キリストの弟子としての第三の課題

ルカ 14章31ー35節


 今日は、「キリストの弟子」としての第三の課題を見てみたいと思います。これが最後の課題です。今日の箇所の冒頭には、戦うか降伏するかの決断を迫られている王の喩えがあります。個人的には、この喩えは誤解される場合が多いと思っています。一般的には、「キリストの弟子」になるには、〈一万人〉の味方で〈二万人〉の〈敵〉を〈迎え撃つ〉ほどの決死の覚悟が要求されるのだ、と理解されています。しかし、今日は別の解釈を試みたいと思います。それは、二倍の敵と戦う覚悟ではなく、無条件降伏をする覚悟が教えられているとするものです。こちらの方が、次に続く文脈とマッチするように思えます。

新しい解釈には、これまでの解釈と共通しているところもあります。それは、戦うか降伏するかの決断を迫られている〈王〉とは、「キリストの弟子」になるかどうか考えている人であるということです。しかし、〈二万人を引き連れて向かってくる敵〉を「神さま」とするところが違うところのです。今日は、この仮定を受け入れた上で、この喩えが何を教えようとしているのかを見てみたいと思います。


(1)神と人との対決


戦うべきかどうか

また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えようとするときは、二万人を引き連れて向かって来る敵を、一万人で迎え撃つことができるかどうかを、まずすわって、考えずにいられましょうか。              ルカ14:31

 まず、ルカ1431をご覧ください。ここには、〈二万人を引き連れて向かって来る敵を、一万人で迎え撃つことができるかどうか〉の判断を迫られている〈王〉が登場します。歴史的には、二倍の敵を打ち負かした例は少なくないと思います。私の家は小高い丘の中腹にあるのですが、丘の頂上には、足利尊氏の本陣跡があります。足利尊氏は、後醍醐天皇方に敗れたあと、九州まで落ち延びたのですが、多々良浜(現在の福岡市東区)で菊池武敏が率いる天皇側と戦ったのです。この戦の初めの段階では、天皇側二万人に対して足利尊氏側にはたった二千人しかいませんでした。最初は数にものを言わせた天皇側が優勢だったのですが、天皇側は元々烏合の衆の寄せ集めであったので、裏切りが続出して総崩れとなり敗走したのです。このように、数では劣勢でも、相手側の裏切りなどによって自滅する例は、旧約聖書のなかにも出てきます。しかし、天皇側の士気が高く、一致結束して向かって来ていたら、尊氏側には勝目はなかったことでしょう。

 〈一万人〉を率いる〈王〉は、二倍の軍勢に勝てるかどうか、〈まずすわって、考えずにいられましょうか〉とあります。〈すわって、考え()〉とは、「熟考する」ことを指しています。なぜなら、自分だけでなく国の運命がまさに王の判断に掛かっているからです。軽率にも無謀な戦争に突入して敗戦することにでもなれば、国土は蹂躙され、財産は略奪され、多くの人命が失われ、何万という人たちが奴隷とされるかも知れません。このような負け戦になるくらいなら、戦う前に降参した方が良いのです。もし勝てるのなら、大きな国益となります。この場合、降参を選ぶよりは戦った方が良いのです。しかし、勝つか負けるか、やってみないと誰も分かりません。


もし見込みがなければ

もし見込みがなければ、…  ルカ14:32

 次に32節をご覧ください。熟考を重ねて出した〈王〉の結論は〈見込みがない〉というものでした。この〈王〉は意気地がなかったのでしょうか?そうではありません。先読みが正確だったのです。なぜなら、この〈王〉は、かなうはずもない相手と闘っていたからです。この王の素晴らしいところは、それを見抜いた洞察力なのです。このかなうはずもない相手を「神さま」と考えてみましょう。そうすれば、自分の人生の王権を巡って神と闘っている人間の姿が見えてきます。

 ヨーロッパの古い説話の中に、「金持ちの領主とヨハンネス」(仮題)というの地方を治める領主とその召使ヨハンネスの話しがあります。領主は傲慢で神に従うことを嫌う人でした。というより、自分が神さまのようなものだと思っていたのです。ところが、彼の絶頂期に、思いもかけずに重い病気に掛かってしまったのです。そして、医者もさじを投げるほどに悪化していきました。病気になってしばらくは、神や自分の運命への怒りで身を震わせていましたが、この地方で絶大な権力を誇っていた自分でも、どうすることもできないことがあることが次第に分かってきたのです。そして、これまでの傲慢な振る舞いの中に、罪深さを認めるようになって、信仰深いヨハンネスに、「どうすれば、こんな自分でも天国に行けるのか」と尋ねたのです。すると、ヨハンネスは「もし旦那さまが天国に行きたいのであれば、豚小屋の床に膝まづいて、『罪深い私をお赦し下さい』と祈りなさい」と答えたのです。この進言はすぐには受けれられませんでしたが、領主はとうとう神さまに降参する決心をするに至ります。ただ、豚小屋の床の上でというのは免除されました。神の御前でへりくだることができたので、自分のベッドの上で自分の罪を告白して、キリストの十字架の故に罪の赦しがいただけるように神に祈ったのでした。 

  人は、人生の王権を巡って神と争っています。しかし、喩えの〈王〉のように、神の摂理の圧倒的なパワーを洞察できる人はなかなかいません。金持ちの領主のように、特殊な環境に長いこと置かれて始めて、そのことに気づくようになるくらいだと思います。王権を巡っての神と人との対決は、時間とともに次第にエスカレートして行きます。そして、対決したままで生涯を終える場合もありますが、この場合、神に勝てる人は誰もなく、完全な負け戦として生涯を終えるのです。しかし、王権を巡っての神と人との戦いには、神の側からの〈和解〉の呼び掛けが2000年前からなされていることに触れる必要があります。 

