イエスの宣教の開始
その公生涯の意味
イエスは洗礼によって、ご自分と罪人とを「同化」された。
バプテスマのヨハネ
イエスが宣教を開始されたのは、年およそ30歳の頃でした。
しかしイエスの宣教を、前もって準備し、「道備え」をした人物がいました。「バプテスマのヨハネ」(洗礼者ヨハネ)です。
彼は、イエスが宣教を開始される少し前から活動を始め、神の言葉を宣べ伝えていました。バプテスマのヨハネの風貌は、特徴的でした。
彼は、「らくだの毛ごろもを身にまとい、腰に皮の帯をしめ、いなごと野蜜とを食物として」(マコ1:6) いたのです。
この姿はユダヤの人々に、過去の偉大な預言者「エリヤ」(B.C.9世紀)を思わせるものでした。エリヤも「毛ごろもを着て、腰に皮の帯をしめて」(Ⅱ列1:8)いたのです。
またバプテスマのヨハネは、エリヤのように歯に衣を着せず語り、人々に罪からの悔い改めを迫りました。そのため彼は、人々から「エリヤの再来」だと思われました。
実際、旧約聖書には、終末の日が近づいた時代にエリヤが再来する、との予言が記されていました。
「主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は、父の心を子に向けさせ、子の心を父に向けさせる。それは、わたし(神)が来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ」(マラ4:5-6)。
つまり、預言者エリヤが神の大いなる審判の日の前に再来して、人々の心を神に向けさせる、との予言です。
「終末」を間近にした時代になると、まず預言者エリヤが再来し、続いてメシヤ(救い主=キリスト)が来られる、と聖書は予告していたのです。
イエスご自身、バプテスマのヨハネはエリヤの再来である、と弟子たちに語られました(マタ11:14)。
じつにヨハネは「エリヤの霊と力とをもって」(ルカ1:17) 、キリストに先立って現われ、人々の心を整えたのです。
ヨハネは人々に罪を指摘し、神の教えを語り、また悔い改めた人々に、バプテスマ(洗礼) を授けていました。
しかしヨハネは人々に教えを語ることによって、自分を教祖として信じるように説いたわけではありませんでした。
彼は新興宗教の教祖とはならず、キリスト来臨のために道備えをしたのです。彼はキリストを指し示してこう言いました。
「あなたがたの知らないかたが、あなたがたの中に立っておられる。それが、わたしのあとにおいでになる方であって、わたしはその人の靴のひもを解く値打ちもない」(ヨハ1:26・27) 。
イエスの受洗
紀元26年の秋頃、ヨハネのもとにイエスが現われ、洗礼を受けようとされました。しかしヨハネは驚いて言いました。
「わたしこそ、あなたからバプテスマ(洗礼)を受けるはずですのに、あなたがわたしのところにおいでになるのですか」。
ヨハネは、自分よりはるかに偉大なイエスに洗礼を授けるなど、恐れ多いことだと思ったのです。しかも、ヨハネが授けていた「洗礼」は「悔改めの洗礼」でした。
それは「罪を悔い改めたしるし」として、ヨハネが人々に授けていたものなのです。イエスは罪のないかたであるのに、なぜ洗礼を受けようとされるのか、とヨハネは不思議に思いました。
しかしイエスは、
「今は受けさせてもらいたい。このように、すべての正しいことを成就するのは、我々にふさわしいことである」(マタ3:15) 。
そう言って洗礼を受けられたのです。
じつはイエスが洗礼を受けられたことには、大切な意図がありました。イエスはこの洗礼により、罪人とご自分とを「同化」する、という意図をもっておられたのです。
イエスは、誕生されたとき、「受肉」によってご自分と人間とを「同化」されました。また生後8日目にイスラエルの習慣にしたがって「割礼」を受け、それによってご自分とイスラエルとを「同化」されました。
そしてこのとき「洗礼」によって、イエスはご自分と罪人とを「同化」されたのです。
それはこの「同化」によって、イエスがすべての人々の罪を担うためでした。
こうしてイエスは、受肉・割礼・洗礼という段階をふみながら、しだいにご自分を小さく、限定していかれたのです。
神と共におられる無限のおかたが、自己を限定して人間となり、イスラエル人となり、さらに限定して罪人とまで「同化」されました。イエスは段階的に「自己限定」されたのです。
