんそんの限りを尽して十字架の死に至るまで従順であったので、今や復活以後すべての名にまさる名と権威と支配権をみ父から授与されたのです。

 かつてサタンは「もし、あなたがたがひれ伏して拝むなら、これらのものを皆あなたにあげよう」と言ったのですが、しかしメシア・イエスはサタンを拝むことによってでなく、自分をつかわした父なる神へきわみまで従順にしたがうことによって、正統な方法で万物の支配権をあたえられたのです。イエスは世界の王であり、王の王であり、主の主であります。

 さて、ではここに4回出てくる「すべて」の第2番目はどこでしょうか。19節の「すべての国民を弟子として」がそうです。私たちはイエスが弟子たちに「すべての国民を弟子とせよ」と約2千年前に語られた時に具体的にどこどこの国民や民族のことを考えておられたのかと思うのですし、またそれと同じくこの命令を聞いた弟子たちは「すべての国民」ということで具体的にどこどこの国民や民族のことを順に描いたのかと思うのですが、しかし知る由もないのです。

 ただここで大切なことはイエスは「多くの国民(many nations )を弟子とせよ」と言われたのではなくて「すべての国民(all nations)を弟子とせよ」と言ったところに大きな意味があると思われるのです。即ちへり下りの限りを尽して、十字架の恥ずべき呪いの死を受けそして復活によって罪人の素晴らしい救済の途を開いたことにより、主権を与えられた人の子イエスは多くの国民や民族を弟子とすることでは満足しないのです。すべての国民を弟子として従うようにさせないと満足しないお方なのです。メシア・イエスは王の王であり、主の主である故に一部や半分や多くでは納得しないのです。イエスは全部を求め、すべてを要求するのです。

 さて、ではこのところで4回出てくる第3番目の「すべて」はどこでしょうか。 20節前半の「あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ」の「いっさいのこと」がそうです。これは「すべてのこと」という意味です。そして、ここでの「いっさいのこと」即ち「すべてのこと」は文脈ではマタイによる福音書においてイエスが天の父のみこころとして弟子たちに教え、啓示したことのすべて、いっさいを表わしているのだろうと思われるのです。

 その当時弟子を作ることは律法学者やパリサイ人即ちユダヤ教でもしていたのですが、しかし、イエスの弟千づくりは父・子・み霊の三位一体の神との交わりに入れるしるしである洗礼を行うことと真のメシア、ナザレのイエスの教えのすべてを決定的に重要なものとして守るように教育することにおいて本質的に違っていたのです。ユダヤ教の弟子づくりとキリスト教の弟子づくりは全く追っていたのです。ユダヤ教だって弟子づくりをする時には異邦人には洗礼を授けたのです。そして宗教の指導者の律法学者やパリサイ人の教えを守るように求めたのです。

 しかし、キリスト教はナザレのイエスを神の子と認め、父・子・み霊の三位一体の洗礼を授け、彼らが十字架で殺したナザレのイエスの教えを決定的に重要な教えとして、そのすべてを尊んで守るように教えるところが根本的に追うのです。キリスト教の弟子づくりはユダヤ教の弟子づくりとは違うほんとの弟子づくりなのです。

 さて、ではこのところで4回出てくる「すべて」の第4番目はどこでしょうか。20節後半の「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」です。ここはギリシヤ語から直訳すると「すべての日々においてあなたがたと共にいるのである」で「いつも」は「すべての日々」です。all the daysです。そして、これはほんとに慰めであり、励ましであり、素晴らしい力強い約束だと思うのです。世の終りまでの一部の日々にだけキリストは聖霊において臨在するのではないのです。またキリストは世の終りまでの半分の日々においてだけ聖霊において臨在するのでもありません。またキリストは世の終りまでの多くの日々においてだけ聖霊において臨在するのではないのです。

 キリストは世の終りまで毎日毎日一日たりとも欠く事なく、日々、来る日も来る日も、良き日も悪しき日も必ずイエス・キリストは聖霊において、み言葉により、礼典により、祈りによって弟子たちと共に教会に豊かに十分にあふれるほど恵み深く力強く臨在して下さるのです。

 弟子たちはこのとてつもなく大きなビジョンの宣教命令を与えられた時に自らの弱さや無力を強く感じたかもしれません。イエスの弟子たちのペテロ、ヨハネ、アンデレ、ヤコブは元々ガリラヤ湖の生れながらの漁師であって、律法の専門的勉強など伺もしたことがない人々でした。またマタイは人々からさげすまれ嫌われていた取税人でした。また熱心党のシモンは民族主義者、国粋主義者でイスラエルの利益ばかりを考えていたと思われるのです。他の民族を愛することができると思ったでしょうか。また彼らは兄貴分のペテロに見られたようにイエスが十字架につく時には裏切ったり、或は他の弟子たちは、くもの子を散らすように逃げ去ったりした人々でありました。イスカリオテのユダほどでないにしてもイエスを見捨て、裏切ったことは事実でした。

 そのように弟子たちは皆弱さと不十分さともろさと欠けをもった人々でした。しかし、メシア・イエスはそれらすべてを承知の上で彼らにとてつもなく大きな使命と任務と命令とを与えたのでした。そしてそれと共にメシア・イエスは彼らが宣教と教会形成のかけがえのない大切な任務を果たすための霊的力の汲めども尽きないコンコンと湧き出る泉としてご自分の臨在を恵み深く力強く約束されたのです。

 罪と死とによって破壊され荒廃している人間の魂と人生と生活を全面的に救済する限りない祝福を宣べ伝えるわざは、聖霊において昨日も今日も変りなく真実にほんとに日々臨在して下さる主の主、王の王、教会のかしら、唯一の仲保者イエス・キリストから出てくる力によってのみなされていくものであります。

 

結び

 

私たちは福音宣教をし、教会を建てていく力をみ言葉と礼典と祈りによって恵み深く臨在するイエス・キリストから日々豊かに十分に満ちあふれるほど、潤うほどに、望むままにいくらでも汲みながらわざを進めていきたいと思うのです。汲めども尽きないコンコンと出てくる宣教と教会形成の霊的力の源泉であるイエス・キリストは世の終りまで、ある日だけでなくすべての日々私たちと共にいて励まして下さるのです。

 こうして私たちはマタイによる福音書におけるイエスの自己啓示の素晴らしいキラキラ輝く冠とも言うべき宣教命令、伝道命令のこころを見るのです。私たち東部中会も更にこの一年間イエス・キリストから霊的力を豊かに受けつつ、かけがえのない大切な福音宣教、教会にしかできない福音伝道そして教会形成に励みたいと思うのです。聖霊なる神が東部中会をいよいよ豊かに祝福して、お導き下さるように折りたいと思うのです。

    (日本キリスト改革派教会東部中会第43回定期会での議長としての説教 1988年4月5日)