キリストの降誕は誰のためだったのか?

イザヤ書9章1-7節

 

イザヤ書のメシア預言の一つである9:1-7をご一緒に見てみたいと思います。ここは、メシア預言の中でもメシアの誕生を告げる箇所の一つです。イザヤがこの預言を語った紀元前8世紀は、アッシリヤ帝国のパレスチナ遠征という激動の時代でした。この遠征に備えて、アラム(シリヤ)やイスラエル王国は反アッシリヤのための同盟を結び、ユダ王国は反アッシリヤか親アッシリヤかで、国を二分したようです。このような外交努力にもかかわらず、アッシリヤはシリヤとパレスチナの北部を蹂躙し、多くの者を捕囚として連行しました。イスラエル王国は、首都サマリヤとその周辺のわずかな地域を残すだけとなりました。そして、ユダ王国にもアッシリヤは圧力を掛けて来たのです。アッシリヤという超大国の圧倒的なパワーの前に、ユダ王国は風前のともし火のような状態でした。

 メシアの誕生の預言は、このような状況でなされたのです。それが、彼らにどんな希望を与えたのでしょうか?今日は、このことを中心に考えてみたいのです。

(1)預言者との見解の相違

世論が望んだこと

この民は、ゆるやかに流れる
シロアハの水をないがしろにして、
レツィンとレマルヤの子を
喜んでいる。   イザヤ8:6

 当時の状況をもっと理解するために、まずイザヤ8:6をご覧ください。ここでは、ユダ王国の世論が、アラムとイスラエルとの反アッシリヤ同盟を望んでいたことが指摘されています。<シロアハの泉>とは、エルサレムの城壁の東側にあった『ギホンの泉』から、水路によって城内に引き込まれた池のことでした。これが、エルサレムの唯一の水源だったのです。イザヤは、これを神の恵みの象徴としました。神の恵みと<シロアハの泉>には、共通するものが二つあります。一つは、唯一の源であったことです。泉が「唯一の水源」であったように、神はエルサレムの住民にとって「恵みの唯一の源」だったということです。第二の共通点は、<ゆるやかに流れる>ことです。それは、ユーフラテス川のように住民を呑み尽くすような大水ではなく、目立たないが、緩やかに必要量の水を供給したのです。人々は、その水を汲むために、池にまで下っていかなければなりませんでした。同様に、神の恵みは、隠されているが、絶えず生活の必要を満たすものです。

 しかし、ユダ王国の国民はそうは考えませんでした。彼らは、アッシリヤの侵攻に対して、シリヤの王レツィンとイスラエルの王ぺカに望みを置こうとしたのです。これらの国々は、ユダ王国にとっては、地理的には防波堤の役割を果たすはずだったからです。これが、世論でした。

 このような世論に対して、彼らの国王アハズは、親アッシリヤ政策を採りました。国王派と世論は、真っ二つに分かれたのですが、アハズ王は、親アッシリヤ外交を断行しました。このように、国王派と世論は意見は正反対でしたが、外交政策を偶像化するという点では、共通していたのです。

偶像化されたものの崩壊

それゆえ、見よ、主は、あの強く水かさの多いユーフラテス川の水、アッシリヤの王と、そのすべての栄光を、彼らの上にあふれさせる。 

 イザヤ8:7

 ユダ王国の世論が、神への信頼を捨てて、防波堤として頼りにしようとした、アラムとイスラエル王国がまったく無力になることが告げられます。アッシリヤのパレスチナ遠征は、<ユーフラテス川の水>になぞらえられています。ユーフラテス川は、毎年5月頃に氾濫を起こしました。それは、水源があるアナトリア高原からの雪解け水が多量の土砂を含んだ水となって起こりました。水に含まれた土砂は川底を浅くし、しかも、いつどこで川が決壊するのか予測することが難しかったのです。時には、歴史的な大洪水となって。広範囲に被害をもたらすこともありました。人々は、このコントロールが難しい川の水を利用して、灌漑農業を行いました。このような環境の中で、世界最初の文明が生まれたのです。

 イザヤは、このような洪水のように、アッシリヤは何もかも呑み尽くしながら、シリヤを越え、イスラエル王国を越え、ユダ国にも、迫ってくるだろうと、予告しているわけです。このようにして、神と民族との断絶を根本的な原因として、苦難の大洪水が民族を襲うという、大変に不気味な預言が、イザヤ書7-8章の内容なのです。

 (2)暗闇に輝く希望の光

敗戦の現実という陰の中で

やみの中を歩んでいた民は、
大きな光を見た。死の陰の地に
住んでいた者たちの上に光が照った。
 イザヤ9:2

 <やみの中を歩んでいた民>とは、神との断絶の結果として、アッシリヤに蹂躙され、国を失った民という意味なのです。敗戦を経験し、国を失った彼らには、絶望する以外に何かできることがあったでしょうか?敗戦の苦難を表現した歌としては、杜甫(712-770年)の『春望』が有名です。杜甫は、中国の唐時代の詩人ですが、46歳の時に、安禄山の乱に巻き込まれて、都の長安が陥落し、幽閉された経験を歌ったのです。「国破れて山河あり 城春にして草木深し…」で始まる有名な詩ですね。この律詩(8句からなる)は、ただただ敗戦の辛い心情を歌っているのです。『春望』とは、今は春の季節けれど、自分の人生にも春が来ないかな、という漠然とした希望を意味すると思います。

