<カトリックの伝来>
16~17世紀、日本にキリスト教を布教するために渡来した宣教師は、およそ300名でした。その多くは宗教改革による失地回復の使命感に燃えるカトリックのイエズス会の宣教師で、スペイン、ポルトガル(南蛮と呼ばれました)の貿易拡大を狙う国のあと押しもあり、東洋などへの海外宣教を目指していました。
日本での最初の布教は、1549年に鹿児島に上陸したイエズス会士のフランシスコ・ザビエルの活動に始まります。続いて1593年にフラン
シスコ会、1602年にはドミニコ会、アウグスティノ会が日本での
布教を開始しました。
キリスト教は当初、南蛮文化と結びついて全国に広がり、キリスト 教徒は「吉利支丹(キリシタン、ポルトガル語でキリスト教徒のこと。徳川 綱吉以降、吉の字を避けて「切支丹」の字が用いられるようになりました)」と よばれるようになりました。
織田信長はキリシタンを保護したため、1580年、京都に南蛮寺がつ くられたのをはじめ、全国各地に教会が建てられ、修道院、神学校が つくられました。 布教に従事した宣教師たちの報告によると、1549年から1630年まで のキリシタンは60~70万人と言われ、江戸時代以降だけで250前後の 教会が存在したとされます。
布教方法はまず、支配者を改宗させ、それによって配下の者を大量 に改宗させるというものでした。そのため大名や領主への接近が試 みられ、大友宗麟、大村純忠、有馬晴信などのキリシタン大名の誕生 とともに、布教は急速に進みました。
1582年、九州のキリシタン大名の一族の少年4人が「天正遣欧少年使 節」としてヨーロッパに派遣され、教皇グレゴリウス13世に拝謁しま した。この少年使節はヨーロッパを訪れた最初の日本人でした。
ザビエルに始まる日本での布教は、鎖国下の1644年に最後の司祭の 小西マンショが捕縛される迄、約100年続きました。
<キリシタンの禁制>
豊臣秀吉も当初、織田信長と同様に、キリスト教の布教には好意を 示していましたが、1587年、九州の平定を終えた直後に「伴天連追放 令によって宣教師を追放、国土の統一に加えて、宗教を含む思 想の統一を図りました。
九州にはキリシタン大名が多く、長崎には教会領まで存在すること が、秀吉の警戒心を強め、追放令の発布直後に長崎を直轄領としました。
さらに1596年「サン・フェーリぺ号事件」などから秀吉は次第にキリ シタン禁制へと傾いていきました。そして追放令を無視したフラン シスコ会に対する「二十六聖人」の処刑が行われ、秀吉によるキリシ タン弾圧は激しさを増していきました。
その後徳川家康は1612年4月に「禁教令」を発布し、キリスト教を禁 止しました。また同年9月に「伴天連門徒御制禁」、1614年に「排吉利支 丹文」を出して、全面的なキリシタン禁制を打ち出しました。 1637年には島原と天草のキリシタン農民を中心とする「島原の乱」が起こりました。
江戸幕府は1633~39年に鎖国を断行、キリシタンを 根絶するため、「寺請制度」、「五人組」、「宗門改め」、「踏絵」などで監視 ・摘発体制を強化し、流血の迫害を繰り返しました。このため九州の西北部の農漁民を中心とする「隠れキリシタン」を除いて、キリシタ ンは日本全土から姿を消し、それ以後約250年に及ぶキリシタン禁制 の時代が続きました。
http://www.ne.jp/asahi/koiwa/hakkei/kirisitokyou24.html