慰め主キリストに出会うために

Ⅱコリント1章1-7節

 

今日は、コリント人への第二の手紙1章の最初の部分を、ご一緒に見てみましょう。この手紙の差出人であるパウロは、コリントから見ると、エーゲ海の対岸にあるエペソにいました。エペソには、第三次伝道旅行において、パウロは少なくとも2年3ヶ月の間、伝道していた町です。このエペソに滞在中に、コリントの騒動の報告が始めてパウロの耳に入ったのです。

 その報告は、パウロの心を大変痛めるものでした。それで、第一の手紙を書いて、弟子のテモテに託して送りました。この手紙を読めば、コリント教会の状況が分かります。ところが、それで問題は解決しなかったのです。パウロは、自らコリントに乗り込んで解決しようとしたのですが、彼らはパウロの指導を拒絶しました。それで、今度は、「涙の手紙」と呼ばれる大変に厳しい内容の手紙を弟子のテトスに託して送りました。(残念ながら、この手紙は残っていません。)この手紙を出した後で、彼らの反応が気になって仕方がなかったパウロは、テトスの帰りをエペソで待つことができず、エペソからトロアスに北上し、さらに、船でエーゲ海を西に渡って、マケドニアまでに進んだのです。コリントは、マケドニアの直ぐ南にありました。極度の心配のあまりマケドニアまで出てきたパウロは、テトスに会って大きな慰めを受けたのです。第二の手紙は、この直後に書かれたものです。

(1)苦難に満ちた世界

苦難としての生

私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。  詩篇90:10

 パウロの悩みを簡単に見ましたが、「悩み」とは人間だけが経験するものと言われることがあります。動物は、苦しみや恐怖を覚えるが、悩むことはない、というわけです。なぜなら、動物の感覚は現在しか捕らえられないからです。人間は未来を予測するので、苦難に直面すると、期待と不安の間を行ったり来たりします。期待と不安の間にあって葛藤することが、「悩み」であると言えるかも知れません。ですから、人間が未来を予測することがなければ、悩みもなくなるわけですが、未来を考えない人間など、果たして人間と言えるでしょうか?ですから、人間ならば、悩みとは決して無縁でいることはできないのです。

 詩篇90:10をご覧ください。この詩の表題は、<神の人モーセの祈り>となっています。伝統的には、荒野での四十年を経験したモーセによるものとされています。ここでは、<労苦とわざわい>に彩られた「限りあるいのち」が表現されています。モーセは、大変に厳しい時代を生き抜いた人でしたが、<労苦とわざいわい>の連続であった、と語っているのです。このような苦しみの生が、人間に悩みをもたらすのです。

苦難と罪との関係

あなたが、…食べたので、土地(アダマー)は、
あなたのゆえにのろわれてしまった。
あなたは、一生、苦しんで
食を得なければならない。 創世記3:17

 では、このような「悩み」の元となる様々な「苦難」を、神はどうして許されたのでしょうか?苦しみに満ちた現実の世界を見て、人は勇気と希望を失います。神がおられるのなら、どうしてこのような苦しみがあるのだ、と疑問を持つ場合もあります。

 聖書において、始めて「苦難」について述べているところは、創世記3章で、人間が神に背いた直後です。しかし、これ以前に「苦難」があったかどうかについては、意見が分かれます。このことについては、後で詳しく触れたいと思います。3:17をご覧ください。これは、人への呪いのことばの一部ですが、「アダム」(人)への呪いは、「アダマー」(土地;生きる環境)への呪いと一体化していることが分かります。その呪いの原因は、神への背きでした。このように、苦難の起源に、聖書は「人の罪」を見るのです。<のろわれてしまった>(アカル)は、完了態が使用されています。神の呪いのことばがあった時点で、すでに、その呪いが執行されていたということですね。

あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土(アダマー)に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。             創世記3:19

 さらに、創世記3:19をご覧ください。<あなたは土(アダマー)に帰る>は、人間が自然に帰る、自然に呑み込まれるという宿命をの指しています。自然の管理という使命を負いながら、自然を相手にして悪戦苦闘した挙句に、最後には自然に呑み込まれてしまうという、人間の皮肉な運命を指していのです。人間が自然を越えた存在(神のかたち)として造られながら、自然に支配され、最後には呑み込まれしまう(土地のちりに帰する)という矛盾が、堕罪と同時に人間に起こったのです。

 創世記3章において、人間の罪と苦難が関連付けられていることは明らかです。エバにおいては、産みの苦しみと夫婦関係の葛藤が、アダムにおいては、呪われた自然に翻弄された挙句に、死という自然に呑み込まれるという、呪われた運命がもたらされたのです。

(2)罪と自然

創造が神の過失?

それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方による  ローマ8:20

 自然への罪の影響については、パウロも述べています。ローマ8:20をご覧ください。<虚無>(マタイオテース)は、「過失」とか「愚行」という意味の言葉(マテー)に由来します。ということは、大胆にも、パウロは、<被造物>(クティシス)を「過失」や「愚行」の産物でもあるかのように、考えていたのでしょうか?すなわち、神は自然を創造されるときに、「過失」か「愚行」をしでかされた結果、宇宙は神の失敗作になったのでしょうか?それで、自然は、究極的には死という苦難をもたらす、呪われたものとなったのでしょうか?この件については、もっと詳しく見てみる必要があります。

 自然が<虚無>に服したのは、いつなのでしょうか?これには、二つの説があります。一つは、アダムが堕落した時と考えます。アダムが堕落する前までは、自然には弱肉強食という「悪のシステム」は存在せず、すべての動物たちは植物を餌としていたと考えます。また、自然災害もなく、宇宙には完全な平和と調和があったとされます。これは、宇宙の年齢を6000-1万年前と信じる「若い地球の創造論」の立場から主張されることが多いようです。

 もう一つの説は、創造の始めから、神は自然を<虚無>に創造されたと考えます。これは、人が罪を犯すことを予知された神が、人間には苦難となるような宇宙が必要だと考えられたとするのです。罪に汚染された人間の歴史を抑制するための配剤が「苦難をもたらす宇宙」ということですね。私自身は、こちらの説の方が支持される多くの根拠があると考えています。

私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめ(いて)…いることを知っています。        ローマ8:22

 ある科学者は、「もし絶対真理があるとするなら、熱力学の第二の法則が最も有力である。」と言いました。これは、エントロピーの法則との呼ばれて、エネルギーのやり取りがない閉鎖的なシステム(系)においては、「秩序の高い状態から低い状態になる」というものです。生物に当てはめると、生命という高い秩序は必ず死というより秩序の低い状態を迎えることになります。すなわち、死が最終的なゴールとなるような宇宙に、私たちは住んでいるのです。食物連鎖のシステムの中の弱肉強食を、悪のシステムと見なす考えもあります。しかし、それは悪い遺伝子を持つ弱い個体を排除して、種全体を守るシステムでもあります(負の自然選択)。悪い遺伝子は、このような宇宙では、ある確率で必ず現れるものなのです。悪い遺伝子が排除されない場合、種は絶滅する危険にさらされるのです。

 見方を変えると、種全体が食物連鎖の中で天敵にさらされるという苦難によって、悪い遺伝子が排除され、種が生き残っていると言えるのです。このように、自然は、生き残るために、相当な苦しみを生命に与えているのです。そして、生き残れたとしても、子孫を残して自らは死んでいきます。これが自然が自らを維持する紛れもない姿なのです。

 ローマ8:22をご覧ください。ここには、このような宇宙の法則の下に、<(人間も含めた)被造物全体が … ともにうめ(いている)>と書かれています。ですから、人間の苦難は、宇宙に刻み込まれた神の聖定に根本的な源があるのです。

苦難には意味がある

私たちは、被造物全体が今に至るまで、…ともに産みの苦しみをしていることを知っています。   ローマ8:22

 ここで、もう一度ローマ8:22をご覧ください。ここでは、<被造物全体>の<うめき>が<産みの苦しみ>(シュンオーディノー)とされているのです。<産みの苦しみ>は大きなものですが、それは、何か素晴らしいものを産み出すための<苦しみ>なのです。ここに、このように苦しみに満ちた世界を神が創造された理由があるのです。それは、罪人の歴史を抑制する宇宙であり、<産みの苦しみ>によってより良き結果をもたらす宇宙なのです。そして、その歴史の究極に「神の国」を産み出す宇宙でもあるのです。そのような意味で、<神はそれを見て良しとされた>(創世記1:25)のでした。

 ですから、いろいろな苦難について、否定的な面ばかりを見るのではなくて、積極的な面を見るべきだと思います。そのような聖書の見方を持つことが、苦難を舐めながらも、悩みから守られるのです。苦難を肯定している典型的な箇所を、一つだけ見てみましょう。

苦しみに会う前には、私はあやまちを犯しました。しかし今は、あなたのことばを守ります。  詩篇119:67

 詩篇119:67をご覧ください。<あやまちを犯(す)>(シャガグ)は、「道を逸れる」という意味です。<苦しみに会う>(アナー)ことによって、道を間違っていることに気付き、<(神の)ことばを守(る)>べきことを悟った、ということですね。

 このように苦難は、この世界において、罪を抑制し、「神の国」を産み出すという機能を、十分に果たしていることが分かります。

(3)慰め主キリスト

主は悩む者の味方

おまえたちは、悩む者のはかりごとをはずかしめようとするだろう。しかし、主が彼の避け所である。 詩篇14:6

 これまで、この世界になぜ苦難があるのか、その答えを聖書の中に探してきました。さらには、その苦難の意義についても触れました。しかし、理屈では理解していても、実際には苦難がやってきた時には、心の中で悩みが引き起こされます。

