変わらぬお方, 神

出エジプト記 3章1節―15節

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はじめに

 

旧約聖書のお話しをいたします。考えてみますと、わたしたちは、新約聖書には、なじみがありますが、旧約聖書は、なかなか接する機会が少ないと思います。そこで、旧約聖書のお話しが始まりました。

 

 それで、本日は、旧約聖書の出エジプト記からお話しをいたします。出エジプト記と言いますと、紀元前15世紀か13世紀のことですが、エジプトで奴隷になっていたイスラエルの民が、指導者のモーセに率いられ、エジプトを脱出し、約束の地カナンを目指し、荒れ野を40年間、旅をしていく出来事が記されています。そして、具体的には、エジプトを脱出のため神による10の奇跡が行われたり、2つに分けられた紅海を民が渡ったり、神に対する民の呟きがあったり、天からマナといわれるパンを与えられたり、シナイ山のふもとで、十戒を与えられて神の民となる儀式が行われたりなどが描かれております。

 

 そして、また、奴隷の地エジプトから解放されて自由にされ、約束の地カナンを目指し、旅をしていくことは、イエス・キリストのあがないによって、人が罪の奴隷から解放されて自由にされ、約束の天国を目指し、人生の旅をしていくことの雛形という霊的意味を持っていることでも、よく知られています。

 そういう意味でも、出エジプト記は大事な書物ですが、本日は、出エジプト記3章から、モーセが出エジプトの指導者に召される場面を取り上げ、お話しいたします。

 

3点のお話しをいたします。第1点は、モーセは、アラビア半島の西海岸のミデアンの地で羊を飼っているとき、召されたという点です。第2点は、モーセの召しには、神のよい配慮があったという点です。第3点は、神は、変わることのないお方なので安心して信頼できるという点です。ひとつひとつの言葉、また、一節、一節、すべてにわたってお話しでませんので、大きな流れでお話しをします。

 

1.モーセは、ミデアンの地で羊を飼っているとき、召されました

 

早速、第1点に入ります。第1点は、モーセは、アラビア半島の西海岸のミデアンの地で羊を飼っているとき、召されたという点です。モーセは、当時、エジプトで奴隷になっていたイスラエル民族の子供として生まれましたが、神の摂理により、エジプト王女の養子となり、エジプト王宮で暮らし、エジプト人のあらゆる学問を教え込まれました。しかし、モーセは、40歳の時に、自分の同胞を助けようとして、イスラエル民族を苦しめているエジプト人を殺してしまいました。

 

 そこでモーセは、数百キロ離れた、アラビア半島のミデアンの地に行きました。そこで、イスラエル民族と同じ真の神に仕える祭司エテロという人の娘ティポラと結婚し、しゅうとエテロ所有の羊を飼う仕事をしていました。

 

 それから、いつしか、40年の歳月が経ち、モーセは、80歳になり、おじいさんになりました。しかし、モーセは、身体強健で、とても丈夫な人であり、まだ、アラビア半島の各地を遊牧して羊を飼う仕事をしていました。そして、80歳になったある時、自分が住んでいたミデアンの地から百キロ以上も離れていた、シナイ半島のシナイの荒れ野のあるシナイ山まで、羊の遊牧のためやってきました。そこで、モーセは、とても不思議なものを見たのです。柴の木が赤い炎で燃えているのにもかかわらず、柴の木は一向に焼き尽くされないという不思議な現象を見たのです。1節から3節がそうです。

 

 1節に「神の山ホレブ」とありますが、「神の山」という表現は、モーセが、そのホレブ山で神に出会ったので「神の山」と、後に呼ばれるようになるわけですが、ここでは、もう「神の山」という表現を先取りして使いました。ホレブ山というのは、シナイ山の別の言い方です。ホレブ山、すなわち、シナイ山は、エジプトとアラビヤの間の小さな半島であるシナイ半島の先端にある山で、海抜2,500メートルほどの山です。砂漠地帯にある山としては高い山です。

 

