キリストの誕生を祝った人たち

ルカ伝2章21-39節

 

 今日は、キリストの誕生にまつわる記事をご一緒に見てみたいと思います。12/4に『羊飼いたちのクリスマス』というテーマで、ルカ2章の前半が取り上げられましたので、本日はその後の出来事を見てみたいと思います。この記事は、イエスが誕生されて40日目のことでした。モーセの律法に従って、〈(イエス)を主にささげるために、エルサレムへ連れて行った〉ときのことです。

 この日、エルサレムの神殿で、〈シメオン〉と〈アンナ〉という大変に印象的な二人の老人に出会うのです。彼らは、生後40日目のイエスを見て、すぐに〈メシア〉であることに気づきます。イエスの誕生と関わりがあった人たちを時間の流れに従って挙げてみると、三つのグループに分けられます。すなわち、誕生直後に〈羊飼いたち〉、40日目に〈シメオン〉と〈アンナ〉、最後は二年後の「東方の博士たち」です。どのグループの人たちも信仰的に何かを教えてくれる人たちですが、今日は、第二のグループの中でも、特に〈シメオン〉に焦点を当ててみたいと思います。

(1)シメオンの主な特徴

聖霊とシメオン

そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。… 聖霊が彼の上にとどまっておられた。  ルカ2:25

 〈シメオン〉(神は聞かれたという意味)という名は、聖書によく出てきます。一番馴染みのあるのは、〈ペテロ〉の本名でもあったということです。〈ペテロ〉の場合、〈シモン〉という名になっていますが、これはヘブライ名の〈シメオン〉のギリシャ語訛りとして使用されたものでした。ユダヤ人の間では、〈ペテロ〉は〈シメオン〉と呼ばれていたのです。新約聖書はギリシャ語で書かれていますので、〈シモン〉という名で登場する方が圧倒的に多いのです。この〈シメオン〉に最も特徴的なことは、25節の〈聖霊が彼の上にとどまっておられた〉というところだと思います。これは、継続的な状態(未完了)を表していて、彼の人生の一貫した特徴が「聖霊の支配の下に」あったことを意味しています。

ルカが〈シメオン〉の特徴を描写するときに、〈聖霊が彼の上にとどまっておられた〉としたことに、まず注目する必要があると思います。彼が長老であったかとか、どういう家柄であったかや、パリサイ派やサドカイ派やエッセネ派の中でどの教派に属していたか、誰の弟子であったかが書かれていないのです。そのような事柄のどれかが当てはまったかも知れませんが、それが書かれていないということは、ルカにとってそれが重要なことではなかったということなのです。現代風に言えば、家柄や学歴や所属で人を特徴付けるのは、ルカの本意ではなかっただろうと思います。ルカにとって重要なことは、「聖霊の支配の下にいる」かどうか、そして、日々そのような生活を送り続けた結果、それが人生の特徴とまで言われるものになっているかどうかなのです。聖霊を通して、このような個人的な神との交わりが、その人の信仰生活の根本にあるかどうか、これが本質的に重要なことなのです。

(2)シメオンの三つの特徴

第一の特徴

そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい…人で、…     ルカ2:25

 では、「聖霊の支配下に」いることが、彼の人生に具体的にどのような形で現れたかを見てみましょう。25節の中央にある文をご覧ください。ここには、三つの特徴があげられています。第一の特徴は、人格の成熟であると思います。〈正しい〉というところですね。〈正しい〉(ディカイオス)とは、「正義になかった」という意味ですが、より社会的な領域で「公正な」(誰の目から見ても正しいこと、公平なこと)と訳されることばです。聖書では、「モーセの律法」を基準にして測られる言葉なのです。

「モーセの律法」では、個人的にも、家庭的にも、社会的にも、政治的にも、「正しさ」が追求されていて、それに適うことが〈正しい〉とされるのです。ただし、人はみな罪人ですから、絶対的な意味で〈正しい〉と言えるのは、神以外にはありません。しかし、聖霊の導きと力を受けて、相対的な意味で〈正しい〉人になることができるのです。人間の〈正しさ〉は不完全で壊れやすいのですが、それが信仰の営みとして求められる時に、神は喜んで受け入れてくださるのです。  