さらにこののち約3年半後に、イエスは「死」という冷厳な極点にまで、自己を限定されます。「死」とは、極限の自己限定でしょう。
しかしイエスは、最後にはその死という極点のさなかで、復活により、死を「爆破」されるのです。
荒野の試練
さて、イエスは洗礼を受けられた直後に、そのまま「御霊」(神の霊)に導かれ、ユダヤの荒野に退かれました。それはわずかな草木もない、見るからに荒涼とした地です。
イエスはそこで、「40日40夜」断食をし、試みを受けられました。40日間とは、人間にとって可能な断食期間の、ほぼ限界の日数です。
悪魔(サタン=悪の勢力の主体)が幻の中に現われて、イエスを誘惑しました。しかしイエスは、旧約聖書の言葉をもって、誘惑を退けられました。
イエスが洗礼の直後に荒野の試練に入られたのには、理由がありました。荒野の試練を受けてから洗礼を受けるのでは、いけなかったのです。
じつはイエスは、かつてイスラエル民族が歩んだ路程を、こうして「踏み直された」のです。
イエスは洗礼の後、荒野の試練に入ることにより、
イスラエルの路程を踏み直された。
読者は、イスラエル民族の「出エジプト」の話を知っているでしょう。イスラエル民族が、指導者モーセに率いられてエジプトを出たとき、紅海の水の間を渡った、という話です。
人々は、神の力によって壁のように両側にそそり立った水の間を、進みました。聖書はこれについて、イスラエル民族はそのとき、海の水により、
「海の中で、モーセにつくバプテスマ(洗礼)を受けた」(Ⅰコリ10:1-2)
と述べています。紅海渡渉は、イスラエル民族にとって、いわば「洗礼」の経験だったのです。
イスラエル民族は、この「洗礼」の直後、荒野の「40年」にわたる試練に入りました。この試練期間の後、彼らは初めて「約束の地」カナンに入り、公の国家として歩み出したのです。
じつはイスラエル民族が歩んだこの路程を、イエスは「踏み直されました」。すなわちイスラエル民族が、
洗礼→40年間の荒野の試練→公の国家
という路程を歩んだように、イエスも、
洗礼→40日間の荒野の試練→公生涯
という路程を歩まれたのです。
イエスは、イスラエル民族の路程を「踏み直され」ました。それはこの「踏み直し」により、ご自分とイスラエルとを同化し、さらにそののち、イスラエルの失敗を、ご自身の生涯において取り戻すためだったのです。
イスラエル民族の歩みは、多くの罪に満ち、失敗続きでした。しかしイスラエルの路程を踏み直されたイエスは、ご自分の公生涯で神の御前に完全な義の生活を送ってみせ、イスラエルの失敗を取り戻されるのです。
心の貧しい人々への光
イエスが荒野で試練を受け、宣教への準備をされているときも、バプテスマのヨハネは、人々に説教を続けていました。
ヨハネの語調は、じつに激しいものでした。彼は人々の罪を指摘して、こう言いました。
「まむしの子らよ、迫ってきている神の怒りから逃れられると、誰がおまえたちに教えたのか。・・・悔改めにふさわしい実を結べ。・・・斧が、すでに木の根もとに置かれている。だから、良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれるのだ」(ルカ3:7-9)。
彼は人々の罪と、神のさばきを、容赦なく語りました。彼の説教は、聞く者に恐怖を引き起こしたでしょう。
しかしそれでも、ユダヤの人々は彼の説教をさけたり、聞く耳をふさいだりはしませんでした。多くの人々は熱心に、彼の言葉に耳を傾け、
「彼のもとに、ぞくぞくと出て行って罪を告白し」(マコ1:5)
悔い改めのバプテスマを受けたのです。
こうしてキリストの宣教に先立ち、ユダヤの人々に「罪」の認識が広がりました。
「自分は汚れた罪人である」と自覚することを、キリスト教では「認罪」と呼んでいますが、ヨハネの宣教により認罪の意識が、ユダヤ人のみならずローマ人の間にも、広まりを見せていました。
ローマ兵の中にも悔い改める者が出て、自分たちはどのように生きるべきかと、ヨハネに尋ねました。
「私たちは何をすればよいのでしょうか」
ヨハネは、
「人をおどかしたり、だまし取ったりしてはいけない。自分の給与で満足していなさい」
と答えました (ルカ3:14) 。
こうしてヨハネの働きにより、認罪の意識が、目ざましいかたちで人々の間に広まっていました。人々は罪を恥じ、悲しみ、胸をたたいて自分の罪を嘆きました。
人々はいわば「心を貧しく」したのです。ここでいう「貧しい心」とは、自分が罪人であることを認め、悲しみ、胸をたたくような心です。
