惜しまずに豊かに蒔く ― 献金の勧め ―


コリントの信徒への手紙二9章6節―10節

                            佐々木稔牧師

はじめに


1年の内で1番寒いといわれる2月に入りましたが、わたしたちは、本日も、暖かい部屋で、愛と恵みの神をみんなで心ゆくまで礼拝できることをまず感謝したいと思います。

先日は、祈りに覚えてきました会員総会を行いました。年報作成委員会の努力により、年報の記載枠がなくなり、また、書式もよく統一された年報となり、大変読みやすく感謝しました。また、昨年1年間の報告や今年の計画と予算などをみんなで満場一致で承認しました。また、長老・執事の役員の方々の選出もされました。今年1年、また、みんなでお祈りして、聖霊の力と恵みを受け、計画の推進をしていきたいと思います。

それで、わたしたちの教会のこの1年間の年間標語聖句は、エフェソの信徒への手紙4章1節から3節で、「神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。」です。また、年間目標は、教会の一致です。今年は、教会にとって、いろいろな意味で大切な年ですが、聖霊からの恵みの賜物としてすでに与えられている教会の一致の上に立って、みんなで心を一つにし、神からのよい導きを祈り求めて、歩んでいきたいと思います。

 さて、それで、会員総会の次の礼拝においては、慣例により、みんなで献金について、聖書から学ぶことになっています。そこで、本日は、献金について、最もまとまって教えているコリントの信徒への手紙二からお話をします。

 献金についてのお話をはじめて聞く方々もいるでしょう。わたし自身も若いとき、教会の礼拝に行くようになって、キリスト教には、献金というものがあるのだとはじめて知りました。献金という言葉は、世間ではどのように使うでしょう。献金と聞けば、政治献金をすぐに思い出すかもしれません。政治献金は、政党や政治家への献金のことで、もちろん、神に対して信仰の心から献げるキリスト教の献金とは違います。

また、献金と聞くと、世間でいろいろなときに行う寄付を思い出すかもしれません。わたしも、何かのときに、キリスト教の牧師をしていますと言うと、教会の話になり、教会には、寄付がありますよねなどと話かけられますが、神への感謝と献身のしるしとして献げる神への献金は、世間での寄付とは違います。また、お寺や神社には、お賽銭がありますが、キリスト教の献金は、尊い救い主キリストの十字架上の身代わりの苦しみと死によるすばらしい救いに対する心からの感謝として献げますので、お賽銭とは違います。

そこで、わたしたちは、キリスト教の献金とは、どんなものなのか、一緒に聖書から見ましょう。そして、今年も、わたしたちは、自分たちが救いと祝福と永遠の生命を受ける教会を、みんなで喜んで経済的に支えていきましょう。


1.もったいないと思わないで、喜んで、献げましょう


それで、これから、さきほどお読みしましたコリントの信徒への手紙二9章6節から9節までのお話をしますが、実は、ここは、8章と9章の2章にわたって献金について教えている箇所の一部です。ここから、献金の精神や姿勢について、特にお話をします。

では、1世紀のキリスト教伝道者のパウロは、どのような背景で献金を教えているのでしょう。すると、背景は次のようです。実は、この手紙の宛先であるコリント教会は、ギリシャ南部にありましたが、貧しいエルサレム教会を助けるための献金を集め始めました。しかし、途中で、コリント教会に別の問題が生じたので、中断されていました。でも、別の問題が片付いたので、コリント教会は、再び、貧しいエルサレム教会に送る献金を集め始めました。

そこで、伝道者パウロは、再開された献金集めに誤解がないように、だれも献金につまづくことがないように、献金がみんなの豊かな祝福になるように、とても丁寧に、献金の精神について教えたのです。それで、わたしたちも、ここを学んで、わたしたちも、だれひとりつまづくことがないように、みんなでよく学んで、喜んで献げて、神から豊かな祝福を受ける者になりたいと思います。

さて、では、キリスト教の献金の根本精神は何でしょう。すると、惜しまず、喜んで献げることです。すなわち、献金を損と思わず、愛と恵みの神に献げることができるのだから、とてもうれしいと喜んで献げることです。これが、根本精神です。ですから、キリスト教の献金の精神は、一言でいえば、惜しまず、喜んで献げることに尽きると言えます。

そこで、パウロは、まず、惜しまず、喜んで、献げることを、わかりやすく教えるために、農夫の種蒔にたとえました。農夫が種蒔をするとき、どのようにするでしょう。すると、惜しまず種を蒔きます。なぜでしょう。豊かな刈り入れをするためです。もし、農夫が、種を蒔くとき、種が惜しい、種を蒔くと、種がなくなって損すると考え、種を少ししか蒔かなかったらどうなるでしょう。もちろん、収穫も少しになってしまいます。それと同じことが、献金にも言えるというのです。すなわち、自然界のことが、霊的なことにもあてはまるというのです。

「惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。」。これは、読んで字の如しで、農夫の種蒔を意味しています。自然界のことを表しています。

 それで、ここで、わたしたち、読者の目を引くことは、何でしょう。すると、「惜しんで」という言い方と「惜しまず」という比較対照的言い方です。「惜しんで」も「惜しまず」も、とても興味深い言葉です。「惜しんで」は、もたいなく思ってという意味です。他方「惜しまず」は、気前よくという意味です。

 ですから、これをあてはめると、農夫が、種蒔するとき、種を惜しんで、すなわち、種を蒔けば種がなくなるので、もったいないと思って、種を少ししか蒔かなければ、収穫も少ししかありません。でも、農夫が種蒔をするとき、種を惜しまず、すなわち、気前よく蒔けば、収穫も多くなります。献金もそれと同じですということになります。自然界のことが、霊的なことにもあてはまるのです。

 ただし、ここで誤解してはいけません。これは、献金の額を言っているのでなく、精神、姿勢を言っているのです。すなわち、献金をするとき、「惜しんで」、すなわち、もったいないという気持ちでするなら、神からの祝福も少しなのです。でも、これは、神に献げるのだと「惜しまず」、すなわち、気前よく、快く献げるなら、神からの祝福も豊かですという意味で、献金の根本精神、姿勢を教えています。

 考えてみればそうでしょうね。わたしたち、人間世界でも、誰かから、何かをいただくとき、あなたにあげるのはもったいないけど、まあしょうがないから、あげるわといわれていただくより、気前よく、快く、これ、あなたにあげますといわれていただくほうが、はるかに気持ちがいいでしょう。

 まして、神は、わたしたちに、神の独り子キリストの犠牲による無限に価値のある救いも、また、毎日の生活に必要なものも、どちらもちゃんと与えてくださっているのに、その神に、「惜しんで」、すなわち、もったいなけど献金しますという姿勢では、神からの祝福は少ないと、パウロは1世紀のコリント教会のクリスチャンたちにきちんと教えるのです。

そうではなく、神の独り子キリストの犠牲による無限に価値のある救いも、また、毎日の生活に必要なものも、どちらもちゃんと与えてくださっている神に、心から感謝して、「惜しまず」、すなわち、気前よく積極的に献げたら、神からの祝福も豊かに与えられると、パウロは、1世紀のコリント教会のクリスチャンたちにきちんと教えるのです。

こうして、献金は、「惜しまず」、すなわち、もったいないと思わないですることが大切なのです。そこで、先ほどは、読みませんでしたが、1節前の5節でも、献金をするときには、「渋りながらではなく、惜しまず差し出したものとして用意してもらうためです。」と教えて、献金は、「渋りながらではなく」、すなわち、しぶしぶでなく、「惜しまず」、すなわち、気前よく、快く積極的にするように薦めています。

 こうして、キリスト教の献金は、「惜しまず」、すなわち、もったいないと思わないで、また、「渋りながらではなく」、すなわち、しぶしぶでなく、快く積極的にするものであることが読者に伝わってきます。

 本当にそうです。神から与えられているものを考えたら、それは、理解できることです。神はわたしたちに何を与えてくださっているでしょう。神は、天地を造り、また、天地にあるものすべてのものを所有しています。そして、必要なものは何でも惜しみなく、かわいい神の子らであるわたしたちに与えてくださっています。自然の恵み、文化の恵み、産業の恵み、技術の恵みなど何でも与えてくださっています。もっとわかりやすく言えば、わたしたちは、神の恵みのゆえに、おいしいものを食べ、冬でも暖かい家に住み、娯楽や趣味やスポーツや旅行を楽しんだりしているでしょう。

さらに、他の何ものにも代えられない神の独り子キリストの十字架の苦しみと死と、3日目の死からのよみがえりによる、罪の赦しと死に勝利する永遠の生命よりなる救いを与えられ、神に造られた真の人間として日々よい人生に生かされています。これらの価値の大きさを本当に知ったら、わたしたちは、「惜しんで」、すなわち、もったいないと思ったり、「渋りながら」、すなわち、しぶしぶ献げることなど、もはやしたくないでしょう。逆に、額は別にして、気持ちとして、感謝と喜びに満ち溢れて、「惜しまず」、すなわち、気前よく、快く積極的に、愛と恵みの神に心から献げることができるでしょう。

