プロテスタントによる聖書和訳


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ヘボン以前

19世紀になると、中国や日本の開国とキリスト教解禁を睨んで、プロテスタント宣教師たちが日本国外で聖書の漢訳・和訳事業を進めた。たとえば、カール・ギュツラフ(Karl Friedrich Augustus Gützlaff,LMS)は、マカオで漢訳『神天聖書』を参照しながら日本人漂流民音吉らの協力を得て『約翰(ヨハネ)福音之伝』(1837年)を訳し、アメリカ聖書協会の財的支援によりシンガポールより出版した(現在、ゆまに書房から復刻版が入手できる(ISBN 4897147875))。

  • ギュツラフ『約翰(ヨハネ)福音之伝』
ハジマリニ カシコイモノゴザル、コノカシコイモノ ゴクラクトトモニゴザル、コノカシコイモノワゴクラク。ハジマリニ コノカシコイモノ ゴクラクトトモニゴザル。(ヨハネ1:1-2)

また、サミュエル・ウィリアムズ(Samuel Wells Williams,ABCFM)も、マカオで『馬太(マタイ)福音伝』を1830年代末に訳している。しかし、これは稿本が焼失している。

禁教下の琉球王国で強引に布教を始めたバーナード・ジャン・ベッテルハイム(Bernard J.Bettelheim)は、1847年にルカ福音書から始めて、1851年までに四福音書、続けて使徒行伝、ロマ書を琉球語に訳した。しかし、琉球王国から追放され、1855年香港で琉球語訳『路加(ロカ)伝福音書』、『約翰(ヨハネ)伝福音書』、『聖差言行伝』(使徒行伝)、『保羅寄羅馬人書(ポウロ ロマびとによするのしょ)』を出版した。また、ベッテルハイムは、漢和対訳の新約聖書翻訳を企画し、1858年に英国聖書協会より、漢和対訳『路加(ルカ)伝福音書』を出版した。この著作は、明治初期の日本伝道で活用された。ベッテルハイムは、この後も残りの福音書を出版するつもりであった。しかし、既に別途に聖書翻訳事業にとりかかっていたジェームス・カーティス・ヘボンが否定的な意見を述べたことも手伝って出版が遅れた。ベッテルハイムの日本語訳には琉球語が混じっており、日本人にも理解が困難とされたのである。残りの福音書が出版されたのはベッテルハイムの死後となり、1873年に『約翰(ヨハネ)伝福音書』、翌年には『路加(ロカ)伝』、『使徒行伝』がオーストリアで印刷出版された。

  • ベッテルハイム『約翰伝福音書』
ハジマリニカシコイモノヲテ、コノカシコイモノヤシヤウテイトトモニヲタン、カノカシコイモノヤシヤウテイド コノカシコイモノハジマリニシヤウテイトトモニヲタン バンモツカレニツクラツタン、スベテツクタイルウチナカカレガツクランモノヤヒトツンナイン ( ヨハネ1:1-3 1855, 乙卯年鐫 約翰傳福音書 往普天下傳福音與萬民 天理大学所蔵版 )
  • ベッテルハイム『約翰伝福音書』
はじめに かしこいものあり かしこいものハ 神と ともにいます かしこいものハすなわち神 (ヨハネ1:1-2)

1859年安政6年)に日本が開国されると、いまだ禁教下ではあるものの、宣教師達が続々と来日し、日本伝道の準備が進められた。この伝道準備の中の重要課題は、聖書翻訳であった。当初、宣教師達は、漢訳のキリスト教書籍を持ち込んで密かに頒布し、布教に努めた。「すべての日本の教養人は、我々がラテン語を読むのとまったく同様に、困難もなくシナ語の聖書を読むことができる」とされたからである。しかし、それは全人口の50分の1程度に過ぎなかったため、漢文の読めない大多数の一般人に布教するには、平易な日本語訳聖書を必要とした。

日本国内最初の翻訳聖書を出版したのは、バプテスト派の宣教師で1860年万延元年)に来日したジョナサン・ゴーブル(Jonathan Goble,ABF)である。ゴーブルは、極貧のうちにあって靴直しで糊口をしのぎながら、ギリシャ語の原語と欽定訳聖書からの日本語口語訳に挑んだ。1864年元治元年)から始めて、1871年明治4年)に『摩太福音書』を東京で出版。版木屋は中身が聖書であることを知らずに引き受けたという。ゴーブルは、四福音書全体と使徒行伝も訳したとされるが、その稿本は残っていない。

