日本の宣敎史
1.ローマ․カトリックによる宣敎.
⑴ ハビエル來日から秀吉による禁令まで(1549―87年).
日本に初めてキリスト敎を傳えたのは,ローマ․*カトリック敎會のイエズス會士,フランシスコ․*ハビエル(ザビエル)であった.彼は1549年,マラッカで出會った日本人ヤジロウを伴い,日本宣敎の大きな幻を抱いて鹿兒島に上陸した.當時の日本は戰國時代の末期に當り,中世から近世へと胎動していた.彼は當初,京都で天皇や將軍に拜謁し,日本宣敎の許可を得ようとして,非常な勞苦の末に京都に到着した.しかし當時の京都は戰亂で荒れ果て,目的を果せず,九州へ引き揚げた.ハビエルの一行は,その後山口の大名大內義隆の好意を受け,山口で半年ほど布敎して,約5百名の改宗者を得た.さらにその後九州の豊後の大名大友義鎭の招きを受け,そこでも熱心に布敎した.1551年ハビエルは日本宣敎の土臺を据えた後,日本を去った.日本人に對する布敎の情熱は變らなかったが,全東洋に擴大されたゴア管區長としての重責を果すために退去せざるを得なかったのである.また,日本に決定的な影響を與えている中國への布敎を目指したこともその理由であった.ハビエルは日本での宣敎活動を通し,日本人の國民性を高く評價し,日本人への布敎は辯證的かつ融和的であるべきことを示した.
ハビエルが日本を去った後,10年ほどの間は傳道が停滯していたが,その後急速に進展し,九州や關西を中心に多くの回心者が起された.その急激な成長の理由として,大村純忠,高山右近ら有力な*キリシタン大名が續々と起され,傳道を保護,支援したことがまず擧げられる.さらには,天下統一を目指して權力を握りつつあった[+]織田信長とその後繼者である[+]豊臣秀吉が,キリスト敎を保護したことも大きな力となった.またイエズス會側としても,ハビエルの跡を繼いだトレス(トルレス),オルガンティーノといった指導者たちが,日本人の感情や習慣を最大限尊重しつつ傳道したことも,大きな要因であった.第3代日本布敎長カブラルの偏狹な日本人觀による混亂があったものの,巡察使ヴァリニャーノによる改革を經て,1580年代にローマ․カトリック敎會の日本宣敎は最盛期を迎えた.
しかし信長や秀吉がキリスト敎を保護獎勵したのは,極めて政治的なものであり,便宜的なものにすぎなかった.信長の場合は,佛敎勢力の制壓策として,ことさらにキリスト敎に肩入れした面があった.秀吉の場合は,どんな宗敎であれ,天下統一の野望に役立つ限りは最大限利用しようというものであり,キリスト敎も利用價値のある間は大いに獎勵された.1587年6月,九州を平定した秀吉は,突如として5箇條から成る伴天連追放令を發した.その中で,日本は古來より神國であることが言明されており,キリシタンが邪宗をもたらしたことの非が,嚴しく批難されている.その後德川時代(1603―1867年)に本格化する,キリスト敎迫害の先驅が,秀吉の伴天連追放令であった.
⑵ 秀吉時代から潛伏時代まで(1587―1858年).
秀吉が發した伴天連追放令により,外國人宣敎師の國外退去,キリシタン大名の代表的存在であった高山右近の領地沒收と追放,京坂,長崎敎會堂の破壞等が行われた.しかしイエズス會側が極力活動を自肅し,秀吉の統御に服する態度に出たため,被害は思いのほか輕いものにとどまった.1591年に再來日した巡察使ヴァリニャーノは,インド總督の使節として秀吉と會い,彼の外交手腕により,キリスト敎の傳道は事實上黙認された.1597年の長崎26聖人殉敎等の迫害はあったものの,全體として敎會はさらに前進を遂げていった.ちなみに,信長の治世の末期の1580年頃に約35萬人と言われたキリシタン人口は,關ケ原の戰いのあった1600年頃には約60萬人を數えたとされる.
秀吉の死後,關ケ原の戰いを經て日本の權力を握った[+]德川家康は,當初キリシタン黙認政策をとった.彼は通商上の理由から,從來獨占的な地位を占めていたポルトガル系のイエズス會よりも,スペイン系のフランシスコ會に好意を寄せた.しかし基本的に家康は,キリスト敎を自己の日本支配と相いれないものと考え,德川幕府の支配が確立していく中で,キリシタン禁制の方向を明確にしていった.その政策が決定的になったのが,1614年に家康によって出された伴天連禁令である.これは秀吉によって出された禁令より,はるかに嚴しく實施された.これ以後キリシタンたちにとっては,いわば潛伏の時代が始まった.宣敎師たちは,潛伏して布敎活動や信徒の指導をした.捕えられれば,拷問,*殉敎の道が待っていた.こうした中で,西日本地方に多かったキリシタンたちは,迫害を避けて取締りの比較的緩やかな東北地方に逃れ,その地で布敎活動を續けた.また佐渡ケ島の金山に鑛夫として移ったり,北海道の松前地方に渡った者もおり,迫害はかえってキリスト敎を全國へ擴散させるものとなった.こうしたキリシタンたちの堅固な信仰に手を燒いた德川幕府は,キリシタンを全日本から斷つために,さらに徹底したキリシタン禁制策を次のように打ち出した.(1)宗門改,(2)寺請制度,
(3)繪踏,(4)五人組の連座制,(5)キリシタン類族改,(6)宗門改役の設置,(7)訴人獎勵のための褒賞制,(8)鎖國體制の確立.
これらの實施により,日本の各地で大規模な迫害が行われ,殉敎,棄敎,改宗が相次ぎ,さすがのキリシタン勢力も急速に衰えていった.なお,こうした禁制策が長期にわたってなされた結果,絶えず周りの目を氣にし,大勢につく日本人の國民性が形造られたとされる.潛伏下のキリシタンたちにとって,いかにして他に知られずに自らの信仰を守るかということがすべてであり,傳道などはまず不可能であった.そうした中で彼らは九州地方を中心として,あらゆる勞苦を忍んで生活し,親から子へと信仰をひそかに傳えていった.そして幕末のカトリックの再布敎の日を迎えたことは,日本のキリスト敎宣敎史上極めて注目すべきことである.
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