その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。  ヨハネ16:8

 では、そのような「正しさ」はどのようにして実現するのでしょうか?聖書は人間を罪人と見なしますので、これは、罪人が如何にして〈正しい人〉になれるのかというテーマに置き換えることができます。ところが、人は自分が罪人であるとは、普通認識できないものなのです。一般的に自己正当化の傾向があって、罪の意識がほとんどないケースも少なくないと思います。その人のカルチャーになっているため、深刻な罪でさえ、罪として認識できなくなっているのです。『ゴッドファーザー』という映画では、イタリア系移民コルレオーネ一族の家族の絆が描かれていましたが、闇の世界にどっぷり浸かっていながら、生真面目にも古い立派な教会堂で身内の子どもの幼児洗礼式を行ってお祝いをするシーンには、複雑な感情を否めませんでした。犯罪が完全に彼らのカルチャーになっていて、罪の意識に欠けているという印象を持ったのです。これは極端な例ではありますが、罪がその人のカルチャーになって意識できないほどに、心深くに根を下ろしていることの典型であると思います。意識に掛からないその罪によって、人は滅んで行くものだと思います。

ヨハネ168をご覧ください。ここには、人の罪を啓示する方としての聖霊が語られているのです。キルケゴールも、人は啓示されなければ、自分の罪を知ることはできないというようなことを書いていますが、本当に真理だと思います。聖霊との関わりの中で自分の罪がどんなものであるかが示されるのです。そして、自分の罪を深く認識した結果として、罪の告白が続きます。これが、罪人である人間が〈正しい〉人となる唯一の道なのです。ヨハネ168では、〈罪〉の次に〈義〉(ディカイオシュネー;デカイオス(正しい)の抽象名詞)が来ていることに注目しましょう。自分の〈罪〉をちゃんと認識できてこそ、「正しい人」になる道が開けますよ、ということなのです。〈シメオン〉は、このようなプロセスを経て、〈正しい人〉と呼ばれるようになったのです。

第二の特徴

この人は、 … 敬虔な人で           ルカ2:25

二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。     マタイ10:29

 次に、第二の特徴を見てみましょう。それは、〈敬虔な〉(ユーラベース)というところです。この言葉は、「うまく受け止めている」というのが元々の意味です。神との関連では、「神さまをうまく受け止めている」という意味で、「神を畏れる」とか「敬虔な」と訳されるのです。また、事態や現実を「うまく受け止める」という意味で、「慎重な」とか「注意深い」と訳されます。神に対しても物事に対しても使用されますが、神とその摂理としての世界に対する信仰的な態度のことなのです。自分に起こって来るすべての事態に対して、それを「神の摂理」として受け止める姿勢のことなのです。

 マタイ1029をご覧ください。〈アサリオン〉とは、ローマの銅貨で労働者一日分の賃金である「一デナリ」の十六分の一であったとされています。〈雀〉一羽は一デナリの三十二分の一の価格で、パレスチナでは最も安い鳥肉であったのでしょう。当時の人にとって価値のないとされた〈雀〉であっても、「神の摂理の下に」あるのだ、とイエスはここで教えたのです。実は、神の摂理が及ぶ範囲をどこまでと考えるべきかという議論があるのです。例えば、一羽の雀が落ちるような偶然や自然災害やサタンの仕業としか言いようがない出来事と「神の摂理」はどのような関わりがあるのか、それともないのかという議論です。聖書から読み取れる印象は、神の「直接的なみこころ」ではないと思える事象でさえ、最終的には神の摂理の下にコントロールされているということです。だからこそ、神への信頼には意味があるのです。神が偶然の出来事をコントロールできないとすれば、実際的には神に全幅の信頼を寄せることはできないからです。

第三の特徴

この人は … イスラエルの慰められることを待ち望んでいた。    ルカ2:25

真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。  ヨハネ16:13

 次に、聖霊の支配下にいる〈シメオン〉の三番目の特徴を見てみましょう。ルカ225をご覧ください。それは、〈イスラエルの慰められることを待ち望んでいた〉ということです。これは、分かりやすく言えば、「メシアの到来」を待ち望んでいたということなのです。すなわち、聖霊は、〈シメオン〉の心にキリストへの飢え渇きを与えたということです。

 ヨハネ1613をご覧ください。ここでは、〈聖霊〉は〈真理の御霊〉と呼ばれています。この聖霊が〈すべての真理に導き入れます〉とあります。この場合の〈真理〉とは、〈キリスト〉のこと、さらには、その中心の位置を占めるものとして〈キリスト〉と関連付けられた世界を指しているのです。以上のことから、聖霊はキリストがどんな方なのかを、渇望せずを得ないほどに個人の心に啓示されるということなのです。人がキリストと出会い、キリストを知ることができるのは、こうした聖霊の働きを通してのみなのです。今日は、世界中の人々がクリスマスを祝っていると思います。しかし、聖霊によって教えられた人だけが、神が人となって来てくださった出来事を本当に祝うことができるのです。