 それで、モーセは、そのホレブ山、すなわち、シナイ山に、羊に草を食べさせるためやってきました。では、その時ホレブ山でどんなことがあったのでしょうか。すると、非常に不思議のことが起こったのです。柴の木が赤い炎で燃えているにもかかわらず、柴の木は一向に焼き尽くされないという不思議な現象が、モーセのそばで起こったのです。3節で「・・・この不思議な光景を見届けよう。どうしてあの柴は燃え尽きないのだろう」と言われている通りです。

 

わたしは、この個所を見ますとき、ある先生が言ったことを思い出します。どんなことかと言いますと、ある年代以上の方は、柴というのがわかるけれども、ある年代から下の方は、柴というものを知らず、柴を芝生のことを誤解するので、柴は芝生ではなく、雑木であることをよくお話しした方がよいといったことを思い出します。本当にその通りです。柴は、芝生ではなく、山や野に生えている小さな木々、雑木のことです。

 

 それで、モーセが近づいたときに、神は燃える柴の中から語りかけたのです。2節を見ますと「・・・柴の中に主の御使いが現れた」と言われていて、「主の御使い」とありますが、これは単なる天使ではありませんで、神ご自身です。そのことは、3節に「神は、柴の間から声をかけられ・・・」と記されているとうりです。そして。後で、お話ししますが、「主の天使」というのは、マリアから生まれる前の神の御子イエス・キリストのことです。こうして、モーセは、ホレブ山、すなわち、シナイ山で、燃える芝の中から語りかけた神ご自身により、出エジプトの指導者に、召されることになるのです。それは、新約聖書・使徒言行録7章のステパノという人の説教によって、モーセが80歳のときであったことがわかります。

 

 それで、わたしは、ひとつの疑問を覚えました。何故、モーセは、80歳の時に召されたのか。80歳といえば、かなりのおじいさんではないか。そんなおじいさんになってからでなく、もっと若いときに、モーセを召せばよかったのにと思いました。その理由は、特には記されておりませんけれども、おそらく、モーセが若くては、まだ未熟でできなかったからでしょう。80歳になって、信仰が円熟したからこそ、出エジプトという前代未聞の歴史的大事業に携わることが、初めてできたのでしょう。出エジプトという歴史的大事業をするためには、モーセの信仰が円熟する80歳のおじいさんになるまで待つことが必要だったのでしょう。その人の信仰が円熟したときに、初めて、神のためにできることというものがあるのでしょう。そして、このことは、今日のわたしたちにもあてはまる部分があるのでしょう。神のためになすべきことは、今日も、いくらでも、山ほどあるでしょう。しかし、わたしたちの信仰が円熟したときに、初めて、できることも沢山あるでしょう。わたしたち、一人ひとりが、さらに、信仰の円熟を目指して歩みたいと思います。

 

2.モーセの召しには、神のよい配慮がありました

 

 第2点に入ります。第2点は、モーセの召しには、神のよい配慮があったという点です。確かに、神は燃える柴の中から、モーセを出エジプトの指導者として召すために語りかけるのですが、しかし、神はいきなり、開口一番、乱暴に、出エジプトの指導者になるように命令するのではなく、モーセがよく理解できるように、順を踏んで語りかけてくださいました。4節から6節がそうです。

 

 では、神の配慮はどのようになされたでしょう。いくつかあります。ひとつは、モーセの個人の名前を2回も親しく呼びかけることによって、モーセに語りかけている者が害を与える者ではないことを教えました。4節を見ますと、「モーセよ、モーセよ」とモーセ個人の名前を2回呼びましたが、これは、やさしく、親しい呼びかけを表します。そして、語りかけている者が、害を与えようとしているのではないことを悟らせる仕方です。

 

 呼び方には、その人の気持ちが現れます。新約聖書においても、イエス様が個人の名前を2回呼ぶことがありました。マルタとマリヤの物語において、イエス様は、「マルタよ、マルタよ」と2回呼んで、マルタを諭しましたが、その呼びかけは、やさしく、親しい呼びかけでした。また、十字架にかかる前の夜、イエス様は、自己過信をしたシモン・ペトロに、「シモン、シモン」と2回呼びかけ、警告を与えましたが、その呼びかけは、やさしく、親しいものでした。

