イエス・キリストは本当に自分が神であると
言ったのでしょうか?

イエス・キリストは神なのか?この興味あるトピックについて一緒に考えて見ましょう。

-二千年前キリストに従っていった人たちは、イエス・キリストが人となって来られた神であると信じていました。パウロという人はこの様に言っています。「キリストは目に見えない神の現れである。」またヨハネという人は、イエス・キリストが世界を創造されたと証言しています。そのにも、ペテロという人は、「イエス・キリストを信じるものは、イエスの名によって罪のゆるしを得ることができる。」と語っています。

ではイエス・キリストはご自身のことについてどのように言われたのでしょうか。本当にイエス・キリストは自分を神と等しいとされたのでしょうか。実はそうなんです。ではキリストが語られたことのいくつかをここにご紹介しましょう。

イエス・キリストは果たして神なのか? 聖書の語ること

そこで、ユダヤ人たちはイエスに向かって言った。「あなたはまだ五十歳になっていないのにアブラハムを見たのですか。」 イエスは彼らに言われた。 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」  すると彼らは石を取ってイエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、宮から出て行かれた。(ヨハネ8:57-59)

「わたしと父とは一つです。」 ユダヤ人たちはイエスを石打にしようとして、また石を取り上げた。イエスは彼らに答えられた。「わたしは、父から出た良いわざを、あなたがたに示しました。そのうちのどの良いわざのために、わたしを石打にしようとするのですか。」 ユダヤ人たちはイエスに答えた。「良いわざのためにあなたを石打にするのではありません。冒涜のためです。あなたは人間でありながら、自分を神とするからです。」(10:30-33)

また、イエスは大声で言われた。「わたしを信じる者は、わたしではなく、わたしを遣わした方を信じるのです。 また、わたしを見るものは、わたしを遣わした方を見るのです。わたしは光として世に来ました。わたしを信じるものが、誰も闇の中にとどまることのないためです。」 (ヨハネ12:44-46)

イエスは、彼らの足を洗い終わり、上着を着けて、再び席について、彼らに言われた。「私があなたがたに何をしたか、わかりますか。 あなた方はわたしを先生とも主とも呼んでいます。あなた方がそう言うのは良い。わたしはそのようなのもだからです。 それで、主であり師であるこの私が、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗いあうべきです。」(ヨハネ13:12-14)

イエスは彼に言われた。 「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通して出なければ、誰ひとり父のみもとに来ることはありません。あなたがたは、もしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです。しかし、今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです。」 ピリポはイエスに言った。「主よ。わたしたちに父を見せてください。そうすれば満足します。」 イエスは彼に言われた。「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見たものは、父を見たのです。どうしてあなたは、「私たちに父を見せてください。」 というのですか。」(ヨハネ14:6-9)

イエス・キリストは果たして神なのか? キリストご自身の証言

イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。モーセはあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。しかし、わたしの父は、あなたがたに天からのまことのパンをお与えになります。というのは、神のパンは、天から下ってきて、世に命を与えるものだからです。」 そこで彼らはイエスに言った。「主よ。いつもそのパンを私たちにお与え下さい。」 イエスは言われた。「私がいのちのパンです。私に来るものは決して飢えることがなく、私を信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」 (ヨハネ6:32-35)

イエスはまた彼らに語って言われた。わたしは、世の光です。私に従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」そこでパリサイ人はイエスに言った。「あなたは自分のことを自分で証言しています。だから、あなたの証言は真実ではありません。」 イエスは答えて、彼らに言われた。「もしこの私が自分のことを証言するなら、その証言は真実です。私は、私がどこから来たか、また、どこへ行くかを知っているからです。しかしあなたがたは、私がどこから来たのか、またどこへ行くのか知りません。」 (ヨハネ8:12-14)

そこで、イエスはまた言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。私は羊の門です。私の前に来たものはみな、盗人で強盗です。羊は彼らの言うことを聞かなかったのです。 わたしは門です。誰でも、わたしを通って入るなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊かいのちを得、またそれを豊かに持つためです。わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」(ヨハネ10:7-11)

マルタはイエスに向かって言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。今でも私は知っております。あなたが神にお求めになることは何でも、神はあなたにお与えになります。」 イエスは彼女に言われた。「あなたの兄弟はよみがえります。」 マルタはイエスに言った。「私は、終わりの日のよみがえりのときに、彼がよみがえることを知っております。」イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。 このことを信じますか。」彼女はイエスに言った。「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。」(ヨハネ11:21-27)

イエス・キリストは果たして神なのか? その使命に関するキリスト御自身の言葉

そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力を振るいます。あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。 人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、あがないの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。 」(マタイ20:25-28)

それは、イエスは弟子たちを教えて、「人の子は人々の手に引き渡され、彼らはこれを殺す。しかし、殺されて、三日の後に、人の子はよみがえる。」と話しておられたからである。しかし、弟子たちは、このみことばが理解できなかった。また、イエスに尋ねるのを恐れていた。」(マルコ9:31-32)

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠の命を持つためである。 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。」(ヨハネ3:16-18)

「父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行なうためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行なうためです。わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださった全ての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。 」(ヨハネ6:37-40)


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