  • ゴーブル『摩太福音書』
にうわの ものは さいわい じや けだし その ひと せかいを そうぞく せやう ぎを したい うゑ かつゑる ものは さいわい じや けだし その ひと みちませう (マタイ5:5-6)

ゴーブルはヘボンらに比べて学識がないとみなされ、他の宣教師とも折り合いが悪かった。そのため、後述するヘボンの翻訳事業とは別に、独立独歩でバプテスト派の解釈に基づく翻訳を行った。また、当時の口語による平仮名表記の独自の文体であるため、評価されてこなかった[1]。ゴーブルの聖書翻訳作業は、1873年(明治6年)に来日したバプテスト派宣教師、ネイサン・ブラウンに引き継がれた。

ヘボンによる聖書和訳事業

日本キリスト教史上の大立者であり、ヘボン式ローマ字の考案者として知られるジェームス・カーティス・ヘボン(James Curtis Hepburn,PN。原音に近いのは「ヘップバーン」であるが、慣例に従い「ヘボン」と表記する)は、アメリカ長老教会外国伝道局の宣教師であり、ギュツラフの『約翰(ヨハネ)福音之伝』を携えて1858年の開国直後に自費で来日。医師業の傍らサミュエル・ブラウン(Samuel Robbins Brown,RCA)らの宣教師仲間に呼びかけて聖書翻訳事業を開始し、ごく短期間でそれを成し遂げた。これは漢訳聖書からの転訳だったからと言われている[2]。底本にしたのは1861年に上海で出版されたブリッジマンとカルバートソンの漢訳『新約全書』で、日本語教師として雇った日本人にその漢文を訓読させて、それにヘボンとブラウンが手を入れた。ヘボンもブラウンも中国宣教経験があって漢文が読めたからこの方法は確かに効率的だったろう。1860年代の前半には福音書や創世記、出エジプト記の一部が訳されたらしいが、この時期の転訳聖書は現存していない。 ヘボンとブラウンらはこの翻訳に何度も改訂を加えていったが、前述のゴーブルが個人訳を出版したことから協力者たちと共に彼らの翻訳の完成を急いだ。途中、ブラウン宅の失火による原稿焼失などのトラブルを潜り抜けながら、日本人協力者として加わっていた奥野昌綱が奔走し1872年『新約聖書馬可(マコ)伝』『新約聖書約翰(ヨハネ)伝』『新約聖書馬太(マタイ)伝』を出版している。漢文直訳調を避けて一般人に分るようにしながら、それでいて文語の格調を失わないように工夫された訳である[3]

  • 元始(はじめ)に言霊(ことだま)あり 言霊は神とともにあり 言霊ハ神なり。この言霊ハはじめに神とともにあり。よろづのものこれにてなれり なりしものハこれにあらでひとつとしてなりしものハなし。これに生(いのち)ありし いのちは人のひかりなりし。(ヨハネ1:1-4、ヘボン1872年訳『新約聖書約翰(ヨハネ)伝』)

明治元訳

この翻訳作業は、同1872年に開催された日本在留ミッションの合同会議において決議された新約聖書の共同翻訳事業に引き継がれることになる。いわゆる翻訳委員社中の結成である。はじめはアメリカ長老教会、アメリカ改革教会、アメリカ組合教会から、ヘボン、ブラウン、グリーンD.C.Greeneらの宣教師が集まり、そこに聖公会ジョン・パイパーウィリアム・B・ライト)、アメリカ・メソヂスト教会ロバート・S・マクレイ)、バプテスト教会ネイサン・ブラウン)からの代表が加わった。日本人協力者としては奥野昌綱松山高吉高橋五郎の3名が知られている。

資金援助と出版は米国聖書会社大英国聖書会社北英国聖書会社が引き受けた。ギリシャ語の原語を参照したと称しているが、実際には欽定訳の英文聖書からの翻訳だろうとされている。1874年から作業が開始されて、完成した訳稿はすぐさま分冊として1875年から順次出版されて1880年に『新約全書』の完成に至る。諸言語への聖書翻訳史上稀に見る速さとされているが、ヘボンや先人達が行った漢籍からの転訳聖書の蓄積によるものとされている[4]

