国家神道への道を開いた平田神道

幕末から明治維新にかけて、日本人のカミに対する考え方を大きく変えたのは、平田篤胤(あつたね)の唱える平田神道である。

本居宣長の弟子を自称する平田篤胤は、神道を研究して、つぎのように唱えた。人間は死ぬと、仏になるわけでも黄泉に行くわけでもない。霊となる。とりわけ国事に殉じた人びとの霊は、穢れのない、英霊(すぐれた霊)となって、後続する世代の人びとを護っている。この革新的なアイデア(個々人には霊があって、死んだあとでも永遠にその個性を失わない)は、平田篤胤が禁書だった漢訳聖書を密かに読んで、キリスト教から学んだともいわれる。

誰もが霊になるなら、日本人全員が檀家制度によって仏教と結びつけられ、仏式の葬儀を行なうとしても、それと無関係に神道式の慰霊の儀式を行なうことができる。戦死者を祀ることができる。明治政府を樹立した官軍は、平田神道を採用し、戦死者の英霊を招魂して、儀式を行なった。明治2年には東京の九段に招魂社が設けられ、のちに靖国神社となる。陸海軍が所管する、明治維新の志士や戦没者など国事殉難者の英霊を祀る施設だ。国のために命を犠牲にした一般の人びとが、カミとなって祀られる神社である。欧米のメディアは靖国神社を「戦争神社 war shrine」と報道するが、正しくない。実際には、革命記念碑や無名戦士の墓に類似した施設である。

平田神道と靖国神社は、国家のために献身する近代的な国民を創出する効果があった。そのためには、神道と仏教が分離する必要があった。こうして幕末から維新にかけて起こったのが、廃仏毀釈、神仏分離の運動である。政府の指導で、神社と寺ははっきり分けられ、あいまいであることは許されなかった。明治維新とともに、政府が主宰する国家神道が生まれた。文部省は、「神道は日本人の日常生活に溶け込んでいるから、宗教でない」という見解をとり、国家神道を日本人全員に強制した。

死んだ人間がカミになる、という考えから、新しい神社が明治以降にいくつもつくられた。明治天皇を祀る明治神宮。陸軍の乃木希典(まれすけ)を祀る乃木神社。海軍の東郷平八郎を祀る東郷神社。各地の地元出身の戦没者を祀る護国神社。天皇の写真を「ご真影」として学校に配り、拝礼したり、皇居の方向に向かって遥拝したりするやり方も、創造された。天皇を「現人神」とする、皇民教育である。

戦後、占領軍によって国家神道は禁止

第二次大戦が終了すると、占領軍の指令で、国家神道は禁止された。靖国神社は民間の宗教法人として存続した。英霊や、人間が死ぬとカミになるという考えも、戦後の日本人のあいだにそのまま残っている。

おそらく日本人自身が、自分たちがカミについてどのように考えているのか、意識できず、第三者に対して説明もできないに違いない。自分たちが何を考え、何を信じているか自覚する。日本人のいまだに果たされない課題である。

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