 

 では、その時のモーセに対する神の配慮の2つ目は何であったかと言いますと、神は、ご自分の臨在するところは、聖く、厳かなことを教えるために、モーセに履物を脱ぐように命じたことです。5節で「足から履物を脱ぎなさい」と、神はモーセに命じましたが、これは、もちろん、神の臨在するところは聖く、厳かであることを教えるためでした。神の臨在するところは、聖く、厳かで厳粛であることを悟らせるために、ほこりや土のついた履物を脱ぐように、モーセに実物教育で教えたのです。

 

 神の臨在されるところは、聖く、厳かということは、今日でも変わりありません。特に、公同礼拝の場面は、神の臨在が最も強く意識される、聖く、厳かな場面です。それゆえ、礼拝でのお祈りにおいて「聖い礼拝に導かれ、感謝いたします」と言って、「聖い礼拝」という言葉も、自然に心から出てきます。キリスト教はいうものは、聖い宗教です。キリスト教には、「聖い」という言葉が、いろいろなものについています。「聖霊」がそうです。聖い霊です。「聖餐式」がそうです。キリストの体と血を記念する食事ですので、聖いのです。また、キリスト教を教える「聖書」もそうです。他のあらゆる書物と違って、神から与えられた聖い書物ですので、「聖書」といわれます。こうして、キリスト教は、聖い宗教ですが、キリスト教が聖いのは、キリスト教の出発点である神ご自身が聖いお方で、信じる者にも聖さを求めるからであります。そして、信じる者にも、惠により、聖さが与えられます。

 

 さて、では、その時、モーセに与えられた神の配慮の三つ目のものは何かといますと、神は、ご自分がモーセの先祖たちの神であることを名乗って、ご自分への一層の信頼を求めたことです。すなわち、今、モーセに、燃える柴の中から、天使の姿でモーセに語っておられる神は、モーセの父アムラムが信じ、モーセの先祖アブラハムが信頼し、イサクが信頼し、ヤコブが信頼した神であることを次々と語って、彼らが信頼したと同じようにモーセも信頼することを求めたのです。

 

6節を見ますと「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」とあります。そして、その意味は、燃える柴の中から語りかけているお方は、モーセの父のアムラムが信頼した神であり、モーセの先祖のアブラハムが信頼した神であり、イサクが信頼した神であり、ヤコブが信頼した神である」という意味ですが、ここで大切なのは、燃える柴の中から語りかけた神は、ご自分を神として4回もはっきりと強調して名乗ったということです。「わたしはあなたの父の神である、1回目。アブラハムの神、2回目。イサクの神、3回目。ヤコブの神、4回目という仕方です。

 

 そこで、モーセも、自分に語りかけておられるお方が、神であることを、この時初めて知り、恐れ、天使の姿で現れた神を見ることを恐れ、両手で自分の顔を、すなわち、目を覆ったのです。おそらく、地にひれ伏し、顔を覆ったのでしょう。こうして、モーセは、先祖たちを導き、祝福した神を実際に、一層信頼することが求められました。

 

 キリスト教信仰で大切なことは、神のいますことを知ることとその神を信頼することです。神の存在を知っていても、実際に、自分が神を信頼するということがなければ、キリスト教信仰は成り立たないのです。こんなお話しがあります。わたしは、ある時、後輩の牧師とお話しをしていました。その人は、クリスチャン・ホームで生まれ育った人でした。そこで、幼児洗礼を受けていたわけですが、後に、信仰告白しました。それで、わたしは、信仰告白のきっかけは何でしたかと尋ねました。すると、ある時の礼拝説教で、牧師が、キリスト教信仰は、神のいますことを知ることと、その神に自分が実際に信頼することで成り立つ、すなわち、キリスト教信仰は、知ることと信頼することの2つで成り立つということを聞いたときに、心に響いてきたというのです。自分はクリスチャン・ホームに生まれ育って、神のいますことは小さいときから知っていた、でも、自分が、実際に、神を信頼することはなかったということに気がついた。知ることだけでは、不十分ということが分かったので、これからは、実際に、神を信頼して生きていきたいと素直に思えた。そこで、信仰告白をしたというのです。わたしは、それを聞いてなるほどなあと思いました。わたしたち一人一人も、日々の生活の中で。実際に、神を信頼し、よい人生を歩みたいと思います。

