・・・古代(大和時代~平安時代)の神道・・・
http://www.ne.jp/asahi/koiwa/hakkei/sintou2.htm
古代神道の成立
(日本神話)
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5世紀末から6世紀にかけて、大和朝廷はしだいに支配地域を広げ、北海道と東北地方をのぞく日本列島の殆どを統一して古代国家をつくりました。 古代統一国家は645年の大化改新で支配体制を整え7世紀には中国にならった律令制国家(律は刑法、令は行政法のことでこれらにより国を治めること)に発展しました。
古代の日本社会には、大和朝廷が受け伝えてきた高天原の神話とともに出雲系、日向系の神話が伝えられ、有力な氏族も、それぞれ祖先神についての神話をつたえていました。 8世紀はじめに古代国家は高天原系の神話を軸に、これらの土着の神話を織り込んで、ひとつづきの神話に整えて公の神話としましたが、この神話は大和朝廷の全国支配を神々の時代にさかのぼって根拠づけたもので記紀神話(詳しくはこちら)といわれるものです。
記紀神話に基づきオオキミ(天皇)は天にある高天が原を主宰する女神アマテラスオオミカミの子孫とされ、その神勅(お告げ)を受けて、天孫ニニギノミコトがナカツクニに降り、神武天皇にはじまるその子孫が代々ナカツクニを治めるものとしました。」
そして原始神道は天神地祇(*1)を祀る古代神道に発展、天つ神は大和朝廷の神々で、土着の神々である国つ神より上位の神とされ、神の子孫とされる天皇は政治、軍事の支配者であるとともに、国の祭りを行う最高の祭司で祭司王とよばれ、祭りを行うことは政治を行うことと一体とされ、ともにマツリゴトといわれました。 ここに大和朝廷の全国支配の根拠づけが完成しました。 |
高千穂の峰 日本神話はニニゴノミコトが地上の国を治めるため八重にたなびく雲をおしわけて日向の高千穂の峰に降ったことを伝えています。 (写真、日本の神々と社・読売新聞社)
(*1)天神地祇(てんじんちぎ)=神祇 天つ神(天=高天が原にいる神)と国つ神(国土に土着し一地方を治めている神)をあわせて天神地祇または神祇といいます。 |
皇室神道の成立 |
古代国家は祭祀(*2)と政治を一体とする祭政一致を基本としていましたから、神々の祭りが重んじられこれが大宝令(701年)により制度として整えられます(神祇制度)。 神祇(神々)をつかさどる官庁は神祇官といい、長官を神祇伯といい、制度の上では全官庁の最高位におかれました。(実際上は神祇伯の地位は低く機構も小規模にとどまっていました) 神祇官は宮中天皇が行う新嘗祭をはじめとする祭祀をつかさどる共に、全国の有力な神社を官社(*3)として管轄し官社を朝廷に結びつけました。
神祇制度の制定により宮中の祭祀は国家の祭祀として制度化されましたがこれを皇室神道といいます。 当時すでに全国各地にあった多数の神社は神祇制度に組み込まれ皇室神道として展開していきます。 |
*2祭祀(さいし) 祭りのことで神祇制度では年に19の定例の祭りのほか臨時祭が定められ、6月と12月の晦日には全国土の罪けがれを祓う大祓(おおはらい)が行われました。
(*3)官社 官社には神祇官が直接幣帛を奉る官幣社と地方にあるため神祇官に代わって国司(地方官)が奉幣する国弊社がありました。
大嘗祭 天皇は毎年日本全土のイネの稔りを感謝する新嘗祭を行ってきましたが、7世紀末の天武天皇の時代から、新しい天皇が即位すると、一代一度の大がかりな新嘗祭をおこなうようになり、大嘗祭と呼ばれました。 現在でも宮中行事として行われていますが、大嘗祭に県知事が県費で参列したことについて、政教分離の原則に違反するかどうかが争われていましたが、平成14年7月11日の最高裁は社会的儀礼とのことから合憲との判断を下しています。 | |
伝来宗教との習合
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7~8世紀にかけて仏教、儒教、道教が大陸からあいついで伝来し、日本の神道はこれら伝来の宗教の影響を受けこれらと結びつきながら発展していきます。
仏教との習合
538年百済から伝えられた仏教は奈良時代に国家仏教として発展していきますが、在来の日本神道は仏教に対し当初こそ反発もありましたが、次第に仏教との調和に積極的になります。 最初は悩める神が仏によって救われるという思想から奈良時代には神が仏法を守護する存在として位置づけられ、平安時代には神と仏は一体のものであり、神は人々を救う為に仏が仮に姿を変えて現れたものと説明されました。(本地垂迹説) 東大寺の大仏建立に際して九州の宇佐八幡宮の神官たちはその完成を祈りましたが、その後、八幡神は仏法の守護神であると共に、仏の権現(かりの姿)であるとの考えから菩薩とよばれるようなったといわれます。 原始神道から古代神道へと伝えられた日本の神道は集団の祭りを基本とする宗教で、まとまった教義(教え)はなく、普遍的な真理とあらゆる人間の救済を説く仏教との習合により神道教義が展開されるようになります。 平安後期には天台宗の教えをとりいれた山王一実神道と、真言宗の教えをとりいれた両部神道が成立します(*4)。