 こうして、キリスト教の献金は、「惜しまず」、すなわち、気前よく、快く、積極的に献げる精神からなされるものです。それゆえ、まして、「不承不承」、すなわち、悲しみからなされるのではりありません。また、「強制されて」、すなわち、他の人々から無理強いされてするものでもありありません。一人ひとりが、自分の自由な心で、額を決めて、喜んで神に献げればよいのです。なぜなら、神は、悲しんで献げたり、無理強いされていやいや献げる人でなく、自分の自由な心で額を決めて、明るく、快く、快活に献げる人を喜び、愛して、豊かな祝福を与えてくださるからです。

 7節に「各自、不承不承ではなく」とありますが、「不承不承ではなく」というのは、もともと悲しみからでなくという意味です。これは、どのようなことでしょう。1世紀においては、悲しみの心から神に献げる人々がいたことを意味しています。キリスト教の献金は、神に大切なお金を取られることだ、キリストにお金を取られることだ、それは悲しい、でも、仕方がないという気持ちで献げていた人々がいたことを意味します。

 わたしたちは、神への献金を悲しみと思って献げていた人々がいたということを知って、びっくりするかもしれません。まさか、幾らなんでもそこまではと思うかもしれません。

でも、この手紙の宛てられたコリント教会の人々にとって、目に見えない神に献金するということは、まったくはじめてのことでしたから、とまどいがあったのかもしれません。考えてみますと、キリスト教の献金に、はじめて出会うと、人は戸惑うかもしれません。通常であれば、自分のところからお金が出れば、それに見合うものが自分に入ってきます。今日でもそうです。スーパーに行ってお金を出せば、そのお金に見合う野菜や肉や魚が自分に入ってきます。ファミレスに行って、お金を出せば、食事ができます。喫茶店に入ってお金を出せば、おいしいケーキとよい香りのするコーヒーが飲めます。

 では、神への献金はどうでしょう。神へ献金したからといって、その場で何かが自分の手に入ってくるわけでありません。何もありません。何もないどころか、献金したことによって、自分の大切なお金がそれだけなくなったのです。生活費が少なくなったのです。財産が減ったのです。

 それゆえ、人間的に考えれば、献金は、明白にマイナスです。そのため、人間的に考えれば、惜しいこととであり、もったいないことであり、しぶしぶすることになり、さらに、悲しみにもなるでしょう。また、最後には、強制されるからするという気持ちまで行くでしょう。

 献金は、人間的に考えれば、そういうことになるのです。しかも、生涯、一生、数十年間続けていくわけですから、人間的に考えたら、大損失になるでしょう。クリスチャンが一生献金したら相当な額になるでしょう。人間的に考えたら、献金しなければ、あれも買えたなあ、これも買えたなあ、ということになるでしょう。実際、一生献金がなければ、その分相当なものが買えるでしょう。

 それゆえ、神への献金を人間的に考えてはならないのです。神への献金を人間的に考えたら、献金はできないのです。ですから、わたしたちも、神への献金を人間的に考えないようにしましょう。キリスト教の献金は、まさしく今生きて働いて、わたしたちを豊かに祝福してくださっている万物の唯一の所有者である全能の神への生き生きとした信仰に成り立つすばらしい行いであることをみんなで覚えましょう。

 そして、また、献金の額についても、そうです。他の人々と比べる必要は、まったくありません。一人ひとりの経済的状況はみな違うのです。また、他の人々には、わからない状況もあるかもしれません。一人ひとり、一軒一軒違うのです。それゆえ、一人ひとり、一軒一軒が、自分で、これこれのものを神に献げようと決めて、献げればよいのです。

 大切なことは、暗く悲観的消極的にならずに、喜んで、明るく、快活に、快く、元気に、積極的に前向きな気持ちで希望をもって献げるのです。そうすれば、神は、喜んで献げる人々を愛して、豊かに祝福してくださるのです。そこに、「喜んで与える人を神は愛してくださるからです。」とありますが、「喜んで」という言葉は、これまた、興深い言葉をパウロはわざわざ使っています。