旧約聖書についてはヘボンが創世記を訳したほか、1873年頃からディビッド・タムソンDavid Thompson,PNなども翻訳作業に入っていた。1876年にはタムソンに加えて4人の宣教師が加わって東京聖書翻訳委員会を結成。1878年に12名の宣教教会代表者からなる第2次委員会に改組されて訳業を継続し1882年から順次分冊を発行して1887年に完成した。新約・旧約合わせてこの翻訳作業に関わり続けたのはヘボン一人であり、個人訳時代から数えれば20数年の歳月をかけた事業である。

これらの聖書を明治元訳と呼ぶ。訳者たちは親鸞伝と福沢諭吉翻訳の児童向け読み物、あるいは貝原益軒の文章を日本語のモデルにしたと言われているが[5]、文体については誰でも分るやさしいものにするという考え方と、格調の高い漢文風にしようという二つの方法論が常に対立していた。後者は補佐として加わった日本人達の意見であり、前者は主にブラウンらの宣教師側の意見だった[6]。その結果として独自の和漢混交体での翻訳となった訳だが、漢文に親しんでいた教養人信徒には珍妙な日本語として軽蔑されたとも言われている[7]。実際、そうした人々に向けて米国聖書教会はブリッジマン・カルバートソンの漢訳聖書の訓点本を1873年から1888年にかけて何度も出版した。しかし当時は日本語の書き言葉自体が混沌としていた時期でもあり、明治元訳はその後の日本語の文章の一つのモデルを示したと肯定的に評されてもいる。特に旧約聖書の詩篇については上田敏などが「筆路頗る雅健なり」と絶賛するほどで、日本文学への影響も大きかった[8]

  • 太初(はじめ)に道(ことば)あり道(ことば)は神(かみ)と偕(とも)にあり道(ことば)は即(すなは)ち神(かみ)なり この道(ことば)は太初(はじめ)に神(かみ)と偕(とも)に在(あり)き 萬(よろずの)物(もの)これに由(より)て造(つく)らる造(つくら)れたる者(もの)に一(ひとつ)として之(これ)に由(よ)らで造(つくら)れしは無(なし) (約翰傳福音書1:1-3、『新約全書』明治訳)
  • 視(み)よはらから相睦(あいむつみ)てともにをるはいかに善(よく)いかに楽(たのし)きかな 首(かうべ)にそそがれたる貴(たふと)きあぶら髭にながれアロンの髭にながれその衣(ころも)のすそにまで流(なが)れしたたるがごとく またヘルモンの露くだりてシオンの山にながるるがごとし、そはヱホバかしこに福祉(さいはひ)をくだし窮(かぎり)なき生命(いのち)をさへあたへたまへり(詩篇133「ダビデがよめる京まうでの歌」、『明治元訳』)

大正改訳

明治元訳は外国人宣教師たちの委員会による訳であり不自然な日本語がまだまだ多かったこと、誤訳が散見されたこと、底本であった欽定訳も1885年に改訳されたことなどから、完成直後から改訳の声が多かった。

そこで1910年に改訳委員会が発足した。新約聖書の底本としてはネストレ校訂版のギリシャ語の原語を主とし、英語訳の改正訳(RV: Revised Version)が参照され、1917年に『改訳 新約聖書』として出版された。これを大正改訳と呼ぶ。明治元訳に比べて学問的な正確さが向上したことはもちろんだが、漢文調から和文を主とする文章に改められ、漢語に無理なルビを振ることは避けられ、日本語として読みやすくなったことが評価されている[9][10]。翻訳作業の中心メンバーの一人であった松山高吉が国学者であり、日本語としての流暢さを重んじた結果である。また、それまで一定していなかったキリスト教用語もこの訳で安定したとされており、教会外の人にも多く読まれた結果、「狭き門より、入れ」のように日本語のことわざ同然に使われている文章も改訳の中には数多くある。成句が使用される頻度についてはその後の改訳聖書も及ばないとされており、「日本の文学作品として十分に古典の位置を占めている」とも評されている[11]

  • 太初(はじめ)に言(ことば)あり、言(ことば)は神と偕(とも)にあり、言(ことば)は神なりき。この言(ことば)は太初(はじめ)に神とともに在(あ)り、萬(よろづ)の物これに由(よ)りて成り、成りたる物に一つとして之によらで成りたるはなし。 (ヨハネ1:1-3、『大正改訳聖書』)