 

3.神は、変わることのないお方なので、安心して信頼できます

 

第3点に入ります。第3点は、神は、変わることのないお方なので、安心して信頼できるという点です。今、見ましたように、神の側の配慮により、モーセと神との間に、これまで以上の交わりができましたので、神は、この交わりを土台とし、モーセに出エジプトの大事業を命じるのです。

 

 それで、わたしたちは、出エジプトの大事業というのは、具体的にどんなことかと思うのです。すると、7節から15節に記されております。読むと長くなりますので、わたしの言葉で言っておきましょう。神は、エジプトにおいて、イスラエルの民が、エジプト人の圧迫で苦しみ、痛みを覚えているのをすべてご存じです。そこで、神はイスラエルの民を愛し、出エジプトさせ、乳と蜜が流れるといわれる肥沃なカナンの地を与えてくださいます。カナンの地は、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人などの先住民族がいますが、しかし、神は、イスラエルの民に、カナンの地を祝福として必ず与えてくださいます。そのため、モーセが出エジプトの指導者とされます。モーセは、これから、エジプトに戻り、奴隷にされているイスラエルの民のところに行って、出エジプトについて話をします。また、出エジプトをエジプト王ファラオに願い出ますが、ファラオは許さず、あらゆる妨害をすることが予測されます。しかし、神がモーセとともにいて、出エジプトを可能にします。そして、出エジプトした後で、神とイスラエルの民は、「この山」、ホレブ山、別名、シナイ山で契約を結ぶ儀式をして正式に神の民として仕えるようになります。

 

 これが、神が、モーセに語った出エジプトのあらましです。そして、モーセは、この後、ミデアンの地を離れ、40年ぶりでエジプトに戻り、イスラエルの民と会い、彼らに、出エジプトを伝えることになりますが、その時には、イスラエル民は、モーセに語りかけた神は、名前を何という神であるかを尋ねることになります。確かに、モーセに語りかけた神は、イスラエル民族の先祖であるアブラハム、イサク、ヤコブが信頼した真の神ですが、しかし、その神の名前については、モーセは、まだ知りませんでした。

 考えてみれば、神には、皆名前がありました。例えば、当時のエジプトの民が信じた神々は、多神教でしたが、中心的な神は太陽神でラーという名前の神でした。また、カナンの先住民族たちの神は、バールという名前の神でした。また、バビロニヤ人の神は、マルドクという名前の神でした。そこで、もちろん、イスラエルの民は、モーセに尋ねるでしょう。「あなたは、出エジプトのため、神から遣わされたというが、では、あなたを遣わした神の名前は何か」と尋ねられたとき、もし、モーセが、「わたしを遣わした神の名前など知りません」と答えれば「なーんだ」と言われ、だれも聞く耳を持たないでしょう。今日であっても、重要な事柄で、誰かから遣わされ、相手のところに行っても、「あなたを遣わした方は。誰ですか」と聞かれ、「わかりません」と答えたのであれば、話にならないでしょう。それと同じです。また、モーセが、仮に、「わたしを遣わしたのは、イスラエルの先祖アブラハム、イサク、ヤコブが信頼した神ですというだけでは、相変わらず、名前がわからず、イスラエルの民は、到底、モーセの話を受け入れることができないでしょう。自分を遣わした神の名前を知らない、しかも、4百年間の奴隷の地位エジプトからの脱出という前代未聞の大事業をさせる神の名前は分かりませんというのであれば、話にならないでしょう。

 