これこそ、ヨハネがキリストの到来に先駆けてなした「道備え」でした。認罪の意識が人々に広まりつつあったとき、イエスは宣教を開始されました。
イエスは荒野の試練を終え、人々の前に現われて、声高に叫ばれました。
「こころの貧しい人たちは、さいわいである。天国は彼らのものである。悲しんでいる人たちは、さいわいである。彼らは慰められるであろう」(マタ5:3-4)
じつに天国は、罪を恥じ、悲しみ、心を貧しくしている人たちに与えられるでしょう。
「心の貧しい人たちは、さいわいである」。創元社 『聖書物語』より
彼らはさいわいです。胸をさす思いは、尽きない平安と、喜びに変えられるでしょう。
なぜなら、今や救い主が現われたのですから。宣教のバトンは、バプテスマのヨハネから、イエスに手渡されたのです。
宣教の開始
イエスはまず、ガリラヤ湖畔の町カペナウムで伝道されました (マタ4:13) 。
そこは神の都エルサレムから遠く離れた片田舎です。イエスはまず田舎から伝道を始め、最後に都エルサレムに行かれるのです。
イエスはしばらくの間カペナウム町に滞在し、宣教を開始されました。イエスの宣教は、北方の「ガリラヤ地方」からなされたのです。
これは旧約聖書の予言の成就である、と新約聖書は述べています。
「これは、預言者イザヤ(B.C.8 世紀) を通して言われた事が、成就するためであった。すなわち、『ゼブルンとナフタリの地、湖(ガリラヤ湖) に向かう道、ヨルダン(川) の向こう岸、異邦人のガリラヤ。
暗やみの中にすわっていた民は、偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った』」(マタ4:14-16)。
イエスは福音を宣べて、人々に言われました。
「時は満ちた。神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」(マコ1:15) 。
このイエスの言葉は、イエスの宣教の「要旨」ともいえるものです。
ガリラヤ湖
イエスはまず「時は満ちた。神の国は近づいた」と語られました。人類が創造されてからこのかた、何千年もの歳月を経た今、いよいよ神の国の到来の時が近づきました。
全面的に神の王国がやって来る時は今しばらく待たなければなりませんが、イエスが来られたことにより、神の国はその姿を部分的にせよ、すでに見せ始めているのです。
それゆえに、罪を「悔い改めて、福音を信じなさい」――この「福音」(良き知らせ) には、2つの意味があります。
それはまず「神の国の福音」(ルカ4:43) です。神はやがて最終的に、いわゆる「世の終わり」と呼ばれるときに、地上の悪を一掃し、すべての悪に終止符を打たれるでしょう。
そしてその後、ご自身の恵みと、義と、愛による支配を、全地に確立されます。この神による新しい支配が、「神の国」なのです。
世の多くの人々は、「世の終わり」というと、地球が破滅し、すべての人々が死に絶えてしまう時だと思っています。しかし聖書のいう「世の終わり」とは、このようなものではありません。
「世の終わり」は、すべての人々に無差別的に起きるものではなく、「選択的」です。そのとき滅びるのは、すべての人ではなく、滅ぶべき者のみなのです。
「世の終わり」は、すべてのものの破滅の時ではなく、現在の世が終結し「新しい世」が始まる時なのです。
それは何もかも無くなってしまう時ではなく、現在の世と、新しい世の境界にほかな
りません。
イエスは、やがて来たるべきこの「新しい世」――つまり真の幸福・繁栄・平和に満ちた「神の国」について、語られました。
「福音」のもう一つの意味は、「イエス・キリストの福音」(Ⅰコリ9:12) です。
「神の国」には、生まれながらの人、つまり罪人は入ることができません。そのためイエスは、神の国に人々がはいれるよう、「道」を開くために来られました。
神と人との間には、人間の「罪」という厚い障壁が存在しています。そのため人は神の恵みを充分受けられず、また神に近づけないでいます。
イエスはこの壁を撤廃し、人が信仰によって神に近づけるよう、「橋渡し」の役をされたのです。
イエスは、信じるすべての人が神の王国に入れるよう、「道」を開くために世に来られました。
イエスはその「道」を、十字架の死と、復活によって開かれました。それが「イエス・キリストの福音」なのです。
12弟子の選び
