66巻のキリスト
聖書66巻はすべてキリストを指し示す
聖書は旧約聖書三九巻、新約聖書二七巻、計六六巻からなる書物です。しかしそれらの各巻は、決してバラバラの内容を述べているわけではありません。
聖書は、驚くほどの統一性と調和を保っており、その全巻は一つのテーマによって貫かれています。そのテーマとは、神の御子イエス・キリストです。
旧約聖書は、キリストの到来以前に、キリストの到来を予告し、期待させ、準備させるために記されました。新約聖書は、キリストの到来以後に、キリストの生涯と教え、またキリストの使徒たちの教えを記したものです。
聖書六六巻のすべては、キリストを指し示しているのです。具体的に、それを見てみましょう。
〔旧約聖書〕
創世記
『創世記』は、天地創造から人の創造、またイスラエル民族誕生までの歴史を記しています。最も古い時代に記されたこの書物に、キリスト到来に関する予言(預言)が、すでに出てきます。
「わたし(神)は、おまえ(サタン)と女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼(女の子孫)は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく」(創世三・一五)。
ここで、「女の子孫」(単数)とも「彼」とも呼ばれている人物は、ヨハネの黙示録によればキリスト、あるいはキリストとクリスチャンたち(両者は一体)のことです(一二・五、一七)。そして、
「おまえは彼(女の子孫)のかかとにかみつく」
は、キリストの受難を意味し、
「彼はおまえの頭を踏み砕く」(致命傷)
は、サタンの滅亡を意味します。
また創世記には、キリストはイスラエル民族のユダ族の王家の子孫として降誕されることが、予言されています。
「王権はユダを離れず、統治者の杖はその足の間を離れることはない。ついにはシロ(キリスト)が来て、国々の民は彼に従う」(創世四九・一〇)。
この「シロ」「彼」とは、キリストのことです。
出エジプト記
『出エジプト記』は、エジプトで四百年もの間奴隷となったイスラエル民族が、預言者モーセの指導のもとにエジプトを出、約束の地カナンに向かったときの出来事を記しています。
エジプトでの最後の夜、神はエジプトの民にさばきを下されました。その際、さばきがイスラエル人にまで及んでしまわないために、神は「過越の小羊」と呼ばれる犠牲を定められました。
その夜、小羊の血が門柱とかもいに塗られていたイスラエル人の家は、さばきが"過ぎ越して"いったのです(出エ一二・三~一四)。
じつは、これは将来キリストの犠牲によって、さばきが人々の上を"過ぎ越して"いくということの、予型でした。新約聖書は、キリストを「私たちの過越の小羊」と呼んでいます(一コリ五・七、ヨハ一・二九)。
過越は、キリストによる罪の贖い(救い)
の予型であった。 創元社『聖書物語』より
キリストの十字架の救いを信じ、その血にあずかる者は、裁きがその上を過ぎ越していくのです。
レビ記
『レビ記』は、イスラエルの民に与えられた様々の律法、制度、祭儀等について記しています。
たとえば、旧約時代に「大祭司」は、人々の罪のためのいけにえを携えて、幕屋(神殿の原型になったもの)に入り、民のための贖いをなすことが定められていました(レビ一六章)。
新約聖書は、キリストを「すばらしい事柄の大祭司」と呼び、ご自分の血をたずさえて天にある真の幕屋に入り、「永遠の贖いを成し遂げられた」かたであると述べています(ヘブ九・一一~一二)。
つまり、大祭司による罪の贖いの儀式など、旧約時代に『レビ記』に定められた諸祭儀は、キリストによる「永遠の贖い」のみわざを指し示す一種の"下絵"にほかならなかったのです。
大祭司は、罪のためのいけにえを携えて、幕屋に入っていった。
(この幕屋の模型は、中が見えるように幕をめくってある)。
民数記
『民数記』は、エジプトを出たイスラエルの民が荒野で流浪した四〇年間の記録です。
民は、荒野のあちこちを転々と流浪しながら、ある時は神のお与えになった「マナ」と呼ばれるパンや、奇跡的に岩から出された水によって養われました(民数一一・九、二〇・八)。
こうして彼らは、神によって養われることを学んだのです。
キリストはご自分を指して、
「わたしがいのちのパンです」(ヨハ六・三五)
また、
「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。私を信じる者は、聖書(旧約聖書)が行っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」(ヨハ七・三七~三八)