 詩篇14:6をご覧ください。ここには、<おまえたち>と呼ばれる敵が現れています。この敵は、人間関係に極度の緊張をもたらすものの代表格です。この関係が自分の処理能力を超える時に、人は<悩む者>となるのです。<悩む者>(アニー)は、「貧しい」「弱い」「卑しめられた」という意味があります。しかし、神が<悩む者>を覆う<避け所>となってくださるのです。

神は、あらゆる苦難に際して
わたしたちを慰めてくださる
   新共同訳 Ⅱコリント1:4

 Ⅱコリント1章に戻りましょう。1:4をご覧ください。ここに、大胆なパウロの宣言があります。新改訳では、<神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。>と訳されています。ここでは、<あらゆる苦難>に対応する「神の慰め」という表現になっています。<慰め(る)>(パラカレオー)とは、「傍らに呼び寄せる」という意味です。親が泣き叫ぶ子を自分の膝の上に乗せて、あやすようなイメージが、この表現にはあります。この動詞を受身の分詞形すると、“パラクレートス”(傍らに呼ばれた者)となります。慰めのために「傍らに呼ばれたお方」としての聖霊を指す言葉ですね。

 <あらゆる苦難>に対処する「神の慰め」というパウロの信仰を、皆さんはどう受け止められるでしょうか?人は、誕生から死に至るまで、様々な<苦難>に遭います。私が信仰を持つきっかけとなったのは、受験戦争に破れそうになっていたことです。当時は、これほどの苦難はあるまいと思っていました。しかし、それは、<苦難>の始まりに過ぎませんでした。もし、私に信仰がなかったならば、明らかに私は違った心を持った人間になっていたでしょう。あるいは、自殺を選んでいたかも知れません。

摂理において慰めを与える主

マケドニヤに着いたとき、私たちの身には少しの安らぎもなく、さまざまの苦しみに会って、外には戦い、うちには恐れがありました。
           Ⅱコリント7:5

 どのようにして、パウロは慰められたのでしょうか?最後に、そのことを見てみましょう。現実的には何の解決もないが、信仰の世界で慰められたのでしょうか?すなわち、現実から逃避する形で慰めを受けたのでしょうか?この定式は、一般的に信仰者の慰めとして理解されているものですが、パウロの場合、そうではありません。

 彼の悩みの種は、コリント教会がトラブルを抱えたまま、悔い改めないことでした。彼は心配のあまり、エペソで待つことができずに、マケドニアまで旅をしましたが、Ⅱコリント7:5で告白されているように、この時点で、パウロの苦悩は限界にありました。

 ここで、逃避的な慰めについて考えてみましょう。これは、私のような逃避的なタイプの人間には、常に大きな誘惑なのです。パウロの場合は、逃避的な慰めとは、伝道戦線から離脱して、楽隠居することであったこでしょう。また、執筆活動という道もあったかも知れません。また、コリントの教会のややこしい人たちとはおさらばして、心が許せる人たちだけで、こじんまりとした奉仕をする道もあったかも知れません。しかし、あらゆる現実逃避の道は、楽な道でありそうですが、真実な慰めを受ける道ではないのです。真実な慰めは、主が臨在されるところ、主のみこころに従う中にしかないからです。

しかし、気落ちした者を慰めてくださる神は、テトスが来たことによって、私たちを慰めてくださいました。
             Ⅱコリント7:6

 続けて、7:6を見てみましょう。マケドニアまで来たパウロは、コリントからの帰路にあったテトスに会いました。テトスは、コリントの教会の状況が好転したと報告したのです。これが、この時のパウロにとっての「真実な慰め」となったのでした。

<気落ちした者を慰めてくださる神>という表現は、印象的ですね。<気落ちした者>(タペイノス)は、「精神的に圧迫されている」ことを意味しています。パウロの追い込まれた精神状態がよく表されています。重要なことは。この「慰め」が、人間関係や偶然の産物ではなく、神の摂理の手を通してもたらされたと、パウロが認識していたことです。この認識が、パウロに時宜に適った慰めを受けるという希望の源であったのです。

それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。
             
Ⅱコリント1:5

 最後に、1:5をご覧ください。ここには、<キリストの苦難があふれている>ことが確かなように、<慰めもまたキリストによってあふれている>と書かれています。すなわち、「苦難」とそれに対応する「慰め」が、ともに十分にあるということが、「真実な慰め」を受ける道なのです。キリストは、<すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。>(マタイ11:28)と、「苦難」の中にあるあなたをも「慰め」に招いておられるのです。

 ある方は、「どうすればキリストの慰めを受けることができるのですか?」と質問されます。それは、心を込めて「神様、助けてください」と祈ることによって、始まります。是非、試していただきたいのです。

 

http://www1.bbiq.jp/hakozaki-cec/PreachFile/2010y/100718.htm