イエスは宣教を開始されてまもなく、のちのキリスト教会の基礎をつくる人々として、いわゆる「12弟子」を選ばれました。
彼らの名は、ペテロとアンデレ、(ゼベダイの子)ヤコブとヨハネ、ピリポ、バルトロマイ、トマス、マタイ、(アルパヨの子)ヤコブ、タダイ(イスカリオテでないほうのユダ)、熱心党のシモン、そしてイスカリオテのユダです。
イエスは12人の弟子をお選びになった。
聖書を読むと、○○の子○○とか、○○の○○などという人名がよく出てきます。これは、当時の人々は姓をもたず、名だけであったこと、またヤコブ、ユダ、シモン等の名はたくさんあったので、こうしないと区別できなかったからです。
そのため人名の前に親の名をつけて、「ゼベダイの子ヤコブ」と言ったり、あるいは出身地名をつけて「イスカリオテ(ケリオテ出身の意)のユダ」等と言ったわけです。
最初にイエスの弟子となったのは、「アンデレ」でした。アンデレは、はじめバプテスマのヨハネの弟子だったのですが、バプテスマのヨハネに聞いて、イエスについて行ったのです。
アンデレはその後、自分の兄弟であった「ペテロ」を、イエスのもとに連れてきました(ヨハ1:40-42)。イエスはペテロに目をとめ、弟子として召されました。
ペテロはのちに、キリスト教会の最も中心的な人物になりました。彼は新約聖書中の『ペテロの手紙』の著者です。
このように、まずバプテスマのヨハネがアンデレをイエスに導き、つぎにアンデレが、自分の兄弟ペテロをイエスに導いたのです。
つぎに、ゼベダイの子「ヤコブ」は、12弟子中、最初の殉教者となった人物です(使徒12:2) 。また「ヨハネ」は、このヤコブの兄弟です。
彼らは2人とも、激しい性格の持ち主で、イエスに「雷の子」(マコ3:17) というあだ名をつけられたほどでした。
ヨハネは、『ヨハネの福音書』『ヨハネの手紙』『ヨハネの黙示録』を著しました。彼は、12弟子中、最も長生きしました。
殉教によらずに死んだのは、12弟子の中ではおそらく彼一人だったのではないか、と言われます。
以上述べたペテロとアンデレ、ゼベダイの子ヤコブとヨハネは、4人とも、もと漁師でした。
さて「ピリポ」は、ガリラヤ湖畔の出身で、ペテロやアンデレと同郷でした。彼も漁師だったに違いありません。
12弟子となった者の多くは、このように社会的にはあまり教養のない、純朴な人たちでした。
「バルトロマイ」は、「ナタナエル」(ヨハ1:47)と同じ人物でしょう。伝承によると、彼はのちにインドに伝道し、アルメリヤで死にました。
「トマス」は、イエスと共に苦難を負おうとする情熱を持った人でした (ヨハ11:16)。また物事を実証的・理性的に理解しようとする性格(ヨハ20:25)を、持ちあわせていました。
「マタイ」は、『マタイの福音書』の著者で、もとは取税人(税務官) でした。当時、取税人は職権を乱用して私腹をこやす者が多く、人々に嫌われていました。
ですから自分がもと「取税人であった」と言えば、それは通常なら、非常に恥ずかしいことだったはずです。
ところが彼は、自著『マタイの福音書』の中で、自分を「取税人マタイ」(マタ10:3) と書き、自分が以前取税人であったことを、隠そうとしていません。自分がそのような状態から救われたことを、彼は明記したかったのでしょう。
「アルパヨの子ヤコブ」については、詳しいことはわかりません。しかしゼベダイの子ヤコブが「年長者ヤコブ」あるいは「大ヤコブ」と呼ばれたのに対し、彼は「年少者ヤコブ」または「小ヤコブ」と呼ばれました。
「タダイ」の本名は、ユダです。そのため彼は、「イスカリオテでないほうのユダ」とも呼ばれています。
「熱心党のシモン」は、もとはユダヤの政治結社「熱心党」の党員でした。熱心党は、ひじょうに熱狂的な愛国グループで、自由を勝ち取るためには暴力も用いました。彼はその党を抜け出て、イエスの弟子となったのです。
最後に「イスカリオテのユダ」は、ユダヤの最南端の町ケリオテ出身の人でした。他の11弟子が皆ガリラヤ地方出身であったのに対し、彼だけは、べつの地方の出身でした。このユダが、イエスを裏切ったのです。
12弟子の中に、裏切った者がいたことは悲しいことです。ユダはなぜ裏切ったのか――それはあとで見ることにしましょう。
http://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/026iesunogo.htm