と言われました。私たちは、この荒野のような人生の中で、内なる生命への真の養いを、キリストの中に見出すことができるのです。
イスラエルの民は荒野で、岩からわき出た水を飲んだ。
この「岩」はキリストの予型である。 創元社『聖書物語』より
申命記
『申命記』は、イスラエル民族の指導者モーセが約束の地カナンを前にして語った、民への訣別説教です。モーセは、民に対してこう語りました。
「あなたの神、主は、あなたの内から、あなたの同胞の中から、私のようなひとりの預言者を、あなたのために起こされる。彼に聞き従わなければならない」(申命一八・一五)。
この"モーセのようなひとりの預言者"とは、モーセの後継者ヨシュアのことではありませんでした(申命三四・一〇)。
それは、モーセのように解放者としての性格をもった預言者のことであって、キリストを指し示していたのです(ヨハ七・四〇)。
キリストご自身、
「モーセは、わたしについて書いたのである」(ヨハ五・四六)
と言われました。
ヨシュア記
『ヨシュア記』は、イスラエルの民がついにカナンの地に入り、そこを征服したときの記録です。モーセの死後、彼に代わって指導者となったヨシュアは、民を「約束の地カナン」に導き入れたのです。
同様に、やがて再来の主イエスは、信仰者たちを「約束の御国」に導き入れてくださるでしょう。ヨシュアは、ある意味で、再来の主イエスの予型となったのです。
ここで、「ヨシュア」が「イエス」のヘブル名、「イエス」が「ヨシュア」のギリシャ名で、両者は同じ名であることも興味深いことです。
士師記
『士師記』は、カナン定着後、まだ王がいなかった頃のイスラエル民族の歴史を記した書物です。そこには、イスラエルの人々の数多くの失敗が記されています。
しかしこの書はまた、神の民がどれほど多くの失敗を繰り返したとしても、神は絶えざる憐れみをもって、民の祈りに答えて下さるかたであることを示しています。
この書は、新しく神の民となったクリスチャンたちへの良き教訓の書であり、罪人に対するキリストの豊かな憐れみ学ぶことのできる書物です。
ルツ記
『ルツ記』は、異邦人(モアブ)の女であったルツが、いかにしてイスラエルの偉大な王ダビデの先祖となり、また救い主キリストの先祖ともなったかという経緯を記した書物です。
ルツは、おそらく結婚前は異教徒であったと思われますが、夫や姑を通して真の神を信じ、素晴らしい信仰の人となりました。そして夫に先立たれてからは、姑とともに落ち穂を拾って生活していました。
その後ルツは、誠実で裕福なボアズ(ダビデの先祖の一人)に見初められ、彼と再婚します。それは恵みに満ちた神の摂理でした(ルツ二・三)。
こうしてキリスト誕生の家系に異邦人の血が入ったことは、きわめて意義深いと言えます(マタ一・五)。
サムエル記 第一、第二
『サムエル記』には、キリストの予型的人物の一人ダビデの生涯と業績が記されています。
ダビデは、ベツレヘム村で育ちました(一サム一七・一二)。おそらく生地もそこだったでしょう。彼は三〇歳で王になり、その後彼の「信頼した親しい友」に裏切られる経験を持ちます。その友は、首をくくって自殺しました(二サム一七・二三)。
ダビデは四〇年王位にあった後、エルサレムで死に、そこで葬られました(一列王二・一〇~一一)。
同様にイエスもベツレヘムでお生まれになり、三〇歳で公生涯に入り、弟子の一人ユダに裏切られ(彼は首をくくって自殺
マタ二七・五)、エルサレムで死に、そこで葬られました。
またイエスの公生涯の期間は、ダビデが王位にあった期間四〇年と対応するかのように、約四〇か月(三年半)でした。
ダビデは、王なるキリストの予型的人物となった。
旧約聖書は、来たるべきメシヤを「ダビデ」と呼んでいる。
列王記 第一、第二
『列王記』には、ダビデやソロモンの王国が分裂した後の民族の歴史が記されています。
王国は二分され、北王国イスラエルと、南王国ユダとに分かれました。
北王国イスラエルには、真に神に従う王は一人も出ませんでした。そのため神は、ついに彼らをさばき、アッスリヤ帝国の捕囚とされました。
南王国ユダも、多くの王は神に背きましたが、幾人かの王は「主の目にかなうことを行い」(二列王一二・二)ました。南王国も、さばかれてバビロン帝国の捕囚となりましたが、その期間は七〇年で済みました。
彼らは、そののち故国に帰還して、国の再興を許されました。
こうして、北王国はメシヤ(救い主)に至る系統から外され、南王国のみが残りました。メシヤに至る系統は、イスラエル民族→ユダ族→ダビデ王(ユダ族出身)の子孫、というように次第に狭められていったのです。
歴代誌 第一、第二
『歴代誌』は、サムエル記や列王記の内容を補うために執筆されたもの、と言われています。