 そこで、もちろん、神は、ご自分の名前をモーセに教えました。では、出エジプトの大事業をさせる神の名前は何でしょう。すると、14節にありますように、神は、「わたしはある。わたしはある者だ」と教えました。また、もう少し短くして、「わたしはあるという方」であると教えてくれました。

 

 それで、わたしたちは、この名前は一体どういう意味であろうかと思うのです。これまでの口語訳聖書では、「わたしは有って有る者」また「わたしは有るという方」となっていましたが、実は、この意味は、いつも有るお方、常にいるお方、変わりなく存在するお方という意味です。すなわち、神は、存在が変わらないお方、不変のお方であることを表します。そして、存在が変わらないだけでなく、さらに、契約に対して、神は変わらないことを表す表現なのです。この名前は、神の素晴らしいご性質を表す名前です。

 

 神は、かつて、イスラエルの先祖アブラハムと契約を結びました。アブラハムの子孫であるイスラエル民族は、エジプトで400年間にわたって、奴隷として苦しむことになる。しかし、神は、奴隷の地エジプトからイスラエルの民を解放し、自由にし、イスラエルの民に、豊かなカナンの地を与えると契約していましたが、その契約に対して、神は変わることなく、今、その契約を実現してくださるのです。こうして、「わたしはある。わたしはある者だ」という表現、また、もう少し短くして、「わたしはあるという方」という表現は、神は、存在が変わらないお方、そして、存在が変わらないだけでなく、契約に対して変わらないことを表すのです。

 

 さて、では、「わたしはある。わたしはある者だ」という表現、また、もう少し短くして、「わたしはあるという方」という表現によって表される神は、具体的にどなたでしょう。すると、マリアから生まれる前の神の御子イエス様なのです。こんなことがありました。わたしは若い時ですが、ある先生のこの個所についての説教を聞きました。そして、その先生は、燃える柴の中から、モーセに語りかけたのは、「主の天使」といわれているが、単なる天使ではなく、神である。そして、この神は、人となってこの世にこられる前の神の御子イエス・キリストであると説教したのです。

 

 わたしは、それを聞いて驚きました。「えっ!わたしはある。わたしはある者だ」という表現、また、もう少し短くして、「わたしはあるという方」という表現によって表される神は、 受肉前のイエス様なの。どうして」と思いました。その先生は、それ以上は、説教しませんでしたが、確かに、受肉前のイエス様なのです。そのことは、新約聖書ヨハネによる福音書の6章16節以下で、イエス様がガリラヤ湖の水の上を歩いて、舟に乗っている弟子たちに近づかれたとき、弟子たちは恐れましたが、その時に、イエス様は「わたしだ。恐れることはない。」と権威をもって言いましたが、実は、その「わたしだ」1いうのは、もともとの表現は「わたしはある」という表現で、ホレブ山の燃える柴の中からモーセに語りかけた神が言われた「わたしはある」という表現と全く同じなのです。ですから、モーセに語りかけた神は、間違いなく、受肉前のイエス様です。

 

 こうして、イエス様は、旧約時代から、ご自分の民を愛し、惨めな奴隷の地から、ご自分の民を救い出し、解放し、自由にし、約束の豊かな地カナンを与えるため、積極的に御業をしてくださっていたのです。そして、その出エジプトは、人類を罪の惨めな奴隷状態から救い出し、解放し、自由にし、約束の素晴らしい天国および世の終わりに完成する栄光の神の国に入れるための、霊的雛形、パターン、タイプになっているのです。

 

 そして、実際に、後に、神の御子イエス様は、ご自身を十字架でささげることにより、わたしたちを罪の奴隷から解放し、天国と神の国を目指す、真の人生に入れてくださっているのです。本当にありがたいことであり、心から感謝できます。

 

結び

 

以上のようにして、出エジプト記から、見ましたが、わたしたちは、出エジプトで霊的雛形として示されている、罪の奴隷からの解放のため、人となってこの世に来てくださったイエス様を心から信頼し、クリスマスをめざし、喜んで歩みましょう。また、イエス様による罪からの解放の恵みが、1人でも多くの人に広がるように祈りましょう。