                                 

(2)和解を求める


和解の基礎

 5:19 すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。

 5:20 こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。             Ⅱコリント5:19-20

 Ⅱコリント519-20をご覧ください。ここには、〈和解〉を呼び掛ける、神の側からの働きが描かれています。この〈和解〉という言葉は、「関係を根底から変える」という意味なのです。敵対関係にあった親子が、親子の関係を回復するというような場合に使用されます。神と人との和解の基礎は、〈十字架〉なのです。〈十字架〉によって、罪の赦しへの備えが完成しました。後は、その「和解のメッセージ」を敵対する人々に伝えて、彼らがそれを受け入れれば、和解が成立するのです。

 パウロのような使徒たちは、「和解のメッセージ」を世界に運ぶ、最初の〈キリストの使節〉でした。この使徒たちから始まった「和解のメッセージ」の宣教は、現在多くの「証し人」に引き継がれて、世界中に広がっているのです。「和解のメッセージ」は、神の側の圧倒的な力が啓示されているだけでありません。罪深い人間との和解のためにどれほどのことがなされたかが書かれているのです。それは、人知を超えた神の愛の啓示なのです。こうして、「和解のメッセージ」は、人々に啓示され続けているのです。


和解に応じる王

… 敵がまだ遠くに離れている間に、使者を送って講和を求めるでしょう。               ルカ14:32

そういうわけで、あなたがたはだれでも、自分の財産全部を捨てないでは、わたしの弟子になることはできません。   ルカ14:33

 ルカ1432では、喩えの〈王〉は、〈敵がまだ遠くに離れている間に、使者を送って講和を求める〉のです。ここでは、〈講和〉(エイレーネー)とは、無条件降伏と考えた方がよいと思います。無条件降伏とは自分と国の運命を敵対していた〈王〉に委ねるわけですから、そうとうな覚悟が必要だったはずです。その〈王〉が搾取することしか考えない欲深い邪悪な王だったら、どうなるでしょうか?多くの国民が生命と財産が奪われて破滅することになるでしょう。降伏して後の運命は、相手の〈王〉の善意に賭けるしかないないのです。

ルカ1432では、喩えの〈王〉は、〈敵がまだ遠くに離れている間に、使者を送って講和を求める〉のです。ここでは、〈講和〉(エイレーネー)とは、無条件降伏と考えた方がよいと思います。無条件降伏とは自分と国の運命を敵対していた〈王〉に委ねるわけですから、そうとうな覚悟が必要だったはずです。その〈王〉が搾取することしか考えない欲深い邪悪な王だったら、どうなるでしょうか?多くの国民が生命と財産が奪われて破滅することになるでしょう。降伏して後の運命は、相手の〈王〉の善意に賭けるしかないないのです。 

       

(3)地の塩として


地の塩

あなたがたは、地の塩です。 … マタイ5:13

 最後に、34-35節の〈塩〉(ハラス)の喩えを見たいのです。ここは、「キリストの弟子」としての三つの課題全体の締めくくりに当たるところです。しかし、その前にマタイ513をご覧ください。ここは、山上の説教の中の一節です。〈塩〉は当時としては、きわめて一般的な調味料であり、食品保存剤として重宝されました。冷蔵庫がない時代においては、食品の保存には塩が用いられたのです。さらに、パレスチナの塩は、カリウムを含んでいましたので、肥料にもなったのです。

 山上の説教では、キリスト者は〈地の塩〉(マタイ513)と呼ばれています。これは、どういう意味でしょうか?〈地〉(ゲー;定冠詞付き)とは、人間世界を意味します。〈塩〉は、料理に味を付けることと腐敗を防ぐという二つの効果があるように、キリスト者は、世界の味を作り、さらには、腐敗を防ぐという二つの役目があるということなのです。キリスト者は、塩が料理に塩味を付けるように、世界に意味という味を付けるのです。それは、自らの人生や生きざまを通して、みことばに啓示されている人生の意味や世界が存在する意味を世界に知らせるからです。さらに、みことばの宣教によって世界の腐敗を防ぐこともします。このような意味で、キリスト者は社会をリードすることができるのです。家庭や学校や職場で、一人のキリスト者がいることで、たとえ目立たなくても、霊的な影響を与えるのです。


その塩が塩気をなくしたら

ですから、塩は良いものですが、もしその塩が塩けをなくしたら、何によってそれに味をつけるのでしょうか。土地にも肥やしにも役立たず、外に投げ捨てられてしまいます。 

                       ルカ14:34-35

 次に、ルカ1434-35をご覧ください。〈塩は良いもの〉とは、〈塩〉の効能が優れていることを指しています。それは、料理に欠かせないように、キリスト者の存在は世界になくてはならないものです。しかし、〈その塩が塩けをなくしたら〉というケースについて、イエスは述べておられるのです。〈塩〉は塩けを与える大元ですから、〈塩〉に塩味を回復させようとする人は誰もいません。元々、〈塩〉には〈塩味〉が必ず伴います。

 イエスは、この箇所を通して何を教えようとしておられるのでしょうか?「塩け」とは、〈塩〉の 性質そのものから出てくるものです。同様に、「キリストの弟子」の証しする力とは、〈弟子〉の性質そのものから出てくるものなのだということなのです。それは演技やパフォーマンスではないのです。仮に黙っていても、また何もしないでも、弟子の内面から出てくる雰囲気なのです。そして、このような〈弟子〉の性質とは、「三つの課題」によって養育され、醸し出されるものなのです。イエスは、このことを「塩の喩え」で教えようとしておられると思います。


http://www1.bbiq.jp/hakozaki-cec/PreachFile/2012y/120916.htm