 実は、旧約聖書の中にも、敗戦の悲しみを歌った詩があります。『哀歌』ですね。これは、エルサレム陥落の悲しみを表現したものです。両者ともに、これほどのものが世の中にあるのかと思うほどに、光が見えない絶望的な状況が書かれています。しかし、『哀歌』と『春望』には、同じ敗戦の悲しみを題材とし、人生の春を望むことも同じなのですが、『哀歌』には、希望の根拠が明らかにされているのです。哀歌3:22-24をご覧ください。

私たちが滅びうせなかったのは、
の恵みによる。
主のあわれみは尽きないからだ。
それは朝ごとに新しい。…それゆえ、
私は主を待ち望む。  哀歌3:22-24

 『哀歌』では、自らの過酷な運命にも、神の<恵み>と<あわれみ>を見ているのです。<それゆえ、私は主を待ち望む>という告白が出てきます。むしろ、過酷な試練の中にあるからこそ、神の恵みがいっそう際立って見えたのです。「試練は神がみわざをなさる舞台なのだ」と言った、ハドソン・テーラーのように。このように、敗戦とバビロン捕囚という過酷な運命の中にも、神の摂理を見た人たちは、バビロンで生き延びることができました。彼らは、造形美と経済的な富に豊かな都市バビロンで、いろいろな意味で、また多様な仕方で生きる場所を見つけることができたのです。政治の世界に活路を見出したダニエルと三人の友達や、ペルシャ時代には王妃になったエステルなどのサクセス・ストーリーには、このような背景があったのです。ある者は交易を行い、ある者は律法の研究を行い、歴史に残る多くの成果を上げることができたのです。

 ヴィクトール・フランクル(1905-1997)というユダヤ系の神経科医で精神分析家がいました。彼は、『ロゴ・セラピー』という心理療法で有名な人ですが、人生の意味を発見することが、心の癒しに繋がると主張した人でした。この理論を確立したあとで、ナチスによって強制収容所に入れられたのです。何と、彼はその体験にも意味があると考えました。ドイツ人の所長や看守たち、同じ収容者たち、そして、彼が収容所で経験したことのすべてを、研究資料と見なしたのです。そして、彼は、それらの体験を資料として、自分の理論を体系化し、世界中で発表する未来の自分を思い描き、それに備えたのです。収容所での経験で、彼の心に印象的であったのは、絶望した人ほど、先に命が尽きていくことでした。どんなに屈強な男でも、世間で名声を勝ち得た人であっても、絶望に取りつかれた人は先に死んでいくのです。意味の喪失が人を死に追いやることを、彼は確認したのです。高齢者医療の専門家の方が、「老衰というのは、厳密には病気ではない。それは、これ以上生きることの意味を拒絶した結果ではないか」と言っておられました。意味の喪失が老衰を招くということでした。

絶望の中で見た<大きな光>

すべての人を照らす
そのまことの光が世に
来ようとしていた。 ヨハネ1:9

 イザヤは、9:2で、「やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。」と述べています。それは、人々を絶望から救い出す希望の<光>でした。しかし、それが本当に、希望をもたらすのでしょうか?希望が裏切られることを、度々経験した人も多いことでしょう。これに関連して、ヨハネ1:9をご覧ください。イザヤ書の<大きな光>は、ヨハネ伝では、<まことの光>とされています。<まことの>(アレーシィノス)は、「まがいものや不完全なものでなく、ホンモノである」(織田昭小辞典)という意味なのです。ということは、「光」には偽物があるということですね。

 『なんでも鑑定団』というテレビ番組では、有名な作品ほど贋物が出てくるのです。中には、持ち主が1000万円と思っているお宝が、3000円と鑑定されたものまであります。普通の人には、真贋を区別を付けるのは本当に難しいのです。しかし、鑑定士は作品の中に作者の個性や材料の時代性を読み取って、ホンモノかどうかを判断するのです。イザヤやヨハネが語った<光>が、ホンモノであるかどうかは、どうして分かるのでしょうか?それも、歴史性と個性なのです。

 もし、この<光>がホンモノだとすれば、その<光>は、どのようにして、またどのような希望を与えてくれるのでしょうか?この問題に関連して、イザヤ書9章に戻りましょう。

(3)真正な光

光とは<ひとりの男の子>

ひとりの男の子が、私たちに与えられる。
主権はその肩にあり、その名は
「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、
平和の君」と呼ばれる。
   イザヤ9:6

 イザヤ9:6章をご覧ください。ここには、<大きな光>がひとりの「人格」として現れています。しかも、<ひとりのみどりご>、<ひとりの男の子>として。すなわち、ある男子の誕生が述べられていることが分かります。<みどりご>(嬰児)とは、生まれたばかりの赤ん坊を意味しています。この子供の描写は、特別なものとなっています。驚くべきことに、<力ある神>と呼ばれているのです。イザヤ7:14には、この子が<インマヌエル>と名づけられるとあります。「神が我らとともにいます」という意味です。誕生されるこの人物において、神が人として歴史に現れるという、<不思議>(ペレ)が起こるという意味なのです。