道教との習合
道教ではさまざまな神を信仰し呪禁(じゅごん)とよばれるまじないが発達し、奈良時代には宮中に呪禁師がおかれ病気なおしにまじないや祈祷がおこなわれました。 道教の神仙説は他界の観念と結びついて民間にひろがり、トコヨ(常世)は神仙が住み歓楽に満ちた不老不死の国と信じられるようになりました。天女が地上におりてくる羽衣の伝説や、竜宮を訪れた浦島太郎の物語は、神仙説の影響で生まれたものとみられています。
皇室神道は道教・陰陽道系のまじないや祈祷(*5)などの儀礼を積極的にとりいれ伊勢神宮では陰陽の思想から内宮を陰、外宮を陽とする社殿の様式が定まりました。
儒教とのかかわり
儒
教 中国の孔子にはじまる仁(じん、人間らしい思いやり)と礼(らい、社会の伝統的な秩序やきまり)を基本とする政治、道徳の実践を説いた教えで孟子、筍子に受けつがれ 紀元前2世紀には漢の国教となり20世紀はじめに清が滅亡するまで国家の思想上の支柱となりました。
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日本への本格的な儒教の伝来は6世紀はじめに百済から五経博士(儒教の経典として「易経」「書経」「詩経」「春秋」「礼記」が特に重んぜられ、これらに通ずる人を五経博士として任命しました)が来日してからといわれますが、儒教は日本の古代国家の政治思想に大きな影響を与え律令では明経道(五経を明らかにするという意味)とよばれ明経博士という職位が置かれやがて後世の神儒習合神道へと発展します。 |
宇佐神宮(八幡宮)
応神天皇・比売神・神功天皇を祀っています。欣明天皇32年(563)創祀、神亀2年(725)現在地に社殿を建立。全国2万4千の八幡宮の総本社でここから京都に石清水八幡宮、鎌倉に鶴岡八幡宮が勧請され、武士階級の守護神とされました。
(*4) 山王一実神道(さんのういちじつしんとう)は延暦寺の守り神である日吉神社の信仰が天台宗の教えと結びついたもので、「山王」の文字が縦の三と横の一、横の三と縦の一から成っていることから、天台宗の三諦円融(空、仮、中の真理が究極において融けあっているという教え)、一念三千(瞬間の思いでも全宇宙とかかわっていること)などをあらわしているとしました。 またアマテラスオオミカミ、八幡大菩薩など日本の三十の神々が一ヶ月三十日をそれぞれ受けもち、順番に法華経を守護するという法華三十番説がつくられ、のちに法華神道に発展しました。
両部神道は真言密教で日本の神々を解釈したもので、クニトコタチノミコト・クニサツチノミコト・トヨクモヌノミコトの三神を仏の法・報・応の三身としてその一体となったものが大日如来であるとしました。伊勢神宮の内宮と外宮は胎蔵界と金剛界の両部でともに大日如来のあらわれであり一体であるとします。 両部神道はのちの神道説の展開に大きな影響をあたえ、中世には習合神道説の主流となって、御流、三輪などの多くの分流がでました。
(*5)平安時代のまじないと祈祷 平安中期には律令制の基盤がくずれ、土地の私有化も進み、政治の乱れなどから現世に対する不安感からかまじないや祈祷による迷信に惑わされる生活が多く見られるようになります。 この時代には密教僧や陰陽師の呪術祈祷が盛んになり、人々は陰陽道による沢山の禁忌(タブー)を守り陰陽師の呪力に頼りました。貴族たちは陰陽道の神の天一神(中神)のいる悪い方向を避けて、前夜別に宿をとる方違え(かたたがえ)をし、役人は日が悪いことを理由に欠勤したといわれます。
孔子像(湯島聖堂蔵)
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御霊信仰と神社 |
地方政治が乱れ平安京でも政争が激しくなった平安中期には、地震、風水害、ひでりなどの自然災害が続発し、疫病も流行してそのたびに多くの死者が出ました。これらの災厄は強い霊の祟りとして怖れられ、御霊信仰(詳細はこちら)が盛んになりました。 災厄を抑えるために御霊は神として神社に祀られ宮中をはじめ大きな神社では御霊会(ごりょうえ、魂を鎮める行事)が行われ皇室神道と結びつきました。
御霊信仰ではインドの神々とともに陰陽道が説く鬼や特別な個人の霊なども信仰の対象になりました。 個人の御霊を神として祀った代表的な例は、菅原道真があります。道真は左大臣藤原時平のために無実の罪で九州の太宰府に流され、そのまま没しました。道真の怨霊は、藤原一門に祟り急死するものがあいつぎました。 さらに都では落雷による被害が発生したので貴族も民衆も怖れおののき947年平安京北野の地に道真の霊を祀り鎮めました。これが北野天満宮のはじまりです。 中世には天神の御霊神としての性格はうすれ、道真が学芸の道に励んだことから文字や詩歌、学問の神となり、全国各地に道真を祀る天満宮、天神社などがつくられました。 |
菅原道真の霊が雷神となって清涼殿を襲う 「北野天神縁起絵巻(京都市・北の天満宮蔵)」より
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