歴代誌もまた、キリストに至る家系がどのようであったかを知る上で、貴重な資料です。イスラエル民族の歴史は、キリスト到来に向けて進んでいったのです。
エズラ記
『エズラ記』は、バビロン捕囚後のイスラエル史を伝えています。人々はエルサレムに帰ってきて、神殿を再建しました。また祭司エズラは、宗教改革を行い、人々の信仰をきよめました。
バビロン捕囚以後の人々は、何度も偶像礼拝に陥った捕囚以前の人々と違い、決して再び偶像礼拝に陥らなくなっていました。こうしてキリスト到来のために、信仰的基盤が整えられていったのです。
ネヘミヤ記
『ネヘミヤ記』は、荒れ果てていたエルサレムの城壁が、ネヘミヤの指導によって再建された時のことを伝えています。
預言者たちによれば、神が統治の足台とし、またキリストによって贖いをなすべき地は、エルサレム以外にはありませんでした(マタ一六・二一協会訳、詩篇二・六、一一〇・二)。
したがってキリスト到来以前に、エルサレムが再建されていて、人々の集まる都となっている必要があったのです。
エステル記
『エステル記』は、ペルシャ王アハシュエロスの時代(紀元前五世紀)に、ユダヤ人を絶滅の危機から救ったモルデカイとエステルの物語です。
キリストが「救いはユダヤ人から出る」(ヨハ四・二二)と言われたように、救い主は必ずユダヤ人の間に現れるはずでした(創世四九・一〇)。
ユダヤ人は、かつて絶滅の危機にあいましたが、神のくすしい摂理によって救われたのです。
ヨブ記
『ヨブ記』は、義人でありながら激しい苦難にあったヨブの物語です。
ヨブは、苦難が絶頂に達した時、
「私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを」(ヨブ一九・二五)
と叫びました。彼は苦難の向こうに、贖い主キリストの栄光を垣間見たのです。
詩篇
『詩篇』は、一五〇に及ぶ詩歌から成っていますが、そのうちの幾つかは、「メシヤ詩篇」とも呼ばれる預言詩になっています。
つまり、詩歌というかたちで、キリストに関する預言をしているのです(二、一六、二二、四五、六九、一一〇篇等)。
たとえば詩篇二二篇では、キリストの十字架の際に人々が彼をあざけること(七~八節)、衣をくじで分け合うこと(一八)、世界宣教(二七)等、様々なことが預言されています。
箴言
『箴言』は、おもにイスラエルの王ソロモンが語った箴言(教訓句)を集めたものです。
そこには神、人生、社会等に関する知恵の言葉が述べられていますが、一部にはキリストに関する預言的な句もあります。
「主は、その働きを始める前から、そのみわざの初めから、わたし(天的な知恵=キリスト)を得ておられた。・・・・海にその境界を置き、水がその境を越えないようにし、地の基を定められたとき、わたしは神のかたわらで、これを組み立てる者であった」(箴言八・二二~三一)。
この「わたし」とは、神の「知恵」であり、「神のことば」であられるキリストのことなのです。
伝道者の書
『伝道者の書』は、ソロモン王が人生と神について語った言葉を記したものです。
そこには、「空の空。すべては空」と語られ、人生の虚しさ、はかなさが示されています。
しかしそれは、神と救い主を知らない人生における真理です。そこで本書は、最終的に、
「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ」(伝道一二・一)
という結論に読者を導きます。
雅歌
『雅歌』は、一見、単なる男女間の愛の讃歌で、信仰的・宗教的香りのない書物のように思われがちですが、この書には深い意義があります。
聖書では一貫して、神とイスラエル、またキリストと教会の関係は、男女の愛の関係になぞらえられています。ですから、『雅歌』に見られる愛の純化の過程は、信仰の純化を学ぶ上でも大切なものです。
『雅歌』中の恋人は、最初「私の愛する方はわたしのもの。私はあの方のもの」(雅歌二・一六)と告白していましたが、のちにそれは、
「私は、私の愛する方のもの。私の愛する方は私のもの」(五・三)
また、
「私は、私の愛する方のもの。あの方は私を恋い慕う」(七・一〇)
と変わっていくのです。
イザヤ書
『イザヤ書』は、預言者イザヤに啓示された預言を記した書物です(本書以降、預言者の名がついている書物はみな、預言者たちに啓示された預言を記した書物です)。
イザヤ書には、あちこちにキリストに関する預言が見られます。とくに有名なものは、五三章の預言でしょう。
その文章は完了形で書かれ、イザヤが実際にキリストの十字架の場面を見たのかと思えるほど、リアルに記されています。
「・・・・しかし彼(キリスト)は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」(イザ五三・五)