 キリストが、<すべての人を照らす光>であり、しかも、<まことの光>であることは、分かりましたが、それは、どういうことなのでしょうか?世界や人間や人生の意味は、キリストによって明らかにされることを意味するのです。あうなわち、キリストにおいて、人生の謎、世界の謎が解けるということなのです。意味を喪失してさ迷う人間にとって、キリストは意味を回復する唯一の光なのだということななのです。人生の意味を喪失することが、どれほど人間の心にダメージを与えるのかを、フランクルは指摘しました。しかし、究極において、その意味を創造し、維持するのは、キリストなのだということなのです。キリストという光によって、世界は意味を持ち、人生には希望が見えてくるのです。

イエスは彼に言われた。「わたしが
…真理 …なのです。」   ヨハネ 14:6

このキリストのうちに、知恵と知識との
宝がすべて隠されているのです。
          コロサイ2:3

 ここで、ヨハネ14:6をご覧ください。ここには、疑り深い弟子のトマスに言われたキリストの言葉があります。<わたしが道であり、真理であり、いのちなのです>とありますが、<真理>(アレーセィア)いう言葉に注目しましょう。一般に、<真理>というと、教えや哲学や科学や宗教などの概念が事実と正確に一致するかで、真理であるかどうかが問われます。しかし、イザヤもヨハネも、特定の人格が<光>であるとか、<真理>であると言っていることに注目する必要があるのです。

 実は、厳密には、何が真理であるのか、人間には語ることはできません。科学の分野でさえ、絶対真理の可能性とされているのは、熱力学第二の法則だけだそうです。キルケゴールは、人間を「非真理」だと考えました。人間にとっての真理とは主観的なもので、その意味では、人の数ほどに真理があるということになります。その人にとっては真理かも知れないが、普遍的な真理というものを知ることはできないということになります。「主体性が真理である」とも言われます。主体的に何かを知り決断した、それがその人にとっての真理なのだというのです。実存主義の立場ですね。この点に関しては、キリスト教の側からも批判がありますが、人間を絶対真理を把握できないもの、真理は理論化や概念化できないものと考えたことは、重大な意味があったのです。

 <わたしが…真理…なのです>というキリストの言葉は、極めて重大な発言なのです。真理とは概念ではなく、キリストという人格、存在なのだ、ということですね。これは、キリストが世界の第一原理であって、すべてはキリストによって解釈できるのだ、ということになります。こういう意味で、キリストは、<大きな光>であり、<まことの光>なのです。

キリストの双肩にあるもの

主権はその肩にあり、その名は
「…力ある神…」と呼ばれる。
          
   イザヤ9:6
御子は、万物よりも先に存在し、
万物は御子にあって成り立っています。
              コロサイ1:17

 イザヤ9:6をご覧ください。ここには、<主権はその肩にあり>と、主権を担う方としてのメシアが描かれています。<主権>(ミスラー)という言葉は、旧約では6節と7節の二回だけ出てきます。ここでは、歴史を支配するというような意味があります。さらに、コロサイ1:17をご覧ください。<万物は御子にあって成り立っています>と書かれていますが、万物とは、人間の世界や歴史だけでなく、自然現象も含まれるのです。キリストは真理をデザインし、真理を創造し、真理を維持する<主権>を持つ者とされているのです。

 最後に、「神の愛」(アガペー)について考えてみましょう。神のアガペーもまた、概念化できません。ことばで表現できないのです。新約聖書では、ことばで表現できないこの愛をどのように表現しているでしょうか?Ⅰヨハネ4:10をご覧ください。

私たちが神を愛したのではなく、
神が私たちを愛し、
私たちの罪のために、
なだめの供え物としての御子を
遣わされました。
ここに愛があるのです。
      Ⅰヨハネ John 4:10

 ここには、神の愛は、<なだめの供え物としての御子を遣わされた>という履歴に見られるとされています。父なる神が御子キリストを遣わした履歴において、また、神が人としてこられたキリストにおいて、愛があるのです。こうして、神の愛は、歴史に実現したものとして描かれています。神が本当に人を愛しておられるかどうかの議論ではなく、神は人を愛されたという履歴があるということなのです。

 このことを、私たちに当てはめて考えてみましょう。キリストは、あなたをも愛しておられますが、それは、ことばでは表現することができません。すなわち、人間の理性では理論化できないのです。人間の目には、「神が愛しておられるなら、なぜこんなことが自分に起こるのか」という疑念が湧いてくることさえあります。神の愛は、人間の理性を超えたものである場合があるかあです。しかし、あなたの罪を背負うために、十字架に架かってくださったという履歴において、あなたへの愛を知ることができるのです。その履歴に記された愛が、常にあなたへ向けられているのです。神が私を愛しておられるという事実がそこにはあります。その愛は、どんな状況においても、あなたに希望を与えるものなのです。

http://www1.bbiq.jp/hakozaki-cec/PreachFile/2009y/091220.htm