(3)シメオンの霊的な感性

御霊に感じて

彼が御霊に感じて宮に入ると、幼子イエスを連れた両親が、その子のために律法の慣習を守るために、入って来た。  ルカ 2:27

 最後に、これまで見てきたように、聖霊との関係を有効なものとしたのが、〈シメオン〉の「霊的な感性」であったということを説明したいと思います。27節をご覧ください。新改訳は〈御霊に感じて〉と訳していますが、原文では英語の"in"に相当するもので、「聖霊によって」とか「聖霊の影響の下で」という意味なのです。しかし、新改訳の訳は、聖霊の導きが〈シメオン〉の感性に働き掛けているという点を強調するものになっています。これは、翻訳の正確さに欠けるかも知れませんが、聖霊が人間の主観に働くという側面を強調していて面白いと思います。聖霊が心に働き掛け、それを感じ取る霊的感性が〈シメオン〉にはあったので、「宮に今行きなさい」という具体的な指示が彼に届いたのです。このように聖霊の指示を直接感じ取る「霊的な感性」(センス)が、新改訳では示唆されていると思います。  

 「今神殿に行くのが神のみこころである」と判断させたのは、霊的な感性であったことの重要性をもっと認識すべきだと思います。感性は、どの分野でも決定的に重要なのですが、聖霊との関係でもそうなのです。なぜなら、それによって「生の現場」での「神のみこころ」を具体的に判別することができるからです。「霊的な感性」は、神との生きた関係にある人にしかありません。羊が羊飼いの声を聞き分けるように、霊的な感性は「神の御声」を聞き分けるのです。しかし、この感性がない人は、聞き分けることができないし、また、感度が鈍い人は、難聴の人が普通の会話を聞き取ることが難しいように、普段の神の御声を聞くことが難しいのです。この感性が欠けていたり、弱くなっていると、神のみこころを具体的に実践することは不可能になってきます。こうして、生きた信仰が失われるのです。

人生の目的を把握する感性

また、主のキリストを見るまでは、決して死なないと、聖霊のお告げを受けていた。
              ルカ2:26

 次に、26節をご覧ください。ここには、「霊的な感性」が自分の人生に関する大枠のビジョンを〈シメオン〉に見せていたことが書かれていると思います。この文には、〈死なない〉は「死を見ない」といういうように、〈キリストを見る〉の「見る」と同じ動詞が使われているのです。すなわち、「キリストを見る」と「死を見る」が対になっているのです。「死を見る」は人生の結末・完成のことですが、そのことと〈キリストを見る〉ことが直接的に結びついているのです。  

 すなわち、〈シメオン〉にとって、〈キリストを見る〉ことは人生の目的であって、それが必ず実現することを〈お告げ〉によって保証されたのです。〈お告げを受ける〉(クゥレーマティゾー)とは、「陳情などに応答する」という意味で、元来は商取引で使われた言葉でした。すなわち、聖霊との交わりの中で、キリストを求める〈シメオン〉の求めに応じて、〈お告げ〉があったということなのです。こうして、キリストとの関わりの中で具体的な人生設計が示され、かつそれを実現するという保証を与えてくださるのは、聖霊であるということなのです。

私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です。 ピリピ1:21

 次に、「霊的な感性」の極みについて見てみましょう。ピリピ1:21をご覧ください。〈生きることはキリスト、死ぬことも益〉とは信仰生活の極意です。これは、人生の目的としての〈キリスト〉が簡潔に表現されたものですが、そう言わせたのは、パウロの「霊的な感性」なのです。しかも、そのような人生の結末としての〈死〉が〈益〉であることまで、視野にあります。

 この〈パウロ〉が「目からウロコが取れる」経験をしたことがあります(ダマスコでの経験)。そして、人生の目的であり祝福でもある〈キリスト〉が、彼の視野に入ってきたのです。あなたの霊的な感性を覆う〈うろこ〉が取れて、〈シメオン〉や〈パウロ〉と同じ光景を見たくありませんか?そのときに、あなたの目には、あなたを愛してやまないキリスト、あなたに生きる意味と目的を与えるキリストがはっきりと写ることでしょう。

 

http://www1.bbiq.jp/hakozaki-cec/PreachFile/2011y/111225.htm