古事記とは
古事記(こじき、ふることふみ)は、日本最古の歴史書である[1]。その序によれば、和銅5年(712年)に太安万侶が編纂し、元明天皇に献上された。
概要
『古事記』の原本は現存せず、幾つかの写本が伝わる。成立年代は、写本の序に記された年月日(和銅5年正月28日(ユリウス暦712年3月9日))により、8世紀初めに措定される。内容は、神代における天地の始まりから推古天皇の時代に至るまでの様々な出来事(神話や伝説などを含む)が紀伝体で記載される。また、数多くの歌謡を含む。なお、『古事記』は「高天原」という語が多用される点でも特徴的な文書である。
『古事記』は『日本書紀』のような勅撰の正史ではないが、序文で天武天皇が、
撰録帝紀 討覈舊辭 削僞定實 欲流後葉
訓読文:帝紀を撰録(せんろく)し、旧辞を討覈(とうかく)して、偽りを削り実を定めて、後葉に流(つた)へむと欲(おも)ふ。
と詔したと記載があるため、勅撰とも考えられる。史料の上では、序文に書かれた成立過程や皇室の関与に不明な点や矛盾点が多いとする見解もあり、また『日本書紀』における『続日本紀』のような『古事記』の存在を直接証明する物証もないため、古事記偽書説(後述)も唱えられていたが現在では否定されている。
『古事記』は、歴史書であるが文学的な価値も非常に高く評価され、神典の1つとして、神道を中心に日本の宗教文化・精神文化に多大な影響を与えている。古事記に現れる神々は、現在では多くの神社で祭神として祀られている。
記紀編纂の要因
中大兄皇子(天智天皇)らによる蘇我入鹿暗殺事件(乙巳の変)に憤慨した蘇我蝦夷は大邸宅に火をかけ自害した。この時に朝廷の歴史書を保管していた書庫までもが炎上したと言われる。『天皇記』など数多くの歴史書はこの時に失われ「国記」は難を逃れ天智天皇に献上されたとされるが、共に現存しない。天智天皇は白村江の戦いで唐と新羅連合に敗北し、予想された渡海攻撃への準備のため記紀編纂の余裕はなかった。その時点で既に諸家の帝紀及本辭(旧辞)には虚実がない交ぜられていた。壬申の乱後、天智天皇の弟である天武天皇が即位し、『天皇記』や焼けて欠けてしまった「国記」に代わる国史の編纂を命じた。まずは28歳の稗田阿礼の記憶と帝紀及本辭(旧辞)など数多くの文献を元に古事記が編纂された。
成立
成立の経緯を記す序によれば『古事記』は、天武天皇の命で稗田阿礼が「誦習」していた『帝皇日継』(天皇の系譜)と『先代旧辞』(古い伝承)を太安万侶が書き記し、編纂したものである。一般的に「誦習」は「暗誦」することと考えられているが、荻原浅男(小学館日本古典文学全集)は「古記録を見ながら古語で節をつけ、繰り返し朗読する意に解すべきであろう」という。
書名
『古事記』の書名は、もともと古い書物を示す一般名詞であり、正式名ではないといわれる。書名は安万侶が付けたのか、後人が付けたのか定かでない。読みは「フルコトブミ」との説もあったが、現在は一般に音読みで「コジキ」と呼ばれる。
帝紀と旧辞
『帝紀』は初代天皇から第33代天皇までの名、天皇の后妃・皇子・皇女の名、及びその子孫の氏族など、このほか皇居の名・治世年数・崩年干支・寿命・陵墓所在地、及びその治世の主な出来事などを記している。これらは朝廷の語部などが暗誦して天皇の大葬の殯の祭儀などで誦み上げる慣習であったが、6世紀半ばになると文字によって書き表されたものである。
『旧辞』は、宮廷内の物語、皇室や国家の起源に関する話をまとめたもので、同じ頃書かれたものである。
なお、笹川尚紀は、舒明天皇の時代の後半に天皇と蘇我氏の対立が深まり、舒明天皇が蘇我氏が関わった『天皇記』などに代わる自己の正統性を主張するための『帝記』と『旧辞』を改訂・編纂を行わせ、後に子である天武天皇に引き継がれてそれが『古事記』の元になったと推測している。
表記
本文は変体漢文を主体とし、古語や固有名詞のように、漢文では代用しづらいものは一字一音表記としている。歌謡はすべて一字一音表記とされており、本文の一字一音表記部分を含めて上代特殊仮名遣[注釈 3]の研究対象となっている。また一字一音表記のうち、一部の神の名などの右傍に 上、去 と、中国の文書にみられる漢語の声調である四声のうち上声と去声と同じ文字を配している[3]。
歌謡
『古事記』は物語中心だが、多くの歌謡が挿入されている。これらの歌謡の多くは、民謡や俗謡であったものが、物語に合わせて挿入された可能性が高い。
有名な歌として、須佐之男命が櫛名田比売と結婚したときに歌い、和歌の始まりとされる「八雲たつ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を」や、倭建命が東征の帰途で故郷を想って歌った「倭は国のまほろば たたなづく青垣 山隠れる 倭し うるわし」などがある。
構成
- 上つ巻(序・神話)
- 中つ巻(初代から十五代天皇まで)
- 下つ巻(第十六代から三十三代天皇まで)
の3巻より成っている。
写本
現存する『古事記』の写本は、主に「伊勢本系統」と「卜部本系統」に分かれる[4]。
現存する『古事記』の写本で最古のものは、「伊勢本系統」の南朝:建徳2年/北朝:応安4年(1371年)から翌、南朝:文中元年/北朝:応安5年(1372年)にかけて真福寺の僧・賢瑜によって写された真福寺本古事記三帖(国宝)である。奥書によれば、祖本は上・下巻が大中臣定世本、中巻が藤原通雅本である。道果本(上巻の前半のみ。南朝:弘和元年/北朝:永徳元年(1381年)写)、道祥本(上巻のみ。応永31年(1424年)写)、春瑜本(上巻のみ。応永33年(1426年)写)の道果本系3本は真福寺本に近く、ともに伊勢本系統をなす。
その他の写本はすべて卜部本系統に属し、祖本は卜部兼永自筆本(上中下3巻。室町後期写)である。
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