旧約聖書は1942年から改訳作業が進められたが戦後に口語訳に方針転換された。よって、大正改訳には旧約聖書は含まれていないが、その後日本聖書協会は明治元訳の旧約聖書と大正改訳の新約聖書を合本して『文語訳聖書』として出版している。

なお、明治元訳も大正改訳もプロテスタントの翻訳であり、他のアジア・アフリカ諸言語同様に米国聖書協会大英聖書協会北英聖書協会の資金援助の下に行われた事業である。そして1937年に設立された日本聖書協会に聖書翻訳事業は引き継がれる。

聖書協会の口語訳

第二次世界大戦後、日本聖書協会は聖書の口語訳に取り組むことになる。戦後教育で採用された「新かなづかい」と「漢字制限」に対応するためと、英語訳で改訂標準訳(RSV: Revised Standard Version)が現れたことに対応しようとしたことがその理由である。1950年に新約聖書の改訳が決定されて、1954年に刊行された。新約の底本はルドルフ・キッテルのビブリア・ヘブライカ[12]、旧約の底本はネストレ版である[13]。口語訳はこの他にもカトリックのバルバロ訳などが多種あるが、単に「口語訳」と言った場合にはこの1954年の日本聖書協会版を指す。旧約聖書の口語訳は1942年から進められていた改訳聖書の作業を口語訳に切り替えることで行われ、1955年に完成した。

口語訳聖書はRSVに倣ったために信頼のおける翻訳という評価もあるが、文体については悪評が相次いだ。特に人称代名詞と敬語を単純化して統一したために、日本語として不自然なところが多い。また、漢字制限に忠実であったために平仮名での表記が多く、作家で評論家の丸谷才一は悪文の代表としてとりあげているほどである。とりわけ、人々が聖書に対して抱いていた荘重さや格式の高さが失われてしまったことが非難の対象になったとされている[14]

  • 初めに言(ことば)があった。言(ことば)は神と共にあった。言(ことば)は神であった。この言(ことば)は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。(ヨハネ1:1-3、『口語訳聖書』)

聖書刊行会の新改訳

プロテスタントの聖書信仰に立つ教派の聖書学者によって訳されたのが新改訳聖書である。日本聖書協会の口語訳は信仰的に自由主義神学(リベラル)的偏向を含み、キリストの神性を否定する翻訳であるとする指摘が出ていた[15][16]1959年のプロテスタント宣教百周年の年、プロテスタントは福音派(聖書信仰派)とエキュメニカル派(リベラル派)の二派に分かれ、福音派はエキュメニカル派から離れて日本宣教百年記念聖書信仰運動を展開し、翌年の1960年日本プロテスタント聖書信仰同盟が発足した。この中に聖書翻訳委員会が設けられ、福音派の代表が日本聖書協会に抗議したが受け入れられなかった。そのため、いのちのことば社の協力を得て1962年日本聖書刊行会という組織が発足し『新改訳聖書』(1973年)を出版した。新改訳の名称は、文語「改訳」聖書の信仰的姿勢を継承する口語訳、という意図の命名である。[17][18]

  • 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。(ヨハネ1:1-3、『新改訳聖書』)

聖霊派の現改訳

従来の翻訳には進化論の影響が見られ、エキュメニズム世界教会協議会(WCC)にはニューエイジの影響があるとし、それらの偏りを除いた翻訳として、聖霊派現改訳聖書が翻訳された。近年の他の翻訳とは違い、新約の底本をビザンチン・テキストとしている。これは欽定訳聖書に使われたものである。


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教会で公に用いられる日本語翻訳


聖書協会系聖書はプロテスタント諸教派が結集して翻訳事業を行ってきたものであり、明治元訳大正改訳などはそれらの教会で礼拝の場にも用いられてきた。しかし標準改訳英語聖書(RSV)に準拠した口語訳に対しては、福音派の多くは信仰上の理由から使用を拒み、聖書信仰の立場から翻訳を行った新改訳聖書を用いて今に至っている。また聖霊派も新改訳を使うことが多かったが、2010年に聖霊派の現改訳聖書が翻訳された。聖書キリスト教会では礼拝に現代訳聖書を用いている。

現在、エキュメニズムの中で日本基督教団系の教会やルーテル教会日本聖公会などでは新共同訳を用いている。


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