実際、新約聖書が述べているように、「イザヤはイエスの栄光を見た」(ヨハ一二・四一)のです。
イザヤ書53章の預言は、あたかも預言者イザヤが、キリストの
十字架の光景をその場で見ていたのかと思えるほど、リアルである。
エレミヤ書
預言者エレミヤも、キリストによって打ち立てられる救いのみわざについて預言しました。
「見よ。その日が来る。・・・・主の御告げ。・・・・その日、わたし(神)は、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ」(エレ三一・三一~三四)。
「その日、その時、わたしはダビデのために正義の若枝(キリスト ゼカ三・八、黙示五・五)を、芽生えさせる。彼は、この国に公義と正義を行う」(エレ三三・一五)。
哀歌
『哀歌』は、イスラエルが捕囚となったとき、荒廃したエルサレムを嘆いて作られた詩歌です。
「エルサレムは罪に罪を重ねて、汚らわしいものとなった」(哀歌一・八)
このような嘆きは、のちにキリストの口によっても語られるところとなりました。キリストは、かつてエルサレムを見て、こう言われました。
「ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか」(マタ二三・三七)。
エゼキエル書
預言者エゼキエルは、キリストのことを象徴的に「ダビデ」と呼び、こう預言しました。
「わたし(神)は、彼らを牧するひとりの牧者、わたしのしもべダビデを起こす。彼は彼らを養い、彼らの牧者となる。主であるわたしが彼らの神となり、わたしのしもべダビデは、あなたがたの間で君主となる」(エゼ三四・二三~二四)。
この「ダビデ」は、明らかに紀元前一〇世紀頃にイスラエルの王であったダビデのことではありません。
エゼキエルはダビデ王より約四百年も後の時代の人でありながら、将来、神のしもべ「ダビデ」が現れる、と述べているからです。
この「ダビデ」は、ダビデが予表していたおかた、ダビデのような名君、ダビデ的王のことです。すなわち、イエス・キリストにほかなりません。(エゼ三七・二四~二五、ホセ三・四~五)
ダニエル書
『ダニエル書』の九章には、キリスト到来の時期に関する有名な「七〇週の預言」が記されています。
「エルサレムを建て直せという命令が出てから、メシヤなるひとりの君が来るまで、七週と六十二週あることを知り、かつ悟りなさい」(ダニ九・二五協会訳)。
ダニエルは、キリストが「いつ」来られるかについて、明確に預言したのです(上の聖句の解釈については、「完全解読 ・70週の預言」をご覧下さい)。
預言者ダニエルは、エルサレム再建命令の出された年
から数えて、69週の年数(69×7=483年)の後に、
メシヤが人々の前に現われる、と予言した。創元社『聖書物語』より
ホセア書
預言者ホセアも、キリストを「ダビデ」と呼んで、その到来について預言しました。
「その後、イスラエル人は帰って来て、彼らの神、主と、彼らの王ダビデを尋ね求め、終わりの日に、おののきながら主とその恵みに来よう」(ホセ三・五)。
ヨエル書
預言者ヨエルは、
「主の大いなる恐るべき日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。しかし、主の名を呼ぶ者はみな救われる」(ヨエ二・三一~三二)
と預言しました。世界には、やがて大いなる恐るべき裁きの日がやって来るでしょう。いや、その日はもう間近に迫っています。
しかしそのとき、神を信じ、救い主キリストに従う者は、「みな救われる」のです(使徒二・一七~二二)。
アモス書
預言者アモスは、紀元前八世紀頃、北王国イスラエルの滅亡を預言しました。しかし、イスラエルは決して滅亡をもって終わるのではなく、やがて神によって回復すると預言しました。
「その日、わたしはダビデの倒れている仮庵を起こし、その破れを繕い、その廃墟を復興し、昔の日のようにこれを建て直す」(アモ九・一一)。
この預言は、究極的にはキリストの「千年王国」(黙示二〇・四~六)の際に、実現成就します。
イスラエル民族の歴史
オバデヤ書
預言者オバデヤも、キリストによって実現される千年王国の栄光を垣間見ました。
「シオンの山には、のがれた者がいるようになり、そこは聖地となる。・・・・王権は主のものとなる」(オバ一七、二一)
ヨナ書
『ヨナ書』は、預言者ヨナに起こった出来事を記した書物です。
ヨナは、地中海の海に落ちたとき、大魚に飲み込まれ、「三日三晩、魚の腹の中に」(ヨナ一・一七)いました。
のちにキリストは、ヨナが三日三晩魚の中にいたように、ご自分も三日三晩葬られているであろう、と語られました(マタ一二・四〇)。
