神の民の罪
- ホセア書5:15~16:1 -
[インマヌエル 上巻.5-15]
[ホセア書5:15~6:1] 「15 彼らが自分の罪を認め、わたしの顔を慕い求めるまで、わたしはわたしの所に戻っていよう。彼らは苦しみながら、わたしを捜し求めよう。1 「さあ、主に立ち返ろう。主は私たちを引き裂いたが、また、いやし、私たちを打ったが、また、包んでくださるからだ。」
*** 神を怒らせるものは一体何なのか。神が身を隠され、民から離れて行かれる理由は何か。それは罪のためである。したがって、神の民が犯しやすい三つの面において、罪について考えてみる。
1. 関係の面における罪
(1) 神と神の民との関係において
① 神の民として神の御言葉を聞かないことは罪である。
「わたしの名によって彼が告げるわたしのことばに聞き従わない者があれば、わたしが彼に責任を問う。」(申命記18:19)
「なんとしあわせなことでしょう。あなたにつく人たちは。なんとしあわせなことでしょう。いつもあなたの前に立って、あなたの知恵を聞くことのできるこの、あなたの家来たちは。」(歴代誌下9:7)<シバの女王がソロモン王に言った言葉>
(2) 信じる者たちとの関係において
① イエスは、彼を信じる者たちが一つとなることを祈られた。
「それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。」(ヨハネ福音書17:21)
② イエスは、彼を信じる者たちが互いに仕えることを望まれた。
「食卓に着く人と給仕する者と、どちらが偉いでしょう。むろん、食卓に着く人でしょう。しかしわたしは、あなたがたのうちにあって給仕する者のようにしています。」(ルカ福音書22:27)
2. 責任の面における罪
* 主は、何もせず怠ける者たちを常に非難された。
(1) 必要なものをすべて与えても、働かないことは罪である。
① 神の民がすべきために、聖霊を注がれた。
「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」(ローマ書5:5)
② 聖霊は、さまざまなたまものを各人に分け与えられた。
「8 ある人には御霊によって知恵のことばが与えられ、ほかの人には同じ御霊にかなう知識のことばが与えられ、9 またある人には同じ御霊による信仰が与えられ、ある人には同一の御霊によって、いやしの賜物が与えられ、10 ある人には奇蹟を行なう力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。11 しかし、同一の御霊がこれらすべてのことをなさるのであって、みこころのままに、おのおのにそれぞれの賜物を分け与えてくださるのです。」 (第一コリント12:8~11)
(2) 神が求める時間を自分の都合で使い果たすことは罪である。
① 終日主のために生きる者は、真に祝福されるであろう。
「あなたの真理のうちに私を導き、私を教えてください。あなたこそ、私の救いの神、私は、あなたを一日中待ち望んでいるのです。」(詩篇25:5)
「私たちはいつも神によって誇りました。また、あなたの御名をとこしえにほめたたえます。セラ」 (詩篇44:8)
「私の口は一日中、あなたの義と、あなたの救いを語り告げましょう。私は、その全部を知ってはおりませんが。」(詩篇71:15)
② 神の民に与えられた時間は、本当に貴重である。
「機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。」(エペソ書5:16)
「外部の人に対して賢明にふるまい、機会を十分に生かして用いなさい。」(コロサイ書4:5)
3. 代表の面における罪
* 神の民は、主の御名を代表する者として生活しなければならない。
「神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。」(黙示録22:4)
(1) 神の御名はあなたによって栄光を受けているか。
「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」(マタイ福音書5:16)
(2) もしかして、あなたは神の御名を汚しているのではないだろうか。(第一コリント5:1~13)
「あなたがたの間に不品行があるということが言われています。しかもそれは、異邦人の中にもないほどの不品行で、父の妻を妻にしている者がいるとのことです。」 (第一コリント5:1)
*** 神の民となった私たちは、自分自身を省み、罪によって悲しみを招くことがないように注意しよう。もし罪を犯したとしても、速やかに悔い改め、主のもとに戻ろう。
[ホセア書6:1] 「さあ、主に立ち返ろう。主は私たちを引き裂いたが、また、いやし、私たちを打ったが、また、包んでくださるからだ。」