神への献金を教える今日の箇所には、興味深い言葉がいくつも意識的にパウロによって使われていますが、この「喜んで」という言葉もそうです。「この喜んで」は、英語にすれば、チアフルという言葉です。そして、チアフルという言葉は、チアガールのチアと同じ言葉です。今日、チアガールがいまして、野球その他いろいろなスポーツを応援します。さあ、みなさん、チームが勝つように、喜んで、明るく、快活に、積極的に応援しましょうといって、みんなの前で、明るく、快活に、元気に、身振り、手振り、体を動かして応援します。そのチアガールのチアと同じ言葉で、意味は、喜び、快活、元気を意味します。ですから、神に献げるときには、気持ちが暗くなったり、悲観的に、消極的になったりしないで、喜んで、快活に、元気に、明るい気持ちで、神に献げるように、パウロは教えました。そゆゆえ、わたしたちも、喜んで、快活に、明るい思いをもって神に献げて、神から愛され、豊かな祝福を受けたいと思います。


2.献金は、神に豊かに祝福されます


 こうして、1世紀の伝道者パウロは、キリスト教の献金にはじめて出合うコリント教会の人々に、献金の精神、姿勢を興味深い言葉、聞く人々がびっくりするような言葉を次々と使って教えましたが、要は、神への献金を人間的に考えないことです。人間的に考えると、献金は成たたないのです。

 さあ、でも、そこで、疑問が出るでしょう。パウロ先生はそのように言うけど、人は、大切なお金を神に本当に惜しまずに、すなわち、もったいないと思わないで、献げることができるのだろうかという根本問題が出ます。神に献げれば、自分の手元から、実際にお金がなくなり、その分生活費が少なくなってしまうではないか、そうしたら困るではないか、それなのに、神に献げることなど本当にできるのだろうか、しかも、キリスト教は、一生、生涯喜んで献げていくというが、そんなこと、本当にできるのだろうか。一生献げたら、大切な財産がガクンと減ってしまうではないか、そんなこと、人は、本当にできるかという根本問題が生じます。

 さあ、答えは何でしょう。興味ありますね。答えは、もちろん、できます。

しかも、一生喜んでできるのです。これが、伝道者パウロの確信に満ちた答えです。

 なぜ、そんなすばらしいことが、本当にできるのでしょう。その理由は難しいものではありません。いたって、簡単明瞭です。神は何でもできるお方で、喜んで献金する人を愛して、豊かに祝福してくださることができるので、献金したら、お金がなくってしまうとか、生活が困るとか、財産がなくなるなどということはありません。それは、逆です。喜んで献げると、神はその人を愛して、神はその人にすべての祝福を、どんどん、十分、満ちあふれるほど豊かに与えてくださるので、献金したから、お金がなくなったり、献金したから、生活が困ったり、献金したから、財産がなくなったりすることがないのです。神に献げることは損失ではないのです。これこそ、今生きて働く全能の偉大な神に献げる献金の奥義です。人間的に考えることとまったく逆のことが生じるのです。キリスト教の献金は本当にすばらしいですね。

 8節をみんなで見ましょう。パウロは、献金をする人を神が愛して、豊かに祝福してくださることを読者が感じられるように、とても強い書き方をわざわざしています。「神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。」とありますが、ここを読んだときに、コリントの教会のクリスチャンたちは、献金に対する神からの祝福の豊かさに圧倒されたでしょう。

ここの書き方の特色は、「すべて」という言葉が、5回もわざわざ目立つように繰り返されていることとです。「いつも」というのは、もともと「すべてのとき」という意味で、「すべて」という言葉が入っています。「すべての点で」というのは、もともと「すべてのことにおいて」という意味で、「すべて」という言葉が入っています。「すべてのものに十分で」というのは、もともと、「すべてのよいものがいっぱいある」という意味で、「すべて」という言葉が入っています。「あらゆる善い業に満ちあふれるように」というのは、もともと「すべてのよい行いがたくさんできるように」という意味で、「すべて」という言葉が入っています。「あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。」というのは、「コリント教会の人々を、すべての恵みでいっぱいにすることができる」という意味で、「すべて」という言葉が入っています。

こうして、8節において、パウロは、「すべて」という言葉を5回、さらに、「十分」という言葉を1回、また、「満ちあふれる」という言葉を2回も繰り返しています。これらの言葉は、全部、献金に対する神から与えられる祝福の豊かさをコリント教会のクリスチャンたちに感じさせる言葉です。

ですから、コリント教会のクリスチャンたちが、ここを読んだらわかったでしょうね。ああ、そうか、神への献金は損失でないのだ、神に献金すれば、神は、献金した人を愛してくださって、いつも、すべてのことにおいて、すべてのよいものがいっぱいあるようにしてくださって、すべてのよい行いがたくさんできるように、すべての恵みでいっぱいにしてくださるのだ、だから、心配しないで神に献げればよいのだと確信したでしょう。