ミカ書
預言者ミカは、キリスト降誕の地を預言しました。
「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたし(神)のために、イスラエルの支配者となるものが出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。
・・・・彼は立って、主の力と、彼の神、主の御名の威光によって群れを飼い、彼らは安らかに住まう。今や、彼の威力が地の果てにまで及ぶからだ」(ミカ五・二~四)。
ナホム書
預言者ナホムは、アッスリヤ帝国(首都ニネベ)に対する神の審判を預言しました。
「主は怒るにおそく、力強い」(ナホ一・三)
また、
「主は決して罰せずにおくことはしない方」(同)
と彼は語っています。同様に、神はやがて、私たちの住むこの世界に対しても、審判を下されるでしょう。
新約聖書によれば、世の終わりにおける神の審判は、主キリストにゆだねられました。それは、キリストが唯一の義なるかただからです。
ハバクク書
『ハバクク書』には、神が、堕落した南王国ユダをバビロン帝国を用いて滅ぼされたときのことが、記されています。しかしそのバビロン帝国も、のちには自らの罪の故に、神によって滅ぼされました。
すなわち神は、さばきの矛先を、ユダの敵バビロンに向けるより前に、ご自分の民であるユダに向けられたのです。
同様に、やがて全世界に神の審判の炎がおおうとき、さばきのみわざは、まず「神の家(キリスト教会)から始められる」(一ペテ四・一七)でしょう。
ゼパニヤ書
預言者ゼパニヤは、エルサレムや諸外国に対する神の審判、および終末における救いの約束について、預言しました。彼は、回復の日について、こう預言しました。
「あなたの神、主は、あなたのただ中におられる」(ゼパ三・一七)
この預言は、キリストの受肉(肉体をとること)によって具現化し、またキリストの再来によって究極的に成就するものです。
ハガイ書
預言者ハガイは、キリスト再来の日の、全世界に対する審判の時のことについて、預言してこう言いました。
「わたし(神)は、天と地とを揺り動かし、もろもろの王国の王座をくつがえし、異邦の民の王国の力を滅ぼし、戦車と、それに乗る者をくつがえす。馬と騎兵は、彼ら仲間同士の剣によって倒れる」(ハガ二・二一~二二)。
ゼカリヤ書
預言者ゼカリヤは、キリストを象徴的に「若枝」と呼び、こう預言しました。
「見よ。ひとりの人がいる。その名は若枝。彼のいる所から芽を出し、主の神殿を建て直す。・・・・彼は尊厳を帯び、その王座に着いて支配する」(ゼカ六・一二~一三)。
また、キリストがロバに乗って来られることを預言しました。
「見よ。あなたの王があなたのところへ来られる。この方は正しい方で、救いを賜り、柔和で、ろばに乗られる。・・・・この方は諸国の民に平和を告げ、その支配は海から海へ、大川から地の果てに至る」(ゼカ九・九~一〇)。
さらに、キリストが(十字架にかかられた時、やりで)突き刺されることも、預言しました。
「彼ら(ユダヤ人)は、自分たちが突き刺した者、わたし(キリスト)を仰ぎ見、・・・・」(ゼカ一二・一〇)。
「あなたの王が、あなたのところへ来られる。
この方は、・・・・柔和で、ろばに乗られる」(ゼカ9:9)。
マラキ書
旧約聖書中、最後の書である『マラキ書』において、預言者マラキは、キリストの来臨についてこう預言しました。
「見よ。わたしは、わたしの使者(バプテスマのヨハネ)を遣わす。彼はわたしの前に道を備える。あなたがたが尋ね求めている主(キリスト)が、突然、その神殿に来る」(マラ三・一)。
[新約聖書]
四福音書
新約聖書冒頭のマタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの四福音書は、イエス・キリストのご生涯の伝記です。
使徒の働き
これは、キリスト昇天後、初代教会を築き上げた弟子たちの言行録です。
各手紙
二一に及ぶ手紙は、キリストの使徒である人々が、キリストについて教えるために各地の教会に書き送った手紙です。
ヨハネの黙示録
使徒ヨハネが、キリストの再臨の時に起こる事柄について、神から示された預言的幻を記した書物です。
このように聖書六六巻すべてが、ただおひとりのおかたイエス・キリストについて記しているのです。
聖書全巻を貫くテーマは、救い主イエス・キリストです。私たちがこの方を知るとき、私たちの人生は祝福に満ちたものに変えられます。
http://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/067rokujuroku.htm