ですから、コリント教会の人々が、喜んで積極的に献金しても大丈夫なのです。コリント教会の信者たちが、神に献金したら、お金が損失となって、自分のものが失われるなどということはまったくないのです。逆です。喜んで献げる人を、神御自身が愛してくださって、その人にすべての祝福を、どんどん、十分、満ちあふれるほど豊かに与えてくださるのです。ですから、その後も喜んで献げることができるのです。一生喜んで献げることができるのです。

 信仰に立って考えてみれば、そうでしょう。神は、喜んで献金する人に、その献金の何倍もの恵みをいくらでも与えることができるでしょう。神は、この世界の唯一の真の所有者です。この世界と世界にあるものは、すべて神のものです。それゆえ、神は、わたしたちが喜んで献げると、神も喜んでくださり、わたしたちが献げたものの何倍ものよいもの、否、何倍どころでなく、何十倍、何百倍、否、測り知れないほど圧倒的に豊かな祝福を与えてくださる偉大な力をお持ちなのです。今生きて働く全能の偉大な神の力を小さく考えててはなりません。

 わたし自身も19歳のときから45年間神に献げてきましたが、本当にそうです。献げたものの何倍も、何十倍も、何百倍、否、測り知れないほど圧倒的に豊かな祝福を与えられました。だからこそ、45年間も喜んで献げることができました。そして、もちろん、これからも、喜んで献げていきます。一生喜んで献げます。みなさんも同じでしょう。


3.神への献金は一生できます


 こうして、神は、喜んで献げる人を愛して豊かに祝福してくださるので、献金ができるし、また、続いていくことを教えましたが、実は、神が、喜んで献げる人を愛して豊かに祝福してくださるので、献金ができるし、また、献金が一生続いていくは、実は、旧約時代からそうだったのです。いつの時代もそうなのです。

そこで、パウロは、旧約聖書の詩編112編9節を少し変更されたかたちで引用しました。9節のかぎ括弧に入っている御言葉は、旧約聖書の詩編112編9節を少し変更されたかたちでの引用です。そして、その御言葉の意味は、旧約時代のイスラエルにおいて、信者は、貧しい人々に惜しみなく施しをするように勧められていて、神は、惜しみなく施しをする信者を愛して、豊かに祝福してくださったので、その信者は、「慈しみ」、すなわち、思いやりの心から行う施しを永遠に、すなわち、一生いつまでも喜んで続けていくことができるという神御自身のすばらしい約束が語られているのです。

旧約時代のイスラエルにおいては、貧しい人々への施しがなされていました。そして、施しをすれば、自分の手元からお金がどんどん減るわけです。人間的に考えれば、貧しい人々に施しをすればするほど、自分の手元からどんどんお金が減っていくので、何もなくなってしまうのではないかと、心配になるわけです。ところが、そんな人間的な心配はしなくてよいのです。なぜかというと、慈しみ、すなわち、思いやりの心から貧しい人々に施しをする人を、神御自身が愛してちゃんと豊かに祝福してくださるので、その人のお金がなくならず、逆に、増えるようにしてくださるので、その人のお金はなくならず、その人は貧しい人々への施しを永遠に、すなわち、いつまでも一生喜んで続けていくことができるというすばらしい意味です。「慈しみ」というのは、慈しみの心、すなわち、思いやりの心という意味で、思いやりからなされる施しを表します。「永遠に続く」というのは、いつまでも続いていくという意味です。この場合の「永遠に」というのは、いつまでも、すなわち、一生ぐらいの意味です。

そこで、パウロは、旧約時代からのそのすばらしい約束は、1世紀のコリント教会のクリスチャンたちにもあてはまり、コリント教会のクリスチャンたちが、貧しいエルサレム教会のための献金を惜しみなく行うのであれば、神御自身が、コリント教会のクリスチャンたちを愛して、豊かに祝福するので、コリント教会のクリスチャンたちは、献金によって、自分のお金を失うことなく、さらに、喜んで、いつまでも献金できると励ましたのです。そして、このことは、今日も同じです。わたしたちも、喜んで献げて、神から愛され、思いにまさる豊かな祝福をみんなで受けましょう。


結び


以上のようにして、神への献金の精神、姿勢について学びました。最後に、具体的なことをお話しましょう。わたしたちは、昨年、みんなで喜んで献げてきましたが、結果的には予算に少しだけ足りませんでした。そこで、今年、できる方は、毎月の維持献金を百円でも2百円でも、上げていただければ、大変感謝です。今年も、みんなで喜んで神に献げて、豊かな祝福を受けつつ、永遠の生命の道をお互いに励まし合って歩んでいきましょう。


                (日本キリスト改革派南浦和教会2008年2月3日の説教)